交剣知iの旗の下に②
「部旗を作ろう!」
浩二達が剣道部に関わるようになった週の最初の金曜日の昼、剣道部員で屋上に集まって昼食を摂っている中で、清美が唐突に切り出した。
「そういえば無いって言ってたね」
雅代が清美の言葉を拾った。先日、地稽古とはいえ清美との三本勝負に負けた雅代は、清美をライバル認定して、良い仲になっていた。
部旗が無いというのは、浩二達が剣道部に関わるようになって二日目くらいに部室の整理をしていて発覚した。顧問も、そもそも過去に存在したのかさえ知らない口ぶりだった。もっとも現在の剣道部顧問の川野江津子は剣道未経験で部活に興味が無く、浩二達が入部届の提出と共に「全国を目指す」という方針を告げた時も、好きにやれとしか言わなかった。なので、彼女の剣道部に関わる文言は何ひとつとして信用するには足りなかった。
「部旗作るんなら部訓も作りたいよな」
浩二のその言葉に、全員がウンウンと頷く。それからは部訓のアイデアを出し合う時間となった。浩二や勇子が伝統的な(言い換えればよくある)ものを何個かをメモ帳に書き出して挙げたところ、司と清美が難色を示した。
「なんかこう、そうじゃないんスよねェ」
「やっぱりさ、せっかく私たちで考えるんだから、もっとクリエイティブでフレッシュなものにしようよ。ジジくさいのはヤーよ」
そのように言いつつも、二人はアイデアを出しあぐねていた。場が完全に固まってしまったが、そこで、これまで積極的に発言していなかった弘恵が、ゆっくり手を挙げた。
「あの、今思いついたんだけど」
弘恵は、メモ帳に書かれたいくつかの剣道の言葉のうちのひとつ、「交剣知愛」の「愛」の字の下に、「i」と淑やかに、しかし力強く書いた。
「交剣知i、どうかな。言葉の響きは伝統的で、文字は新しく見えると思うんだけど」
やや自信なさげに、弘恵が全員の顔を見回す。すると食い入るようにして、清美が彼女の方に身を乗り出した。
「いいんじゃない。iには色んな意味を付けられそうだ。愛でしょ、自分でしょ、虚数単位でしょ」
「剣を交えて虚数単位を知るのかよ」
浩二がぼそりとツッコミを入れると、ぐるりと清美の顔が浩二の方に向いた。
「いいじゃん! 可愛いし!」
唾が飛んできた。浩二には彼女が何について可愛いと評したか理解できなかったが、それについて言うと話が逸れそうだったので、この場ではもう清美とは関わるまいと決めた。
「それはそうと、俺もありだと思うぞ」
「ならよかったよ。他の人はどう?」
弘恵がまだ不安げな顔で、一人一人の表情を見ていく。異論を示す者は誰もいなかった。最後に勇子の顔を確かめてから、弘恵はパッと明るくなった。
「じゃ、決定! もし良かったら旗の文字を私が書くけど、いいかな?」
「その申し出はありがたいけど、いいのか?」
「浩二は知らないだろうけど、弘恵は書道師範持ってるからね。お母さんが書道家か何かで。雅号も持ってるよね確か」
勇子が話した内容の真偽を問うように浩二が弘恵の方を向くと、彼女はほんのりと赤くなった頰を掻きながら目を逸らした。この反応を見るに、この話は本当のことのようだ。
「あ、あの。字が気に入らなかったら却下していいからね?」
照れ隠しか、弘恵の声は大きかった。もじもじする彼女に、浩二は明るく笑いかける。
「こっちから頼むのに、そんなことはしないよ。いつまでも待ってるからな」
彼だけでなく、全員がその思いだった。その言葉を受けた弘恵の眼には、確かな強い光が宿っていた。
***
土曜日。浩二の要請を聞き入れた尚武剣士会師範代、山根芳一が六ツ寺高校剣道部にやってきた。練習が始まる前に、芳一は部員を呼び寄せた。
「今日から土日、それと木曜に練習を見させてもらうよ。俺は日本一にしてくれという頼みを聞いてここに来た。妥協は一切しないから、そのつもりでいてくれ」
そのように話す芳一の笑顔の裏に、浩二は底知れぬ恐ろしさを感じた。他の部員も同じように感じたか、その恐ろしさに引っ張られるように、全員が「はい!」と大きく返事をした。
その後練習が始まったが、その恐ろしさは勘違いではなかった。素振りが終われば、その後はひたすら摺り足。その次は、切り返しで道場の端から端を往復し続ける。この切り返しが終わった時点で、弘恵に軽度の熱中症の症状が見られたので、彼女は面を外して以後は見学になった。
さて、その後は基本打ち、技の練習をして一旦休憩となった。基本打ちや技の練習も、見られているという感覚から、普段よりも数倍疲れるものだった。
「岡谷、大丈夫か?」
