表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/21

遙かなる旅路へ①

 新津浩二(にいつこうじ)は、六ツ寺(むつじ)高校の薄汚い廊下を軽快に走り抜け、脇目も振らずに中庭の梅の木に向かっている。幼なじみの米倉勇子(よねくらゆうこ)に呼ばれたからだ。帰宅部な浩二とは違ってきちんと部活動をしている。その上、高校進学後は同じクラスになることがなく、殆ど縁が切れかけていた。なのに、朝練があるのにも関わらず朝に呼び出すとは余程の事情があるに違いないと浩二は考えて、待たせてはならぬと走っている。

 やがて、目的地が見えてきて、浩二は走るのをやめて歩み寄っていく。緑の葉をつけた梅の木の下、久しぶりに見た勇子は今、もじもじしている。心なしか、頬も赤い。ブレザーの制服が青っぽいだけに、その朱は印象的だった。

 浩二は、米倉勇子という女が、言うと決めたらズバッと言う女だと知っている。だから、彼女がこのようになるのは珍しいことだ。


(これは、告白されるんじゃないかな)


 頭に一度そのような考えが浮かぶと、浩二は自然と上がろうとする口角を下げるのに精一杯になった。しかし、勇子の次の言葉で、その口はすぐ様への字になった。


「浩二に、私たち剣道部の、コーチと男子選手になって欲しいんだけど」


        ***


 ——二年前の夏。全中予選を兼ねた、愛知県大会個人戦。浩二は軽快に勝ち上がった。中学生離れした剣風。構える竹刀は常に中心から離れず崩れない。また、左手を簡単にあげることもしない。中心を攻めて、相手が崩れたところをすかさず打ち抜く。175cmという、中学生としてはやや大柄な体格も相まって、中学生の大会に一人だけ大人が混じっているような錯覚を観衆に覚えさせた。

 そして、当然のように、浩二は決勝の舞台に立っていた。二位でも全中出場は成るが、彼の眼中には優勝の二文字しか無かった。相手は、全中出場を決めた中学校の大将、広間だった。優勝候補筆頭で、スピード感溢れる、一瞬たりとも隙を見せればばっくりと喰らうような剣道が持ち味だ。だが、この強敵を前にしても、この時の浩二は負ける気がしなかった。


「はじめ!」


 主審の声が響き、二人が蹲踞から立ち上がって構え合う。互いに同時に気合いを発し、先に仕掛けたのは広間だった。グッと間合いを詰めるや否や、いきなりメンに飛んだ。しかし、浩二は見切っていた。その一打を竹刀の裏鎬で受けて擦り上げると、その竹刀を広間の脳天に打ち下ろした。

 これが一本となった。観衆もどよめく。手本のようなメン擦り上げメンだった。浩二が開始線に戻る途中で、心中で自分で自分を褒めるくらいだった。


「二本目!」


 主審が宣言すると、今度は、静かな攻め合いとなった。積極的な剣道が持ち味の広間も、慎重に攻めざるを得なくなった。この時点で、浩二は己の勝ちを確信した。自分の剣道に徹することが出来なくなった者など、絶好調の彼にとっていくら強かろうが敵ではない。

 今度は浩二がメンを打つ。返しドウを抜かれそうになったが、それは体当たりで潰した。その後、引きメン、また飛び込みメンと、浩二は上を攻め続ける。広間も出鼻のコテや抜きドウを狙うが、浩二の打ちを引き出しているわけではなく、打ちも今一つになり、ジワジワと下がらざるを得なくなる。

 そして遂に、広間がコート際に追い込まれた。ここで、浩二が間合いを詰め、メンに出るそぶりを見せる。返しドウを狙っていたのか、広間の竹刀が上がる。そこに、浩二が鋭いコテを打ち込む。


「コテあり!」


 旗が三本上がり、主審の凛とした声が浩二の耳に届いた。上を攻め続けた後のコテは、広間の得意技だった。結果的に、浩二がそのお株を奪った形になった。

 互いに礼式を終え、浩二が感慨に耽っている間に、隣のコートで行われていた女子の決勝戦も終わった。優勝は勇子だった。

 勇子は現実味が無いと話していたが、浩二はこの勝利は必然と考えていた。根拠の無い自信ではない。この日のため、そして来るべき全中のために、誰よりも多く稽古してきたということからの自信だった。

