表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

彼等

作者: 及川 瞳

        ‐ヒロト‐

 最近はもう、殆ど毎日眠っているようなものだ。

 僕にとっては久しぶりの放課後の学校。学生達の若い体から放出されたエネルギーが、真夏の圧倒的な熱気に煮える。それがさらにグラウンドから舞い込む埃っぽい空気と混ざり、独特な饐えた青い匂いをそこここに充満させていた。

 昇降口の壁にもたれて僕は、暮れかけた校庭で気怠そうに用具を片付ける野球部員達をぼんやりと見ていた。

翔也しょうや

 由梨ゆりが翔也を呼ぶ声に、僕は振り向いた。

 部活が終わったばかりで少し高揚した由梨が、いつもの笑顔でこちらに駆け寄ってくる。テニスラケットのグリップがはみ出した膨らんだスポーツバッグが、華奢な肩にひどく重そうに見えた。

 僕はまっすぐ体を向けて、走ってくる由梨を待つ。

「……あ、ヒロト」 

 あと三歩のところまで来たあたりで由梨は、やはりちゃんと翔也ではなく僕の方だと気づいて、改めて一層嬉しそうに笑顔を輝かせた。

 いままで由梨が僕達を見間違えたことは、一度たりとてない。言葉を交わした後ならともかく、なんで見ただけで違いが分かるのか不思議に思って訊いたこともあるけど、

「もちろん、それはわかるよ。だって全然違うもん」

とあっさりと云ってのけた。

「ヒロト、久しぶりだね」

 由梨がちゃんと確認するかのように僕の顔を覗き込みながら、楽し気にそう云った。僕は曖昧に頷きながら、やはり由梨の重そうなバッグが気になったけど、云ってもいつも持たせてはくれないので口には出さなかった。

 それから由梨はふいに思い出して、

「今日、翔也は酷い頭痛がするって云っていたけど、大丈夫?」

と、心配そうに訊いた。

 今朝、翔也は目が覚めた瞬間からズキズキと足先まで響くようなひどい頭痛がして、とても学校に来られるような状態ではなかった。着替えて病院に行くのもしんどい程で、家にあった鎮痛剤を用法も良く見ずに適当に飲み下すと、ベッドにまた潜り込んで眠りで痛みをごまかそうとした。そのせいなのか分からないけど、一日中ずっとうつらうつらとした意識の中にいて、夕方、突然ぱっと目覚めた途端、僕と交代していた。

 直近で僕が翔也だったのは、もう五日も前だ。

 ベッドの上で自分が久しぶりにこの体を使えると気付いて、僕が真っ先に思ったのは由梨のことだった。枕元の目覚まし時計は午後四時少し前を示している。今から学校に行けばまだ間に合う。たぶんちょうど部活を終えた由梨と、一緒に家まで帰られる。そう思って、急いで制服に着替えて僕は学校まで来たんだ。

「頭痛は治まったよ。翔也も大丈夫」

「うん。良かった」

 そう云って由梨はにっこりしながら頷いて、そして僕を見つめると「良かった」と確認するようにもう一度小さくつぶやいた。僕は翔也を通していつでも由梨と会えるけど、由梨の方は翔也の奥にいる時の僕は見えない。

 子供の頃は僕と翔也はくるくるとしょっちゅう入れ替わっていたから、いつも僕と翔也と由梨の三人でいるようなものだった。僕達にはもうそれが当たり前すぎて、だから最近こんな風に僕がなかなか現れることができなくなってきた事実に、みんな少し動揺していた。ただ、それをお互いが口に出して云い合うことは、その事実を完全に確定してしまいそうで誰にもできなかったんだ。


 まだ浅い夕方の電車は、座れないまでもそんなに混んではいない。

 僕と由梨はいつもと同じ三つ目の車両のドア近くで立ったまま、どんどん後ろに流れていく外の街の景色を見ていた。

 帰りと違って朝の通学時間帯の電車は、通勤のサラリーマンと一緒になるから大抵滅茶苦茶混んでいて、いつも僕と翔也は人混みから由梨を庇っていた。それは電車だけでなく、いつでもどんなものからでも由梨を守りたいと僕も翔也も物心ついた時から思い、実際にそうしてきたんだ。

