魔女の成功
会話劇でほぼ動きはなく、その上長めです。読みにくかったらすみません。
そんななので楽しんでもらえるか不安です。
それと『魔王’sキッチン』(ncode.syosetu.com/n6126fk/)の内容を知っているのがほとんど前提となっているので、読んでいない場合は状況が理解しにくく、よりつまらなくなる恐れがあります。
雷撃のような衝撃を受けて体が跳ねた。
これには熟睡していた魔王も一気に覚醒し、飛び起きた。
「ハアッ――!? な、なに…………明るい」
空に赤みが差している。
「朝か……あ、まずい! 早く仕込みをしないと!」
自身に何が起きたか一切分からない魔王だが、せっかくやりたかった食堂(『魔王’sキッチン』とか街では呼ばれている)が軌道に乗ったところなので、寝坊している場合ではないのだった。
慌ててベッドを抜けようとした時、違和感があった。
「草? ……なんで俺、地面で寝てるんだ?」
土のにおいにやっと気づく。
そこはベッドの上でも、まして魔王城内ですらなく、大地に寝っ転がっていたようだった。 もちろん魔王にそんな覚えはない。
「どこなんだここは? まいったな、魔王城に戻らないと、開店時間に間に合わなくなるけど……」
まず草と土の汚れが付いた手、あと顔と頭を洗って、服も着替えないと衛生的にまずい。
そんな考えがよぎったが、問題はそこではなかった。
魔王は空間を越えての移動が出来るものの、自分の現在地や、着地点などの座標を正確に把握できていなければ失敗するし、周囲を破壊してしまうことさえある。
迷子状態の魔王は無力なのだった。
「あれは……旅人の木?」
特徴的な木だったから目に付いた。
いかにもな熱帯の植物で、高く伸びた幹の上でオールのような形をした葉を扇状に広げた木。あと木と言うがバナナなどと同じく植物学上は木ではなく草、多年草である。
近くで魔王の様子を窺っていたキツネザルが、魔王が立ち上がったのに驚いてキッキと鳴いて逃げていった。
「多分、マダガシカーラあたりか……? 懐かしい場所だな」
独特の生態系を持つ土地だ。
それゆえに思い当たった魔王だが、確信はまだ持てない。
そこに突然――
「おや、やっとお目覚めかね? おはようノーブル。いや、今や魔王だったね君。そう呼んだ方が良いのかな?」
背後からかけられた声に魔王は固まった。
心の奥をかき乱されて、振り返るのが怖い、ような気がする。
「……怖がらないでおくれよ。私は別に化けて出て来たんじゃない……んん? すまない、やっぱりそうなのかもしれない。いわゆるお化けと言う概念は定量化されていないし、私がそれに当たるというのも矛盾はしないか」
一人で勝手に納得している。
そんな様子も魔王の記憶にあるままだった。
今更どんな顔をすれば良いのか、魔王にはわからない。なにせ床に伏せた彼女が息を引き取るところまで見届けて、埋葬まで魔王自身でしたのだ。
「なあ、そろそろ背中を向け続けるのを終わりにしないかい? 師匠だよ。これでも一応。寛容でおなじみの私だからその辺の礼儀には目をつぶれるけれど、普段からそんな態度では魔王としての信用を失ってしまうよ。それに何より、話がしにくい」
目頭が熱くなった魔王は、代謝をしない体ゆえに涙こそ流れないが、漏らすまいと口を引き絞っている。
魔王の様子に背後の人物はため息をついた。
「……いささか演出過剰だったかな。感動の再会に熱い抱擁の一つでも交わすのではと期待をしていたんだが、仕方ない。場所を変えるとしよう」
魔王の視界は真っ暗になった。
さっきまであった南国の日差しと暖かな風も感じられなくなっている。
さすがに魔王も顔を上げて、口を開いた。
「……部屋の中? ここは……」
あまり広くはない、というかせまい。
さらに本棚と、そこからあふれた本や紙束が積み上がっていたり、一応存在するテーブルの上を埋め尽くす金属製器具の数々。
まるで物置小屋だ。
人がここで生活しているとは誰も思うまい。住んでいた当人たちを除いては。
魔王は知っている。
そう、そこに師匠の寝床代わりのソファがある。
かろうじて残された生活感のあるものだ。
「師匠の家だ……。まさか、そんなことが」
半ば信じられない光景だが、何もかも魔王が覚えているそのままだ。
ただ数百年から何も変わっていないのが、かえってしっくり来ない。そのせいか郷愁を感じるより先に来るのは妙な居心地の悪さ。
「さて、ノーブ……ふふ、魔王と呼ぶことにしたのに、いやはや癖というのはなかなかどうして、染みついてしまっているものなのだね。魔王、これからちょっと君と話をしようと思うのだけど、まず、私のために飲み物を用意してくれたまえ。もちろん君の分もね。そうだね……コーヒーがいいかな。私に体があった頃は口にする機会もなかったし、どんな味がするのか気になっていたんだ」
ソファに腰掛ける師匠――エスター・エリン・ガターリッジ。
彼女の方から魔王の前に現れたので、嫌でも目に入ってしまう。
