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遙かなる旅路へ③

「白河、お前すごいな」


 礼式が終わるなり、浩二は真っ先に清美に声をかけた。すると、彼女は一瞬呆然とした後、はにかみながら頰を掻いた。


「いやー、それ程でもないよ」


「正直驚かされた。教室でのお前しか知らないから」


「惚れたかにゃー?」


「何でそうなる」


 浩二はため息をつく。一方で、昼に誠司に言われたことを思い出すと、このようなやり取りも心地良い。などと思っていると、ぬっと勇子が割り込んできた。どことなくその顔は不機嫌そうだ。


「話、終わった?」


 口調も尖っていた。機嫌を悪くする要因が分からないので浩二は戸惑いつつ頷いた。すると、勇子はまた厳しい口ぶりで話す。


「そう。それで、コーチやるの? やらないの?」


「なんで怒ってるか知らんが、明日返事するって言ったろ?」


 勇子はキョトンとしていた。それで、場の空気が固まってしまった——と思った側から、満面の笑みの司が口を開いた。


「妬いてる先輩可愛いですね! なまじ優秀なだけに特進入っちゃって新津先輩と交流する機会少ないですからね! ここで挽回しようっていうのでしょうけど照れ隠しで怒った風になっちゃうんですね!」


 司の言葉はとてつもなく早口だった。他の誰かが何かを言う前に、彼女は全て言い切って涼しい顔をしている。


「や、妬いてないし! え、えーと、そう! 清美の前でデレデレしてるのが気に入らなかっただけだし! 久しぶりに絡んだのにさ! それから、ええと——」


「妬いてんじゃねーですか」


 捲し立てる勇子に、司は冷めた目で突っ込んだ。その様を見ながら、しかし、と浩二は考え始める。彼の知っている勇子は気の長い女なのだが、今目の前にいる勇子はやけに短気である。彼女との関わりが薄くなったこの一年の間に何があったのか、と思わせるほどに顕著に性格が変わっている。


「どういう嫉妬しているのか一切興味無しって感じだね」


 言い争いを続ける勇子と司を避けながら、清美が浩二の側に寄ってきた。その目は冷たかった。


「そんなこと気にしたってなァ」


 浩二がボソリと言うと、清美の額に青筋が立った。次の瞬間、彼女はひどく大きなため息をついたかと思った矢先、彼の足をかかとで思い切り踏んだ。


「いってェ!?」


「はァ、こんなギャルゲの主人公みたいな男が現実にいるとはね。ンなクソ男の中身の何がいいんだか」


「どういうこった?」


「知らない」


 清美はそっぽを向いてしまった。浩二は居た堪れなくなって辺りを見回すと、ずっと会話に参加していなかった弘恵と目が合った。しかし、彼女はすぐに目を逸らしてしまった。


(俺、嫌われたかしら)


 清美と弘恵には無視され、勇子と司は完全に二人でギャーギャー騒いでいる。目の前の世界から取り残されて、浩二は途方に暮れるのであった。


        ***


 夜、浩二は尚武剣士会の稽古にやってきた。土曜日の稽古には毎日顔を出しているが、平日に訪れるのは中学以来だった。道場は小学校の体育館を借りている。入ると、まだ小中学生が稽古をしていた。浩二は彼らの邪魔をしないように、すれ違う師範代たちに挨拶しながら道場の隅まで行く。特に挨拶をしたかった山根は、小中学生の指導をしており、とても声をかけられなかった。

 自分のスペースをとって防具袋から防具を取り出して、着装を始める。彼はこのように両手を使う必要がある時のみ、義手を使う。普段使わないのは、片腕で剣道をやるのに、バランス感覚を失わないためだ。


「あ、浩二」


 入り口の方から、よく聞き慣れた声がした。しかし、この場でその声を聞くのは、随分と久しぶりだった。


「勇子。ここで会うのは久しぶりだな。もしかして、平日は来てたの?」


「ううん。高校に上がってからは尚武に来るのは初めてだよ」


 勇子は、浩二の側に陣取った。見れば、彼女の顔からはどんよりとした空気が滲み出ていた。


「今日はごめんね。あんな気分の悪い終わり方になっちゃって」


「気にしてないよ。白河は多分、明日になったら忘れてるだろ」


「それでも謝りたいの。私が変な風にしなかったら、あんな感じにはならなかっただろうし」


 会話がループしそうな予感がしたので、浩二は「そうか」とだけ返事をして、会話を切った。

 互いに着装を終えると、浩二が義手を外す一方で、勇子が素振りを始めた。相変わらず綺麗な素振りだった。昔は浩二の物真似みたいな剣道になっていたが、今の勇子はしっかりと自分の剣道として確立できている。今日の地稽古を思い出しながら、浩二はそのように捉えた。

