其の四「何故愛ちゃんはお猿になったのか 後編」
僕と安藤が慌てて加納ハウスに帰る頃には、既に時刻は午後六時を過ぎていた。加納ちゃんは地下室を出てリビングで待機していたようだったが、ぐったりと机に伏せていて若干痛ましい姿になっている。
「あ、お帰りなさい蛇神さん、安藤さん」
「……加納ちゃん、大丈夫か」
「多分大丈夫です」
最早身体を起こす元気もないのか、加納ちゃんは机に伏せたままくぐもった声でそう言う。あんまり大丈夫には見えない。
「ご苦労だったわね加納さん! さあしっかり休みなさい! 私が紅茶を淹れるわ!」
「いや、いい、それは僕がやろう」
ここ数日のお泊まり会(安藤はそのまま泊まっている)でわかったことだが、安藤の淹れる紅茶は壊滅的にまずい。安藤にやらせるくらいなら、僕がインスタントで淹れた方がまだマシだ。
「あ、いえ、大丈夫です。それより……魔導書の話をしましょう。デルさんの包帯も、取ってあげてください」
「……ああ」
やっとのことで身体を起こした加納ちゃんに促され、僕と安藤は加納ちゃんの正面に座る。
「……端的に言うと、この魔導書の中にデル・ゲルドラを退散させる呪文は載っていませんでした」
が、と付け足して、加納ちゃんはそのまま言葉を続けた。
「決して何も手がかりがなかったわけではありません。退散させる呪文がなかった、というだけで、邪神は元いた場所に帰すことが出来るようです」
「元いた場所って?」
僕の問いに、加納ちゃんは静かにかぶりを振る。
「詳しいことはわかりませんでした……。ただ、邪神に祈りを捧げるための地下神殿が存在し、その最奥にこそ邪神の眠る場所がある、と。どうやらこの本に記載されていない呪文の記された場所が、神殿の中にあるようです」
「そうなん?」
『多分』
軽いノリで聞いた僕も僕だが、デルはデルで曖昧だった。
「多分じゃねえよ、もうちょっと気合入れて思い出してくれよ。ほら、なんか思い出しそうだったんだろ?」
『気合で思い出せるんじゃったら初日に思いだしとるわ。まあ初日は初日で思い出しても飛びそうじゃったが』
まあ僕の身体とは言えしこたま殴られたし、むしろ余計に記憶が飛んだとしてもおかしくはない。
「場所が特定出来ないなら他の情報から割り出せば良いのよ! 一体どんな人達が邪神を崇拝してたのかしら!」
「良い質問ですね」
加納ちゃんそれ気に入ったの。
「どうやらこの本の著者は、邪神を崇拝していた部族ではないようです。偶然その部族と出会い、共に過ごす中で得た知識を本として残したのがこの本だったみたいです。どうやらどこかの島だったようですが……」
島、か……。どこだかわからない、よりはマシだが島なんてそれこそいくらでもある。地図に載ってない島だって探せばあるかも知れないし、それについてはこれから根気強く調べていく必要があるだろう。
「……すいません、やはり喉が渇いてきましたね。お茶を淹れましょう」
「そうね! 私もそう思っていたわ!」
「ああ、じゃあ僕がやるよ。安藤は座ってろ」
「断るわ!」
「じゃあ立って待ってろよ」
「……やむなしね!」
引き際を心得ている安藤だった。
加納ちゃんは何だかんだでお嬢様なのか紅茶を好んでおり、ことあるごとに淹れている。インスタントの時もあるし、高級そうな茶葉を用意してしっかりしたのを淹れることもあるが、まあ大抵はインスタントだ。変にやりたがるので安藤にやらせたところ、壊滅的にまずい紅茶を淹れて高級茶葉を無駄にしたことがある。わからないならインスタントでやれば良いと再三伝えているのだが、何故か意地を張って茶葉を使いたがる困ったちゃんである。
お湯の湧いた電気ケトルで、ティーバッグの入ったポットにお湯を注ぐ。ぷかりと浮いたティーバッグが、まるで絶海の孤島のようだった。
