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歯を食いしばって踏みとどまって⑥

 県大会から約一ヶ月後経った今日は、東海総体だ。愛知、岐阜、三重、静岡の強豪が、浜松の体育館に集結した。六ツ寺からは勇子と清美が個人戦に出場する。六ツ寺高の面々で、他校からマークされていたのはやはり勇子であった。一年時の東海選抜に引き続いて、東海大会には二度目の出場。前回は上位進出はならなかったが、今回は順当に実力が伸びていれば湧かせてくれるだろうというのが下馬評だった。一方で、イロモノ的な目で見られていたのは清美だった。清美は超新星の愛知チャンピオン。どこまでやれるか、先の県大会はまぐれでなかったか、その好奇の目は多かった。

 また、ここ最近の清美の充実ぶりは凄まじいものがあった。県大会後も何度か錬成会や遠征、出稽古に出かけたが、全ての試合で一本も取られず二本勝ちしていくという怪物ぶりを見せていた。それでいて決して驕らず、マメに稽古に取り組んでいて、教室でも、相変わらず浩二に妙な色仕掛けをして楽しんでいる。浩二は、その清美の姿が頼もしく思えた。増長せず伸び伸びと稽古に励む様は、正しく他の模範だった。

 一方で、勇子はかなり危うい状態だった。県大会後、誰の目から見てもスランプで、格下の相手にすら呆気なく二本負けしてしまうこともあった。稽古への熱意は誰よりもあるが、精神が安定していない。浩二も芳一も、一回戦を勝つことすら難しいという評価をしていた。

 開会式が終わり、個人戦の準備が始まる。清美は試合順が後の方で余裕があったが、勇子は第一試合ですぐに準備しなければならなかった。


「勇子、無理するんじゃないぞ。君は君の剣道を気負わずやればいいんだから」


 試合前に、芳一が勇子に告げる。勇子は「はい」と答えたが、声に快活さが無い。代わりにあったのは、身が凍るような冷たさだった。眼光も鋭い。目に映る全てを殺してしまいそうなほどだ。


「勇子」


 浩二はたまらず声を掛けた。しかし、勇子は一瞥しただけで、浩二のそばを通り抜けていく。その様子に、浩二のみならず関係ない者でさえ凍りつく。


「あれが六ツ寺の米倉か」


「やっぱりオーラがあるね」


 ギャラリーから、そのような声が浩二の耳に入ってきた。知らないから呑気なことが言えるのだと浩二は苛立ったが、今の自分にそんな資格は無いと、気持ちに蓋をした。勇子にも聞こえていると思われるが、勇子は聞こえているのかいないのか、何も反応せずに面を着ける。

 勇子は面を着け終わると、無言のまま試合場に向かった。その姿を浩二は六ツ寺の皆と見守る。誰もが無言だった。勇子の張り詰めた雰囲気が、観衆に伝播している。ある意味で、強豪選手の持つオーラとも言えるが、それは勇子らしいものではない。


(あいつはもっと楽しんで剣道をするやつだった。俺が、そうできなくさせてしまったんだ)


 浩二はいつか、清美に「クソ男」となじられたことを思い出した。今は、心の底からそれに同意できる。清美が急成長するにつれて勇子が動揺していたのを、もっと早く気にかけるべきだった。その後悔が、最近は頭にこびり付いている。

 そしてもうひとつ、いつか弘恵と話した、勇子の気持ちと向き合うことを、すぐにしなければならない。今すぐにでもそうしないと、勇子が潰れてしまう。今の勇子を目の当たりにして、放置できるほど浩二は勇子を見放してはいなかった。


        ***


 試合が始まる。勇子の緒戦の相手は岐阜県ベスト8の選手だった。東海四県のうち、統計的に最もレベルが低いのが愛知とされ、岐阜と静岡が比較的高いレベルにある。つまり県ベスト8でも愛知県と岐阜県とでは大きな差が出るということだ。

 愛知県はそのような汚名を晴らすべく努力しているのだが、今のところ有望な中学生の県外流出は避けられず、また指導者も育たないとあって現状打破には至っていない。

 そもそも今の勇子の相手は岐阜県ベスト8といっても、常に全国上位を伺う強豪、離沢稲津高の副将である。ポテンシャルは勇子も負けていないが、気の入り様が全く違った。勇子がどれだけ惜しい打ちを出してもまるで動揺する様子が見られない。

 延長戦に入り、一本勝負となった。勇子の中で焦りが強くなる。相手が冷静であればあるほど、気持ちが落ち着かない。格の違いを見せつけられているような気がする。


(だけど、負けたくない!)


