其の五「何故蛇神呑雄は迷ったのか」
その日の夜、僕はイマイチ寝付けなくて天井とにらめっこしていた。
安藤が泊まるようになってから、僕はずっとリビングのソファで寝るようにしている。ソファが高級なせいもあってか、案外寝心地は悪くなく、左手の爪がソファを傷つけてしまいそうで怖いもののよく眠れてはいる。
愛ちゃんのこと、佐伯家のこと、島のこと、デルのこと。色々考えていると中々寝付けない。心身共に疲れているハズなのに、妙に目が冴えて仕方がなかった。
思った以上に事が大きくなって不安だが、その一方で妙な興奮がある。それは多分加納ちゃんや安藤も同じで、オカルト研究会なんてやってる以上はこういう事件にわくわくしてしまうのは至極当然のこととも言える。
「なぁ、起きてるか」
『寝ておるよ』
「そうか……」
デルはもう眠っていた。僕もこうしてうだうだ考えてないで、さっさと眠ってしまった方が良い。
『のぅ、蛇神?』
それにしても今日は大変だった。まさか加納ちゃんの立てた仮説が本当に正しかったなんて。
『ほら、寝ておるよっておかしくない? 蛇神? のぅおかしくない?』
おまけにあの島がデルのいた島だったなんて……。灯台下暗しとはこのことを言うのだろう。加納ちゃんも安藤も、あの島に行く気満々だったけど本当に大丈夫だろうか。
『へ~び~が~み~ほら我実は起きとるんじゃよ~~~』
それにしても今晩の、加納ちゃんの作ったパエリアはおいしかった。そういえばこの家に来てからちょいちょい手料理をご馳走になっているが、加納ちゃんの料理は中々おいしい。キッチンもかなり整理されていたし、いつも自炊しているのだろう。
『いや、ごめん、さっきは悪かった。我つまらん嘘吐いたな? ほんとすまんかった。蛇神よ、そろそろ構ってくれんか。ほれ得意じゃろツッコミ。なんでやねーんってやってくれんか』
安藤のガラムマサラは特別なスパイスであり、それを奏でる旋律こそが加納ちゃんの坂上田村麻呂。暗黒より来たる混沌の、とても貴重なスパイスは、漆黒のカレーを携え眠れるマヨネーズをパエリアするだろう。そのため午後の授業で眠っていた僕は純然たる事実としてウィジャボードが児童ポルノに触れてしまうことを認めざるを得ず、眠りの森の僕達は天使だった。
『蛇神』
夢見る少女よ、どうか忘れないで欲しい。安藤桜子が何故ウィジャボードを恐れるのか、それを調理することに何の躊躇いもなく――――
『蛇神!』
急にデルが声を張り上げた所で、ふと僕は我に返る。
「……何だよデル、僕今眠れそうだったんだぞ」
もうほとんどレム睡眠状態で、乱れた思考のまま何だかよくわからない夢を見ていたような気がする。このまま気持ち良く眠れそうだったので出来れば起こして欲しくなかった。
『我、起きとるぞ。なんか話あったんじゃろ?』
「いやいいよもう」
『つれないこと言うなよ蛇神~~~構え構え~~~』
「ああもう鬱陶しいな、何なんだよ」
『……すまん』
ほんとに何なんだ……。
「いや、まあそんな謝ることでもないけどさ……」
そう言って一息吐いてから、さっきデルに言おうと思っていたことを思い出す。
「なあデル、何でお前、僕達があの島に行こうとするの止めたんだよ」
デルはあの時、危ないから島には行くなと言った。あの時は適当に流したが、よく考えればおかしな話だ。僕の左手になっている現状は、デルにだって好ましい状態ではない。元々デル自身も元に戻りたいと思っていたハズだし、冗談だったとしても止めるのは不自然に思えた。
『いやだって危ないじゃろ。猿共も何するかわからんぞ』
「そりゃそうなんだけど……。なんだよお前、僕達のこと心配してくれてるのか?」
『うむ』
気持ち悪いくらいストレートだった。
「でもお前だって帰りたいだろ? 僕だってこのままじゃ困るし」
『そりゃそうじゃ。大体お前すぐ我のこと壁にぶつけるし、熱湯につけるしマヨネーズかけるし塩もかけるし』
「いや違う、マヨネーズは安藤だ」
『……お前じゃったよ』
マヨネーズ僕だったか……。
「まあ、マヨネーズは悪かった、ごめん。熱湯もごめん。でもそんなに心配すんなよ。大丈夫って言いきれないのは確かだけど」
『とは言ってものぅ……』
「もう場所までわかったんだ。お前のためにも、愛ちゃん達のためにも何とかするよ」
危険なのは百も承知だ。だけど、だからと言って投げ出すわけにはいかない。これはもう僕だけの問題じゃない。保育園で会ったあの男の子や、佐伯さんやそのおばあさんのことを思い出すと、やっぱり居ても立ってもいられなかった。
「それに、お前だってついてるだろ。あんまり頼り切りになるつもりはないけど、多少の荒事なら、ウィジャボードの時みたいに二人で何とか出来るんじゃないか?」
『まあそりゃあ、出来なくもないが……』
少し煮え切らない態度のデルに、僕は思わず眉をひそめる。
「どうしたんだよ、変に煮え切らないな。何かあるならちゃんと言ってくれよ」
『……いやな。何でお前が我のことそんな信用してる上に、何とかしてやろうとか思うんじゃ?』
「そんなに変か?」
『変じゃろ……』