「島、か……」
島、で思い出すのは夕方に見た愛ちゃんの絵だ。海に囲まれた島と、地下に描かれた手。あの絵に何か意味があるのなら……。と、そこまで考えて、僕は加納ちゃんの話と愛ちゃんの絵を結びつけた。
「……あの愛ちゃんの絵、手が描かれていたのは“島の地下”だったよな」
「……あ!」
僕が呟くと、同じ考えに至ったのか安藤が声を上げる。
「まだ根拠も何もないけど、あの島の地下に描かれていた手ってデルのことなんじゃないか!?」
デルは愛ちゃんと会った日、何かを思い出しそうだと言っていた。もし愛ちゃんの描いた島がデルの崇拝されていた島で、地下に描かれた手がデルのことだったとしたら、愛ちゃんの今の状態とデルは何らかの関連性がある。
『ちょ、ちょい待ってくれんか! それだと我最初から手だけじゃったことになるじゃろ!?』
「いや手だろお前! うん、お前手だったんだよ!」
『そ、そんな気がしてきた……』
邪神デル・ゲルドラ、ブレブレである。
「……まだ話についていけませんが、邪神デル・ゲルドラは手だけの存在と、そう書かれていました」
「ほらなー! お前手じゃん! 手! 手!」
『手ェ~~~~!? 我手かァ~~~!? ……あっ』
急に一瞬黙り込み、僕の左手――デルは小刻みに震え始める。
『我、手じゃ』
「手だったろ? ……って、思い出したのか!?」
僕の問いに、デルはああ、とだけ短く答えてから語を継いだ。
『おぼろげにな。我確か猿みたいな連中に信仰されとった気がするんじゃよ。多分愛ちゃんで思い出したのそれじゃ』
「猿みたいな連中って……」
「はい、魔導書にも人より猿に近い種族だと書かれていました」
人よりも猿に近い種族。地下神殿。手。愛ちゃんの絵。今まで関係なかったハズのピースが突如として繋がっていく。ここまで裏付けがそろえば、愛ちゃんとデルの関係性は最早無視出来ない。僕と安藤の憶測の域を越えて繋がってしまった。
「……蛇神君! 邪神が招来した日と、愛ちゃんが猿になった日って……!」
「先週の、木曜だ」
カチリと。音がしたような気がした。
僕はそっと、電気ケトルの蓋を空ける。中にまだ残っている、保温された熱湯がむわりと湯気を立てていた。
「じゃあ、愛ちゃんが猿になったのって――」
そしてすかさず、僕は左手を熱湯に突っ込んだ。
「お前のせいじゃねえかァァァァァァァァァァ!」
『あっづァァァァ何すんじゃお前ェェェェェ!?』
それはもう浸して浸して裏表じっくり熱湯に浸透させてから引き抜いてやる。
『なァんですぐ我のせいにするかのォ!? 恥ずかしくない!? まだ証拠そろってなくない!?』
「じゃあお前と愛ちゃんのお猿化が関係ないって証明してみろよ!」
『こっちの台詞じゃ! 同じ日に起こったからって人を犯人扱いしッ……浸し直すな!』
デルの言う通り、まだ愛ちゃんのお猿化がデルのせいだと決まったわけではない。ないが、ウィジャボードの時のこともある。こいつの瘴気とやらがウィジャボードに眠っていた霊魂を目覚めさせたように、愛ちゃんをお猿に覚醒させてしまったというのは十分に考えられる。
『我のせいでお猿になるなら何でお前ら猿になってないんじゃァ!? はい論破! はい論破! 蛇神バーカアーホまーぬーけー! ションベンタレのすっとこどっこいクソッタレのクソ童貞ィィィィィァァァあっづゥゥゥゥゥゥゥ!?』
「ま、待ちなさいよ蛇神君! 童貞と言われて腹が立ったのはわかるけど、本当に邪神が原因かはわからないわ!」
見るに見かねた安藤に制止され、ハッと我に返った僕はケトルから左手を引き抜き、とりあえず水道水で冷やし始めた。
後クソッタレは僕じゃない、愛ちゃんだ。
「でも、もう確定したようなモンじゃないか? こいつの招来と同時に、愛ちゃんがお猿化してる。おまけに愛ちゃんの絵にはこいつが描かれてるんだぜ」
