16 旦那様、崩壊
私室のソファでユフィに髪を梳かしてもらいながら、タバサに疲れた身体をほぐしてもらいます。とても気持ちがいいですわ。
と、そういう寛ぎの時間に、屋敷の中で大きな声が聞こえてきます。旦那様の声です。
どういうことなんだ、とか、いったいどういうつもりだ、とか、なんでそんなことをしている、とか、おそらくスチュワートに向かってだと思いますけれど、叫んでいますわね。
そして、とても、とてもとても、残念なことに。
その騒ぎの音は、どうやらこの部屋へと近づいてきているようです。
おやめください、とか、うるさい、とか、これ以上はいけません、とか、そこをどけ、とか、もうそこの扉のすぐ外側から聞こえてきますわ。
タバサもユフィも手を止めてしまって、私の貴重な寛ぎの時間が……。
「静かになさいませ、みっともない!」
女性の声での一喝。
ぴたり、と静かになりましたわ。さすがはオルタニア夫人ですわ。
そして、扉をノックする音。
タバサが動いて確認し、オルタニア夫人が入ってきます。
「奥様、旦那様がお話をしたいとのことですが、どうなさいますか?」
「……執務室で話しましょう」
「執務室、でございますか?」
「……はっきり言えば、旦那様をあまり、この私室に招きたくないのよ」
「……奥様。そういうことは、はっきり言わずに済ませてくださいますよう」
オルタニア夫人はそう言うと、一礼して出て行く。
私はユフィとタバサに着替えさせてもらい、執務室へと向かうと、すぐにクリステルとアリーも合流して、同行してくれます。
執務室のソファには不機嫌そうな顔を隠しもしない旦那様が座っています。いけない、イケメンフェイスを直視してしまいましたわ。
……あら? それほどの効果がございませんわね? 不機嫌だからでしょうか? これならばずっと、不機嫌な顔をして頂くと良いかもしれませんわね。
オルタニア夫人が旦那様の向かい側を手で指し示すので、私は旦那様と向かい合うように座ります。オルタニア夫人の立ち位置はまるで審判ですわね。まるで、ではなく、ある意味ではまさに審判なのでしょうけれど。
「リストから聞いたよ、リーナ」
不機嫌そうな顔の中で口が動きます。この際ですから、この不機嫌イケメンを見慣れるように努力するべきかもしれませんわね。
「君は、ダンスくらいで嫉妬して、スラーの家に圧力をかけているそうじゃないか! リーナ!」
私は不機嫌なイケメンから、オルタニア夫人の真正面に立つ、スチュワートへと視線を向けました。
「スチュワート」
「はい、奥様」
「……ウェリントン侯爵家においては、嫉妬、という言葉に、何か特別な意味があるのかしら?」
「いいえ。そのようなことはございませんが?」
あら、違うのね? ……でも、本当かしら?
私はスチュワートの反対側のオルタニア夫人へと向き直る。
「オルタニア夫人」
「はい、奥様」
「スチュワートは本当のことを言っているのかしら? ウェリントン侯爵家において、嫉妬、という言葉は、何か、暗号のような、特別な意味があるのではなくて?」
「いいえ、奥様。ウェリントン侯爵家において、嫉妬は嫉妬、辞書通りの意味しかございません」
「あら、そうなのね……」
「奥様、地味に信頼されていなくて、落ち込むのですが……」
スチュワートが何か言っているけれど、放っておきましょう。
「何をふざけているんだい、リーナ?」
「ふざけていませんわ、旦那様」
旦那様へと向き直ります。ああ、いいわ。不機嫌な顔は、まったくクラクラしません。このままずっと怒らせておきたいわね。
「旦那様、私が嫉妬などと、そのようなことはありえません。スチュワート、何か、私が嫉妬などしないということを旦那様に教えてあげて」
「え?」
「有能なスチュワートならできます。ほら、早く。しっかり言えたら私からの信頼度は高まるわよ?」
「あぁ、もぅ……はい。旦那様、奥様は、旦那様のことを微塵も、好いておりません。微塵も、です。本日の夜会へ向かった馬車ですが、始めから旦那様とは別の馬車に乗るつもりで、かなり早めにお支度を始めてらっしゃいましたし、御者のドットのエスコートで乗り込む時に、馬車の中で旦那様のうざい自慢話を聞かなくていいなんて最高だわ、とおっしゃっていましたよ。そんな奥様が嫉妬なんてするはず、ありません。断言できます」
「なっ……」
