其の終「何故蛇神呑雄は忘れられなかったのか」
僕の左手に邪神デル・ゲルドラが封印されたことで、僕の生活は無事元へと戻った。
デルの影響でお猿と化していた愛ちゃんも、デルの影響から逃れたおかげか、次第に元の人格を取り戻していったようで、全ての事件は解決したと言える。
僕も加納ちゃんも安藤も、長いお泊まり会を終えていつもの日常に戻って行く。大体一週間かそこらだったのに、随分と長くて濃いお泊まり会だったように思う。その後もオカルト研究会の活動は続いたけど、もう邪神の招来やウィジャボードのような事件は一度も起こらなかった。
それが普通で、当然だ。
もうあれからずっと、左手から声がすることはなかった。あの憎めない、お人好しでアホの邪神は一度も目覚めていない。もしかすると、なんて考えたことは何度もあったし、ただの空耳をデルの声だと思ってしまったことだって数え切れないくらいある。
もう、邪神はいない。
そんな毎日が続いて、いつの間にか十年の月日が経っていた。
「良いんですか? 他に誰も連れて来なくて」
クルーザーを運転しながら、後ろでコーヒーを飲む僕に加納ちゃんは問う。それに対して軽く頷いてから、僕はコーヒーを飲み干して口を開く。
「良いんじゃないか? 別に」
なあ、と正面に立つ安藤へ言うと、安藤も大きく頷いた。
「今日は私達水入らずよ! なったって三年ぶりの同窓会なんだから!」
僕と加納ちゃん、そして安藤が会うのはもう実に三年ぶりのことだ。
大学を卒業した後、僕達は三人共別々の道を歩いた。加納ちゃんも安藤も、もうオカルトの研究なってやっている場合じゃないくらい忙しいみたいで、充実した毎日を送っているようだ。
三年ぶりに集まって驚いたことが二つ。まず一つは、加納ちゃんが全然老けて見えないこと。背もあまり伸びている風ではないし、元々子供っぽい印象もなかったのであのまま年だけ重ねたように見える。そしてもう一つは、あの安藤が結婚したということ。連絡自体はちょくちょく取ってるんだからその時教えてくれりゃ良いのに、忘れてたわ! だなんて結婚から一年後の今言うもんだから安藤らしいと言えばらしい。
高速で海面を走るクルーザーは、以前乗ったものよりも速い。そのハズなのに、何だか体感時間だけが妙に長く感じられる。あの時ははしゃいでばっかりで、時間なんて何一つ気にしていなかったハズなのに、今の僕は明日や明後日の予定のことも考えて、何時間で終わってどのくらいに帰れるんだろうなんて気にしてしまっている。
嫌だな、時が経つってのは。
それから程なくして、僕達三人はある孤島へ辿り着く。生い茂る木々も、砂浜も、波の音も潮風も何も変わらない。僕達は十年ぶりに、この島へ降り立った。
「懐かしいわね! なんだか昨日のことみたいだわ!」
「ほんとかよ。お前が一番生活変わってるんだし、遠い昔って感じじゃないのか?」
「それはそうだけど……でも、私にとっては昨日のことみたい」
目を細めながら、安藤は呟くような声でそんなことを言う。前よりも少しだけ短くなった安藤の黒髪が、潮風に揺れた。
「ふふ、私にとっても昨日のことのようですよ」
「そうかよ、じゃあ僕が薄情にも忘れちまったってことか」
「いいえ。誰よりも誰よりも、時間を感じて、ずっとずっと歩いてきた蛇神さんよりも、忘れたみたいに生きてきた私の方が薄情ですよ」
「……そんなこと言って欲しかったんじゃねえよ。良いんだよ、皆はそれで」
僕のようにいつまでも縛られている必要はない。普通に大学を出て、普通に就職をして、それで良いと思う。僕が、女々しかっただけだ。
「さあ、早く行きましょう。不思議の島の探検です。先頭はお願いしますよ、蛇神博士」
「いや持ってねえよ、博士号」
僕、蛇神呑雄は、ある生物の信仰していた、ある邪神を実在するものとして研究する……超心理学者だ。
島を歩いても、もう猿の姿は見られない。
かつてこの島を研究していた研究チームが、命からがら本土へ戻った後、本格的にこの島の調査は行われた。
この島に住んでいる猿は、海へ潜り魚介類を獲って生きていたことから海猿族と名付けられ、独自の宗教を持つ特殊な知的生命体として沢山の学者が研究を行った。勿論、その学者の中には僕も含まれている。
しかし海猿族は元々個体数が少なく、研究対象として捕獲されていく内にその数を十年前の半分以下まで減少させてしまい、今は地下神殿に極僅かな数が細々と暮らしているだけだ。絶滅危惧種となった海猿族は現在では保護対象となっており、僕もこの島へ入るための公的な許可を得られるようになるまで随分と時間がかかってしまった。
海猿族が信仰していた邪神に関する見解は、僕達三人を除けば単なる偶像ということになっている。彼らの宗教概念等については研究が続いており、論文もドンドン発表されているようだ。