 由梨は家が近所のよくある幼馴染だけど、いつの日か由梨が僕等にとってたった一人のかけがえのない女の子だってことを知った。

 翔也は自分からはあまり話さないけれど聞き上手で、だからなのか翔也といる時の由梨は学校のこととかテレビのこととか結構お喋りだ。そんな由梨もいいなって思うし、僕といる時に大抵そうであるように、こうやってただ二人で静かに並んでいるだけなのも、時折流れ込んでくる風が偶然運んでくれる由梨の髪の甘い香りに気づくことができて、それはそれで僕は嬉しかった。

 二人で乗った電車は、いつもあっという間に駅に着いてしまう。ここからお互いの家までは、後ほんの十数分しかない。その大切な時間を、僕は今まで以上にかみしめるようにただ黙ったまま歩いた。



        ‐由梨‐

 時々、これは夢なんじゃないかと思うことがある。

 年単位にとてもとても長くて、そして感覚も色も味もあるとてもとても鮮明な夢。だって、普通に考えたらこんなことが現実にあるわけがない。自分が今現在進行形の現実の中にいてさえ、ふと何か大きな勘違いをしているのかしらと思ってしまうことがあるから。

 同じ町内にほんの半月違いで生まれた時から、私はヒロトと翔也のことを知っている。二人は同じ体にいるけれど、間違うことはなかった。だって、彼等はまったく別の人間だから。

 翔也は思慮深くて、リーダー的な役割だった。普段は無口な翔也が確信を持って云うことは、どんなことでも説得力があって無条件に信じられた。

 そして、ヒロトは……ヒロトはただ優しかった。穏やかで、いつもすっぽりと私を包み込んでくれるような温かさに言葉さえいらなかった。ただずっと傍にいられるだけで幸せだった。

 翔也はずっとヒロトを想い、本来は自分だけのものである筈の体にヒロトが存在することに、何の抵抗も持たなかった。翔也だから、一般的な常識上こんなにも不条理なヒロトをすんなりと受け入れられたのかもしれない。

 ヒロトはまごうことなく確かにここに存在するのに、私達以外の誰にも存在を認められていない。抹殺ですらなく、最初から、ただの無。

 そんなすべてを、ヒロト自身はただ静かに全部受け入れていた。

 私は本当はとても怖かった。小さな時は、翔也といてもちゃんとそこにヒロトを感じられた。いつも三人だって思えた。

 けれど、だんだん大人になってくるに連れてヒロトと私であるか、翔也と私であるかでしかなくなって、そして今日ヒロトに会えたのは五日ぶりで。

 誰にも云えない。

 ヒロト達にさえ、云えない想い。

 ヒロトを心から愛している。

 ヒロトを失いたくない。

 でも私に何ができるのだろう。これを運命や必然と呼ぶのなら、そんな途轍もなく大きなものに私なんかがどう立ち向かえるというのか。

 もう、私の家に着いてしまう。暗い闇のような不安が胸の中でぐるぐると渦を巻く。

 今、ヒロトは私の隣にいる。でもいつもみたいにバイバイって手を振って別れて、そして明日もまたヒロトに会えるだろうか。明日でなくても、明後日でも一週間後でもいい。また、ちゃんとこうしてヒロトと並んで歩けるって、絶対に確かな約束が今どうしても欲しかった。

「まだ、帰りたくない」

 私の家の門の前で立ち止まったヒロトに、そう云うのがやっとだった。

 素直な気持ちをそのまま言葉にしてしまったけど、そのセリフが実際に音となって自分の耳にも届いてみると、なんだかすごく恥ずかしくなって俯いてしまう。

「うん。そうだね」

 でもヒロトはすごく優しく笑って、当たり前のように頷いてくれた。安心して顔を上げると、踵を返したヒロトは先に立って私を(いざな)ってくれた。



        ‐翔也‐

 やっぱり、俺の家には誰もいなかった。

 帰宅した玄関は、さっきヒロトが学校へ行くために出て行った時のままだった。父も母も相変わらず仕事なんだかプライベートなんだか、いつ帰っていつ出て行っているのかさえわからない。俺の一人分の食事だけが、いつものように冷蔵庫の中でぽつんと冷やされていた。