タオルを裂かないように左手を拭いてから、僕はリビングに戻ってスマホで撮影した愛ちゃんの絵の写真を加納ちゃんにも見せる。
「……そう、ですね……。無関係とは言い切れませんし」
『そもそも何で愛ちゃんだけなんじゃ! もうみんな猿になれや!』
熱湯が余程熱かったのか、若干ヤケ気味の邪神だった。
「落ち着けよ。僕がお猿になったらどうすんだよ」
『クソ笑う』
「わかった、さっきは僕が悪かった」
しかしデルの言うことも一理ある。デルの瘴気か何かでお猿になってしまうのだとしたら、何故愛ちゃんだけがお猿化してしまったのだろう。
「……これはもう少し、愛ちゃん自身のことを調べる必要がありそうね」
「そうですね……。それに、もしかすると地下神殿のある島の場所、その手がかりが愛ちゃんにあるかも知れませんから」
まさか愛ちゃんとデルが繋がるとは思っても見なかったが、これで調査は大きく進展した。愛ちゃんを元に戻すことと、僕自身が元に戻ること、もしかすると島にいけばその両方が同時に解決するかも知れない。
「佐伯さんには私から連絡しておきます。愛ちゃんにもう一度会ってみましょう」
あの時は包帯を巻いたままだったけど、デルの姿を直接見せれば何か反応する可能性がある。ひとまず今日はこのくらいにして休むことに決め、明日愛ちゃんともう一度会ってから調査を再開することになった。
翌日、僕達は午前中の授業を休んで佐伯さんの家へ向かった。勿論佐伯さんも了承済みで、申し訳ないが彼女にも午前の授業は休んでもらうことになった。彼女としては愛ちゃんを元に戻すためなら単位の一つ二つは構わない、とのことだったが、こちらの都合で休ませてしまう感じがして申し訳なさが拭えない。
佐伯さんの家は母方の実家で、少し大学から離れた田園地帯にある。大きめの和風の木造建築で、玄関の戸を叩くと人の良さそうなおばあさんが中へ迎え入れてくれた。
畳の部屋に案内され、僕達は畳の上にうつ伏せで眠っている愛ちゃんの前に座り込む。おばあさんや佐伯さんにデルの姿を見せるわけにはいかないため、二人には部屋の外で待機してもらうことになっている。
『は~これで我の無実が証明されてしまうからの~~~は~~~残念じゃのう童貞、のう? 童貞? どんな気持ちじゃ?』
「だから昨日は悪かったって言ってンだろ……。執拗に童貞ネタで煽りやがって」
『まあ我神じゃしな? お前の過ちもまあ許してやらんとな?』
もしこいつがほんとに無実だった場合、鬱陶しい上に再び手がかりを失ってしまうことになる。出来ればデルと愛ちゃんには何らかの繋がりがあって欲しかった。
「さあ愛ちゃん、起きてください」
加納ちゃんがそう言いながら愛ちゃんを揺すると、愛ちゃんは静かに目を開く。また暴れ出さないかと身構えたが、僕に飛びかかってくることはなく、眠そうにまぶたをこすりながら見つめてくるだけだった。
「……よし、行くぞ」
やや緊張しながらも、僕はゆっくりと包帯を解いていく。
『あ~吠え面かくんじゃろうの~~蛇神吠え面似合いそうじゃの~~~』
「ああもうわかったから静かにしろよ鬱陶しいな」
包帯を解き終わり、グロテスクな僕の左手が露わになる。それを見て、愛ちゃんは泣き出すわけでも暴れ出すわけでもなく、しばらくポカンとしたまま見つめていた。
『ほら関係ないじゃろ? な?』
そのまま数秒ポカンとしていたが、やがて愛ちゃんは弾かれるようにしてその場にうずくまり、やがて両手を上に掲げて祈るようにすり合わせ始めた。
「キッ……キ~~~~ッ! キ~~~~ッ!」
『…………』
「……祈ってるわね」
「祈ってるようですね」
「おいデル、祈られてるぞ」
