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其の三「何故愛ちゃんはお猿になったのか 前編」

 オカルト研究会には、時折怪現象関係の相談事を持ち込んでくる学生がいる。加納ちゃんは妙に顔が広く、今までに何度か加納ちゃんの知り合いが曰く付きの物品を持ってきたり心霊写真を持ってきたりしたことがあった。しかし加納ちゃんも別に霊能力者というわけでもないので、とりあえず一通り話を聞いたら写真も物品も供養するなりなんなりして終わりだ。大抵これで解決するし、そもそも心霊現象でも何でもないパターンばかりなのだ。

 でも、今回は――――

「……なるほど、それは深刻ですね」

 こたつを挟んで相談者、佐伯芽衣さんと向かい合い、加納ちゃんはいつになく真剣な表情で話を聞いている。

「はい、本当に困っていて……」

 僕と安藤は両脇に避け、何とも言えない表情で二人のやり取りを見守っていた。

「では話を一度まとめますね」

 加納ちゃんの言葉に、佐伯さんが頷く。

「妹の愛ちゃんが、名前の読みが“あい”だからという理由で、保育園の友達に童謡の『アイアイ』でからかわれ続けた結果――本当にお猿さんになってしまった、と」

「いやそんなことある!?」

「キー!」

 佐伯さんの後ろにいた愛ちゃんに、思いっきり顔を引っかかれてしまった。





「うおおおおおおおお!? 放せ! 僕が何をしたって言うんだ!」

 穏やかな午後の日差しが差し込む、休日の部室棟二階の一室。

 僕は、猿にマウントを取られていた。

「ウゥゥゥウッキャアアアア! キキィー! キッ! キッ! キッ!」

「こ、この猿グーで殴って来る! 爪使ったの最初だけだ! こいつ、自分の爪が鋭くないことを理解して拳を握ってやがる!」

 ちなみに僕の左手の爪は刃物より鋭いが、そんなものをここで使うわけにはいかない。邪神の左手はいつも通り包帯で巻いて三角巾で吊り下げて――いない、僕の左手は結構必死で床をタップしていた。佐伯さんが唖然としている。

「クソ! 誰か止めろ! 安藤こっち向け! 加納ちゃん! 加納ちゃん助けて!」

 僕から目を背ける薄情な安藤とは違い、加納ちゃんは一瞬考え込むような表情を見せた後、机の上にあった何かを掴み、愛ちゃんの方へ放り投げた。

「キッ!?」

 愛ちゃんは突如投げられたものに反応し、飛びつくようにしてソレをキャッチする。ようやく解放された僕が何とか身体を起こすと、愛ちゃんは持っているソレを躊躇いなく僕の顔面に投げつけた。

「キィィィッハァーーッ!」

 のけぞる僕を見て、気持ちよさそうに両手でガッツポーズする愛ちゃん。プロの内野手ばりの送球には才能を感じなくもない。

 ていうか顔痛ェ。

「うおおおおわああああクソがああああああああッ!」

 そこそこ重くて硬いソレをぶつけられ、完全に頭に血がのぼった僕は、ソレが何なのか確認もせずに拾い上げて愛ちゃんへ投げつける。

「ああ、愛ちゃん!」

 しかし愛ちゃんは涼しげな顔でそれを回避してしまい、投げられたソレは壁に激突して厭な音を立てながらその場に落ちた。

「……ハンッ」

「鼻で笑いやがったな! 上等だ猿! 大人をなめてるとどんな目に遭うか僕が左手で教えてやらァァァァ!」

「愛ちゃあああああん!」

 僕が左手の包帯を取り払おうとしたのと同時に、佐伯さんが油断していた愛ちゃんをその場で押さえ込む。それから数瞬だけ遅れて、加納ちゃんが大人げない僕の左手を掴んだ。

「落ち着いてください蛇神さん! 子供のやることですから!」

「良いか加納ちゃん! 加納ちゃんには確かにわかんないかも知んないけど、ものには限度があるんだよ! 引っ掻いてマウント取るだけならまだしも、人にあんな重いものを……えっと、なんだ、何ぶつけられたんだ僕は!」