 それで、素振りを終えた勇子に声をかけた。


「すっかり正剣が板に付いたな。今のお前の剣道は綺麗で、見てて気持ちいいよ」


 浩二は褒めたつもりだった。しかし、勇子の表情は暗くなってしまった。彼が戸惑っていると、勇子はため息混じりに話し始めた。


「私ね、今は大スランプなんだよ。今日の地稽古は張り切ってなんとか清美に勝ち越せたけど、最近は、いつもあの子には負けちゃうんだよ。だから」


「自分の剣道を信じられないってことか」


 勇子は小さく頷いた。その弱々しさで、浩二は彼女が変わった理由も分かった気がした。


「焦ってんだな、色々と」


「それ、どこまで分かって言ってんのかね」


 ぶっきらぼうな声だった。その言葉の意味が分からず、浩二が戸惑っていると、子供たちが竹刀を合わせる音に混じって、ドンと何か重いものを置いた音がした。


「相変わらず、剣道の勘は鋭いクセにその他諸々は鈍いね」


「雅代か。いきなりディスはひどいじゃないか」


 彼女、瀬筒雅代(せづつまさよ)は、尚武剣士会の幼馴染みで、六ツ寺高校でも同級生だが、誠司と同じく高校の剣道部には入っていない。だが、浩二にとっては、尚武剣士会の代表として、中学生の時まで誠司と共に最初から最後まで入れ替わることなくレギュラーで一緒に戦ってきた、馴染み深い友人だ。もちろん、彼女も勇子と交流がある。


「勇子。こんな男早く見切って、もっといい男探しな。あんた顔も性格も良いんだからきっと見つかるよ」


「いやいや、そういうんじゃなくてね」


 勇子は呆れ顔だった。第三者の登場で、少し元気を取り戻したらしい。


「お、子供たちもう終わるね」


 勇子が指差した先では、子供たちが百本切り返しを行っていた。尚武剣士会では、それは稽古終了の合図だ。

 まだ子供たちの切り返しの音が響く中で、誠司もやってきた。彼は、雅代と挨拶を交わしながら近づいて、それから浩二と勇子を見て少し驚いていた。


「浩二は平日に来るの珍しいな。それ以上に珍しい来客がいるけど」


「久しぶりにお邪魔してるよ」


 にっこりと勇子が笑いかけた。世辞抜きでその笑顔は本当に可愛らしかった。横から見た浩二でさえそのように思い、見惚れてしまったくらいなので、誠司も一瞬魂を抜かれたようになっていた。しかし、すぐに彼は気を引き締めた。その理由は、彼の背後で般若の形相になろうとしていた雅代を見れば明らかだった。彼女が口を開く前に、誠司が硬い声を出した。


「ほら雅代! ガキどもがほぼ帰ったぞ! 早く面をつけよう!」


「やる気たっぷりだねェ、誠司ィ」


 雅代の声はとてもねっとりとしていた。誠司は顔を引き攣らせながら、一礼して面をつけ始めた。彼らにならって浩二も面をつけようとすると、勇子が控えめに袖を引いた。


「雅代と西原君って付き合ってるの?」


「うん。中学卒業したあたりで付き合い始めた。ってかよく分かったな」


「そりゃ分かるよ。浩二じゃないんだから」


 呆れた声で吐き捨てて、勇子は頭に手拭いを巻き始めた。浩二はその言葉の意味は問えぬと判断して、面着けを再開する。そして、紐を結び終え、左手に小手をはめ終えた所で、浩二は右腕の義手を外した。