頭を下げ、手をこすり合わせる。これは明らかに何か高位の存在に対して祈りを捧げるための所作だ。包帯越しではわからなかったようだが、こうして生で見るとすぐさま祈り始めた辺り、愛ちゃんは邪神デル・ゲルドラを崇拝している。もう言い訳のしようがない、愛ちゃんはかつてデルと、そしてデルを信仰していた種族と関係がある。
「……で、なんだ。吠え面がなんだって?」
『いやあ大きな進歩じゃのう! まさか我と愛ちゃんが関係あったとは! 意外や意外! しかしこれで大きな進歩がッ……すまん痛い! 叩きつけるでない!』
愛ちゃんに睨まれたからデルを叩くのはこの辺にしておこう。
「でも本当に大きな進歩ね! これで愛ちゃんの描いた絵が邪神の島だと確定したわ!」
「……後は場所がわかれば良いんですが……」
しかし加納ちゃんの言う通り、デルと愛ちゃんの関係性が裏付けられただけで情報自体は増えていない。そもそも愛ちゃんがデルを信仰するお猿になったのか、この点については完全に謎のままだ。
「それは愛ちゃんに聞いてみましょう! さあ答えなさい、あなたの島はどこ!?」
「キィ!」
「なるほど……」
え、わかんの!?
「安藤! わかったのか!?」
「いいえ全く! わかるわけないじゃない!」
今のやり取りに一体何の意味があったというんだ。
アホなやり取りをしていると、向こうから襖を叩く音がして、佐伯さんの声が聞こえてくる。
「ねえ、どうだった? 何かわかった?」
慌てて僕は左手を包帯で隠し、すぐに佐伯さんを部屋の中へ迎え入れた。
「佐伯さん、この家の家系図ってありますか?」
中へ入ってきた佐伯さんに、突然そんなことを言い始めた加納ちゃんに、佐伯さんだけでなく僕や安藤も怪訝そうな顔を見せる。
「家系図……? おばあちゃんに言えば出してくれると思うけど……ちょっと待ってて」
そう告げて、佐伯さんはすぐにおばあちゃんを呼びに行く。その背中を見届けてから、僕は加納ちゃんへ視線を向けた。
「ふふ、何故家系図、とでも言いたそうな顔ですね」
「他に言いたいこと特にないからな、今」
「蛇神さんは先祖返り、というのをご存知ですか?」
「……先祖返り?」
普段ほとんど聞かない単語なせいか、急に言われると面食らう。先祖返りと言えば、遠い祖先の形質が突如子孫に現れてしまう現象のことだ。
「って、愛ちゃんがデルを信仰してた種族の先祖返りだって言いたいのかよ」
「という線もあるかも知れませんね、という話ですよ。お猿達の中には、人間とセックスして混血種を作っていたお猿もいたようですし」
「……お猿と、セックス……」
「興奮しましたか?」
「いや、別に……」
むしろドン引きする僕だった。
「セックス! セックスね……お猿とセックス、そんなこともあるのね!」
「はい、年に一セックスくらいは探せばあるのかもしれませんね」
あってたまるか。と言いたいところだが、否定しきれない人類の性の多様性が恐ろしい。
「でもお猿とセックスしてきちんと子供が成せるのかしら?」
「私も思いつきで家系図を見てみようとは思いましたが、ハッキリ言って人とお猿の間に子供が出来るとはあまり考えられませんね」
人と猿では倫理的な問題があり過ぎて、実験することもままならないだろう。だが動植物の交雑自体は昔から現代に至るまで幾度も繰り返されている。作物の品種改良なんかが良い例で、交雑そのものは珍しい話ではない。
「そうね、それは何セックスしてもノーセックスだわ!」
「ノーセックスですね」
「ああもうさっきから二十代の女子がセックスセックスうるせえな! ちょっとは恥じらえよ! 友達同士の女子会でセックスセックス連呼するならまだしも今は僕がいるんだぞ!? それを迂闊にセックスセックスセックスと……お前らだけで何セックス稼ぐ気だックス!」
『何言うとんじゃお前……』
ごめックス。
『一番セックス数稼ぐなや童貞。貪欲過ぎて我恥ずかしいわ』