 さて、県大会個人アベック優勝ということで、浩二らの中学校は大騒ぎになった。創立以来の快挙ということで、全校集会で決意表明をさせられたり、壮行会が開かれたりした。当の浩二は、出るからには優勝だと意気上がり、稽古に励んだ。悲劇が起こったのは、その時期だった。

 ある日、浩二は中学校からの帰り道で、側溝と道路の間の溝に自転車の車輪が引っかかって、コントロールを失った。そのまま彼は投げ出され、手を突く暇もなく三叉路の手前に投げ出される。そして、次の瞬間、低いエンジン音が、次いで甲高いブレーキの音が聞こえたかと思うと、目と鼻の距離に、トラックの車体が現れた。

 鈍い痛みを感じながら立ち上がろうとしたが、その時彼は、両手をついて立ち上がるという、当たり前のことが出来なかった。右腕の肘から下は、トラックのタイヤの下敷きになっていた——。


        ***


 浩二は、一度天を仰いで、大きくため息をついた。そして、重くなりそうだった空気を吹き飛ばすように、大声で高笑いした。そうしながら、彼は左手で自分の右腕を指さした。そこには、肘から先が潰れた学生服があった。


「申し出はありがたいが、お前が一番よく分かってんだろ。愛知県チャンピオンの新津浩二はもういない。今の俺は気ままな帰宅部高校生だよ」


「ウソ」


 浩二が言い終える直前に、勇子が鋭く突っ込んだ。彼女の目が据わっている。彼は、何も言えなくなった。頭が回らなくなると、今日は春のわりに暑いとか、風が弱いとか、先ほどまで気にもならなかったことが気になってくる。怒った彼女と相対するのは、久しぶりだった。

 言葉に詰まった彼とは反対に、勇子の方は一歩詰めて、更に言葉を投げかけてきた。


山根(やまね)先生が言ってたもん。浩二、片手上段で剣道続けてるって。それも、愛好家ってレベルじゃなくて、本気で」


 山根先生とは、浩二の通っている尚武剣士会道場の師範代の一人である。彼はよく出稽古に出かける上、口が軽い。勇子に告げ口していたとしても何ら不思議は無い。浩二が剣道を続けていることは、道場の人には口止めしておいたのだが、意味を為さなかったようである。


「確かに、前みたいな剣道は出来ないかもしれないけど、情熱はあるんでしょ。それに、選手になれなくても、コーチは——」


「分かった、分かったから、まくし立てるな。ひとまず考えさせてくれ。何も詳しい話も聞いてないし、ここで簡単に引き受けるとは言えないよ」


 浩二は、カッとなった勇子を宥めるように言った。一方で、彼の記憶にあった彼女は気が長く、こんなにもすぐ怒るのは珍しいことで、いかに本気かも分かった。その本気さを茶化したり、受け流したりするのは、浩二にはとてもできないことだ。


「今日部活あるだろ? 参考に今の剣道部がどんなもんか見ときたいから、見学させてくれ」


 浩二の提案に、勇子は「もちろん」と頷いた。その時の、年相応の無邪気な笑顔を見て、彼は心底安心したのだった。


        ***


 浩二が教室に戻ると、自分の席に女の脚が乗っていた。その主に目を向ければ、今どきの高校生では絶滅危惧種の、ツインテールの女が居た。しかし、スカートはそれこそ今どきの女子高生らしく、とても短い。その短さたるや、立った時に尻が見えるか見えないかというほどのものである。


「おはよう新津。今日も素敵な、すけべボディだね。私ィ、濡れちゃった、カ、モ」


「おーす。とっとと脚どけろ」


 彼女——白河清美(しらかわきよみ)の戯言を適当にいなしながら、思いっきり脚が乗った椅子を引いた。それで清美の脚が離れた瞬間に、素早く腰掛けた。


「やーん、新津クンったら、らんぼーなんだから」


 清美は脚を引っ込めながら、体をくねくねさせている。何てあざとくて古臭い言い方かと思ったが、口にはしなかった。ツッコミを入れれば入れるだけ、彼女は喜んで図に乗ってしまう。