 先生たちが全員誰かしらと相手を組んだのを確認すると、浩二は勇子に声をかけた。


「勇子。三本勝負な」


「うん!」


 面越しでも、彼女が明るく笑ったのが見えた。この笑顔のためだけでも、勇子と今日道場で会えてよかったと、浩二は本気で思えた。

 体育館の端で軽く切り返しを終えると、いよいよ浩二と勇子の三本勝負が始まった。浩二は左腕一本で片手上段に構える。浩二は片手で振りやすくするため、面金の頂点あたりに竹刀の重心が来るように構えた。

 対して、勇子は浩二の左コテに竹刀を狙いにつけた、平正眼に構えた。対上段としては定石の構えだ。

 浩二は片手なので、竹刀操作の点でかなりの不自由さがある。そのため、勝つには諸手で相手をするよりも巧みな攻めが必要となる。

 一方の勇子は、片手上段を初めて相手にする割には落ち着いているように見えた。足捌きを駆使して、自分の間合いでの勝負に持ち込もうとしている。そして、浩二はその出鼻を狙っている。

 隻腕になってから、浩二は相手をよりよく見るようになった。まさしく怪我の功名であった。今も、勇子の動きがよくわかる。彼女の打ち気を感じた瞬間、浩二はメンに跳んだ。その瞬間まで完全にコテを打つ気になっていた勇子の竹刀は空振り、浩二の竹刀は完全に勇子の面を捉えた。

 互いに今のは一本だったと納得して、最初の位置に戻る。そして今度は構え合った瞬間、勇子がコテを狙ってきた。咄嗟にそれを腕を後方によけることで躱し、そこからメンを打つが、深すぎて不十分だった。そこから鍔迫り合いに入る。それと同時に、浩二は竹刀を握る手を鍔元に持ってきた。

 浩二は、勇子の竹刀を表から押さえる。いくら女子が相手とはいえ、裏交差にして勇子の竹刀を殺せる気はしない。

 結局、浩二は表から押さえても、勇子に引き技を打たせないだけで精一杯だった。彼は鍔迫り合いから別れると決めると、素早く下がり、構え直した。その瞬間、勇子が間合いを詰める。それに合わせて、浩二はメンに出る。これは勇子が竹刀で受け止め、一瞬詰まってすぐに押すように浩二を別れさせた。


(こいつ、何か得たな)


 勇子の目を見たとき、何かこれまでとは違うものを感じた。おおかた、浩二の出頭のメンを引き出し、それを返してやろうと考えているのだろうと、彼は考えた。それから、そういえば、と彼は思い出す。遠間のメンを擦り上げてのメンは、中学時代の自分の得意技だった。そして勇子は、自分に憧れて剣道を変え、全中個人ベスト16になるまで成長した。それを考えると、やはり狙いは遠間のメンを誘っている、ということになる。先ほどの目の変わりようは、間合いを見切ったといったところだろう。


(だったら——)


 浩二は、先とは違って自分からぐいぐいと前に詰めた。そしてその度にメンのフェイントをかける。しかし、勇子はフェイントと見極めているようで、動じる様子は無い。ならばと、浩二は竹刀を振り始めた。本命と断じた勇子の手元が動き——突垂れが、がら空きになった。これこそ浩二の狙い通りだった。メンの軌道で振られる竹刀は、勇子の面金の手前を掠め、彼女の喉元に突き刺さる。


「参りました。片手なのにすごい、私なんか敵わないや」


 一礼して、勇子が告げた。彼女の口元こそは笑っていたが、目は全く笑っていなかった。よほど悔しかったと見えるが、浩二だからこそ彼女を封じ込めたようなものだった。とはいえ、それゆえに伝えねばならないこともある。


「勇子。稽古終わったらさ、二人で帰ろう。話がある」


 こう告げた時の勇子の目は、浩二には眩しすぎるものだった。


        ***


 真夜中、住宅地の道路を二人で防具を担いで歩く。家屋から漏れる光と街灯の光は弱々しく、互いの表情がかろうじてうかがえる程だった。夜風にはまだ冷たさが残り、顔で受けていると少し痛かった。