「ごめックス……」
でも違うんだ、そういうつもりじゃなかったんだ……。
「僕はその、そういうのをあの……アレしたいわけじゃないんだ。つまり僕が言いたいのは恥じらいが大事だということでさ、わかってくれよ」
「セックスはともかくとして、仮に何かわかったとしても佐伯さんには一応伏せた方が良さそうですね」
流されてしまった。
「それもそうね。あまり気分の良い仮説ではないわね」
もし仮に加納ちゃんの仮説が正しかったとすれば、それは佐伯家にとっては悍ましい事実になりかねない。得体の知れない猿の血が流れているかも知れない、そんな事実を果たして佐伯さん達が受け止められるだろうか。
そうこうしている内に、佐伯さんがおばあさんと一緒に部屋へやってくる。どうやら家系図が見つかったようだった。
その場で家系図を調べることはせず、家で精査する、と告げて撮影だけしてその日は帰ることになった。家系図を見た時、加納ちゃんは何かに気づいたような顔をしていたが、結局その時は何も教えてくれなかった。
家に戻ってからすぐに、加納ちゃんは僕と安藤を残してどこかへ出かけてしまう。特に行き先も教えてくれなかったため、僕と安藤はしばらく加納ハウスで待ちぼうけになってしまうのだった。
加納ちゃんが戻って来る頃には、既に時刻は午後七時を回っていた。
加納ちゃんはリビングに入って来てすぐ、僕と安藤を見て目を丸くする。
「……差し支えなければ聞きたいのですが、お二人は何を?」
「ふん、見てわからないかしら!」
「わかりませんね……」
「当然よ、私達もわからないもの!」
机の上にはボウルに入れられた氷水やドライヤー、カセットコンロに工具箱、油性ペン。他には塩、砂糖、醤油、マヨネーズ、ケチャップ、茶葉、胡椒、スパイス等台所にありそうな調味料は大体置いてあるし、それらに混じって消毒液や軟膏のような薬品も置いてある。
そして最も異様なのは僕の左手のデルだ。腕のそこら中にわけのわからない落書きがあり、手の平にはマヨネーズやケチャップ、その他調味料が何故かこんもりと乗っていた。
『丁度良い、助けてくれんか加納』
「僕からも頼む、デルを助けてくれ」
恐らく僕が今まで見た加納ちゃんの表情の中で、最も怪訝そうな顔が今の表情だ。普段よくわからないことを口走る側の加納ちゃんには、よくわからないことを言われた時の対応のノウハウがまるでない。僕らの勝ちだ。何の勝負か知らんけど。
「……なるほど。デルさんの記憶を取り戻すためにとにかく刺激を与えようとして手当たり次第にやった結果がそれですか」
台所で丁寧に左手を洗う僕を眺めつつ、加納ちゃんが後ろでそう呟く。
「ああ、やったのは概ね安藤なんだ。僕は塩しかかけていない」
「騙されてはダメよ加納さん! 蛇神君はマヨネーズをかけたわ!」
「マヨネーズはお前だろうが! 僕がかけたのは塩だけだ!」
「コンロで炙ったのは蛇神君よ!」
「お前はドライヤーで熱してただろ!」
「砂糖!」
「茶葉ァ!」
「ガラムマサラ!」
「ヨードチンキ!」
「坂上田村麻呂!」
誰がいつ邪神に征夷大将軍をかけたよ。
「……うちにはありませんけどね、ヨードチンキ」
小さく嘆息しながら加納ちゃんがそう呟いた頃には、左手についていた調味料は大体落ちていた。まだ油性ペンで書いた「ジャンバラヤ」や「辛子明太子」が薄っすらと残っている。最初は思いつく限りの呪文を書き殴ってたハズなのに、途中から食べ物になっているのは一体何なんだろう。僕も安藤も若干トリップ気味のテンションだったからもうその瞬間のことは何にもわからないし思い出せなかった。
「ていうかごめんな、家にあるもの色々勝手に使って。安藤と一緒に買って返すよ」
「いえいえ、そのくらいは構いませんよ。それより、そんな楽しいことしてたなら帰るまで待ってくれれば良かったじゃないですか!」