 肩で息をしながら、僕は先程自分が投げたものの方へ目を向ける。

 メタリックブルーの、それはもう大層美しい板である。丁度先月僕が買い替えたスマホとよく似た、今年の春に出たばかりの最新機種だ。

 ていうか僕のスマホだった。



 愛ちゃんはひとまず佐伯さんのおかげで落ち着き、再び部室には平和が戻る。今まで獣と大人げない僕の叫び声で満たされていた部室は、嘘みたいな静寂で満たされていた。

 気を取り直して愛ちゃんを含む五人でこたつを囲み、僕は深く溜息を吐く。

 机の中心には、無残にも画面がヒビだらけになった僕のスマホが置かれていた。

「安藤」

「はひっ」

 名前を呼ばれ、僕の正面で安藤の肩が跳ねる。

「目の前で起こる惨劇を見なかったことにしていた安藤、僕に何か言うことはないか」

「……スマホのことは残念だったわね! でも気にすることないわ! 何故ならスマホはお店に頼めば何回かは新品と交換してもらえ――」

「安藤、見ないフリをしていた安藤」

「……ごめん」

「素直でよろしい」

 次に、僕は加納ちゃんの方へ向き直る。

「加納ちゃん、何故僕のスマホを投げた」

「……近くにあったので何かも確認せずに……とにかく投げて愛ちゃんの意識をそらそうと……」

「……そうか」

「……すいません」

「次から投げる前に確認するように」

「気をつけます」

 とは言え、僕は僕でちょっとムキになり過ぎた。いくらなんでも邪神の左手を使おうとしたのは分別のある大人として恥ずかしい行為である。分別あろうがなかろうが、大人だろうが子供だろうが左手が邪神の奴はそうそういないけど。

「まあ僕も子供相手にムキになったのは情けなかった。ごめんな、愛ちゃん」

「キィ」

 ダメだ、愛ちゃんの鳴き声からは全く何も伝わってこない。

「……と言ったところで、話を本題に戻しませんか?」

 微妙に気まずくなった空気をリセットし、加納ちゃんが話を本題へと戻す。愛ちゃんが暴れだしたせいでわけがわからないことになっていたが、そもそもこれは愛ちゃんがお猿になってしまったのでどうにかしてほしい、という話だ。うん、そもそもがよくわからない。

「……さっきも聞いたけど、からかわれ続けただけでお猿になるかな? 愛ちゃん、最初から猿だったんじゃないか?」

「蛇神さん、ちょっと当たり強いです」

「ごめん」

 まだちょっと愛ちゃんへの怒りが拭いきれていない僕だった。

「私も変だなと思って、お医者さんにも見てもらったんだけどわけがわからないって」

「精神的な疾患かしら? でも自分を猿だと思ってしまうなんて、余程のことじゃないとあり得ないわ。アマラとカマラの話じゃあるまいし」

 安藤の言う通り、いくら暗示をかけられたって簡単に人間は猿にはならない。有名な話だが、狼に育てられ、狼のように振る舞うアマラとカマラという二人の少女がいた、なんて話はある。あるが、あの話にはいくつか脚色が含まれていると言われているし、先天的な障害を持っていただけ、という見方の方が自然な気もする。