言われてみれば確かにそうかも知れない。最早真偽が定かではないが、コイツは曲がりなりにも邪神とされている存在だ。本来人類に害を及ぼすもので、だからこそ“邪神”という名前がついている。
でもやっぱり僕には、コイツが邪神の類には思えなかった。
「お前が、結構良い奴だからだよ」
そもそも、何でこんな奴が邪神なのかよくわからない。迷惑こそかけたものの、根っからの邪悪どころか僕らの心配までしてくれる、そこらの人間よりも優しい奴だ。そんな奴が困ってたら、助けてやりたいって思う。少なくとも僕は、だけど。
『……お前のせいじゃろ』
どこか呆れたようにそう呟いてから、眠ったのかデルはもう何も言わなくなった。
デルの地下神殿は、恐らくあの島にある。それが判明してからしばらく、僕達は久々に通常の大学生生活に戻ることになった。言わなかっただけで安藤は結構バイトを休んでいたみたいで、週末までみっちりとシフトを入れてバイトに出ていた。
デルが招来してから数日、微妙に非日常へ片足を突っ込んだままドタバタと生活していたので、島に行くにせよ行かないにせよ、一度休息は必要だった。愛ちゃんのことを考えれば、出来るだけ早くなんとかするべきだとは思ったが、島へ行くならそれなりに準備が必要だろう。一応案がある、ということで加納ちゃんが実家に連絡して色々手回ししているようだった。
サークル活動(部室で駄弁ってるだけだけど)もひとまず休み、僕と加納ちゃんは特に何でもない日常をのんびり過ごしていた……週末までは。
土曜の早朝、僕と安藤は加納ちゃんに連れられて、車で近場の港へと向かうことになる。近場の港、とは言っても僕らが住んでいるのは内陸部なため、県外だ。僕と安藤は助手席と後部座席でほとんど眠ったまま、昼前くらいに港へ到着した。
そして港で僕達を迎えてくれたのは、加納ちゃんの自家用クルーザーだった。
『おおおおおおお早い! 早くない!? は~~~ヤバい! ヤバいじゃろこれ!』
結構なスピードで海上を爆走するクルーザーの上で、僕や安藤よりもデルの方が大はしゃぎしていた。僕の身体を引きずらんばかりに左手だけがめちゃくちゃに動き回ろうとするせいで、何度か落ちかけて安藤に助けてもらったくらいである。
「加納ちゃん家に自家用クルーザーがあるのはもう良いんだけどさ……」
「まさか加納さんが船舶免許まで持ってるとは思わなかったわね! アディオス日本列島!」
もう安藤がアディオス言いたいだけなのはこの際放っておこうと思う。
加納ちゃんが言うには、クルーザーでしばらく飛ばせば例の島に到着するだろう、とのことだった。日本列島から見るとやや南の方へ位置する島。アイアイが南の島のお猿さんとはよく言ったものだ。
「悪いな加納ちゃん。運転も操縦も全部任せて」
運転席へ向かうと、やや眠そうな加納ちゃんがコーヒーを飲みながらハンドルをさばいていた。
「いえいえ、操縦出来るのは私だけなので」
「……まだ、責任感じてるのか?」
思わず口をついて出てしまった言葉に、僕はハッとなる。だけど、吐いた言葉はもう飲み込めない。そのまま加納ちゃんの返事を待っていると、加納ちゃんはやや躊躇いがちに頷いて見せる。
「でも、それだけじゃありませんよ。私こういうの、やってみたかったんです」
「やってみたかったって……魔導書の解読とかか?」
僕がそう問うと、加納ちゃんは大きく頷いた。
「邪神も魔法も、呪いも奇跡も、全部全部、あれば良いって、ずっと思ってたので」
いや個人的には呪いはあって欲しくないかな……。だけど、僕にとって都合の良い奇跡や魔法だけあるなんてのもおかしな話だ。呪いだろうが奇跡だろうが、不都合だろうが好都合だろうが、科学で解明出来ないオカルト。加納ちゃんが……いや、僕達オカ研がずっと欲しがっていたのはそういうものだ。
「ごめんさい、だけど、ありがとうございます。自分勝手な私に付き合ってくれて、いつも許してくれて」
「あ、いや……その……」
魔導書を見つけたから邪神を招来したい、そのために触媒になって欲しい。冗談だったとしても無茶苦茶だ。その上本当に招来したとなれば冗談よりもたちが悪い。
それでもやっぱり、僕も楽しかった。魔導書に邪神にウィジャボードに、今回のこと、大変なことばかりだったが、それでも加納ちゃんや安藤、デルと一緒に大騒ぎ出来たのは何だかんだで楽しかったんだ。
「いや、その……僕も、な……楽しかったというか……」
運転しながら、穏やかに微笑む加納ちゃんが何だか眩しい。というか、あんなストレートに気持ちを伝えられたのは初めてだった。どうリアクションして良いのかわからないままあたふたしていると、加納ちゃんはクスリと笑みをこぼした。
「蛇神さんはそういうところが……」
「な、なんだよ」
「童貞ですね」
運転しながら、ニタニタと微笑む加納ちゃんが何だか憎たらしかった。
時刻は午後三時頃、加納ちゃんのクルーザーは島の海岸に到着する。クルーザーを降りて海岸に降り、僕らは大きく身体を伸ばした。
「ふふ……ついにたどり着いたわね……私の島に!」
「こいつもう所有権を主張し始めたぞ」