 ヒロトは由梨を自分の部屋に通すと、勉強机の前の椅子に座らせてからキッチンでコーヒーを二つ入れた。

 何年か前のバレンタインに、ここで使うために由梨が買ってくれたお揃いの幾何学模様のマグカップ。オレンジのカップが由梨ので、ブルーが俺、グリーンがヒロト。最初からそう決まっていた。

 だけど、もちろん同時にその三つのカップが使われることはない。ただ過去に一度だけ、三人なんだからって三つカップを並べてみたことがあったけど、俺と由梨の二人の前に置かれた三つのカップは思った以上に収まりが悪くて、なんだか寂しくなってもう二度とやらなかった。

 ヒロトは由梨の横の机に彼女のカップを置き、自分のグリーンのカップをサイドボードの上に置いて、ベッドの端に腰かけた。俺はブラックだけど、ヒロトはミルクを落とすし、由梨はさらに砂糖も入れる。向かい合って座った二人は黙ったままコーヒーを飲んだ。

 高校生になった頃からあまりたくさん話すことのなくなった二人だけど、俺にはわかっていた。決して表には出さない由梨の気持ちも、ヒロトの気持ちも。

 いつからか由梨は俺を透かしてずっとヒロトを見ていた。ヒロトも自分のその深い想いを誰にも見せないようにしていた。自身の稀有な境遇に、俺に遠慮することばかりを覚えてしまった。

 けれど、そもそもヒロトも由梨もこの体は本来は俺のもので、ヒロトが寄生しているかのように思っている節があるけれどそれは違う。これは俺の体であるのと等しく、ヒロトの体でもあるのだ。


 俺達の母親は、結婚する前にヒロトを身ごもった。相手とは婚約はしていたけれど、妊娠が発覚したのが結婚式まであと半年と云う頃でヒロトが生まれるであろう時期とちょうど重なった。

 母親は最初は生みたいと云っていたけれど、将来の夫も両家の両親もそれに反対した。順番が違うと。子供は結婚してから生まれなければならない。世間体を考えろときつく云われた。

 そうやってヒロトは殺された。

 それから一年して、次に俺が母親の中に宿った。多くの賓客を招いた盛大な披露宴も、ヨーロッパへの新婚旅行も入籍もちゃんと済ませて準備万端、なんの不足もなく完璧にすべてに許されて俺は生まれた。

 一体、俺とヒロトの何が違っているというのか。この世に生を受けた順番だけで決められた、生と死。俺が先に母の胎内に宿っていたなら、今のヒロトの立場がそのまま俺の立場なのだ。実の親にひっそりと、そしていとも簡単に殺されたのは俺。

 でも所詮、生まれいずる前の声無きちっぽけな命が人知れず闇に葬り去られることなんて、世間一般には恒常的なことなのかもしれない。それだけだったなら、きっと俺とヒロトと由梨は三人であることはなかったはずだ。

 なのに、母親が願ったから。

 母は自分達が死なせた最初の子供を「ヒロト」と呼んだ。そうして「また、必ずこのおなかの中に戻ってきて」と、強く強く念じた。

「もう一度、この子をちゃんと生んであげたい」

 いったい誰がその理不尽で身勝手で、浅はかな願望を叶えようとしたのか。到底、不完全でしか叶うはずのない望みを中途半端にきいたのか。母親の腹に次にいたのは体も心も俺で、母親の狂信によって強引に引き戻されたヒロトの心は、俺と混在するしかなかった。

 自分の存在する滅茶苦茶な理由を知ってもヒロトは誰にも怒らないし、絶望もしない。もともと何も望むことはない。ただ、静かにここにいた。

 確かに今日までの十七年間はそうだった。でも恐らく、この不条理はきっともういつまでも続かない。そう遠くない未来に、俺達のこの関係は終わらなくてはならないだろう。誰に教えられなくても俺もヒロトも、由梨でさえ気づいている。