 彼女は去年から同じクラスだ。絡むようになったのは去年の夏頃である。彼女曰く「水泳の授業の時に見た引き締まった体に惚れたから、この先新津の体を狙いにいきます」とのことである。浩二としては隻腕で水泳部と渡り合ったことを評価して欲しかったのだが、彼女は体にしか興味がないらしく、そのことに関しては反応が薄かった。


「顔とスタイルは抜群なんだけどなァ」


「私と付き合えばそのグンバツな顔とスタイルを好き放題できるよ?」


 つい声に出てしまった上、その言葉を拾われてしまった。浩二は心の中で頭を抱えながら、表では何事も無かったように清美を無視した。彼女はよく「付き合おう」と言ったりするが、冗談なのか本気なのか全く分からない。そもそも、体目当てと公言している女と付き合う気にはなれなかった。

 それきり、昼休みまで清美との会話は無かったが、浩二はずっと彼女の視線を感じていた。彼女が女友達と話している時でさえ感じた。このようなことがあると、彼も彼女のことが気になりだしたりしてしまうのだが、いやいや、と思い直してそのことを忘れる。このようなことをかれこれ半年以上続けている。


「あいつの興味が早く俺以外に向かねェかなァ」


 などと昼休み中に弁当を頬張りながら浩二がぼやくと、数名の男子から嫌な視線を向けられる。これにも慣れた。清美は見た目の可愛さと珍奇な中身とのギャップで結構人気がある。その清美に体を狙われている浩二は、彼女のファンからあまり良い目で見られていない。


「もったいねェ男だナァ、お前。あんな上玉あしらうこたァねェだろうに」


 浩二と机をくっつけて弁当を食べている男子、西原誠司(にしはらせいじ)が、浩二の呟きを拾った。彼は浩二の道場の幼馴染みで、高校では剣道部に入らずに道場通いで剣道を継続している。


「お前割と評判悪いぞ。恋人未満レベルに仲良くして、女で遊んでるって」


「白河と仲良い設定にしてんじゃねェよ」


「どう見ても仲良いだろ。それに、白河も本当に悪い女じゃないぜ。本人はおどけてるし、お前は能天気すぎて気付かないだろうけど」


 本当かよ、と返答しつつ、浩二は思う。実際のところ、彼は清美のことを何も知らなかった。自分から関わるのを避けているため知らないのは当然なのだが、誠司と話していると、それが無責任なことのように思える。


「今度からは、あいつの話に付き合ってやろうかね」


「その意気だ。それでこそ我らが肝っ玉大将だよ」


「懐かしいなァ、そう呼ばれるのも」


 肝っ玉大将とは、浩二が尚武剣士会の大将を任されるようになってから、館長の土井勝将(どいかつまさ)に付けられたあだ名だ。様々な剣道のテクニックがあるこの時世で、浩二の技はどれも捨て切った大技ばかりだった。決して逃げ回るような剣道はしない。正面から真っ向勝負で立ち向かう姿は、まさに肝っ玉大将と呼ぶにふさわしいものだった。


「そういえば、米倉から高校の剣道部に入ってくれって言われたんだって?」


 誠司に聞かれて、浩二は少し驚いた。しかし、彼も勇子と親交がある。彼女から話を聞いていたとしても、不思議ではない。


「うん。選手兼コーチをやってくれと言われた。部活の様子を見てから、どうするか決める」


「もしお前がその話を受けるなら、俺も入りたいな」


「なんだ、部活で剣道やる気あったのか。てっきり男子部員ゼロだから入ってなかったのかと思ってたわ」


「俺はな、お前と剣道がしたいんだよ」


 この世界には、彼と自分の二人しかいない。真剣な眼差しで告げる誠司を目の前にして、浩二はそのように錯覚した。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