……スチュワート。私のつぶやきが聞こえていたのね。これからは気を付けましょう。
「オルタニア夫人も、何か、旦那様に、教えてあげてもらえるかしら?」
「はい、奥様。旦那様、奥様は、領地での夜会と、前回のライスマル子爵家の夜会、そして、本日のヨハネスバルク伯爵家の夜会、その全てにおいて、旦那様のエスコートを受けた時に、旦那様に触れた手袋はみな、侍女に命じて厨房のかまどで焼却処分されております。本日も、先程、シェフから完全に燃え尽きたと報告がございました。旦那様とのダンスができないから嫉妬、などというのは妄言です。それどころか、旦那様に触れた手袋は汚らしいからと、焼いてほしいと、そうおっしゃいます。嫉妬というものは、相手に対する好意があって、生まれる感情でございます。奥様はどちらかと言えば、旦那様への嫌悪感しかございません。嫉妬など、ありえません」
「は……?」
あら嫌ですわ、オルタニア夫人ったら。その話をするのね? 仕方がないでしょう? 性病の病原菌があったら困りますもの。それと、私、「汚らしい」などと口にしたことはございませんわ。「焼いてほしい」とは言いましたけれど。
旦那様は呆然として、間抜けな顔になりましたわ。これも、見ても大丈夫な顔ですわね。そこは助かりましたわ。間の抜けた顔でもイケメンですけれど、イケメン効果は半減ですわね。
でも、それよりも、その後ろの、旦那様の侍従たちや、いざという時に旦那様を押さえつけるためにここにいる護衛騎士まで、大きく目を見開いてしまったではありませんか。前世の言葉で、ドン引き、と呼ばれる状態ですわ。そんなに驚かなくてもよろしいのに……。
「旦那様が、ヨハネスバルク伯爵令息と何を話して、私が嫉妬していると思われたのかは存じませんけれど、私が旦那様との関係で、どなたかに嫉妬することなど、万にひとつもありえません。そもそも、私と旦那様は、旦那様の不貞行為を原因とするリーゼンバーグス公爵令嬢との婚約破棄という醜聞を急いで塗り潰すために行われた完全な政略結婚でございます。お忘れですか?」
「あ、いや……だが、リストは、スラーのところの夜会で、私と君がダンスを踊らなかったことが原因で、スラーの家は圧力を受けていると……」
「それは事実ですわね」
「は? なら、他の女と踊ったことに、嫉妬してるんじゃないか!」
「いいえ、違います、旦那様。嫉妬などという、低俗な話ではございませんわ。これは、ウェリントン侯爵家の誇りをかけた戦いなのです」
「え……?」
「ウェリントンの次期侯爵夫人が、夜会で恥をかかされたのですよ? あれは新婚なのに次期侯爵から最初のダンスも踊ってもらえない女だ、と。そのような夜会を開いておいて、ライスマル子爵家に何の責任もないとでも?」
「いや、しかし、君とダンスを踊らなかったのは、私が……」
「ええ、旦那様が、次期侯爵として、思うままになさったことですわよ? つまり、次期侯爵として、まともに夜会も開けない子爵家を潰すおつもりだったのでしょう?」
「そんなつもりがある訳ないだろう!?」
「あら、私は、旦那様がご親友の家を潰す気なのだと理解していましたわよ? そのために私を利用なさったのでしょう?」
「は……?」
この、高位貴族の自覚がない男を野放しにするのは絶対にダメですわね。権力というのは、理不尽なものなのですから。では、エカテリーナ、行きます。
「ライスマルの大奥様も、そのことにすぐに気付いていましたし、あの場ですぐに、責めは自分が受けるからと私のところへ伝えにいらしたわ? その言葉通り、ライスマルの大奥様は、夜会を終えてすぐ毒杯を飲み、翌朝にはベッドで眠るように亡くなっていたと聞きましたけれど?」
「えっ……」
「旦那様がどのようなつもりだったかなど、関係ないのです。旦那様がどのようなつもりだったにせよ、ライスマル子爵家は、侯爵家を招いた夜会で失態を犯し、次期侯爵夫人に恥をかかせ、ウェリントン侯爵家の敵となりました。敵に甘い顔を見せては、こちらが討たれますわ、旦那様」
「ライスマルの大奥様……スラーのお祖母さまが、毒杯、を……」
「何を呆けてらっしゃるのですか? ご自分が選んだ道でしょう?」
「私は! そんなことを……」
「だから、旦那様の、誰にも見えないお考えなど、関係ないのです。旦那様がなさった、目に見える行動が全てですわ。侯爵家が子爵家に侮られる訳にはいきません。ライスマル子爵家は徹底的に、追い詰めますわ」