 俺は、父も母も絶対に許さない。

 この体に共存する俺達のことに気付きもしない両親。

 世間的に誰に糾弾されることもなく、闇に葬り去った自分の最初の子供に何の興味も示さない父親はもとより、次の子供を産んだことで自分の贖罪はすべてなされたと能天気に信じる母親に、俺は最大限の精神的な苦痛を長期間に渡って効果的に与え続けて復讐してやりたいと思った。

 いや、思っただけではなく、きっと俺は何の躊躇なくやっていた。ヒロトと由梨があんなに強く反対しなければ。

 学歴偏重主義の父親は、俺がいきなり成績を百番も落とせばひどく慌てるだろうし、学校の窓ガラスの一枚も壊して停学にでもなれば双方の祖父母も繰り出してくる一大事になるに違いない。

 ヒロトを生み直せたと信じているお目出度い母親には、俺はヒロトじゃないしヒロトは俺じゃないことを知らしめて、くだらない妄想で引き起こした自分の消えない罪を思い知らせてやりたかった。

 でも結局は何も実行してはいない。由梨もヒロトも、無駄に優しいところがよく似ている。口惜しいけど俺は従った。おやつを分け合っていた幼いころ頃からの約束通り、多数決は絶対だ。

 もうずっと前から俺は、その時がきたらヒロトの方が残ればいいと思っている。少し寂しくはあるけれど、自暴自棄になっているわけでも何でもなく、俺は二人の気持ちを知ってからそれが最善の結末だと心からそう思っていた。

 もちろんあの由梨とヒロトが、決してそんなことを望んでいないって知っている。でも、人を本当に愛するということは、どうしてもある種の残酷さを伴わなければならなくなることもある。もちろん自分だけが不幸になりたいわけじゃないけれど、ヒロトが、そして誰よりも大切で愛おしい由梨が一番幸せになる未来を、俺は望む。



        ‐ヒロト‐

 本当なら、僕は今ここにいる筈のない人間だ。

 一時の荒ぶった感情のままに望んだ当の母親でさえ知ることのできなかった僕を、ちゃんと最初から見つけてくれた由梨と翔也がいたから、僕は今日まで存在できた。

 ベッドの端に座ったまま見える窓の外はもう半分以上が夜の範疇で、濃いオレンジ色の夕日の名残が端の方からじわりじわりと闇に飲み込まれていこうとしている。僕等はもうとっくにコーヒーを飲み終えていて、空の二つのカップはすっかり乾いていた。由梨を家まで送っていかなきゃと何度も思っては、それでもやはり僕は立ち上がることができずにいた。

 僕に分かるように、由梨にもちゃんと分かっていたんだ。だんだん強くなる確信。

 明日、会えない。

 もうこの先、僕等が会える奇跡は二度と起こらない。

 翔也はずっと僕に体を貸してくれた。共に存在することを心よく許してくれた。もうずっと長い間、由梨への熱い気持ちを無理矢理封じ込めようとしているのもわかっている。いつも自分のことより、まず僕のために怒ったり苦しんだりしてくれた翔也。本当は僕の方が兄なのに、まるっきり逆みたいだ。

 大丈夫。きっとこれから先も、翔也が由梨のことを僕の分も大事にしてくれる。もう思い残すことなんて、なにもある筈がない。

「夜になる。送るよ」

 やっと僕は立ち上がりながら、由梨に云った。ちゃんといつもと同じ声と同じ話し方で、そう云えたと思う。由梨ははっとしたように顔を上げて僕を見た。その瞳を見ただけで、やはり由梨にも分かっているんだって知った。

 哀しい別れは嫌だった。由梨は笑顔が一番可愛くて、僕はそれが大好きだから泣き顔なんて見たくない。

 僕は目を逸らしてそのまま部屋を出ようとしたけれど、次の瞬間、由梨の右手が僕の左手をつかんで僕の足を止めた。子供の頃は何の躊躇いもなく握っていたのに、大人になるにつれて偶然でしか触れられなくなった由梨のきれいな白い手は、遠い過去の記憶のそれよりずっと温かくて柔らかかった。