エスターは魔王の記憶にある最期の姿ではなかった。もしかすると魔王が会う以前の彼女なのだろう。成人したての若いお嬢さんというか、見慣れない見た目をしていた。なんとなく声色でそんな予感があったので魔王に驚きはなかった。
いつも眠そうなのにそれでも知性を失わない鋭い眼光は同じだ。
だから姿が違っても、はっきりとこの場所の主として認識できるのだろう。
「おや? やっとこちらを見た」
「……ずいぶんと若い姿ですね。俺は白髪でしわしわのあなたしか知りませんでした」
それこそ魔女と呼ぶにふさわしい姿だった。
「最初にかける言葉がそれかい? いいかい魔王、キレイでいられるならそうしたい思うのが女性の大半だと私は思うのだよ。そして私もその例に漏れず、というわけだ。まだ肉体を持っていた頃に細胞を若返らせる薬を生み出せたなら、喜んで君の前でこの姿を披露していたのだけれど……どうだい? 君の目から見て、私は。お婆さんだった私も別に悪くはなかっただろうが、やっぱり若い方がいいんじゃないかな?」
エスターはにやにやしている。
わざと少し返答に困る質問をして反応を楽しむ癖が、この人にはあるのだった。同僚だったフロランなどはよくそれに翻弄されていたものだ。
「綺麗ですよ。今も昔も。それで、コーヒーでしたよね? 豆とか道具とかあるんですか?」
言われた通り飲み物を用意するため、移動もままならない物置もとい部屋の中をを魔王は歩いて回る。
「ふふふ、いいね。君も調子を取り戻したようだ。ああ、道具ならいつものところだよ」
「ここですか? ……えーと、ありましたけど、これ生豆じゃないですか」
かつて茶葉などを置いていた棚に道具一式が入っていた。
薄緑色の豆が詰まった瓶を取り出した魔王は苦い声で言った。
「うん? 問題はないはずだよ? 精製したての新鮮なやつさ」
「豆はとてもいい品ですよ。でもコーヒーとして飲むには焙煎しないとで……それから豆を挽いて抽出なので、三十分くらいはかかると思ってください」
すぐには出来ないと言ってみたが、エスターもそれは承知の上なのだろう。魔王はぼんやりとそう思っていた。
「なに、そのくらい待つさ。ゆっくり本でも読みながらね」
深くソファに腰を沈ませ、足を組み、手元でページを繰るエスター。
「そうですか……」
返答は案の定。すでに魔王は作業に入っていた。
火打ちし、油脂を含んだ綿に着火させ、それで二つのランプに火を灯す。片方には三脚を立て、その上で湯を沸かし始めた。
「火起こしが原始的じゃないかい? 君ならもっと簡単にできるだろうに」
本に視線を落としていたと思ったが、エスターはしっかり魔王の方も見ていたらしい。
「別にたいした労力じゃないですし。それとそうは言いますが、俺は座標が分からない状態なので今はこうするしか」
「ふふ、そうだったね。こんな状況でなければ君はとっくに魔法を使っている。それで自分の家に戻っていただろうからね」
「意地が悪いですよ師匠。分かってるなら帰してくれませんか? これでも俺は忙しいのですが」
「なに、時間の心配はいらないよ、魔王。私とここで話をした後は、いつもと同じ時間にミノタウロスの女の子……ミロちゃんだったかな? 彼女が君を起こしに来るようにしてあるからね」
「その言い分……もしや夢なのですか、これは? 師匠は俺の夢に入ってきたとか、そんな感じですか?」
明晰夢。夢と自覚して見る夢のことで、夢の中にいながら自分の意志で、夢の状況を変化させたりも出来るらしい。
それで言えば魔王はエスターに会いたいわけでもなかったし、なんなら今すぐ夢から醒めてしまいたかった。そして開店の準備に取りかかりたいのだが、一向に目覚めることが出来ないでいた。
話しながら魔王は手を止めていない。
使う分だけの豆を金網に乗せ火にかけていた。
「違うけどね。でも夢のような体験というなら間違いないかな。そうだろう? 君は確かにここに、私の前にいる。偽りなく、ね」
「師匠、俺には訳が分かりませんよ」
「ふふふ、今はそれで良いよ」
魔王に揺らされて転がり煎られる豆に、ムラなくうっすらと色づき始める。
その後に、パチパチと弾ける音がして、それからチリチリという音に変わる。
「んんー、香ばしいね。この香りは私の好むところだよ」
「俺もです」
狭い部屋にコーヒーの香りが満ちてきた時、魔王は金網を火から上げた。
散らばる紙を拾いそれを扇代わりにしてあら熱を取ってから、瑪瑙の乳鉢に移してすりつぶしていく。
「濾材は……これでいいか」
漏斗にフィルターとなる綿を軽く詰め、それから粉砕した豆を入れる。
丸底フラスコの湯を注ぐと、漏斗の先から黒いしずく――コーヒーが抽出され、ビーカーにたまっていった。
魔王はマグカップにコーヒーを注いでエスターの元へ運んだ。
「出来ました」
「ありがとう。これで話をする用意は整ったよ」
「はぁ、コーヒーがなくても話くらいできますよね? いまさらですけど」