 勇子は奮起し、一際大きく掛け声を発する。そして、思い切って大きく振りかぶってメンに跳び込んだ。対して、相手が一歩下がりながらそのメン打ちを竹刀で受け止め、身体を右後ろに捌きながら切れ味抜群の引きドウを打った。

 結果は、相手に旗が三本上がった。情けなくて仕方なかった。環境は去年より良くなったはずなのに、結果が出ない。結局中学で成長が止まったということなのかと、臍を噛む思いだった。

 面を外した後、芳一から指導を受けるが、完全に上の空で、何も頭に入ってこない。それが終わると、清美の応援もする気になれず、逃げるように道着袴のまま会場から出て行った。しかし、追ってくる足音が近くなって、背中に愛しい声がかけられた。


「勇子!」


 振り返ると、息を荒くした浩二が一人で目の前に立っていた。勇子は感極まって、涙が溢れ出した。浩二が追いかけてきてくれた嬉しさと、負けてしまったことの悔しさとが混ざり合って、頬を伝い流れてゆく。


「浩二ぃ、私、私……」


 先に続く言葉も見つからぬまま、勇子は話し出す。ただ、浩二が今自分だけを見てくれているのが嬉しくて、言葉がこぼれた感じだった。言葉に詰まっていると見てか、浩二がおもむろに口を開いた。


「俺は、お前ともっと早く向き合うべきだと思っていた。だから教えてくれ。お前が今、どういう気持ちで剣道をして、六ツ寺の剣道部にいるのか」


 浩二の眼差しは真剣だった。ならば、答える言葉は全て本心でなければならない。勇子は涙を拭い、感情のままに、言葉を紡ぎ出した。


「私、浩二のことが好き。世話焼きで、剣道に熱くて……昔からそんな浩二が好きだから、スカウトを蹴って六ツ寺に来たし、浩二と一緒に剣道がしたかった」


 浩二は無言のまま見つめてくる。嘘は言えない。どんな言葉を返されるかもわからない。息が詰まる。鼓動がやかましく聞こえる。それでも、勇子は言葉を続けた。


「それでも、やっぱり上を、日本一を目指したい。誰に負けても悔しいし、私がここで終わる人だなんて思いたくない!」


 言い放った言葉が、空に響く。浩二の表情は動かなかった。その目を勇子は無言で射抜く。先の言葉を本気と信じてもらうためには、気持ちを強く持たねばならない。早鐘を打つ胸を押さえたい気持ちをグッと堪えて、直立不動で浩二と対峙する。

 やがて、浩二が目を伏せた。しかしすぐに、その目が正面を向いた。意志の強い目だ。


「ごめん。俺は、お前の好きには応えることはできない」


 勇子には分かっていたことだったが、それでもその言葉は胸に重くのしかかった。だが浩二の言葉がまだ残っている。浩二は向き合うと言ってくれた。勇子も、逃げずに向き合わなければならない。


「が、お前の野心には応える。だけどそれは、もうお前のためだけじゃない。六ツ寺のみんなのためだ。みんなそれぞれが、全国行きたい、頂点目指したいって頑張ってる。お前に足を引っ張られるわけにはいかないんだ」


 浩二の言うことに、勇子は苦しさを覚え始めた。逃げたい。薄々勘づいていながら無視していたことを、浩二は突きつけてくる。しかし、勇子は踏み止まった。自分に負けるな、事実に向き合えと、自らを叱咤激励する。