「や、やめろ! やめてくれ! レティ! レティ! リーナを、リーナを止めてくれ! レティ……レティはどこだ? レティ?」
……本当に大きな子どもですこと。いつまで乳母に頼るつもりなのかしら? まあ、もう頼れませんけれど。
「ボードレーリル子爵夫人なら、ライスマル子爵家の夜会でのことについての責任を取って、屋敷を出て行きましたわ、旦那様」
「は……? 出て行った? レティが? 君、レティを辞めさせたのか?」
「話を聞いてらっしゃいますか? ボードレーリル子爵夫人は、次期侯爵夫人に恥をかかせた責任を取って、自ら出て行きました。覚えてらっしゃいますか? あの夜会は、私が欠席の予定にしていたものを彼女が勝手に、出席に変えて返答した夜会ですわ? ボードレーリル子爵夫人も、旦那様のなさったことは、次期侯爵夫人に恥をかかせ、その夜会を主催した子爵家を潰すことだと、理解していましたわ。そして、潔く、謝罪の言葉と共に、ここから出て行きましたわよ?」
「レティが……」
「いい加減になさって、旦那様。このまま、ご自分の行動をきちんと理解して振り返らなければ、次のモザンビーク子爵家も潰すことになりますわ」
「そんな……」
「今日も、挨拶の時に、フランシーヌさま……ヨハネスバルク伯爵令嬢をダンスに誘って、伯爵家を潰そうと狙ってらしたではありませんか?」
「なぜ、ダンスに誘っただけでそうなる!?」
「スチュワートから、今日はダンスを踊るな、と言われましたわね? 覚えてますでしょう? 旦那様が今日、誰かとダンスを踊ると、ヨハネスバルク伯爵家との戦いが追加されるところでしたのよ? よくもまあ、スチュワートの言葉を聞き流せますわね?」
「どうしてダンスを踊っただけで伯爵家との戦いになるんだ!」
「前回と同じですわ。次期侯爵夫人に恥をかかせるからですわ」
「だから、君と先に踊れば、フランシーヌ嬢と踊ったからといって、君に恥をかかせることにはならないだろう!」
「私、申し上げましたわよね? ダンスの順番は守りたい、と。今は、旦那様と私のダンスの順番ではございません、と。はっきり申し上げましたけれど、聞いてらっしゃらなかったのですか?」
「聞いたとも! だが、私は今日、最初のダンスを君と……」
「何を言っているのですか、旦那様。今日、私が旦那様とダンスを踊ったら、クセルクス子爵令嬢の後に私は旦那様と踊ることになるではありませんか」
「は? 誰だ、それは?」
……生まれついてのドクズなのでしょうか?
「ご自分が踊ったご令嬢の名前くらい、覚えておいてくださいませ」
「いや、本当にわからない。誰だ、クセルクス子爵令嬢って?」
「旦那様が、ライスマル子爵夫妻のダンスの後で、最初に踊った方ですわ」
「ああ、あの時の……いや、なぜ、今日、君と踊ったら、その令嬢より後に踊ることになるんだ?」
「本当に理解していらっしゃらないのですね……」
「いや、おかしいだろう?」
旦那様がスチュワートの方を見ます。
スチュワートは目を閉じてから首を横に振って、それから目を開きました。
「奥様のおっしゃることが正しいです、旦那様。ダンスの順番を守って、二度と、奥様をエスコートする夜会ではダンスを踊らないでください」
「何を言ってる、スチュワート? まるで、私とリーナが二度とダンスを踊らないかのような……? 私たちは政略結婚かもしれないが、夫婦だぞ?」
「良かったですわ、旦那様が理解されたようで。安心しました」
「ああ、私たちは夫婦だ、リーナ」
「ええ、ですから、私と旦那様のダンスの順番は、ライスマル子爵夫妻のダンスの後、ですわ。これからも私はダンスの順番を守ります。ですから、旦那様がおっしゃった通り、旦那様と私は、二度とダンスを踊ることはございませんわ」
「は……?」
「どうしても私とダンスを踊りたいのなら、順番を守るために、おとぎ話の魔女にでも頼んで、ライスマル子爵夫妻のダンスの後に、時間を戻してもらってくださいませ」
「え……? いや、リーナ、大夜会があ……」
「もちろん、大夜会でも、私と旦那様がダンスを踊ることはありませんわ。踊ると順番を守れませんもの。大夜会は私をエスコートする夜会ですから、順番を間違って誰かとダンスを踊ったりなさらないように気を付けてくださいませ、旦那様。大夜会は国内全ての貴族に招待状が届くのです。次はどこの家と争うことになるか、わかりませんわよ?」