「そうしたいのは山々だったんだけどさ」
『勘弁してくれ』
「加納ちゃんこそ、ちゃんと行き先も言わないでどこ行ってたんだよ。電話かけても出ないし」
左手をタオルで拭きながら尋ねると、加納ちゃんは小首を傾げて見せる。危ねえまたタオル切りかけた。
「言ってませんでしたっけ?」
「いや、聞いてないよ」
どうやら完全に言ったつもりでいたらしく、加納ちゃんは本気でキョトンとしているようだった。
「佐伯家の家系図について図書館で調べてたんです。いくつか進展がありましたよ」
「…………」
「蛇神さん?」
「いや、加納ちゃんが真面目に調べてる間に僕は安藤と何やってたんだろうと思うと頭が痛くてさ」
この時、加納ちゃんはコメントを控えた。
佐伯家は普通の農家の家系で、パッと見はただの家系図に過ぎない。それなりに長寿の家系で、徴兵されたであろう戦時中の男子も運良く戦死はしていないようだった。そんな中、百年程前に二十九歳の若さで亡くなっている、佐伯遠子という女性がいた。彼女の母親である佐伯加江子も三十代前半で亡くなっており、その加江子さんが佐伯さんと愛ちゃんの高祖母にあたるらしい。
加納ちゃんは、この遠子さんと加江子さんに何があったのかを図書館で調べていた。
「何分百年近く前の話ですから、結構苦労しましたよ」
言いながら加納ちゃんが取り出したのは、図書館で見つけた古い新聞記事のコピーだ。内容は、女性が海岸に漂着していた、というもので、その女性こそが佐伯さんの高祖母、加江子さんである。
加江子さんは当時海難事故に遭っており、しばらく行方不明となっていたらしい。それから数ヶ月後、海岸に漂着していたところを近隣の住人に発見されていた。加江子さんは意識を取り戻した時にひどく怯えていたようで、精神的に重篤な状態だったと書かれていた。
「加江子さんが遠子さんを出産したのはこの事件の後ですね。半年かけて復帰した後、夫の遠一郎さんとの間に遠子さんを身籠ったようです」
が、と付け加え、加納ちゃんはスマホに家系図の写真を表示して指差す。
「遠一郎さんとは離婚しているんです。加江子さんが亡くなる一年前に」
「確かに離婚してるわね! 痴情のもつ煮だわ!」
「煮るな、もつれろ」
いや、もつれられても困る。後もつは全く関係ない。
「ここからは私の推測で話します。まずは愛ちゃんが邪神を崇拝していた一族の先祖返りである、という仮定を前提とさせてください」
「……ああ」
「もし佐伯家に異種族の血が混ざっているとすれば、この佐伯加江子さんの代だと思うんです。推測の域を出ることが出来ませんが、もし加江子さんが海難事故で行方不明になった時、流れ着いたのがあの島だったとしたら……」
その続きを口にすることを、加納ちゃんは躊躇った、
加江子さんは海岸に漂着した時、実に半年間の療養期間が必要な程に重篤な精神状態だった。加江子さんが何故そんな状態に陥ったのか、新聞記事には書かれていないが、加納ちゃんがどんな推測をしたのかは何となく僕にも理解出来た。
「……いや、いい。無理に口にしなくていい。僕も安藤も、今ので伝わったから」
安藤がコクリと頷いて見せると、加納ちゃんは少し安心したように一息吐く。
「厭な話だけど、辻褄が合ってしまったわね。愛ちゃんが先祖返りで、邪神招来の影響で覚醒してしまった……後は島の場所ね」
「そこだけは全く手がかりがないよな。手当たり次第に調べるしかないのか……?」
「……私、もう一度佐伯さんの家に行ってみます」
意を決したように、加納ちゃんはそう言う。
「最悪縁を切られることになるかも知れませんが……佐伯さんのおばあさんに、加江子さんのことを聞いてみようと思います」