「この期に及んでそれを疑問に思っても、本当にいまさらだよね。まあでも君の言う通りだよ。わざわざ君に骨を折ってもらったのは、私が単にコーヒーの味に興味を抱いたからさ。効能なんかは知識としてあるけれど、味は個人の主観による部分も大きいだろう? だからこうして、実際に飲んでみる。という実験を行わないことには……ん!」
湯気を上げるカップにエスターは口をつけ、驚いた。
いつも眠そうに下りたまぶたが開かれている。
「苦み、うん、そうか。でもそれだけじゃない。淹れている最中ですでに感じていた香りの豊かさがあって、原料が豆だからなのかコクもある。これはお茶と大きく異なるところだね。つまり……私はこのコーヒーがとても気に入ったよ。毎日、いや一日三杯は飲みたいね」
空のカップを高く掲げ、魔王に笑顔を向ける。
魔王はそこにコーヒーのおかわりを注いだ。
「それは良かったですね。それで話とやらがあるんじゃないですか?」
「ああ、そうだった。君も急いでいるようだし、さっそく始めようか。本当はもう少しゆっくりしていたかったのだけれどね」
エスターはコーヒーを含んで口を湿らせた。
「ふう、ではまず聞いて欲しいのは、私の、最期の実験についてだ」
「実験ですか?」
「そう。死の淵に立ってようやく臨めた実験、文字通り最期の実験さ。でね、この成否が数百年ばかり判断できなかったのだけれど、最近になってわかったのさ。……成功したんだよ。すごいだろ? なあ、私ってば天才じゃないのかな!?」
エスターは爛々と目を輝かせて言う。勢い余って身を乗り出して、コーヒーをこぼしそうになっていた。
「ええ、師匠はすごいですよ。……ただ、ちょっと話が見えないと言いますか、突っ込みどころしかないと言いますか……」
死んだはずの人がいて、実験していたとか言いだして、なんだかそれが成功したらしい。
魔王が頭の上にハテナを浮かべたのも無理なかった。
「うん? ……そうか、すまない。これでは何も分からないね。私としたことが、いささか興奮していたようだ」
エスターはばつが悪そうに咳払いをした。
「順を追って説明させてもらうよ」
「お願いします」
「その、君も知っての通り私は全ての錬金術師が通るように、不老不死を得ようとしていたんだよね。でもそれだって手段にすぎなくて、森羅万象を知るのが本当の目的だった。私の探求心は尽きないからね。人の一生程度で私の願いは叶うべくもないだろう」
ここまでは魔王も知っていた。
「そうでした。……その、本人を前にして言うのも変ですが、俺はあなたの最期を看取っていますし、結局、不老不死は成らなかった……で、いいんですよね?」
「そうだね。大体合っているよ。君のことだから、きちんと埋葬してくれたんだろう?」
「ええ、まあ……」
魔王は奇妙な気持ちになる。いや、ここまでずっとこんな気持だった。
「ありがとうね」
「はあ……」
感謝されたが、魔王は返す言葉に困っている。
「でも、あの、さっき実験成功だとか言ってましたが……」
失敗ではないのか、と魔王は思う。だからエスターは死んだはずで。
ちぐはぐで困惑する。
「その通りだけど? ……ああ! 魔王、君ってばもしや私が死んだから、実験失敗だったとか思っているんだ?」
びっくりしたような顔をするエスターに、魔王はぼそりと「普通はそう思いますよ」と言った。
「甘いね。それは早計というものだ。確かに肉体は寿命で機能しなくなってしまったから、勘違いしても仕方ないことかもしれないけれどね。それで私が死んだわけではないのだよ」
「あなたを見れば、逆説的にそうなるんでしょうけど。理屈が合いません」
目で見て、耳で聞いて、直に話す限りエスターは存在している。今も土の下で眠っているはずなのに。
「まあ、聞きたまえよ。ある時から私は別の研究に傾倒するようになった。言っておくが自信がなかったわけじゃない。実現の目処は立っていたんだ。……時間がかかってしまうと言うのが難点だけれどね。しかし不老不死が完成しても、その頃には私はさらに老いたおばあちゃんだ。身体は弱っているだろうし、何より脳の機能が心配だよね。そんな状態のまま、復帰できなかったとしたら……? と思うとあまり魅力を感じなくなってしまってね」
「師匠なら、無限を生きる中で体なんてどうにでもしそうですけど」
魔王やフロランという事例がある。
「それは案外難しい問題だよ。できるけどできない……適当な言い方だと……なんだろう、昔の人も言うように、倫理や哲学的にね? 私が、私の部品を組み替えたりして出来上がった先の私は、別の私かも知れないだろう? それじゃあダメだ」
頭上に疑問符を浮かべた魔王を見て、エスターは小さな笑みを浮かべる。
「さあ重要なのはここからだよ。『たましい』について。これこそ私のライフワークにして、さっきも言ったように、成功した研究さ!」
目を輝かせて言うエスターに、魔王は懐疑的な目を向ける。
「たま……魂? 研究って……まさか師匠、宗教にかぶれでもしましたか?」
