第六話 底無しの黒(前編)
魔女の朝は早い。
アデルはいつものように一族の庭を散歩している。
庭と言ってもそこはまるで人が一歩も立ち入っていない森のようだった。まだ薄暗い中、無数の妖精達がキラキラと輝き、この世のものとは思えない幻想的な風景を作り出している。
この庭は自然の森のように、それぞれの植物が一番居心地の良い場所に植えられ造られている。
それにより、それぞれの植物の妖精達が仕事をしやすく、全ての植物が生き生きとしている。
自然の循環が出来上がっており、アデル達一族の庭は完全に自立していると言っていいだろう。
アデルは母に頼まれたレモンバームとローズマリーを摘みながら、妖精達に朝の挨拶を交わし、庭に漂う瑞々しい森の香りと、ハーブ達の香りを楽しんでいる。
アデルはこの時間が何よりも気に入っている。周りには様々な妖精、精霊が集まってきている。肩の上には水仙の妖精が座り、水の精霊と薔薇の妖精が楽しそうにアデルの金色に輝く髪を梳かしている。
今日は月にある晴の海の中心が輝き出す日。魔法使いの世界で古くから伝わる言い伝えによれば、その日に月を見つめると全ての悪い感情が浄化されると言われている。
アデルはこの言い伝えは本当だと信じている。
たしかに、その日に月を見つめると、心が軽やかになると感じていたからだ。
そこに一際大きい樹が見えてきた。
一族の樹だ。
アデルはそれに優しく抱きついた。まるで自分がこの森の一部になったような感覚。
ここまで来るのが毎日の朝の日課になっている。
しばらくしてアデルは樹から離れ、家に戻る為に歩きだした。
アデルが摘んでくるハーブを家族が待っているのだ。
「おかえりアデル。今日のお散歩はどうだった? 」と帰ってきたアデルに、朝食の野菜スープを作りながら母が言う。
「今日もみんな元気だったよ。良い朝だった」とハーブを渡しながら言うアデル。
「うん、良いローズマリーね。水出ししてローズマリーウォーターにしよう」
肉体年齢は母のほうが1歳下で、アデルより3cm背が低い142cmの母。
こう見ると親子というより仲の良い姉妹だ。
「アデル、あのお皿、私じゃギリギリ取れないの。とってちょうだい」
お皿を下ろすアデル。
「助かるわ、ありがとう。ついでにレタスを盛り付けておいてくれる?」
「わかった。あとレモンバームティーの用意もしとくね」とアデル。
「お湯熱いから気をつけて。さあ、そろそろみんなを呼びますか」とエプロンを外しながら母が「みんなーごはんよー」と大きな声で呼んだ。
今日はアデルの好きな野菜スープ。
トマトのいいにおいがキッチンに立ち込めている。
アデルはご機嫌に朝食の用意をした。
―――――――
通学途中、電車内。
アデルはいつものように本を読みながら座っていた。最近のアデルのお気に入りはフランス南部の町に住む妖精の日常を描いている小説だ。アデルの母親はフランス出身の魔女だ。アデルも年に1回は家族みんなで母親の故郷に遊びに行っている。
今読んでいる小説は舞台がフランスだし、魔法使いも出てくるので親近感が湧き、毎回の楽しみになっていた。
電車が3駅目の駅に着いた。目的地まであと5駅。
そこに可愛らしい女の子が楽しそうに母親の手を握り乗車してきた。6歳くらいだろうか。
アデルはなれた様子で親子に席を譲った。
「ありがとうございます。みーちゃん、お姉さんにありがとうは?」とみーちゃんママ。
「ありがとーございます!」
とても礼儀正しくお辞儀をするみーちゃん。
「いーえ、どういたしまして」
笑顔で返すアデル。
席に座るとすぐに絵本を渡す、みーちゃんママ。
「これなーんだ?」とみーちゃんママは絵本に描かれたの絵を指差す。
「エビフラーイ! エビフラーイ!
え?違うの? んーと、んー…」勢いよく答えたがみーちゃんママは首を横に振り正解でないことを示すと、他の答えを考え出すみーちゃん。しかし、エビフライ意外思い付かなかった。
「にんじん」正解を教えるみーちゃんママ。
「ああ、にんじんかー!」間違えてもとても笑顔なみーちゃん。
「これは? 」他の絵を指差すみーちゃんママ。
「ブイ! ブーイ!……? もしかしてパン? 違うか。じゃあレーズンパーン!レーズンパン!」
笑顔だが何も言わないことで不正解だと示しているみーちゃんママに答えるみーちゃん。
「たこ焼き」と正解を教えるみーちゃんママ。
「なんだ、たこ焼きかぁ! あ、夕焼けだー!」と窓の外を指すみーちゃん。
と言いながら、ときどきアデルのほうを見て何か言いたそうな様子。
「あれは朝焼け」とみーちゃんママ。
「そっかあ、あれは朝焼けかあ!」
絵本に飽きてきたのか、車窓の外や車内を眺めるみーちゃん。
ふとアデルと目が合い、遠慮がちに、ずっと疑問だったことを質問した。
「・・・お姉さんは、天使のひと? ないしょ?」
アデルは嬉しいけれど恥ずかしくなった。みんな見てる。
が、嬉しさが僅差で勝ち、「よくわかったね。そう、わたしは天使。。。。これあげるね」
天使を名乗ったものの、歓喜心が渾身の力を振り絞り投げた球を羞恥心がみごとに逆転ホームラン。
顔が真っ赤になったのを誤魔化すようにいつも大事に持ち歩いているお菓子コレクション袋から透明な袋に包まれた小さくて綺麗な飴を一粒差し出すアデル。電車内だから飴がいいかなと思ってのことだった。
たまに学校の友達が占いのお礼にお菓子をくれるのだ。
「ママ!天使のひとから飴もらったー!」満面の笑みのみーちゃん。素早く飴を取り出し口に入れる。
「ほら、お姉さんにありがとうは?」
「メゥシーボクー!」
「??」
いきなりのネイティブな発音のフランス語に驚くアデル。
「え、なにそれ、みーちゃん?ありがとうでしょ?」と理解できないでいるみーちゃんママ。
アデルはあることを考えまいとしていた。
きっとどこかで覚えてきたんだろう。ほら、テレビとか、フランス人の幼稚園の先生に教わったのかもしれないし。
おじいちゃんはそんなことしない。おじいちゃんはそんなことしない。
おじいちゃんの飴がわたしのお菓子コレクション袋に入ってる訳がない。
とアデルは他の可能性を必死で探していた。