 まっすぐ僕の目を見上げたまま立ち上がった由梨は、ゆっくりとその両手を僕の首に回して体を預けた。全然重くなかったけれど、反射的にその体を両手で支える。

 濃い髪の香り。由梨はこんなに小さくて華奢なのに、とても柔らかくて温かい。

 ずっと由梨に触れたかった。そのなめらかでしなやかな腕を、細い背中を抱きしめたかった。

 でも、この手は僕の手じゃない。

 両肩を掴んで由梨の体を離す。僕を見上げた由梨の瞳は涙に濡れていた。由梨を悲しませるものすべてを憎んでいる筈なのに、今由梨を泣かせているのは紛れもない僕自身だ。

「私が、……私がヒロトを生んであげられる?」

 小さく震えながら、それでもきっぱりと由梨はそう云った。僕は由梨を見つめたまま、何かを考えるより先に涙があふれそうになって慌ててどうにかこらえる。

 これまで、何百回と自分自身に繰り返してきた問いかけ。

 僕はここで何をしているのか。僕はどうしたいのか。

 そして、僕はどこに行くのか。

 最初から決まっていたのに。僕は存在していない。

 僕はあの遠い日に、冷たくて大きな管子に頭を挟まれ、ひねり潰され、未完成のままただの血肉となってこの世に引きずり出された。

 寒かった。

 痛かった。

 怖かった。  

 それはどうしようもない事実で、そうやってただうち捨てられた僕なのに。この先、たとえ何万人の子供がこの世に生まれてきたとしても、そのどのひとつも決して僕の器ではありえない。

 僕は右手で顔を覆って、瞼で涙を押さえ込む。

 ずっと我慢してきた。泣きたくなかった。

 この涙の一粒さえ、翔也のものだから。

 由梨は初めて見る、周章狼狽する僕の姿に驚いて、それからそっと僕の頬に手を伸ばした。この優しさに甘えちゃいけない。僕はその優しい手を、軽く首を振って避けた。どうにか僕をこの世界に繋ぎ留めようとしてくれる由梨の精一杯の思いやりが、とても嬉しかった。

「僕は、行くよ」

 そう云った。

「行かなきゃ」

 僕は知っていた。もう行かなきゃいけない。

 由梨と翔也に感謝している。だから、せめて最後まで取り乱さずに穏やかに行けたら、と思っていた。のに。

「……嫌」

「え?」

「絶対に、嫌だ」

 小さな子供のように、どうにもならないと分かっていることに駄々を捏ねる由梨に、何も先の事なんか考えずにただ毎日を楽しく過ごしていただけの遠い昔を思い出す。おかげで少し、心が和んだ。

 僕の表情が緩んだのを見て、由梨はもう一度僕の左手をギュッと掴んだ。

「逃げよう」

「……え、え?」

 全く前後の脈絡のない言葉に、一瞬呆けた僕はそのまま由梨に手を引っ張られながら部屋を駆け出した。



       ‐彼等‐

 すっかり宵闇に染まった国道沿いの道を、由梨と彼女に手首を掴まれたままのヒロトが歩いていた。

 点々と等間隔に灯る外灯の下。このまま道なりに進むと突き当りに大きく瀬戸内海が見えてくる。由梨は「逃げよう」と云ったけれど、いったい何から、そしてどこへどうやって逃げるというのか。

 相変わらず由梨に手に引かれて歩くヒロトはすっかり落ち着いて、ズンズン歩く由梨の背中を見ながら、なんだか少し可笑しくなってちょっと笑ってしまう。

「由梨、ちょっと待って」

 そう声をかけられて、由梨は立ちどまる。

 あのままあそこに居たくなくて、深く考えもせず勢いでヒロトを引っ張ってここまで来てしまった。自分がしていることの理不尽さをよく知っていたから、振り向いた由梨は少し決まり悪そうにヒロトを見あげた。

「ちゃんと繋ごう」

 ヒロトはそう云って、改めて手のひらを広げて由梨の手のひらを包むように握った。気が張っていた由梨はやっとほっとして笑顔を見せると、手を繋いだ二人は今度は並んで夜の道を歩いた。

 潮の匂いがする。もう海が近い。

 道路と砂浜とを隔てるフェンス越しに見える暗い海は、遠くにうっすら白い波の端がいくつも揺れていた。

 足元がじゃりじゃりする。滑らないようにヒロトは由梨の手をしっかりと握って、砂の載った角度の急なコンクリートの階段をゆっくりと降りた。乾ききった砂浜は、きつく繋いだ二人の手の理由をくれるように、足元をひどく不安定にさせる。