「何を言う? 今も昔も私は錬金術師一本でやっているけれども? それは君も承知のはず……いや、私だって教典や伝承を参照したりはするけれど。……もしかして、魔王としてはそれが気にくわなかったりするのかな?」
師が思わぬ道に走ったのかという魔王の危惧は、己の信念に一直線なエスターには無用のものだった。
「まあ、それはいい。意識、あるいは知覚、はたまた魂と呼ぶべきもの。それこそが本質だ。私が、私であり続けられるためのね。であるなら、それさえあるなら、別に肉体にこだわらなくてもいい……と思わないかい? そう考えるようになってから私は、私を残すべく、新たな研究へ着手するようになった――というわけさ」
自己同一性について話すエスター。
探求のためなら自己を残し、後はどうなろうと構わないと言う。
マッドサイエンティストだなと、魔王は自分を棚に上げて思った。
「思い切りの良さはさすが師匠。しかし手段が目的にそぐわない気もしますが」
「ふむ、というと?」
「師匠の目的は知ることでしょう? なのに、肉体もなくどうやって調べたりするんですか。魂だとか曖昧なものになっても、後が続かないですよね」
「もちろん当てがあるに決まってるじゃないか。あとね、曖昧だなんてことないんだよ。この世で一番確かなものは? そう、自分自身だ。そして自己の本質とは、魂……これは先ほども言ったね? つまりこれ以上実在が確定しているものなんて、ほかにないと思うのだけれどね」
「わ、分かりましたよ」
エスターは水を差されたと感じたか目を一層細くして詰めてきたので、魔王は身を引いて距離を取ろうとした。
「しかし研究すると言っても数値化したり、観察したりするのは難し……いや、無理なんじゃないですか?」
続きを促して意識をそらそうとする。
「おや、良いところに気がついたね。では魔王、私はどうしたと思う?」
「え? それは……たぶん、脳でしょうか?」
話を振られると思わなかった魔王は、すぐ思いついたまま言った。
体の一部を答えたにすぎないが、エスターはそれで満足したように頷く。
「なるほどね。各受容体からの情報処理、記憶、感情、運動機能の統制などなど……まさに中枢と言える器官だね。私も初めに目をつけたのはそこだったな……でも、間違いだよ。
魔王、脳から魂を探る実験は失敗している。――ああ、ちなみに」
エスターが魔王の目、それから全身を見て、
「魔王。君と、それからフロランなどは、そうして行ってきた数々の失敗した研究で得られた、いわば副産物だよ」
「は、はい?」
寝耳に水といった風な魔王。
「まあ驚くよね。でも……悲しんではいない、みたい? 私はそれが心配だったからこれまで言わないでおいたのだけれどさ。もう話す機会はないかもしれないし、この際だと思って」
「いや、ちょっと……師匠、どういうことですか」
「ふふふ、興味津々かい? 本筋から逸れるけれど、仕方ないな。失敗例について話すのは気が進まないが君のためだ。まずは、フロランに対して実験した、脳へのアプローチ」
魔王は先日、地中海に面するトーストカーナ地方にて、フロランと会っている。
数百年ぶりの再会だった。
人型なのだが、全身が硬い殻で覆われ頭部はロブスター。フロランはそんな見た目をしている。
フロランもかつてこの家でエスターたちと生活していた。魔王とも顔なじみだ。
エスターは遠くを見つめるようにして、話し始めた。
「あれは……まだ不老不死を捨てきれなくて、魂と平行して研究していた頃だったな。気分転換に歩いていた浜辺に人が流れ着いていた。船乗りみたいな姿だったね。これが生前……というか今も生きてるけれど、フロランの元さ」
何かの拍子に船から落ちたか、難破してしまったのか。
それはエスターが後で本人に聞いてみたが、分からなかったらしい。
「浜辺で私が見つけた時点でフロランの意識はなくてね。心肺も止まっていたけれど、驚くべきことに瞳孔反射はあった。生命力がすごいんだろうね。脳は完全に死んでいなかったんだ。……これは使えると思ってさ。ちょうどその時に、理論上寿命のないロブスターが不老不死に繋がるんじゃないかと研究していて、『体』を作っていたんだ」
ロブスターは脱皮する際に、殻だけでなく内臓も含めた全身が新しくなるという。なので老化などによる死がない。しかし自然界では当たり前のように捕食されたり、あるいは長寿の鍵となる脱皮自体がうまく行かず、死んでしまう場合もある。
そんなロブスターをモデルにしつつ、人間としての文化的な日常生活にも支障がないように、身体機能を極限まで人間に近づけた『体』だとエスターは言う。
「あくまで『体』だけだからね。脳は入っていなかったんだ。だから元フロランの脳を拝借して、『体』に移した。この脳移植が成功すれば、体さえ用意出来れば事実上の不老不死が得られるようになる。……という実験だったけれどまあ、そうはならなかったんだよね」
失敗だった。エスターは残念だと首を振っている。
「え、ならフロランは……」
助からなかった?