「だけどな勇子。俺は六ツ寺の主将と大将はお前にしかできないと思ってる。お前がどんなになっても、チームを引っ張っていけるのはお前しかいない。だから——」


 浩二は、半歩近づいてきた。勇子は動かない。根を張るように地に足をつけ、浩二の目を見返す。浩二も勇子を強く見つめて、口を開いた。


「今の自分を受け入れろ。白河に追い抜かれて、嫉妬に狂う自分をだ」


「わかっていたの」


「見ればな。だけど、声をかけるのが遅れた。ごめん」


 浩二が頭を下げた。その姿を見て、勇子は何も言えなかった。ここまで浩二が素直になってくれたのは初めてのことだった。


(私も、逃げてなんかいられない。前に進まなきゃ……清美を、認めなきゃ)


 勇子は深呼吸を繰り返す。口に出す言葉を間違えたら、もう正しい道には行けない。そんな予感がした。


「ありがとう。おかげで目が覚めたよ。一緒に戻ろう。清美の応援をしなきゃね」


 浩二が嬉しそうに頷いたのを見て、勇子は自分が正しい言葉を、正しい表情で言えたことを悟った。

 勇子が浩二に続いて歩き出すと、自分の足裏に砂の感触があって、そこで初めて、今の自分が裸足だと気が付いた。


        ***


 清美はものすごい勢いで連勝街道を驀進していた。準々決勝までの三試合を全て1分台で二本勝ちする圧倒的な強さを見せつけて、準決勝の舞台に立った。相手は静岡の凌雲高校3年の川原だ。優勝候補の一人で、昨日の団体戦では大将として凌雲高を優勝に導いた。彼女も全試合二本勝ちで勝ち上がっており、絶好調の清美といえど侮れない相手だ。

 しかしそのような話を聞いても、清美は気後れしなかった。勇子が自分を心の底から応援してくれている。それだけのことが、清美の中から弱気を追い出していた。

 試合が始まる。清美は足を使って間合いに入り、開始早々メンに跳んだ。決まらないが、そのまま体当たりして、横跳びしながら更に引きメンを打つ。これも防がれるが、清美は川原が体勢を立て直す隙を与えず、またメンに跳ぶ——フリをしてコテを打った。鍔に当たってしまったが、完全に川原の足が止まって手元が上がっており、タイミングは完璧だった。

 この辺りで川原も負けじと、鍔迫り合いからの引きメンを打つ。その残心を清美が追う。川原が打たせまいと防御の姿勢を取った瞬間、清美はガラ空きになった川原の逆胴を、乾いた音を立てて叩き切った。


「ドウあり!」


 審判の旗が二本上がる。二本目のコールの後も川原は落ち着いていたが、次第に焦りが剣道から滲み出ていた。清美は終始変わらぬペースで攻めているが、時間が残り少なくなってから、川原の手数が増えてきた。しかし、その結果攻めも甘くなる。最終的には不十分な攻めから川原がメンに来たところを、清美が返しドウで仕留めて決勝進出を決めた。


「おつかれ!」


 試合が終わって清美が面を外すと、勇子がスポーツドリンクを差し出してくれた。その爽やかな笑顔からは、心の底から自分を応援してくれているのだと感じることができた。一回戦で負けた後、何を浩二と話したかは分からないが、以前の勇子に戻ってくれた。いや、むしろ一皮剥けて新たな勇子になってくれた。


「ありがとう!」


 勇子の成長を祝福する意味も込めて、清美は笑顔でスポーツドリンクを受け取った。ボトルの半分くらい飲むと、荷物をまとめて一旦端へ移動する。もう一方の準決勝はまだ続いているので、観察し始めたところすぐに勝負が決まった。決まり手は余しゴテだった。それだけで、決勝の相手が難敵になることを予感できた。


「勇子。あの子強いね」


「うん。結構有名人だしね。伊勢若松高校の野呂さん。一個上の全中ベスト8だよ」


「そうなの。楽しい試合になりそうだね」


 清美はそう言うと、立ち上がって軽く竹刀を振り始めた。決勝の準備が終わるまでには時間がある。体を冷やさないよう、少しでも動こうと思った。そうして時間を潰していると、いよいよ出番となった。面をつけて、芳一と共にコートに向かう。その間に弘恵、司、雅代、勇子、誠司、そして浩二と、各々と目があった。言葉は無くとも、全員の期待が清美の体にのしかかる。しかし、重くはなかった。