 言い方は悪かったし普通に失礼だが、僕の「最初から猿だったんじゃないか?」はそれ程おかしな推測ではないのだ。

「ついこの間までは普通だったのに……。会話も出来たし、暴れ出さなかったし……」

 話を聞いてみたところ、愛ちゃんは元々大人しくて手のかからない良い子だったらしい。

両親を早くになくし、祖父母と一緒に暮らしている愛ちゃんは、家族に迷惑かけまいとしていたんじゃないかと佐伯さんは話している。

「ストレス……って線もあるかも知れないわね。良い子であろうとする子は、意識的にしろ無意識的にしろ、自分の欲求を抑えつけてしまうじゃない?」

「そりゃ、ストレスはあったんだろうけど、ストレスで猿になるなら日本中猿だらけだぞ」

「……楽しそうね!」

「ああ、僕もちょっとテンション上がってきた!」

 例えばオフィスでストレスが爆発した社員達が全員猿になって、仕事そっちのけでオフィスの中を駆け回るんだ。コピー機の上とか跳ね回って、パソコンとかめちゃくちゃに壊して、皆でキーキー言いながら群れを作る。そんな光景が世界中に広がるんだとしたら、見てみたい気もしてきた。

「一応大きな病院への招待状ももらってるんだけど、こんな症状調べても全然出てこないし、藁にもすがる思いで加納さんに相談したんだけど……」

「その藁、あんますがんない方が良いと思う」

「うん、今日愛ちゃんと取っ組み合いをする君を見て私もそう思った」

 僕じゃねえか。

「オカルトでこういう話となると……こっくりさんですかね」

 今まで静かに聞いていた加納ちゃんが、静かに口を開く。

「こっくりさんで降ろした動物霊が取り憑くってやつね! …………あるわね」

「…………ある話です」

 実体験に基づいたコメントなせいで説得力が尋常ではない。

「でもこれ、ウィジャボードの時とは話が違うだろ? 愛ちゃん、こっくりさんなんてやるかな」

「どうだろう……やらないと思う、そんなこと……それも今更」

 そう、こっくりさんはもう何十年も前のブームで、僕達がこないだ使ったウィジャボードだって骨董品だ。仮に流行ってたとしても、あんな危なそうな遊びを大人が止めないハズがない。だが、とっかかりがこっくりさんではない、というだけで動物霊が取り憑いている、というのはあり得る話だと思う。実際に僕は人に何かが取り憑く瞬間を目にしているわけだし。