魔王は眉を寄せていた。
今もフロランは生きているからだ。
エスターはそんな魔王に答えを授ける。
「移植はできたよ。拒絶反応も出ないよう調整してあるし、それは何も問題なかったさ。命を繋ぐだけなら……ね。立って歩いたり、話したり、いくつかモノの名前を言える。そんな程度の記憶しか、彼には残っていなかった。記憶がね、なくなっていたんだよ。だからフロランの名前も私がつけたものさ。それから回復しなかったしね。大脳への損傷が原因っていう線はなくもなかったから、別の人でも数回追試してみたけれどね。結果は等しく記憶や感情、性格などに変化が見られた。つまり脳の状態には依らないとわかった。後は万能細胞から培養した脳を使ったりとか色々……思いつく限り試してみても、同じようにしかならなかったよ」
魔王の脳裏にフロランの姿が浮かんだ。
見知った海老然とした風体は、実は作り物で、本来は普通の人で、きっと性格も今とは違っていたのだろう。
変わらないところだってあるとは思うが、以前のフロランを知らない魔王には判断しようがない。だから魔王の知るフロランは一人で、今さら見方が変わるわけでもない。
だけど、以前の友人などからしたらやっぱり別人なのだろうか。
難しいところだ。
「死ななくなっても、自分ではなくなってしまう。そうとまではならないにしても、何か混ざったり、欠けたりする。それなら私には何の意味もない。魅力ゼロだよね。だから結局は魂なんだと私は思ったのだよ」
これがきっかけでエスターは、魂を長らえさせることこそが、自己を維持し続けられると確信するようになった。
「でもね、脳をはじめとしたこれらの物質的アプローチは案外無駄でもなかったんだ。研究するうちに、自分を構成する全てに魂は宿っているってわかったからね」
例えば、移植後、患者が臓器提供者しか知り得ない記憶を引き継いでいたりする、記憶転移。それから、事故などで失った、もう無いはずの腕や足が痛む。幻肢痛という症状。
魂の関与は体の部位ごとにあるとエスターは考える。
「ね? 脳を調べても、魂について分かるのはこのくらいさ」
「――師匠。俺は、どうなんですか?」
話も一区切りとカップに手を伸ばしたエスター。
その先を越すように、魔王が言葉をかぶせた。
「ん? ……ああ、副産物って言った件かい? もしかして君、自分の場合はどうなのか、そればっかりが気になっていたりしたのかな? だとしたらフロランの下りは余計だったかもね」
「いやそれもとんでもない話でしたけど。でも気になるじゃないですか。あんなこと言われたら」
特に考えもしなかったフロランの過去に衝撃的なエピソードがあったのなら、同列に並べられていた魔王にも、という怖いモノ見たさにも似た期待が持たれる。
「ふふふ、まいったね。君の期待に沿うためにも張り切らないといけない。でも……ああ、この段階に来てわかったのだけれど、言葉にして説明するのは案外難しそうだ。話したくて、私自身こんな場を設けたというのにね」
自嘲のような薄笑いを浮かべるエスター。あごに手を当てたりなんかして、困っているのは確かなようだ。
「……うん。まずは『魔法』の理解を確かめておこうかな。君も使っているだろう? ほら、私に説明してごらん」
エスターの言う魔法とは瞬間移動したりする、魔王も使うもののこと。
生前のエスターが会得したのを魔王など弟子たちにも教授されていた。ただ感覚によるところが多く、フロランなどは最後まで覚えられなかった。
「はあ、師匠が教えてくれたままだと思いますけど……『空間湾曲法』ですね」
魔王は落ちていた紙を拾い上げ、それをたわませて端と端をくっつけるようにした。
「こんなふうに指定した地点同士を繋げる。実際の距離がどんなに離れていたって、すぐ手の届く範囲に近づくので、瞬間的に移動させられる」
魔王が紙から手を離すと、接していた点は再び離れ、元に戻った。
ちなみに魔王はこれまで発火させたり、電磁場の形成をしたりしてきたが、それもこの魔法の応用だ。反応炉と呼ぶ多種多様な物質を保管しておく部屋(ほかに様々な実験施設もある)を用意しておいて、そこで化学反応させた現象だけを移動させている。
「そうだね。それで方法は? なるべく詳しくね」
「え、えっと、2点の座標を……それに必要な力をイメージ……」
魔王はしどろもどろになっている。
仕方ない。呼吸をするように感覚的に行ってきたことだ。それを具体的に説明しろと言われても難しかった。
エスターは頷いていた。
「いいよ。合っているからね。それに私も昔、そんな風に教えていた気がすることだし。……さて、これを踏まえて本題に入ろうか。魔王、君も言ったように魔法――空間湾曲には力が必要だ。だけれどそれは、日常ではまずあり得ないマイナスの力。……あまりピンと来ていないみたいだね? 押したら前に進むのではなくて、逆に自分の方に向かってくる――そんな力だよ」
「……なるほど」
無意識ながら、これまでも魔王は反重力を生んで、重いミルク缶を運んだりしていた。
魔法の応用から何となく出来ていたのだが、改めて言われるとすんなり納得できた。
「君は、その当たり前のように利用しているマイナスの力を、どこから持ってきているのか考えたことはあるかい?」
「ない……ですね」
「ふふふ、まあ当たり前だね。考えたって、そう簡単にたどり着くものでもない」