よくわからないことをのたまう安藤はそのままおいといて、僕はとりあえず辺りを見回す。海岸の向こうでは木々が生い茂り、辺り一面大自然と言った感じである。島自体はそれ程大きくないのだろうが、この島全体を探すとなると一苦労だろう。魔導書と愛ちゃんの絵によれば、デルの戻るべき場所は地下神殿だ。そもそも愛ちゃんが騒ぎ出したのが偶然で、ここに地下神殿なんてなく無駄足になる、という可能性も否定出来ないけど。
「では始めますか……不思議の島の大冒険を」
加納ちゃんの一言に、僕も安藤もゴクリと生唾を飲み込む。そんな言い方をされると、ワクワクするなという方が無理だ。
「まずはこの島の生態系を調査しましょう」
「本格的だな」
「ええ、島の動植物を見れば大抵のことはわかるでしょう」
流石は加納ちゃん、博識である。
加納ちゃんは森の方へ進んでいくと、落ちている木の枝を一本だけ拾ってじっくりと眺め始める。その様子を見守っていると、加納ちゃんはデイパックから虫眼鏡を取り出して木の枝を詳しく観察し始める。
「……なるほど」
「何かわかったのか!?」
「この木の棒……えっちな木の棒です」
「えっちな木の棒」
「見てください、ここで枝が二つに分かれていますよね? ほら、なんだか女性の下半身に見えませんか? すごく内股です」
「えっちな木の棒……!」
「触ってみると意外とすべすべしています。この艶めかしい曲線美……スタイルの良い女性の足のようですね。蛇神さんはどう思いますか?」
「えっちな木の棒ォーーーッ!」
「ふふ、蛇神さんは助平さんですね」
「えっちな木の棒! えっちな木の棒!」
「欲しいですか、この木の棒が」
「えっちな木の棒! えっちな木の棒をください!」
「素直な蛇神さんにはえっちな木の棒をプレゼントしましょう」
「わーーーやったー! えっちな木の棒だーーー!」
『何しとんじゃお前ら……』
デルには呆れられたし安藤にはおいて行かれかけた。
えっちな木の棒をもらった後、僕と加納ちゃんは先に進み始めた安藤に慌てて追いついた。森の中は正に未開の地、と言った感じで木々のざわめきと鳥の鳴き声が聞こえるばかりだ。
「どうだデル、地下の場所とかわかりそうか?」
『何となくこの島の下じゃろってとこはわかるんじゃが、正確な位置まではわからんのぅ』
現地まで来て記憶が戻らないとなると、最早最初からそんな記憶なかったんじゃないかと疑いたくなってくる。こいつ手だけではなく身体があるみたいなオーラ出してた癖に、実は手だけだったしな。
「せめてこの島にすむお猿が見つかれば良いのだけど。邪神を見せれば案内してくれるんじゃないかしら!」
「そうですねぇ……ですがこの感じだと、仮にいたとしてもどこかに隠れているのではないでしょうか」
それこそ隠れているなら地下だろう。基本的な生活スペースは地下で、食料や水を確保する時だけ外に出てきているのかも知れない。
そのまま闇雲に先へ進んでいると、いつの間にか島の反対側に出てしまう。僕達がクルーザーを停めた場所とよく似た海岸で、到着するまでに一時間もかかっていない。この島自体は本当に狭いようだった。
しかしよく見ると、海岸の隅っこの方にちょっとしたキャンプがあるのが見える。
「あれって、調査隊の使ってたものかしら?」
見た感じ普通のキャンプだったし、調査隊の使っていたもの、或いは僕達以外の人間が使っていたものと見て良いだろう。遠目に見た感じでは、中に誰かがいるようには思えない。
「……よし、行ってみるか」
「いえ、もう少し様子を見てみませんか? いきなり接近するのは危険な気がします」
加納ちゃんに制止され、茂みの先へ踏み出そうとした後を止める。そのまましばらく様子を見ていると、テントの中から小柄な人影が這い出してくる。
「……調査隊の人かしら?」
「いや、違う……よく見ろ安藤、猿だ」
テントから這い出してきたのは、チンパンジーによく似た猿だ。両手をだらりと下げてはいるが、猿は二足歩行で歩きながら周囲を警戒している。猿がこちらへ目を向ける前に、僕らは茂みの中に身を屈めた。もしあの猿が魔導書に書かれている、デルを信仰する種族だとしたら、知能は決して低くないハズだ。
猿はしばらく周囲を警戒した後、テントの中へ向かって一声鳴く。すると、ぞろぞろと四匹程の猿がテントから這い出して来た。そのまま合計五匹の猿が、辺りを見回しながら森の方へと向かっていく。
「見回り、かしら?」
「……様子を見た感じだとそうでしょうね。見た目よりずっと賢いんだと思います」
テントの中まで確認する辺り、かなり人間を警戒しているのかも知れない。考えてみれば、元々この島で、自分達と他の動植物だけで好きに生きていた所に突如人間が調査に来たとなれば、厳重に警戒するのもわからないでもない。それとも調査隊は連絡が取れないだけで、まだ島のどこかに隠れているのだろうか。どちらにせよ、まだ生きているなら何とか助けたかった。
「……どうする? 追うか?」
「……そうね! 追うわよ! きっと地下神殿へたどり着けるわ!」
安藤の言葉に頷き、慎重に茂みから一歩踏み出そうとする僕だったが、それは加納ちゃんによって制止される。
「待ってください蛇神さん」
「キィ」
「どうした加納ちゃん!」
「すごく近くで猿の声が聞こえます! 恐らくこの近くに……!」