実際、最も手っ取り早い手段だ。佐伯さんのおばあさんがどこまで知っているのかはわからないが、当時に関する話も含めて、詳しく聞ける可能性があるのは佐伯家の人間だけだ。
でもそれは加納ちゃんの言う通り、加納ちゃんと佐伯さんの関係そのものを壊しかねない。佐伯家に流れている異種族の血、過去の忌まわしい事件の話をあえて掘り返すことは、愛ちゃんのためであってもはばかられて然るべき内容だ。そもそも、おばあさんに話を切り出した時点で追い出される可能性の方が高い。
「……僕も行くよ」
「いえ、私だけで行って来ますよ。話を聞くのにそんなに人数は必要ないでしょう」
「何言ってんだよ。デルが関係あるなら、もうこれは僕の問題でもあるんだ。僕はもう当事者なんだぜ?」
それに、もしおばあさんや佐伯さんが怒り始めた場合、仲裁に入る第三者は少なからず必要だ。僕がどれだけその役目を果たせるかはわからないが、いないよりはマシなハズだ。それに、そんな話、一緒に聞いて共有してやれる奴がいないとそれなりにきつい気がした。
「縁切られる時は僕も一緒だ。つっても、僕と佐伯さんは友達でも何でもないけどな」
「当然私も一緒に行かせてもらうわ! どうせなら三人一緒に縁を切られましょう!」
安藤ならそう言うと思っていた。その予想は加納ちゃんもしていたようで、安藤を見て静かに微笑んで見せる。
「……では、お願いします」
そして翌日、僕達は再び佐伯さんの家へ向かうことになった。
佐伯さんのおばあさんは、佐伯さん抜きで僕達と話すことを快く了承してくれた。玄関で迎え入れてくれた時には、もう何かを察しているかの様子で、話が長引くだろうとお茶とお菓子まで用意してくれていた。
加納ちゃんが家系図について触れた途端、おばあさんはやっぱりね、と首をすくめて見せる。
「加納さん……だったねぇ? アンタが家系図を見せてくれって言った時には、なんとなくわかったよぉ」
「……では、加江子さんについては――」
「知ってるよぉ。芽衣ちゃんには話してないけどねぇ」
それからゆっくりと、おばあさんは加江子さんについて話し始める。
半年の療養の後、佐伯加江子は猿のような種族の住む島に流れ着いたと話していたという。最初の一ヶ月程、加江子さんは猿達から逃れて何とか生き延びていたが、すぐに猿達に捕獲されてしまい、奴隷のような扱いを受けていた。どんな目に遭わされていたのか、加江子さんは思い出すだけで発狂しかねなかったため一度も詳しく話すことはなかったという。
「あたしの母はねぇ、あたしを産んですぐに亡くなったんだよぉ。この話も全部、お父ちゃんから聞いた話なんだぁ……」
そう言いつつ、おばあさんは温かいお茶を口にする。
「これ、これを見ておくれよ」
「これは……?」
おばあさんが取り出したのは、黄ばんだ一枚の家族写真だった。若い男女と赤ん坊、おばあさんはその赤ん坊が自分だと語った。
「……失礼ですが、その遠子さんって……」
「似てないだろぉ? この家のだぁれにも似てないんだよ」
今まで務めて穏やかに話していたおばあさんの言葉が曇る。
「そのせいであたしの祖母……加江子さんは旦那さんに追い出されたらしくてねぇ……」
ここまで聞いて、僕も二人もゴクリと生唾を飲み込む。加納ちゃんの仮説でしかなかった推測が、どんどん事実によって裏付けられてしまう。真相に迫る興奮よりも、現実が空想を追い越していくような感覚が恐ろしい。
「……愛ちゃんを、助けてやってくれんかね」
「……え?」
「加江子さんに何があったか、詳しいことまではわからんよ。でもあの子には関係ないことだろぉ……? あの子の人生が、ここで閉ざされちゃうのは嫌なんだよぉ、あたしも芽衣もねぇ」