「ほら、ヘッドライト。こんなこともあろうかと三人分用意しといたよ」
島の中を練り歩き、僕らはどうにかあの洞窟へと辿り着く。加納ちゃんはまだしも安藤は持ってきてなさそうだったし、万が一のことも考えて三人分用意したヘッドライトを二人へ差し出すと、二人はふふ、と薄く笑みをこぼしてヘッドライトをデイパックから取り出した。
「こんなこともあろうかと」
「自分の分は持ってきたわ!」
「……そっか。じゃあ行こうぜ!」
僕の言葉に二人が頷いたのを確認してから、僕は真っ先に穴の中へと潜り込んだ。
小柄な加納ちゃんやそこまで体格の変わっていない安藤はともかくとして、僕は当時に比べると一回りくらいは大きくなっているせいで穴が異様に窮屈だった。加納ちゃんも安藤も後ろにいるので尻は見えないし、中々出口の見えない穴を下へ進んでいくのは精神的にも体力的にも堪える。
それでも何とか進むしかない。今日までの数年間だって、同じように進んで来たのだから。
邪神はいない、猿の偶像だと、何度も言われ続けた。
確かにそこにいたアイツを、僕の大事な左手に眠るアイツを、何度も否定された。あの時の経験を誰かに話したことだってある。反応は大抵、鼻で笑われるか、困ったようにはにかむだけだ。信じて欲しかったわけじゃない、と言えば嘘になるけど、せめてアイツが良い奴で、友達だったってことくらい、話したかった。結局、僕の方が遠慮しちゃって加納ちゃんと安藤以外にはほとんど深くは話さなかったけど。
狭くて暗いトンネルが、厭に長い。もうずっとずっとトンネルの中にいるみたいだった。時計を見れば思ったより時間は経ってなくて、自分の荒い呼吸を聞いて溜息を吐くことしか出来なかった。
途切れ途切れながらも他愛のない話を挟みつつ、僕らはトンネルを這い進む。そして僕の足が流石に悲鳴を上げ始めた所で、やっと開けた場所に出る。そしてその向こうに、待ち望んでいた景色が見える。
祭壇と、松明。あの日と変わらない妖しげな空間がそこには広がっていた。
「……着いたな」
思わず僕は、後ろの二人ではなく泥だらけの左手に声をかけていた。勿論、返事なんてなかったけど。
「少し休むか?」
「いえ、私は大丈夫ですよ」
「構わないわ! 始めましょう!」
どうやら疲れているのは僕だけらしい。
そのまま僕を先頭に、三人で祭壇の方へと進んでいく。奥の壁には、デル・ゲルドラの招来、顕現、そして封印の呪文が刻まれている。僕は壁の方へ向かうと、掘られている文字をそっと指で撫でる。既に泥だらけの指には、土埃がついたんだかついていないんだかわからなかったけど。
「……蛇神さん」
「ああ、わかってるよ」
後ろから呼びかける加納ちゃんにそう答え、僕は祭壇の方へ戻り、すぐに祭壇の上へ寝そべり、その場へ両手を投げ出す。それを見て加納ちゃんは、デイパックからあの魔導書を取り出した。
「蛇神君、大丈夫なの?」
「多分な。元々アレは一時的に呼び出すだけの呪文だし、生贄にはならないよ」
これから行われるのは、邪神デル・ゲルドラ招来の儀式だ。あの日あの時、あの部室で行われた儀式を、ここで再現する。
僕はあれから、加納ちゃんの協力を得て何度も儀式を行った。
後一度だけで良い、少しで良いからデルに逢いたくて、少しで良いから話がしたくて、何度も何度も儀式を行った。もう僕自身にも魔導書が読めるようになったから、一人で試したこともある。だけどそれでも、左手に封じられたデルが現れることはなかった。
多分、それで良いんだと思う。僕にはそうは思えないけどアイツは邪神で、愛ちゃんのような事件を増やさないためにも封印されたままが一番なんだってわかってる。
だけど僕は、どうしても忘れられなかった。
アイツと一緒にいた時間が、馬鹿みたいな話をして笑った時間が、どうしても。
「……それでは、読みますよ」
「ああ、頼むよ」
加納ちゃんの詠唱が、穏やかかつ滑らかに始まる。もう多分、僕のせいで暗記出来てしまっている可能性もある。
きっと、デルは来ない。場所を変えることにそれ程意味はないと思う。だってアイツがいるのはこの神殿じゃなくて、僕の左手の中だから。
ここに来たのはまだ試していない最後の可能性だったから……そして、僕が本当の意味で諦めるためだ。
この地下神殿で行った儀式で、アイツに逢えないならもう諦めてしまおうと思う。僕には僕の生活と時間がまだあるのだから。
「あら、観客が増えたわよ」
見れば、向こうの通路から数匹の猿達がこちらへ顔を覗かせていた。もうこちらに敵意は向けておらず、ただ見守るように、或いは祈るように、僕達を見つめていた。
ゆっくりと目を閉じて、加納ちゃんの詠唱に耳を傾ける。そうしている内に、十年前のことを自然と思い出してしまう。
そういやあの日はどんな日だったっけな。
確かそれは、ある暑い夏の午後――――いや違うな、春の暖かな午後だった。