「キキィ」
ていうか加納ちゃんの頭の上だった。
「加納ちゃん頭頭!」
大胆なことに、お猿は加納ちゃんの頭の上にどっかりと座り込んでいる。かなり小さい個体で、サイズは精々幼児と同じくらいだ。
気づいた加納ちゃんが慌てて手で触れようとすると、お猿は加納ちゃんの頭から弾かれるようにして離れ――
「おわッ」
僕の顔面に飛びついた。
「キッ! キーーーッ!」
「チクショウまたこのパターンかよ! 大体二番煎じだぞ! 特許は愛ちゃんにあるハズだろ!」
容赦なく引っ掻いてくるお猿を何とか振り払い、僕は二人と一緒にお猿から距離を取る。
「蛇神君! 大丈夫!?」
「ああ、あんまり心配ない! ヒリヒリするだけだ! それより二人は下がってろ、お猿は僕が撃退する!」
愛ちゃんと違ってお猿の爪は鋭い。丸腰で戦うのは不利だと判断し、僕はついさっき加納ちゃんにもらった”えっちな木の棒”で武装する。見た目はえっちだが、しなやかな太ももの脚線美は決して細くはない。このままでも十分ちょっとした棍棒として扱えるハズだ。
「キィィィィッ!」
爪を振り上げ、お猿が僕へ飛びかかる。もうやられっぱなしの僕じゃない。このえっちな木の棒で、お猿に食物連鎖の頂点が人間だということを教えてやるのだ。
「うおおおおお行くぜえええええええ!」
「キァァァァァッ!」
踏み込み、腰のしなり、撓む右腕、渾身のパワーで振り抜かれる……えっちな木の棒! 僕の会心の一撃は猿の懐に叩き込まれ――
「うわあああああああえっちな木の棒おおおおおおおッ!」
派手に折れた。
「ぼ、僕の……えっちな木の棒が……」
「キキィーッ!」
えっちな木の棒が破壊されてしまった悲しみに暮れる暇もなく、僕はそのままお猿にマウントを取られてしまう。もうなんかお約束みたいな感じがしてきたぞ。
「蛇神さん! 左手! 左手使ってください!」
「あ、そうだ! それだ! デル、何で教えてくれなかったんだ!」
『いやいつ使うんじゃろうなと思うて……。なんか考えとかあるんじゃろうなって……』
ごめん、ないよ。
しかしきちっと包帯を巻いておいたのが災いし、この状態では中々解けない。そのまま手間取っていると、不意にゴツンと鈍重な音がして、お猿が僕に覆いかぶさるようにして倒れた。
「ふぅ……間一髪だったわね! 沢山感謝すると良いわ! 照れるじゃない!」
まだ感謝していないのに照れ始める女、安藤桜子がいつの間にかお猿の背後から忍びより、拾った石で殴りつけてくれたようだ。
「助かったよ安藤。何で既に照れているのかは皆目検討がつかないけどな」
「好きなだけ助かりなさい! 私も好きなだけ助けるわ!」
アホだけどひたすら善良なのが安藤の美点である。
「急ぎましょう、見失ってしまいますよ」
加納ちゃんの言う通り、あまり悠長にもしていられない。既にほとんど見失いかけているさっきの猿を何とか探しだし、僕らは追跡を開始した。
猿を追跡していくと、僕らは小さな洞窟へ辿り着いた。さっき適当に歩いただけだと見つけられなかったが、しっかり調査すれば見つけるのはそう難しくないだろう。恐らく調査隊も、この洞窟までは発見出来たと思う。猿達はかなり警戒しているようで、追跡中何度も辺りを見回していた。
猿が洞窟の中へ入って行ってからしばらく待機し、辺りに他の猿がいないことを確認してから僕らも洞窟へと近づいていく。入り口からそっと覗いて見ると既に猿の姿はない。不審に思いながらも思い切って中へ入ってみると、奥に大きめの穴を発見した。
「……もしかして、この穴に入って行ったのか……?」
恐る恐る覗いて見ると、穴は斜め下へと続いているようで思ったよりも深い。僕らも身を屈めればギリギリ入れるかどうかくらいの穴だ。
「そうね! 何だかワクワクしてきたわ!」
「言ってる場合かよ。安藤お前、中に入る気じゃないだろうな?」
「入らないの?」
「…………入りたい、僕も……」
探究心に抗えないオカ研一行だった。
黙ってるなと思ったら、加納ちゃんは背負っているデイパックの中からヘッドライトを取り出してやや興奮気味の笑みを浮かべている。
どうやら尋ねるまでもなく行く気満々らしい。
「さあ、さあさあさあさあ早く入りましょう! 未知なるお猿の地下洞窟! もうたまりませんよ私!」
「気持ちはわかるんだけど、迂闊に入って大丈夫かな、これ……」
『そうは言うても入らんと始まらんじゃろ、これ』
不意にそう言ったのは、先程追跡前に包帯を取ってもらったばかりのデルだ。確かにこいつの言う通り、僕らには入るか帰るかしか選択肢がない。
「虎穴に入らずんば虎子を得ず……か」
『そうじゃ、それが正しい使い方じゃ』
ごめんな、こないだわけわかんない使い方して。
「こんなこともあろうかと、ヘッドライトは人数分用意してありますから!」
そう言って、加納ちゃんは半ば押し付けるようにして僕と安藤へヘッドライトを手渡した。
「随分と用意周到ね! 感謝するわ!」
安藤はもう嬉々としてヘッドライトを装着し始めてるし、正直これ以上ここで躊躇う理由もあまりない。帰らないのなら、このまま行くしかない。ぶっちゃけ僕だって行きたいわけだし。
『気をつけるんじゃぞ。この先は正直何が起こるかわからんぞ』