「女子決勝戦。赤、六ツ寺高等学校、白河清美選手。白、伊勢若松高等学校、野呂かおり選手」


 アナウンスに背中を押されて、二人が試合場に入る。


「正面に、礼!」


 国旗に礼をする。決勝戦ならではの行いに、清美はワクワクしてきていた。体が震えるが、それさえも清美は楽しみに変えていた。


「互いに、礼!」


 今度は向かい合って礼をする。そして三歩進み、竹刀を構えて蹲踞をする。


「試合開始」


「はじめ!」


 審判長のアナウンスに続いて、コートの主審が号令をかける。二人ともまっすぐ立ち上がると、裂帛の気合をぶつけあった。その中で、先に間合いに入ったのは清美だった。剣先でチョンと野呂の竹刀を押さえると、やや大振りに振りかぶる。野呂の左手が上がった次の瞬間、清美は逆胴に振り下ろす。これは野呂が咄嗟に左手を戻したことで防がれたが、警戒心を与えるには十分だった。

 それからも、清美は飛び込みメンと逆ドウを織り交ぜながら攻める。試合巧者の野呂だが、完全に清美がペースを掴んでいた。試合も半ばに近づいた頃、清美がまた間合いに入る。そして、一拍置いてから、猛烈なツキに跳んだ。一拍置いた時に野呂が前に出ようとしていたこともあって、そのツキはカウンター気味に決まり、野呂はのけぞって尻餅をついた。


「ツキあり!」


 清美に一本が入り、仕切り直しとなる。すると、今度は野呂が先手を取った。遠間からの飛び込みメンに、体当たりして引きゴテ。その残心を追って清美はすぐに間合いを詰め、メンに跳んだ。野呂もすぐバックギアから急にトップギアに入れたように前に出て、清美のメンに合わせてメンに出た。

 旗は割れた。野呂にひとつ、清美にふたつ。この相メンは、清美に軍配が上がった。

 清美の勝利だ。興奮が収まらないまま、蹲踞をして試合場を出る。ふと六ツ寺の皆がいる方を見ると、そこには一面の笑顔の花束があった。


        ***


 試合の日の暮れ。帰宅した勇子は食卓で夕食を食べていた。負けて帰ってくると普段は不貞腐れて部屋にこもってしまうものだが、今日は普通にダイニングに来て食事を摂っているので、父母も紀子も珍品を見るような目を向けてきた。


「聞いたよ。一回戦負けだって」


 ややあって、遠慮がちに紀子が声をかけてきた。前はその事実を突きつけられるだけで胸がひどく痛んだものだが、今は痛んでも軽く流せる程度だ。


「うん。ちょっと勝負を急ぎすぎた。常にじっくり構えないと、私の剣道はできないみたい」


「清美ちゃん、優勝したんだってね。県警に稽古に来てて強いなって思ったけど、優勝するとは思わなかったよ」


「最近の清美は本当に強いからね。今日の清美は、本当に優勝してもおかしくなかったよ。実際優勝だしね」


 勇子がそう返すと、家族全員が呆気に取られた表情を並べてた。少しでも家族を見返せた気がして、勇子は得意な気分になった。

 食後、勇子は京に電話をかけた。緒戦敗退を、はっきりと告げた。すると、落ち込んでいると思われたか、京は明るい声で次のように言った。


「どんまい。まだこれで引退じゃないけん、頑張って」


「もちろん。京ちゃんとの約束、果たさないとだしね」


 気丈に返すと、電話の向こう側からため息が聞こえた。それからは、少々他愛の無い話をして、通話を終えた。しばらくぼーっとしていたが、おもむろにベッドに横たわると、すぐ眠気が襲ってきた。勇子を優しく包み込むようなそれに、勇子は逆らえず身を委ねるのだった。

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