興が乗ってきたかエスターの身振りが大きくなってくる。
「普通ではない力……ならば普通ではない場所にあると私は考えた。極端にミクロ、マクロな視点においては観測できそうだけれどね。でも目をつけたのはそこではなくて、言葉の通り別の世界だったんだよ」
「あの、師匠、とても興味深い話なんですけど、だんだん本題から逸れていませんか?」
「ん?」
辛抱できず出た魔王の一声でエスターの動きが止まる。
「空間湾曲とか、別の世界だとか言われても、俺のルーツを語ってくれるかと思ったのに、全然そんな気配がしないんですが」
魔王が出自にこだわるのには理由があった。
エスターに、魔王が不老不死の体となったと説明を受けた以前の記憶がおぼろげにしかなく、自分が曖昧な存在に感じていた。
なんとなく、両親や兄弟の顔が浮かんでくるのに、思い出が一つも浮かんでこない。
長く生きすぎたせいなのかも知れないが。
ただ料理が好きなのは確かな想いとしてあった。
その執着度合いは、時々自分でも怖くなるほどだ。
「あー……これから話そうと思っていたんだよ。いや、本当だってば」
疑いの目からエスターは逃れるように咳払いした。
「……魔王君がどう生まれたのか。まあ、いたって普通だと思うけれどね? 君の胸の内にもあるだろう。父、母、兄弟、故郷の地……とか色々さ? 逆にだよ、そんなことを君自信が他人の私に聞いてくる方がおかしな話ではないかな」
「いや、そういうんじゃなくてですね……もっとも俺のノスタルジーな思い出もおぼろげではあるんですが、そうじゃなくて。どうして俺は、不死身なんですか?」
不死身であると、聞かされていただけだった。
昔に聞いた時ははぐらかされたりして、どんな理由があったのか未だに魔王は知らずにいる。
「知りたいのはそこだよね。分かっているとも。だけれど、語るにはもっと前置きを重ねてからにしたかったんだよ、本当はさ。私でも推測に頼るところが大きいし、いきなり核心を言ったって荒唐無稽に思ってしまうかも知れないじゃないか。でも君がそう急かすなら仕方ないよね。少しばかり理解が難しくなっても許しておくれよ?」
エスターはカップを口にする。
冷めてしまったコーヒーが、彼女の口を潤す。
「実のところ、君は一度死んでいる……と思われる。」
「…………」
無言で受け止める魔王。
「私が全部に居合わせたわけではないから、ほとんど環境条件から導いた推測だけれどね。まあ聞いてみてくれ。
あの夜は大荒れでさ。土砂降りの雨に、風が強く吹き付けてくるし、おまけにひっきりなしに雷が落ちても来た。なのに朝になったら青い空に強い日差しだ。ひどい天気だろう? だからよく覚えているのだよ。
設備が嵐にやられてないかと外に出た私は、あるモノを見つけた。雨で出来た水たまりの中で、ナニかが蠢いていた。泥の中でそれは形になろうとして、なりきれない。そんなモノだったね。ああ、粘菌だとかの生命体ではなかったと思うよ。でもただの自然現象でもない……生物の意思のようなものを感じたんだ。
で、なのだけれど私は、悪い癖だと自覚してはいつつも、こう思ってしまったんだね。
――これは実験に使える。
有機物と無機物の入り混じったソレに魂を定着させたらどうなるのか。
気になったらもう実行だよ。思ったことを行動に移すのが早いというのは私の長所の一さ。だから、たまたまその場に浮遊していた魂があったから、入れてみたんだ。ふふふ、そうしたらソレは人の形を取ろうとした。……とはいえジンジャーブレッドマンくらいの大雑把なものだったけれどね。せっかくだし、私が形作ってあげたんだ。より精巧な人になるように、こう、こねこねしてさ。知らなければ普通の人に見える程度はなったと思うね。
それが魔王、君だよ」
「……つまり、俺は泥から生まれた、と?」
驚くほど落ち着いていると、魔王は思った。
素直にエスターの話を受け入れている。
「その体は、そういうことになるね。でも中身は違うさ」
「中身……ですか?」
「わざとらしい。もうわかっているんじゃないのかい? 魂のことだよ。生まれ、生きて、そして魂となったのをその体に押し込めたのだからね。まあ当然、君が人間としては死んでいることになるが、……今更気にしないか、それは」
エスターは魔王の様子を伺ってから、話を続ける。
「で、魔王。君は君であるまま、その代謝をしない……というかもはや体組織といえるかも不明な、老化すら超越した不死の体を得た。だけれど、魔王のそれは私の目指したものではなかった。一つは君から記憶がほとんど抜け落ちているという点だね。あまり覚えていないのだろう? 昔のことをさ。ああ、人だった頃のことね」
「そうですね」
過去、エスターと出会った時点でこのあたりのことは聴取済みだ。だから魔王は何も思うことなく頷いた。
「これは余談だけれど、死んだ後でさまよう魂というのは何か一つの、強い執着に縛られているのがほとんどさ。それは一生をかけた仕事だったり、恨みや憧れだったり……形の違いこそあれ、まあ、どれも生きがいには違いないね。肉体という器を失っても霧散せずにいられるのは、そんな芯を持った魂なんだ。……とはいえ、いずれは世界に溶けていくのだけれど」
魔王となる以前のだれかは、料理にかかわる仕事でもしていたのかもしれない。
これは魔王も納得だった。