「……ああ」
デルの言葉にそれぞれが頷き、加納ちゃん、僕、そして安藤の順番で中へ入っていく。
穴の中は窮屈だったが、身を屈めて四足で移動すれば何とか進める。穴の中は当然薄暗く、加納ちゃんがヘッドライトを用意していなければ思わず引き返しかねない暗闇と閉塞感だった。
僕は今、高くモチベーションを保っている。
それは勿論、この洞窟探検へのワクワクでもあったし、愛ちゃんのことや僕とデルの問題が解決出来るかも知れない、という期待でもある。しかし僕が今モチベーションを高く維持出来ている理由は別にある。
この立ち位置、加納ちゃんの尻が見放題なのである。ヘッドライトのおかげで本当に見放題なのだ。
こんな時にこんなことを考えてはいけない。わかってはいても、目の前にお尻があれば見るのが雄の性だ。むしろ目の前にお尻があることの方が問題なのだ。
「随分と狭い上に暗いですね……二人共、大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫だ。むしろ目の前にお尻があることの方が問題――痛いごめん」
顔を蹴られた。
「ごめん加納ちゃん、僕としたことがつい本音が出た」
「……良いんですよ童貞さん」
「甘んじて受け入れるよ……」
これは全面的に僕が悪い。
「そんなにお尻がみたいのならいつでも言いなさい! 見せてあげるわ!」
「お前はもうちょっと気にしてくれ。完全に僕を男として見てない証拠だろ。その方が辛いんだよ、それをわかってくれ安藤」
「善処するわ!」
全然善処してくれそうにない気もする。
穴の中は異様に長く、心なしか酸素も少ない。若干の息苦しさを感じ始め、三人共ほとんど喋らなくなっていく。実際にどのくらい経ったのかはわからなかったが、体感時間で大体一時間くらい経った所で、前方から薄っすらと明かりが見えてくる。目も暗闇に慣れてきており、そろそろヘッドライトなしでも問題ないだろう。加納ちゃんも同じことを考えたのか、ヘッドライトを切っている。それにならって、僕と安藤もヘッドライトを切った。この明かりが原因で猿に見つかってしまうのは避けたい。
「……少し広くなりましたね」
まだ立ち上がることは出来ないものの、閉塞感はかなり和らいだ。そのまま進んで行くと、不意に加納ちゃんが足を止める。
「着いたようですよ」
加納ちゃんの後ろから前方を覗くと、そこには開けた空観があった。少し四角い空間で、四方には松明らしきものがある。明かりの正体はこれで間違いないだろう。
松明よりも目を引くのは、最奥にある祭壇だ。岩を削って作ったもののようで、かなりデコボコしているが一目で祭壇だとわかる。何故ならその向こうに”手”を象ったであろう石像があり、祭壇の上には五人の人間が縛られた状態で眠っているからだ。
「あ、アレって……!」
「……はい、恐らく行方不明になっている調査チームの人達でしょう」
祭壇の前には、ローブのような毛皮と、動物の角か骨で出来た冠をかぶった猿が立ち、何事か呟いている。その後ろでは、五匹程の猿が跪いている。恐らく何らかの儀式を行おうとしているのだろうと一目でわかった。
ローブを着た猿は、僕が地上で出会った猿とは違い、不気味な言語を話している。何と言っているのかはわからなかったが、聞いているだけで気分が悪くなってくる。自分の知っている文法が何一つ当てはまらないせいかも知れない。
独自の言語を話す猿と、鳴き叫ぶだけの猿の二種類がいるのだろうか。少なくともローブを着た猿は、地上で出くわした猿とは比べ物にならない程知能が高いのだろう。
「……なんとか助けられないかしら?」
顔をしかめて、安藤がそんなことを呟く。
「……僕もそうしたいけど、このまま無策で突っ込むわけにもいかないしな……」
麻酔銃でもあれば良かったが、ここにいる誰もそんなものは扱えないし持っていない。武装らしい武装と言えばえっちな木の棒くらいだが、破壊された彼女はあの場所に置き去りになっている。
『急いだ方がええぞ』
「えっ……?」
『アレは我をその場に顕現させる呪文じゃ。あそこで寝とる五人、生贄になるぞ』
デルのその一言に、僕らは三人共目を見開く。
「お前、記憶戻ったのかよ……!」
『ほぼ、な』
「ていうか生贄になるって……! だったら早く止めないと! ていうか、お前が受け取らなきゃ良いんじゃないのか!?」
『正確には我を顕現させるためのエネルギー源として”術者が使う”んじゃよ。我が取って喰うわけじゃない』
「なんだよそれ……! とにかく止めないと!」
慌てて加納ちゃんを押しのけて飛び出そうとする僕だったが、その肩を安藤が掴んで止める。
「待ちなさい」
「なんだよ!」
「邪神を顕現させるための呪文、ということはアレが成功すればあなたは蛇神君の左手を離れることになるのね?」
安藤の問いに、デルは小さくああ、と答える。
『元々加納の呪文は一時的に我を呼び出すだけのものだった上に翻訳自体が不完全だったんじゃ。何の才能か知らんが中途半端に成功してしまったせいでこんな状態になってしもうたが……』