浩二は真っ先に弘恵に声をかけた。彼女は防具を外し、袴の紐を緩め、扇風機の側でスポーツドリンクを近くに用意して座り込んでいた。軽くはだけた道着からは鎖骨と胸元が覗き、そこに汗が流れ込んでいる。紅潮した頰と汗で濡れた髪も相まって、今の彼女は大変に煽情的だった。
「大丈夫、とは言えないかな。喋るくらいならいいけど、まだ体がえらいね」
弘恵は残念そうだった。浩二がつい向けてしまった不純な感情については、気が付いていない様子だ。
「ちょっと悔しいな。体力、つけないとね」
弘恵は大層健気だった。その様子に、浩二は少しでも彼女に欲情してしまったことを反省した。そして、その健気さを絶やさないようにしなければと、固く誓うのだった。
その後も地獄のような練習は続く。特に浩二は他と違い、自分の剣道のために考えることに加えて、指導者として必要なことを芳一から吸収せねばならない。精神的な疲労は人一倍だ。やがて、地稽古の時間となる。ここまで、弘恵以外の者は倒れもせず頑張って稽古に食らいついている。しかし、体力は皆限界に近かった。
それでも、やることはやらねばならない。全員が気を奮い立たせて、地稽古に挑んだ。その間、組んでいなくても、芳一からの圧には凄まじいものがあった。小学生時代に全国個人3位、全中では個人ベスト8、インターハイでは個人ベスト8、団体優勝、全日本学生は個人・団体三位、28歳の現在で全日本選手権二回出場、全日本実業団大会で団体三位が一回と、優勝こそないものの、芳一はまさに世代トップレベルの選手。そこに着装して立っているだけで、威圧感が物凄かった。これは道場で指導している時にはない。威圧感そのものはあるが、小中学生相手にここまでの圧を発することはなかった。道場でこれだったら、間違いなく尚武剣士会の会員の数は激減するだろう。しかし、浩二がその圧に対して感じたのは、畏怖などではなく強烈な憧れだった。選手としても、指導者としても、この威圧感を手に入れたい。それは浩二の心の底からの願いだった。
地稽古は六本行った。全員が芳一と立ち合いをして、一人一人が的確なアドバイスを受けた。その後切り返しを行い、面を外して整列する。
「着座! 姿勢を正して、黙想!」
主将である勇子が、疲れを感じさせない張りのある声で号令をかける。気は抜けないが、今日の練習をやり切ったという達成感はあった。そして黙想の間、今日の稽古を振り返る。
(今日はみんな、ついていくのに精一杯だったな。基本の習得の他に体力もつけないとな)
そのようなことを考えていると「開目」と勇子の号令が耳に入った。それから、彼女の号令で、正面と神前に礼をした後、先生——芳一に礼をする。
「皆、素質はあると思う。だけど、日本一を目指すというなら、今のまま、練習についていくだけじゃあ全然ダメだ。この先伸びるのは、自分から自分を追い込んでいけるやつだけだ。まだ始まったばかりだから、この先に期待するよ。以上」
芳一が言い終えて、全員が礼をし、その日の稽古が終了した。そしてその途端、顔を真っ青にしてどこか遠くを見ている様子の清美が、ややよろけながら猛スピードで道場から出て行った。その様子を見た浩二は、掠れた喉に鞭打って声を上げた。
「あー、女子の誰か。心配だから白河の様子を見に行ってやってくれ」
そのように言うと、司が「了解っス」と大層元気に道場から飛び出していった。その様を見た芳一が、明るく笑いながら浩二に声をかける。
「正田さんは体力あるね」
「そーですね。体力っていう一点だけならこの剣道部で一番だと思いますよ」
「彼女には何が足りないと思う?」
問われて、浩二は少し考え込む。司の稽古を思い出しながら、迷いながら問いに答えた。
「左腕の伸び。それから攻めですかね」
「その心は?」
「手足は揃ってる。ガッツもある。スピードもある。体幹もしっかりしてる。けど、それだけですね。右で叩き付けるような打ちをしているから、折角間合いに入っても伸びがない。攻めがないから、スピードがあっても返される」
「まあそうだな。しっかり矯正してやるか、いっそのこと上段を勧めてみるのもありかもな。もっとも、上段に関しては無理強いはしないが」
これ以降も、浩二と芳一とで、今の部員の状況について侃侃諤諤と議論を交わした。その中で、浩二は芳一の凄さに気が付かされた。浩二の方から一方的に頼み込んだのに、彼は自分のことのように真摯に向き合ってくれている。しかも、一日見ただけで、浩二よりも的確に問題点を捉えている。浩二は、芳一の指導者としての能力に感服する一方で、無力感もあった。芳一は毎日指導に来られない。故に、勇子の夢を叶えるためには浩二自身も指導者として成長しなければない。そのような思いで、彼は芳一の言葉を胸に刻んだ。