「あと、とても残念なのは、魔王。その体は偶然できていて、私はただ見つけたに過ぎないというところだ。それからいろいろと試してみても再現できなかったんだね。だからね、君の例は妥協案としてはアリでも、そもそも検討の余地すらなかったのさ。最悪、記憶が抜けるのに目をつぶったとして、私の知識への探求心だけ残るのならまた一から始められる……と思ったのだけれど、惜しかったね」
エスターの口から語られた魔王の真実。
嵐のあとに、泥の中で蠢く新生物だった。従来生物とは違う成分、構造であることから老化もせず、実質的な寿命がない。
それが失敗だったとするのは、一つに肉体の死後、魂を移し替えてもすべてが生前のままではなく、記憶など欠落が目立つという点。フロランの脳移植とも似た症状だ。
それとあくまで偶然の産物だったという点だ。エスター自身に転用しようと思っても、その技術が確立できなかった。
「聞けて良かったです、師匠」
こころなしか、魔王はいつもより清々しい表情をしていた。自分の生きてきたこれまで、に少なからず曇った部分があるのを気にしていたのかもしれない。
「いやいや、まだ話は終わりじゃないよ魔王。君らの話もできてよかったとは思っているけれどね。君が望んだから長らく脱線していただけさ。本番はここから……でも一度おさらいしておこうか。少し間隔が空いたし、理解のためには話の整理も必要かと思う。
話の初めに、私は死の淵で臨み、成功したと言ったね。それは魂の保存についての実験だ。
知識探求のため、もともとは不老不死を目指していたけれど、現実的なプランじゃなかった。だからこそ魂に目を付けたんだ。肉体にこだわる必要なし。要は、目的のためには自分が自分のままであり続けられればいいのだからね……。
どうだい? 思い出したかな?」
「はい、そこまでは大丈夫です」
「よろしい。では続きだ――
何度も魂の実験だとか言ってきたけれど、普通、そんな存在すら不確かなものを取り扱うのは、宗教だとかそういう分野に限られるんじゃないかな。しかし私はこれまで話した通り、多くの実験が失敗に終わったことから魂の実在を確信するに至った。……ただそれでも、君もわかっているかとは思うが、大きな問題があったんだ。通常では不確かなものを、どうやって観測するのか、だね」
「哲学したいわけじゃなかった。ですよね?」
「ふふふ、その通りさ。私が欲したのは実用できる技術。一朝一夕で用意できるものではないから、実際に見て理解を深める必要があった。こういう時、私は思考を逆転させてみるのだけれどね。普通に見られないなら、普通でなければいいのではないか? そう思ったんだ」
「普通でない……っていうのは?」
エスターはもともと普通とは言い難い。
魔王の頭はそう訴えていたが、同時にそれを口に出してもろくなことにならないともわかっていたので我慢した。
「異次元の視点。端的にはそう言うほかない。これは、なんていうか……説明が難しいね。ええと、同じ世界ではあっても、絶対に違う。だけれど重なってはいる……ところ? ともかく、その、現実離れした場所の一つで魂は普遍的に、形を成して在るようでね。そうして私は、観察を重ねることができた」
自分の中だけで完結させていた理論だとエスターも自認していたのか、うまく伝わっているのか不安を見せた。
案の定、魔王は目をしばたかせていた。
「すまない魔王。こればっかりは感覚頼りで言葉にしにくくて。……そうだ、君にも身近な異次元があったよ。さっきも話題に出した魔法がそうさ」
「そうなんですか?」
「ああ。というかこれを説明しようとして、君が遮ってきたんじゃないか」
「えっと、すみませんでした」
「もう過ぎたことさ。それはさておき、魔法原理に要する力は普通では入手が困難だから、別の世界から持ってくる――と言ったけれども、それこそが異次元なんだ。言うなれば力の世界かな。だから君も、無意識ながら異次元に触れてきているんだよね。分かるんじゃないかな? かなり感覚の話をしているって」
魔法――空間の湾曲には負の力が要る。物理的にはほぼ発現不可のため、エスターはそれを異次元――力の世界から引き出していると言った。
「……なんとなくは」
同じ魔法を使う二人だからこそわかる感覚だった。
「よろしい。魔法……異次元にアクセスする感覚は、そのまま魂に干渉する方法にも似ているんだ。ここまでくると後はもう実践するだけ。身体が滅んでしまっても、魂を残して存続させることだよ。
だけれど、それが一番怖いところでもあった。ぶっつけ本番で挑むしかなかったのだから。だってさ、私以外の、例えば動物とかで実験しようにも、魂はその動物のものだから意思を持っている。それを私がどうこうするのは難しいんだ。たいてい肉体から離れた後、世界に溶けていくだけになる。それが自然の摂理なんだね。まれに君の魂がそうだったように、浮遊し続けるなんてこともあるけれど」
「でも師匠は成功させたんですよね」
口に出して、魔王はやっと気が付いた。
エスターがどんな状態にあるかを。
「そう、成功した。……そうだよ? さすがに鈍感と言わざるを得ないくらいだけどね。ようやく気づいたか。ここにいる私は、実験を成功させた私だ。エスター・エリン・ガターリッジは、解き放たれた魂だけの状態なのだよ!」
