濁流⑥
六ツ寺高校剣道部のチームとしての夏は朱雀旗で終わったが、清美の高二の夏はまだ残っている。インターハイ個人戦だ。
朱雀旗の交通費は出来立てほやほやの保護者会が負担したが、インターハイは六ツ寺高初の快挙ということで、交通費を学校が持つことになった。
今年のインターハイの舞台は火の国熊本。会場は大きな熱気の渦に包まれていた。その中で、清美は飄々としている。朱雀旗の活躍で、清美はぽっと出の東海チャンピオンという、そこまで高くない評価から、一気に優勝候補に挙げられることになった。勇子は帯同者として清美に同行しているが、清美の一挙手一投足に会場の目が向いていた。しかしそれでも清美は清美だった。
アップと開会式を終え、二人は観客席に上がった。一日目は女子団体戦予選リーグと男子個人戦三回戦までなので、清美の出番は無い。アップをしたのは、試合が無いからといって動かないと、翌日の調子が上がらないからだった。
勇子は女子団体戦を羨望の眼差しで眺めていた。高校に上がる前も近場でインターハイがあれば見に行ったものだったが、高校生として見るとやはり違った。知り合いも何人か試合をしている。自然と、来年は自分たちもあの舞台に立ちたいと強く思う。その思いを告げようと振り返ったら、清美が司に肩をもたれさせてうつらうつらしていた。一瞬唖然としてしまうが、これが清美だ。ライバルの試合を清美が熱心に観察して情報収集する姿など、想像できない。つまり今の清美は全くの平常運転だ。その姿に、勇子は安心した。そして、明日勝ち上がる様を、頭の中に思い描くのだった。
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女子個人戦が始まると、清美は期待通りに圧倒的な力を見せつけた。一日目は四回戦までだったが、全て二本勝ちを納めた。しかも一本も取られていない。その勝ちっぷりを見ていて、浩二はいつか弘恵の書を思い出していた。「濁流」——相手の選手を圧倒し勝ち切っていく様は、まさにその言葉が似合う。もはや清美の勢いを堰き止められる選手はいないだろう。このまま全日本女子選手権に出場しても好成績を残すかもしれない。
準々決勝、準決勝も二本勝ちで、とうとう清美は決勝の舞台に立った。相手は上市学園の久保河内。観客席から見ても、朱雀旗のリベンジに燃えているとわかるほど闘志を滾らせていた。
「赤、上市学園高等学校、久保河内真理耶選手。白、六ツ寺高等学校、白河清美選手」
アナウンスが入り、両者歩み出て試合場に入る。
「正面に、礼」
審判長の号令で、会場正面の日の丸に礼をする。
「お互いに、礼」
その号令で向き直り、二人が礼を交わす。その後、三歩歩み出て、構え合い、蹲踞をした。
「はじめ」
主審が告げる。すると、お互いに立ち上がり、すぐさま久保河内が間合いを詰めて跳び込みメンに出た。清美は落ち着いてその打ちを捌く。そのような感じで、久保河内がかなり積極的だった。試合展開は、一見すると久保河内が優勢に見える。しかし、その打ちの悉くが清美に届かない。むしろ、どこか清美が遊んでいる感じすらあった。手数は久保河内が上だが、試合をコントロールしているのは完全に清美だった。
やがて、勝負が動く時が来た。試合が始まって二分半ほど経った頃合いだった。久保河内が思い切りの良いメンに出たところを、清美が乾いた音を立ててドウを抜いたのだった。
「ドウあり」
会場がどよめく。この試合を見ている人が全員、スーパースターの誕生の瞬間に立ち会っているのだ。ある意味、久保河内はアウェーだった。
「二本目」
時間は残り少ない。久保河内が意地をかけたラッシュをかける。清美はそれらを器用に捌く。観覧席からも余裕があるのが伺える。焦り、疲弊する久保河内と、冷静な清美。どちらが勝つかは、もう誰の目にも明らかだった。
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清美は、自分の心がだんだんと冷めていくのを感じていた。久保河内の攻めが雑になればなるほど、面白くないという気持ちか強くなる。理合もへったくれもないような剣道を見ていると、せっかく強いのにと残念な気持ちにしかならない。一瞬、わざと打たれてやろうかという気になった。そうすれば落ち着くかもしれない。しかし、清美はそれで良いとしても、久保河内のプライドは傷付けてしまう。流石にわざと打たせたりしたら分かるだろう。
(だったら、もう終わりにしよう)
清美も取りに行くことに決めた。がむしゃらに向かってくる相手を仕留めるのは簡単だ。清美は久保河内の入りに合わせて、メンに跳んだ。攻めや構えが雑になっていた久保河内にはなす術もなく、そのメンは決まった。
「メンあり」