 三人が小学生の頃はよく、この海で泳いだものだった。

 唇がすっかり塩辛くなって、遊び疲れた重い体を持て余しながら家路を急いだ。周りをすべて飲み込んでしまうような圧倒的な真夏の重たい夕焼けが全然怖くなかったのは、一人じゃなかったから。

 程よく湿って、比較的歩きやすい波打ち際を選んで由梨とヒロトは歩いた。このままどこまでも進んで、辛い未来から逃げきれればいいと思った。

 なのにやっぱり現実は容赦なくて、不安定な足元の砂に体力を奪われた由梨の息があがって、うまく歩けなくなっていた。忘れたい今を後へ後へと置いていきたくて、いつまでも先へ先へと歩き続けたかったけれど彼女の体力はそれを許さなかった。

 ヒロトに促されて、傍の大きな流木に並んで腰かけた。

 繋いだ手は離さない。海を見ているだけ。

 ありがとう。

 声にはだせなかったけれど、ヒロトはそう何度も心でつぶやいた。由梨と翔也の絶対的な優しさにヒロトは救われた。不条理な自分の存在を許された気がした。十七年間の自分に、ちゃんと意味があったと思えた。

 由梨はそっと、遠く海を見つめるヒロトの穏やかな横顔を見て、安心して自分も同じ水平線を見た。

「大きな魚がいる」

 不自然に揺れる海面を指さして、由梨が云った。

「魚? どこ」

 目を凝らすヒロトに、もっと指を伸ばして由梨は沖を示した。

「あそこの二つ浮かんだブイの右側」

「うん?」

 海面が何度も跳ねて飛沫が上がるのが由梨には確かに見えていたけれど、頼りない月明かりと海岸線に並ぶ外灯の小さな明かりでは、そう視力のよくないヒロトには上手く判別できなかった。

 それでもちゃんと見つけて肯定してあげたかったヒロトは、目を凝らして一所懸命に波間を探した。その様子に由梨は少し笑って、伸ばしていた腕を下ろした。

「もう、いない」

「そっか。残念」

 そう云って、小さく二人で笑い合った。

 そうして、もう一度並んだまま二人で穏やかな海を見た。

 規則的に寄せては返す波の音。

 懐かしい香りの潮風。

 お互いの指の温もり。

 そして。

 不意に由梨の肩に、ヒロトの頭の重みがかかる。びっくりして由梨は、慌てて横に目を向けた。閉じた瞼に前髪のかかったヒロトのその顔は、俯いたまま少し由梨に寄り掛かるように傾いでいた。

「ヒロト……?」

 震える声で、顔を覗き込みながら名前を呼んだ。

 月明かりでできたまつ毛の影が白い頬に落ちて、一瞬ヒロトはただ眠っているかのように見えた。

「ヒロト? ヒロト!」

 必死で呼び続ける由梨の声が、波音に混ざって強い潮風に溶けて流れた。

 はっとして、由梨は繋いだ手を見る。一度、力なく緩んだヒロトの手が、また改めて強く由梨の手を握った。

 そして、きつく閉じられていたその瞳が再びゆっくりと開くと同時に、きれいな涙の粒が一つ、解き放たれたように頬にこぼれて砂に落ちた。

 それだけで今、ヒロトの中で起こったすべてのことが由梨にも十分に理解できた。

「ヒロ……翔也」

 彼の名前を呼ぶ。目を見開いたまま呆然とする彼のその顔を見つめたまま、もう後は声にならなかった。

「なんで……!」

 崩れ落ちる由梨を見て、そして絞り出すようにそれだけ呟いた翔也もそれ以上は言葉にならなかった。


 もう二度と取り戻せない。

 はた目には、海辺に寄り添う二人は最初から何も変わることはないのに、こんなにも哀しい。

 痛くてもいい。辛くてもいい。

 決して手放したくない記憶。それがヒロトのすべて。

 きっと忘れない。

 確かにここにいた、彼のことを。

                  〈 了 〉


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