 これは少し、デルの力を借りた方が良いかも知れない。

「……聞いてみるか」

 僕がボソリと呟くと、察したのか加納ちゃんがコクリと頷いてみせた。

「ごめんなさい佐伯さん、少し席を外してもらってもいいですか?」

「え?」

「私達の霊能力で、愛ちゃんに何か悪いものが取り憑いていないか調べたいのです。ちょっと人様にお見せ出来ないので……」

「そ、そんな本格的なことを……!? ていうかそんな力が……!?」

「はい、蛇神さんには霊能力があります」

「……えぇ……」

 畜生何でそんなに納得いかなさそうなんだ。あながち間違いでもないんだぞ。

「……本当? 加納さんそれ本気で言ってる?」

「本気も本気、大マジですよ。ね、蛇神さん」

「…………そうだ。このオカ研は最早僕の霊能力でもっているようなものさ」

 佐伯さんの視線が痛い。

「……なぁ安藤!」

「…………」

 なんか言えよ安藤……。

 佐伯さんはまだ訝しげにしていたが、加納ちゃんに押し切られて半ば強引に部室から締め出されてしまう。

「では、霊能力者さんの出番ですね」

「なんか嘘吐いたみたいで気が引けるな……」

 実際に力があるのは僕ではなくデルの方だし、僕自身何が出来るというわけではない。

「でもあながち間違いではないわ! だってそれは蛇神君の左手なんだから!」

「それさっき言ってくれよ……」

「次は気をつけるわ!」

 ないと良いけどな、次。

「さて……と。なあデル、包帯解かなくてもわかるか? 見せるとまた愛ちゃん暴れ出すかも知れないし」

『うんまあ、何となくわかるじゃろ』

 ちょっと曖昧なのが気になったものの、僕は包帯を巻いたままの左手を愛ちゃんへ向けた。

「どうだデル、なんか憑いてる?」

『ううん……うんこじゃなぁ、これ。こいつうんこしかついとらんじゃろこれ……』

「おい何ふざけて……うわ臭ェ」

 見れば、僕だけでなく加納ちゃんも安藤も鼻をおさえて顔をしかめている。この強烈なアンモニアの臭いは間違いない、うんこだ。

「キキィ……」

 お猿、トイレのしつけが出来ていなかった。



「ごめんなさい! ごめんなさい!」

「いえいえ、良いんですよ」

 お猿と化した愛ちゃんは本当にトイレのしつけが出来ていないらしく、折角取れていたのにまたおむつをはいていなければならなくなっているらしい。今日もきちんとおむつをはいていたおかげで、とりあえずおむつを替えることで事なきを得たが、僕が想像している以上に佐伯さんは大変そうだった。

「愛ちゃんについては私達も調べておくけど、あまり期待しないで待っていると良いわ!」

 自信のなさと言動の勢いが一致しない安藤に苦笑しつつ、佐伯さんは愛ちゃんを連れて部室を後にする。

『うーむ……』

「なんだよ、まだうんこ臭いのか?」

『いやな、なんか思い出せそうなんじゃがな……』

「それって愛ちゃんと関係あるのか?」

『どうかのぅ……』

 デルの記憶と愛ちゃんの症状が関係あるとは考えにくいが、そもそも僕は僕自身がまず元に戻らないといけないのだ。思い出せそうなことは出来るだけ早く思い出して欲しい。

「で、調べるったってどうするんだよ安藤」

「そうね……とりあえず、愛ちゃんの通っていた保育園を見に行ってみない? アイアイを歌ってる子達がこう、何か霊的で魔術的なことをしたのかも知れないわ!」

 限りなく0に近そうな可能性だったが、とりあえず手当たり次第に調べてみるならとりあえずそこでも良いだろう。

「じゃあ平日に保育士さんに話でも聞いてみるか。次の月曜、僕は五限空いてるけど、安藤は?」

「無事空いてるわ! 空いてなくても空けるわ!」

 いや、空いてない時は無理しなくて良いんだぞ。と、言いかけたがこういう所が安藤の良い所でもある。なんだかんだと自分の予定よりも人の都合を優先しようとしてしまうのが安藤桜子という奴なのだ。

「あの、その調査なんですが……一旦蛇神さんと安藤さんだけで進めてもらえませんか?」

「「え?」」

 不意にそんなことを言い出した加納ちゃんに、僕も安藤も思わず声を上げた。

「……魔導書の解読が後少しで大きく進歩しそうなんです。すいません、私の友人の相談なのに。休みの間に終わりそうなら私も同行します」

「あら、そういうことなの? なら私と蛇神君に任せなさい! あなたが魔導書を解読している間に全て解決しておくわ!」

 相変わらずのビッグマウスだが、こういう時の安藤は頼む側としては少し気が楽だろう。

「ああ、全て解決とはいかないだろうけど、僕と安藤でやっておくよ。加納ちゃんも、無理はしないでくれよ」

『そうじゃぞ』

 うんうんと頷くような声を上げながら邪神までもがそんなことを言う。加納ちゃんはデルも含めて全員を順番に見てから、ありがとう、と小さく告げた。

 しかしこの邪神、ほんとに邪神かってくらい良い奴だな……。





 愛ちゃんの通っている保育園は、大学からそれ程遠くない。流石に徒歩では厳しいが、バス一本で簡単に行ける位置だ。月曜、授業を終えた僕と安藤はすぐに愛ちゃんの通う保育園へとバスで向かった。