デルが言うには、本来デル・ゲルドラ自身を完全に顕現させるためには、あれくらいの生贄とそれなりの時間が必要になるらしい。加納ちゃんの持っている魔導書に載っているものはあくまで一時的に降ろすだけで、本来こんな風にずっと左手として残るようなことはない、とのことだった。
それはつまり、僕の左手からデルを離すには五人分の生贄が必要だということを意味していた。
「じゃ、じゃあ……五人を助けたら……」
『別の生贄が必要になるな』
どっしりと、重い物が僕の胸にのしかかる。
僕の左手を元に戻して、デルの影響から愛ちゃんを遠ざけるためにはあの五人を見捨てるか、他の誰かを犠牲にしなければならない。生贄による犠牲を出さないためなら、僕の左手や愛ちゃんを諦め、別の方法が見つかるまでずっと僕の左手にデルを閉じ込めなければならなくなる。
「そんなの……選べるかよ……!」
それは、ただの大学生に与えるには重すぎる選択肢だった。いや、ただの大学生でなくたって、命の取捨選択なんか誰も簡単には出来ない。
「……他に方法はないんですか?」
加納ちゃんの問いに、デルは少しだけ唸った後、ある、と短く答えた。
「ならそれを早く――――」
『我を、蛇神の左手の中に封印すれば良い』
僕の言葉を遮って、デルはそのまま言葉を続ける。
『向こうの壁に何か掘ってあるじゃろう? あそこには招来、顕現、そして封印、我に関する呪文が掘られておる』
「…………お前を封印するとどうなるんだよ」
『完全に封じられるわけじゃからな。蛇神の腕は元の形に戻り、愛ちゃんも我の影響から完全に逃れられるじゃろう。人に戻れるかは愛ちゃん次第じゃが……』
こんな話をしている間にも、儀式は滞りなく続けられている。あまり悠長に話している時間はなかった。
「それじゃあお前、一生左手の中に封印されるつもりかよ!」
デルを封じるということはそういうことだ。神殿に帰るどころか、その意識ごと僕の左手の中にとどまり続けるということだ。僕は良い、元の生活に戻れるし、愛ちゃんも助かるかも知れない。今生贄になろうとしている調査隊の人達だって助けに行ける。でも、デルは……
「邪神の癖に何自分のこと犠牲にしてんだよ! お前邪神なんだろ! ちゃんと破壊でも破滅でも、災いでももたらせよ! 良い奴ぶりやがって!」
もしそうなら。デル・ゲルドラがそういう邪神だったら。何一つ迷わなくて良かったのに。何の躊躇もなく封印出来たのに。
『……お前、そうして欲しいのか?』
「……そうじゃ、ないけど……ないけどさぁ!」
もう答えは出ているようなものだ。デルがそれで良いって言うなら、その選択肢はこれ以上ないくらい最善のものだ。
だけど、だけど僕は、この世話焼きでお人好しな、憎めない左手を封印したくなかった。こんな僕の都合で、五人もの人を犠牲にして良いだなんて思えない。それでも僕は、このデル・ゲルドラとかいう善良な邪神を犠牲にすることを躊躇ってしまっていた。それくらい僕は、この邪神のことが好きだった。
「……蛇神君」
「わかってる! わかってンだよ! ……何も言わないでくれ……」
安藤の言葉を遮って、僕は喚きながら左手を見つめる。左手だけのデルに表情なんてなかったけど、どこか満足げに微笑んでいるように見えた。
何だよそれ、邪神の癖に人を助けて満足してんじゃねえよ。
『お前のぅ、何迷っとんじゃ。お前が助けるべきなのは我じゃないじゃろ。何で邪神なんぞ助けたがる?』
「……お前が、結構良い奴だからだよ」
『そうか……じゃあ我このままだと無事顕現して日本を沈めてやるからな』
不意に、左手が僕の意志とは無関係に動きだし、その鋭い爪の先を僕へ向けた。
『お前の家族も、友人も、全部生贄として喰ろうてくれるわ! 愛ちゃんなんかおやつじゃおやつ、スナック感覚でボリボリいくからのぅ!』
そんなつもりなんてない癖に、デルはそんなことをのたまいながら悪役ぶった笑い声を漏らす。
それがこいつなりの、精一杯の気遣いだと気づいて、僕は小さく溜息を吐いた。
いつまでも悠長に話している時間はない。こうしている間にも、儀式は着々と進んでいる。
――――俺……ちゃんと、謝らなきゃ……愛ちゃん……ごめんねって、もうしないよって……言わなきゃ……。
――――……愛ちゃんを、助けてやってくれんかね。
僕が、僕が決めなくちゃいけないんだ。デルを封じて、愛ちゃんや調査隊の人達を助けるって、他の誰でもない僕が。
「……それじゃあそれは……止めないと、な」
『じゃろ?』
じゃろ? じゃねえよ。何でお前嬉しそうなんだよ。
お前、今から封印されちまうんだぞ。
「蛇神さん! 見てください!」
加納ちゃんにそう言われて祭壇の方へ目を向けると、跪いていた猿達が一斉に僕達の方を見ていた。どうやら悠長に話し過ぎたらしい。僕らの存在は気づかれている。
「加納ちゃん、安藤、下がっててくれ」
そう言って、僕は加納ちゃんを押しのけるように前へ進み、通路を出て猿達の方へと歩いて行く。
「デル、最後にもう一回だけ、力を貸してくれるか?」
この質問に、あまり意味はないのかも知れない。
だって僕は知っているから……このお人好しの邪神が、『友達』のためなら力を貸してくれることを。
『ええぞ。”友達”にならな』