おばあさんの声が、少しずつ震えているのが僕にもわかる。僕達はまだ、加納ちゃんの推測をおばあさんには話していない。でも、おばあさんは何となく感じ取ってしまったのだろう。過去に起きた忌まわしき事件と、自身とその子孫に流れる正体不明の血のことを。もしその血が愛ちゃんをあんな風にしてしまっているのなら、助けて欲しい。肉親として当然の感情だ。
「……必ず、とまでは約束出来ません。でも、助けたい……僕達に出来ることは、全部やってみます」
思わず加納ちゃんを差し置いて僕が答えてしまうと、おばあさんはそうかい、とどこか安心したような顔で呟く。
そのまま部屋に静寂が訪れ、僕達が一息吐いた――その時だった。
「キィィィィッ! キッ! キッ! キァァッ!」
「愛ちゃん! 愛ちゃんちょっとどうしたの!?」
突如、部屋の向こうから愛ちゃんの叫び声が聞こえてくる。慌てておばあさんと声のする方――リビングへ向かうと、そこでは愛ちゃんがテレビを指差しながら喚き散らしていた。
テレビでやっていたのは昼のニュース番組だ。映されているのはどこかの島のようで、愛ちゃんはその映像を指差して騒いでいる。
「……この島って」
その島について、最初にコメントしたのは安藤だ。すぐに僕も気づいて安藤と顔を見合わせたが、加納ちゃんは知らなかったのか首を傾げていた。
「おいおい……どんな偶然だよ、これ」
その島は、つい先日新聞に載っていた島だ。知的生命体らしきものの痕跡が発見され、調査チームが派遣されたまま連絡が途絶えていたあの島。先週、安藤が話していたあの島だ。
ニュースの内容は簡素なもので、調査チームと未だに連絡がつかない、未知の生命体が潜んでいるかも知れない、それらのことを軽く話しただけで現地の映像などは流れなかった。だが、愛ちゃんを興奮させるには写真だけで十分だったらしい。
島に関するニュースが終わった途端、愛ちゃんはまるで憑き物が落ちたみたいに大人しくなってしまう。
「あの、二人だけで通じ合ってないで私にも教えてもらえませんか? 普通に寂しいので」
「……ああ、ごめん。この島のことなら、もう加納ちゃん知ってるかと思ってたんだけど」
魔導書に夢中だったせいか、加納ちゃんは本当にこの島については知らないらしい。それを聞いた途端、隣にいた安藤が得意気に鼻を鳴らす。
「やはり知らなかったようね! ついに……ついに私の勝ちよ加納優妃! 負けを認めて教えてくださいとお願いするが良いわ! 快諾してあげる!」
「はい、安藤さんの勝ちですよ。教えてもらえませんか?」
「くぅ~~~~~~~~っ!」
「一体この島はなんなのでしょう?」
「勝った~~~~~~~~~やった~~~~~~~~~っ! くぅ~~~~~っ! 負け続ける日々よ、アディオス!」
いいからはやく教えてやれよ。
「今ニュースで言った以上のことは、僕も安藤も知らないよ。でもこの島、愛ちゃんが反応を示したってことは……」
「……どうやら最後のピースが、見つかってしまったようですね」
邪神デル・ゲルドラを崇拝する、猿に似た種族がすむ島。どうやら僕は、デルに会う前から知っていたらしい。
「ふふ、良い? あの島はね!」
「……いえ、もう結構ですよ」
「くぅ~~~……! ズルいわ蛇神君! おいしいとこだけ持っていったのね!」
安藤が悪いし安藤が思ってる程おいしくもなかった。
『あれ、多分我のいた島じゃな』
佐伯さんの家を後にし、帰りの道すがら、周囲に人がいないのを確認してからデルへ尋ねるとすぐにそんな言葉が返ってきた。
「思い出したのか?」
『記憶としてはイマイチじゃが、なんとなくな……あそこじゃろ、多分』
「いつも思うんだけどお前適当過ぎないか?」
『神なんて設定やら何やら色々適当なモンじゃろ。ええんじゃよこれで。そんなことより蛇神御一行よ』
不意に、今までのんびり喋っていたデルの声音が真剣なものになる。
『島には行くな』
「……え?」
『危ない、多分』
忠告まで適当な邪神だった。