「う……ほ、本当に、私とは、踊らないというのか、リーナ?」
「何度もそう言っているではありませんか。それが、旦那様が次期侯爵として思うままになされたことの結果でございますわ。次期侯爵として堂々と、踊らずに壁の花……いえ、樹木にでも、なっていてくださいませ」
「……」
「ああ、そうそう。ライスマル子爵家とは違って、今日のヨハネスバルク伯爵家は、しっかり旦那様に対応なさいましたわね。フランシーヌさまはズシマーリの風待ち船に例えて、伯爵家の令嬢らしく旦那様のダンスの誘いを拒絶なさいましたし、旦那様のご友人の伯爵令息は、私の、ダンスの順番を守りたい、という言葉を瞬時に理解して、ダンスの時間は旦那様を別室に連れて行きましたもの。別室から旦那様が会場に戻った時には、もう楽団が下がっていたのでしょう? 楽団がいなければさすがに旦那様でもダンスは踊れませんものね。旦那様が伯爵家を潰そうとして仕掛ける罠を全て正しく対応して、躱せたのは、さすがは伯爵家ですわね」
「私は、リストの家を、潰そうなどと……」
「何をおっしゃるのですか、旦那様。この場で、最初に、旦那様ご自身がはっきりとおっしゃったではありませんか。伯爵令息から、ライスマル子爵家に圧力がかけられている話を聞いた、と」
「それは……」
「伯爵令息は今日、旦那様から伯爵家を守るために、必死に戦ったのでございましょうね。ウェリントン侯爵家に潰されそうになっているライスマル子爵家のことをご存知だったのですもの。だから、友人として、旦那様を別室に連れ出し、引き留め、ライスマル子爵家の話もして、伯爵家が潰されないように旦那様を抑え込んだのですわ」
「……………………そんな、こと」
「よろしいですか、旦那様。ご自分が、ウェリントン侯爵家の跡取りであること、ウェリントン侯爵家が国内の貴族で最大の財力を持つとともに、侯爵家という権力も有することを、きちんと自覚なさいませ。旦那様がどのようなお考えでいたとしても、旦那様の行動で、旦那様に付随する権力は周囲を簡単に破壊します。私とのダンスをたった一度、おろそかにするだけで、ひとつの子爵家が追い詰められ、ご友人の祖母にあたる方が毒杯を飲まねばならなくなるのです。大切なご友人が、旦那様によって自分の家を潰されないように、必死に行動するのです。それが、侯爵家が持つ、理不尽なほどに強大な力なのです。侯爵領での夜会の前に、お義母さまが、旦那様にきつくきつく、私とのダンスのことを言い含めてらしたこと、覚えてらっしゃいますか? あの意味をきちんと旦那様が理解していたのなら、ライスマル子爵家がこのような状態にはならなかったのですよ?」
「私は……」
「ライスマル子爵家がこのまま潰れたとしたら、それは全て、ご自分が持つ力に対する自覚がない、ご自分が持つ権力を理解しようとしない、旦那様の責任でございます。それを私の責任のように擦り付けるのはお止めくださいませ」
「う……」
「それで、次のモザンビーク子爵家は、潰すおつもりですか、旦那様?」
私は顔色を失っている旦那様を見つめて、しょんぼりイケメンにほだされることなく、にっこりと微笑みかけました。
旦那様は黙り込み、動かなくなりました。それは、女性の微笑みに対する行動ではございませんわよ、旦那様?
「……スチュワート、これまでの状況と、これからのこと、しっかりと旦那様に伝えて、よく理解させておくように。ああ、旦那様。ご自分の持つ権力を自覚した上でなら、別に、このお屋敷に帰ってこなくとも、何の問題もございませんわ。けれど、自覚なく、何も考えずにあちこちの女性に手を出していると、いつの間にかどこかの家がウェリントン侯爵家に潰されているかもしれませんわ。本当に、気を付けてくださいませ」
私はそう言うと、固まってしまった旦那様を放置して、侍女たちと護衛騎士を連れて、執務室を出ました。
エカテリーナは、うざい男にはっきり言えて、とてもスッキリした! ふぅ! 気持ちいい!
……これで、この歩く不発弾が少しでもマシになるとよいのですけれど。
さて。残るはお義母さまですわ……。
「さすがはお嬢さまです」
「……奥様、です。タバサ。あなたは本当にもう、成長なさい」
いつものようにタバサがオルタニア夫人に叱られて、お屋敷に、私にとっての日常が戻りました。