高揚したエスターが腕を振り上げる。
「え、でも、師匠はいますよね? ここに。俺は魂なんて見えないし……どういうことですか?」
魔王がまだよくわかっていなかった。
それにエスターは少し落胆する。
「なんだ、やっぱり察しが悪いのだね、魔王は。話の流れとか、ノリで理解してもよさそうなものなのに。まあ、いいだろう。魂の私が普通にいるというのなら、そういう存在こそが一般的な場所だということだ。つまりここは、君たちから見て異次元の、魂の世界さ。ちなみに君をここに呼ぶために、私と同じになる必要があったから、一時的にだけれど、君の魂も解放させてもらったよ」
「えっ?」
思わず自分の体を見下ろす魔王。両の掌、シャツをつまんで中を覗いてみたり、片足を上げて靴の裏まで確認した。しかし特に変わった様子はなく、エスターに不安そうな顔を向けた。
「心配いらないよ。話が終わったら元通りだからね。今更だけれど……君があまり混乱しないようにと思って、なじみの風景と、いつも通りの姿で見えるようにしてあるんだ」
かつての研究所と、若いエスター、魔王は現在のままという組み合わせ。果たしてなじみがあると言えるか。
「ああ、そうだ。世界の記憶のことも言っておこう」
「世界の記憶?」
「私たちの住む地球で起きた事象――感情なんかも含むかな――その、原始から現在に至るまで一切合切を記録してある概念存在だよ。それも、この姿となった私には触れることができる。それが何を意味するか。そう、私の目的がほとんど達成されたといっていい。まあしかし、触れられるだけで、全て紐解いたわけではないのだけれどね。想像してみてほしい。天高く先がかすんで見える巨大な本棚が、地平の果てまで続いている。そのうえ敷地は海よりも広いだろう。もちろん蔵書はぎっちりと詰まっている。そんな巨大な図書館、制覇するのは一体いつになるのやら。おかげで毎日充実しているがね」
そういった知識の堆積層の存在を、エスターは感知していた。だから目的に届く確信があり、不老不死から魂への方針転換に迷いがなかった。
「それと詫びなきゃいけないこともあった」
「この際何でも言ってください。今の俺なら大体許せる気がするので」
感情の動きが元から少ない魔王ではあったが、この次元で受けた度重なる衝撃から、思考が麻痺している自負があった。
「そうかい? いや、本当に申し訳ないと思っている。君、魔王に……というか世界、今を生きる全てに対して、ね」
「スケールの大きい謝罪ですね」
「そうなんだ。ほら、バッタの大量発生があったろう。砂漠の国で発生して、君の住む帝国付近まで北上してきたやつ」
「ありましたけど……」
急激に増えたバッタが町一つたやすく飲み込むほど巨大な群体となって、通過する地域の植物、主に農作物へ甚大な被害を生んだ事件。魔王が育てていたモロヘイヤ畑も食いつくされることになった。
「あれは私のせいなんだ」
「師匠の……え、え?」
突然の事故みたいな、エスターの告白。
魔王は目を白黒させるばかりとなった。
「でも、わざとではないんだ。本当の目論見はね、気象を操り暖気や雨をコントロールして、各地域の農産物を増やせないかなって……豊かな世界になればいいと思ってのことだったのだけれど、それであんな結果になるとはね。……かえって迷惑をかけるだけになってしまった。私が甘かったんだね。それができる力を得たばかりに、世界へ還元しようなどと思ってさ。神にでもなったつもりだったのかな、私は」
エスターは悔悟する。
うかつに干渉したせいで、ちょうど均衡していた自然という天秤の釣り合いを崩す結果となったことを。
「バッタの件だけじゃない。海洋生物の分布に影響を与えたり、いたずらに新種の生物を発生させてしまったり……これも私の横やりによるものだよ」
「えー……そうだったんですか」
海洋でウニが増え、餌の海藻が激減するといった生態系へのダメージ。魔王が行った品種改良で生まれたもの以外で報告されていた魔物の発生。魔王にも覚えのある問題だが、これらはエスターが関わっていた。
「だけれど、なるべく元の状態に戻るよう環境の再調整をした。今度は慎重に。これでもう問題はない……はず。多分ね」
これから経過を見ていかないといけないとエスターは言う。
「これで話すことは全部終わった。魔王……怒っているかい?」
心配そうなエスター。
「いえ、俺は別に」
「では許してくれるか、こんな私を」
「なんというか、驚くばかりで……正直許すとか以前ですけど……。わかりました。師匠を許します」
「ありがとう……ふう、ふふふ、ちょっと緊張したよ」
エスターは、ほっと息をついている。
「なんだかコーヒーが欲しくなったね。魔王、お代わり頼めるかい?」
「いやぁ、もうないですよ」
魔王は空になったフラスコを振って見せる。
「なんと? ええー? 私はこれで君と会うのも最後になるかもしれないし、いいだろう?もう一杯……なあ、頼むよ」
「もう、わかりましたよ。豆はまだ残っていますし。ただ、また時間はかかりますけどね。それでもいいですか?」
「もちろんだよ。ああ、楽しみだ」
魔王が作業する姿をエスターは眺めていた。
焙煎が進んで豆が弾けて、香ばしい香りが部屋に満ちてくる。
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