「ありがとな……デル!」
滲み始めた視界の中で、僕ははっきりと襲いかかる五匹の猿をとらえる。全身の力を抜いて全てをデルに委ねると、身体は僕のものとは思えない程軽やかに動き始めた。
襲いかかる猿達を次々に左手でとらえ、投げ飛ばす。あくまで爪で傷つけようとはせず、デルは猿達をノックアウトするためだけにその左手を振るった。
瞬く間に、僕達はローブの猿の元へ辿り着く。
『仲間を呼ばれる前に片付けるぞ!』
「ああ、頼む!」
猿は儀式を中断し、何やら呪文を唱え始めたが僕らの方が速い。すぐさま距離を詰めて、僕は握り込んだ右手を思い切り振りかぶった。
「うおおおおおおッ!」
右拳を顔面に叩き込まれ、猿はのけぞりながらその場へ倒れ込む。ひとまずこの場は勝利したようだが、余韻に浸っている時間はない。
「加納ちゃん、安藤、手伝ってくれ!」
既に通路から出て待機していた二人は、僕の声を聞くとすぐに調査隊の人達の方へ駆け出す。
「僕は壁の呪文を写メる! その間に調査隊の人達を起こしておいてくれ!」
「任せてください!」
「承知したわ!」
『写メるゥ!?』
壁に呪文が掘られているなら、ここで唱えなければならないような気がしたが、普通に写真を撮れば良いだけの話だ。呪文の解読は僕には出来ないし、かと言ってこの場で加納ちゃんや調査達の人達にやってもらうような時間はない。既に別の通路からキィキィと猿の泣き声が聞こえてきているのだ。恐らくこの祭壇の部屋がエントランスホールのようなもので、別の通路の向こうに猿達の生活圏があるのだろう。
『いやお前写メるて……』
「喋ってる時間もねえしそりゃ写メるよ!」
『あ、お前ちょっと今かけたじゃろ? 喋ると写メるかけたじゃろ?』
「うっせえバーカ! アホ邪神! ほら行くぞ!」
なるべく鮮明に壁の呪文を映してから、僕も調査隊の人達の元へ向かう。加納ちゃんが起こしてくれたのか、既に何人か目を覚ましている。頬が若干赤いのは加納ちゃんのビンタのせいだろう。その容赦のなさが今は助かる。
「事情を話している説明はないわ! 向こうの通路から地上へ逃げるわよ!」
「あ、ああ……わかった!」
安藤が最後の一人を起こし終えたのを確認してから、僕達はすぐに入り口へと飛び込むようにして入って行く。既に数匹の猿達が、いくつかの通路から飛び出して僕達を追い始めていた。
僕達三人と調査隊の皆さん五人。総勢八人が狭い通路を必死で這って行く。通路が狭いおかげで猿達も列になって追うしかないらしく、囲まれるような事態は避けられた。
「クソ! キリがないぞ!」
最後尾の僕は何度も猿達を蹴り飛ばしていたが、諦める気配は一向にない。サイズの関係もあって、猿達の方が移動が速く、このままでは僕の体力が切れて引きずり降ろされてしまうだろう。
『蛇神、ちょっと止まれ』
「へ?」
デルにそう言われ、僕が動きを止めると当然すぐに猿の手が僕の足を掴む。慌てて振り払おうとしたが、猿達は突き出された僕の左手を見てギョッとして動きを止めた。
『去れ。これ以上この者達に危害を加えるようならタダではおかんぞ』
地の底から響くような、威厳のある低音が通路の中に響く。そこでやっと、猿達は自分の目の前にいるのが邪神デル・ゲルドラだと理解したらしい。小さく、悲鳴のような鳴き声を上げながら我先にとその場から逃げ出していく。
「……それ、最初からやってくれよ」
『確かに』
お前がそれ真っ先にやってくれたら僕の顔の傷、もうちょっと少なくすんだんだけどなぁ……。
その後の脱出は、かなりスムーズだった。地下から脱出した僕達は、調査隊の五人を連れてすぐにクルーザーへ乗り込んだ。あまり大きなクルーザーではないため、成人男性五人を追加で乗せるのはかなり窮屈だったが、何とかクルーザーは動いてくれた。
調査隊の人達には何度もお礼を言われたが、事を大きくしないために僕達が関わったことはひとまず黙っておいてもらうことになった。左手のこともあるし、感謝されるとしてもあまり警察等とは関わりたくない、というのが僕達三人の総意だ。謝礼や感謝状はちょっと欲しかったというのが本音だけど。
加納ちゃんの車に乗り込む頃にはもうすっかり夜が更けており、加納ハウスに帰った時にはもう日付が変わっていた。とんでもない非日常の中にいたせいで、加納ハウスに入った途端一気に気が抜けるような感覚に陥った。
「では、呪文の写真を見せてください」
順番にシャワーを浴び、最後に僕がシャワーを浴び終わってバスルームから出てくると、加納ちゃんはそう言って僕に手を差し出した。
「ん、ああ……。でも、もう疲れてるだろ?」
「……いえ、大丈夫です。それに、蛇神さんの決意が揺らぐ前にやってしまおうかと思いまして」
「いや揺らが……なくも、ない、か……。でももう決めたことだし、愛ちゃんのこともある。なるべく早い方が良いのは確かだな。出来そうか?」
「はい、やらせてください」
そう言って微笑む加納ちゃんに、僕は写真を表示してから携帯を差し出す。それを受け取りながら、加納ちゃんはどこか思わせぶりに嘆息して見せた。
「……なんだよ」
「蛇神さん、愛ちゃんのことやデルさんのことは言うのに、自分のためにとは言わないんですね」