主審が宣言する。朱雀旗の時と同じように、久保河内は呆然と佇んでいた。清美が開始線に戻ったあたりでようやく我に帰ったらしく、トボトボとした足取りで久保河内も開始線に着いた。
「勝負あり」
清美の方に旗が上げられて、主審の宣言が響いた。清美の優勝が決まった瞬間だった。会場のどよめきが伝わってくるが、清美の頭は常に冷静だった。やはり、自分の感覚はここにいる人たちとは決定的に違うのだと感じた。優勝という事実になんの感慨も湧いてこない。ただ、自分の試合が終わったと、そういう感覚だった。
清美が芳一、勇子と共に試合場を退場し、観覧席に向かう最中、その芳一から話かけられた。
「お疲れ様。もう言うことはない。いい試合を見せてもらったよ」
「ありがとうございます」
この言葉は心からの感謝だった。芳一は流石に、清美に合った言葉を掛けてくれた。このような、選手をよく見ているところや、勝ちも負けも込みで試合を楽しもうというスタンスは好きなところだった。
「清美」
今度は勇子が話しかけてきた。穏やかな表情だが、その瞳には挑戦的な光が宿っている。清美が、一番好きな勇子の顔だった。
「私、頑張るからさ。来年は二人で出ようね」
「もち!」
二人は何を言うでもなく、力強く握手をした。豆だらけの手がこの上なく暖かい。それは、勇子との友情と勇子の情熱だ。逆に、清美は自分の手がどう伝わっているのか気になった。自分の剣道観は、勇子とは決定的に違う。しかし、勇子の明るい顔を見れば、悪く伝わってはいないと分かった。
そのまま手を繋いで、観覧席への階段に足を掛けたところで、そこから降りてくる六ツ寺高の面々が見えた。皆、笑顔だった。その笑顔の輪の中で、清美は心から思う。今剣道が楽しいのは、皆がいてくれるからなのだと。
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翌月の剣道雑誌に、インターハイの特報が載った。女子個人戦について、清美の決めた抜きドウの瞬間の写真に、次のような見出しが付けられていた。「白河(六ツ寺)、最後まで楽しい試合を」
本文は以下の通りだった。「女子個人戦は、六ツ寺高(愛知)の二年生、白河選手のための試合と言っても過言ではないほど、その存在感が際立っていた。山根コーチは白河選手のことを『本当の意味で剣道を楽しんでいる選手。微塵も勝にこだわっていないからこそ、手が付けられないほど強い』と語る。その言葉の通り、一回戦から四回戦まで、二分以内に二本を取り切る圧倒的な攻撃力を見せ、余裕で最終日に進んだ。準々決勝では、本大会団体準優勝の鐘音学園高(神奈川)の大将、篠宮選手相手に一日目のような秒殺劇を披露。準決勝では、ここまで手堅く勝ち上がった遠田農林高(宮城)の猪股選手に対し、初太刀のメンを見切ってのコテを取ると、その後は猪股選手に何もさせず、終了間際に跳び込みメンを決めて決勝進出を決めた。一方のヤマから上がってきたのは本大会団体優勝の上市学園高(福岡)、久保河内選手だった。この代の全中チャンピオンでもある久保河内選手は、先日の朱雀旗で上市学園の大将として白河選手と対峙したが負け、三回戦敗退という屈辱を味わっている。なんとか意地を見せたいところだったが、冷静に技を捌いていった白河選手が、抜きドウと跳び込みメンを決めて二本勝ち。最後まで落ち着いていた白河選手が栄冠を掴んだ。二年生ながら既に敵なしの様子を見せた白河選手。来年の活躍にも期待したい。」
優勝の賞状と共に写る清美の写真もあり、そばには清美のコメントも書かれていた。「勝ち負けは気にせずに、一戦一戦楽しもうと思っていたら優勝してしまったという感じです。最後まで楽しく剣道ができました。この大会はいい雰囲気ですね。来年も個人はもちろんですが、団体も六ツ寺のみんなと出たいです。」その写真の清美は笑顔だった。
——そこまで見ると、弘恵は側で一緒に雑誌を読んでいた浩二の方を見た。浩二は夢中になって記事を読んでいる。弘恵は視線に気がついて欲しくて、浩二にジッと熱っぽく視線を送ってみた。流石にすぐに気がついて、ぱたんと浩二は雑誌を閉じた。
「どうした?」
「私、みんなとインハイ行けるかな」
「今後の努力と運次第としか言えんわな、そりゃ」
真面目すぎるんだから——その言葉の代わりに、弘恵は頰を膨らませた。そうはしつつ、そんなところも弘恵が惚れたところだった。なので本気で怒りはしない。そもそも本気で怒っていたら頰を膨らますなどという仕草はしないのだ。
「あー、弘恵は頑張れる子だからな。きっと行けるよ」
観念したようにため息をついた浩二が、弘恵の頭を撫でながら告げる。そうしてくれたのが嬉しくて、弘恵は浩二の膝を枕にゴロンと寝転がった。
「なんだよ」
「愛情表現」
弘恵は破顔して、浩二の膝に頬擦りをした。愛しい彼がそばにいてくれる。それだけで、この先の一年で何があっても頑張れる。弘恵はそう確信するのだった。