 勇子は明るい顔で話しかけてくる。心なしか、はしゃいでいるようにも見えた。今日は久しぶりに勇子と深く関わったが、かつての彼女とはやはり様子が違った。

 雑談を続けながら、浩二は人気の無いのを確認して、意を決して話を変え、勇子に告げる。


「お前には先に言っておく。コーチの話、九割がた受けることにする」


「九割って、残りの一割は?」


「気付いてないのか。俺は、コーチになってくれとは言われたけど、具体的にどうしてくれとは言われていないぞ」


 それは当たり前のことなのに、勇子は気付かなかったと言わんばかりに、目を丸くしていた。それから一呼吸おいて、彼女は自嘲気味に笑って、目線を落とした。


「そっか。そんなことにも気付けなかったんだね、今の私は」


 勇子は立ち止まる。一瞬遅れて、浩二も止まった。彼女の先をいった彼が振り返ると、彼女に笑みは既になく、眉をひそめて唇を噛んでいた。


「私、自分でも分かってるんだ。成長、止まったって——いや、伸び悩んでるっていった方が、まだ気休めになるかな」


 嗚咽混じりに出てきたその声は、悲痛としか言えなかった。浩二が彼女から感じた焦りの正体は、これで最早聞くまでもなく分かってしまった。


「だけど諦めたくないんだよ。強豪校に行かなかった私の問題だけど、それでも私は、もっと強く、日本一になりたいんだ」


 勇子は強く言い切った。聞くまでもなく、その想いが本物と分かる。彼女が皆まで言わずとも、頼みを受けたいとさえ思えた。しかし、だからこそ、浩二は情に流されるわけにはいかなかった。


「それで、コーチが欲しくなったと? けどそれなら、俺じゃなくても、例えば山根先生なんかに頼めば——」


「現状を言うとね。顧問が剣道経験無いからさ、私が主将とコーチもやってるような感じなんだよ。だけど、今私には技術指導をしてる心の余裕も無いんだ。だから」


 浩二の言葉を遮ってそこまで話した勇子だったが、途中で黙った。その言葉では浩二に対する反論として成り立たないということに気が付いたらしい。

 それからは、お互いに黙ったまま見つめ合っていた。これからは我慢比べだった。勇子の本音を引き出すか、浩二が折れてこの場を収束させるか。そこで、先に動いたのは勇子だった。一旦顔を浩二から背けて、それから上目遣いで見つめ直した。その頬は、暗がりの中でも赤くなっていると分かった。やがて、ためらいがちにその口が開かれる。


「私、私は」


 ここで、彼女は言葉を止めた。そして大きく深呼吸をして、浩二の目を真正面から見据えて言い放った。


「私は! また浩二と一緒に、日本一を目指したいの!」


 閑静な夜の住宅地に、その大声が響いた。その重さを、浩二は胸で受け止める。大言壮語も甚だしいが、彼女の覚悟が本物だと、その目と声の鋭さが語っていた。とはいえ、浩二もそこまで言われると、易々と引き受けるわけにはいかない。全国の重み、それを彼女と自分自身に言い聞かせるように、彼は告げる。


「高校生活の全てを、剣道に捧げる必要があるぞ。その覚悟はあるのか?」


「うん!」


「団体は当然、個人の日本一も、一人じゃ達成できない。同じ仲間だけじゃなく、日本一を目指す連中と戦わなきゃ日本一には辿り着かない。それも分かっているか?」


「もちろん!」


「色んな連中に鼻で笑われるかもしれない。それでも夢を追うか?」


「当然!」


「そして最後に、六ツ寺の剣道部の全員は、日本一という目標に着いて来られるか?」


 この最後の問いに、勇子は答えることができなかった。浩二が先の言葉、目、雰囲気から察するに、彼女の「日本一になりたい」という想いは、ずっと秘めていたものだったと思われたが、果たしてそれは的中した。ずっと黙っているのが、何よりの証左だ。

 悩んだ末、勇子はまたはっきりと言った。


「明日、この夢をみんなに話すよ」


「受け入れられなかったら?」


「私一人でも、やってみせる」


 勇子の目は燃えていた。浩二の見たところ、彼女の意思は強固に思える。これならば、たとえ日本一を果たせなくとも、意志の強さをもってすれば、努力が何かに繋がるかもしれない。


「勇子、これから頑張るぞ」


 浩二は左手の握り拳を突き出した。勇子は大きく頷き、彼女の握り拳を彼のにコツンと合わせた。このようになった以上、二人はもう引き返すことはできない。帰り道の無い旅の始まりに、浩二の胸は果てしなく高まり続けていた。

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