虚を突かれたような気がして、思わず僕は目を丸くする。それを見て、加納ちゃんはクスリと笑みをこぼした。
「そういうところが、蛇神さんらしいですね。好きですよ」
「…………えっ?」
一瞬、思考が停止する。何を言われたのかすぐに飲み込めず、僕は目を泳がせながらどんな言葉を返すべきか考え始める。しかし全く返す言葉が見つからず、僕はただただ黙り込んだままあーとかえーとか言葉にならない声を漏らすだけだった。
「蛇神さんはやっぱり……童貞ですね」
「やかましい」
「ツッコミだけは早いんですから」
クスクスと笑う加納ちゃんに、僕はやっと落ち着いて嘆息する。
「では私は安藤さんと呪文の解読を始めますので、蛇神さんは向こうへ行っててください」
「え、僕仲間外れなのか!?」
「積もる話もあるんじゃないですか?」
「……ああ、そうだな」
デルは、何も言わなかったが、僕にはそれが肯定の沈黙のように思えた。
「ふふ、なら解読は私達に任せると良いわ! 八割くらいは私が解読するでしょうね! 二割は任せたわ!」
「はい、では二割頑張りましょう」
多分比率、反対なんだろうな。そう思いながら、僕はデルと一緒に和室へ向かった。
リビングに加納ちゃんと安藤を残し、僕は和室へと入っていく。ここでついに今日一日の疲労がどっときてしまい、思わず畳の上に身を投げだしてしまう。
そういえば最初の夜も、デルと二人きりで和室で眠っていた。まだ先週の話だというのに、色々あり過ぎたせいでもう随分と前のような気がしてくる。
「積もる話っつってもなぁ、なんかあったけ」
『特にないじゃろ……』
特になかった……。
正直な所、今更二人きりでじっくり話し合うようなことなんてない。かと言っていつも通り雑に過ごしてしまうには惜しい、何とも言えない時間だった。
「ああそうだ、ずっと聞きたかったんだけどさ」
『なんじゃい』
「お前ほんとに邪神?」
『ハァ?』
もうずっと思ってたんだけどデル・ゲルドラは邪神に見えない。いや、視覚的には十分邪神に見えるんだけど、中身が全く伴っていないのだ。
思えば最初からそうだった。加納ちゃんが容赦なく叩き伏せて監視下に置いたとは言え、こいつが自由に動き回る方法はいくらでもあった。そもそも加納ちゃんは四六時中監視していたわけじゃないし、そもそも寝込みを狙えば逃げることも加納ちゃんを始末することも難しくなかったハズだ。ウィジャボードから現れた霊魂だって、放っておいてもデルには関係ない。僕達をわざわざ助ける理由が、デルには少しもなかった。
「お前結構良い奴だったよな。何で邪神とか呼ばれてんの?」
『いや我邪神ぞ? 普通に破壊とか破滅とかもたらすが?』
「全くもたらしてないからこうして不思議に思って聞いてんだよ」
それからしばらく、デルは黙っていた。僕も別に無理に答えが欲しかったわけではないので、そのまま黙り込む。別に会話なんてなくても良かった。今はただ、最後の時までデルを近くに感じられればそれで良い。
そのまま心地よい沈黙が続いて、少し僕がうとうとし始めたところで、やっとデルが言葉を発した。
『お前のせいじゃよ』
「……それこないだも言ってたよな。何で僕のせいになるんだよ」
『我の招来、不完全なわけじゃろ。そんな状態でお前とずっと繋がってたら、まあ少なからず影響も受けるじゃろ』
「……なんだそれ」
僕は冗談半分に受け止めたが、デルの声音は真剣だった。
『お人好しなのも、憎めないのも、結構良い奴なのも、全部お前の話じゃろうが』
「褒めすぎだろ、僕はそんな大した人間じゃないぜ。ただの童貞だよ」
照れくさくなって、ついデルから顔をそむけてしまう。
『最初にお前らを見た時はなんじゃこいつらって思ったわ。今も思っとるが』
「特に加納ちゃんはヤバかったもんなぁ」
『邪神と初日で友達になろうとする奴も大概じゃがな』
「嫌味のつもりかよ?」
『褒めとるぞ』
「……きもちわり」
そんな他愛のない会話が、絶え間なく続いていく。どうしてもデルは自分の人柄を僕のせいにしたがっており、本当は破壊の邪神だとか、あの猿達と一緒にいれば人類にいずれ災いを及ぼすとかしきりに繰り返していたけど、僕には信じられなかった。
確かに猿達にとってはそうかも知れないし、本来のデルはそうなのかも知れない。だけど僕が知っている邪神は、デル・ゲルドラはどうしようもなく憎めない良い奴で、僕の友達だった。
そのまま時間が過ぎて、時計が午前三時を回った頃、呪文の解読を終えた加納ちゃんが襖をノックする。魔導書の解読でノウハウがあったとは言え、こんな短時間で解読出来てしまう加納ちゃんには改めて驚かされる。
『そろそろか』
「そろそろだな」
もう、語り尽くしただろう。そう思っても、きっとそんなことはなくて、いなくなってから沢山話せば良かったことを思い出す。話したいことがいくらでも増えていく。それでも、それでも今は、もう語り尽くしたって、お互いに満足して別れたい。
「……デル」
『なんじゃい』
「またな」
叶うならもう一度。きっとそんな日は来ないのだろうけれど、願わずにはいられない思いを込めて”また”な。
そして、デルのいない夜明けが来た。