「そういや安藤、前に話してたムー大陸がどうって話は何か進展あったのか?」

 バスを降りて保育園へ向かう道すがら、ふと思い出して僕が尋ねると安藤は微妙な表情を見せる。

「調査中よ!」

「安藤がか?」

「調査隊が……」

「消息を絶ってるんじゃなかったか」

「諸説あるわね」

 ないだろ、書いてあっただろ新聞に。

 とは言え、僕も時折調べてみてはいるが最初に安藤に見せてもらった記事以上の話は効かない。結局魔導書やらウィジャボードやらで話すタイミングを失っていたせいで、あの島について、僕も安藤も加納ちゃんと話したことがなかった。

 そんな会話をしている内に、保育園へと到着する。一応先生には佐伯さんがアポを取ってくれていたおかげで、中には入れてもらえた。先生は明らかに学生の僕らに微妙な顔をしてはいたけど。

 話をしてくれる保育士の女性、田原さんのデスクの周りにパイプ椅子を置いて僕と安藤が並んで座らせてもらう。

 しかしこれ、どこから話せば良いんだろうか。多分もう大抵のことは佐伯さんに話してるだろうし、その上でわからなかったから病院や加納ちゃんに相談したんだと思う。いきなり直球でこっくりさんが流行ってなかったか、なんて質問するわけにもいかないし、早くも手詰まり感が僕にはあった。

「単刀直入に聞くわ! こっくりさんは流行ってないかしら!?」

 安藤には関係なかった。

「安藤敬語」

「……何を言っているの……? 私下の名前は桜子よ……?」

「お前が信じられないレベルのアホで、僕は今うんざりしている」

 ポカンとしている田原さんに慌てて謝罪しつつ、今度は僕が話を切り出す。

「変な質問するようで申し訳ないんですけど、この保育園で変な遊びとかって流行ってませんでしたか?」

「……そうですね。子供達が突発的に始める変な遊びならいくつかありましたけど、こっくりさんみたいなのは流行っていませんよ」

「本当に胡散臭くて恐縮なんですけど僕達オカルト研究会なんです」

「恐縮出来るくらいの自覚があったんですね……」

 安藤のせいもあってか、田原さんが意外と辛辣で先が思いやられる。

「愛ちゃんの今の異常な状態、僕らは心霊現象の類なんじゃないかと考えてるんです」

 事務室にいる他の保育士の方々の視線が痛い。そして正面から眼鏡越しにびしびし伝わる田原さんの視線が本当に痛かった。

「正直すごく帰って欲しいのですが、愛ちゃんのことについては私達も頭を悩ませているんです」

 僕も正直帰りたかった。

「愛ちゃん、優しい良い子だったんですけど勝ち気な子だったんです。ですから男の子とも口喧嘩することがあって……」

「その延長で男の子達にからかわれてたわけね!」

 もう気にしないことにしたのか、敬語の使えない安藤桜子に田原さんは頷いてから言葉を続ける。

「“アイアイ”で何日も何日もからかわれてて、ある日を堺に急に暴れ出して……」

「それって確か、先週の木曜でしたっけ?」

 佐伯さんの話によると、愛ちゃんがお猿と化したのは先週の木曜だ。先週の木曜、か……。奇しくも、僕の左手に邪神が招来した日だ。

「その時のこと、詳しく話してもらえるかしら!?」

 余談なんだけど安藤結構声がデカいから隣りにいてうるさい。

 僕は胡散臭いし安藤は失礼だったが、それでも佐伯さんはその時のことを順を追って説明してくれた。

 いつも通り部屋で遊んでいた愛ちゃんだったが、いつも口喧嘩をする男の子達と、その日も喧嘩になったらしい。しばらくは普通の口喧嘩だったらしいんだけど、途中で反論出来なくなった男の子達が、アイアイを歌い始めた。愛ちゃんはアイアイでからかわれるのを前からすごく嫌がっていたようで、その時も必死でやめてほしいと繰り返していたらしいが、男の子達は構わずに歌い続ける。気づいた田原さんが止めようとした時にはもう、愛ちゃんの我慢は限界まで来ていたようで、男の子の一人に馬乗りになり殴ったり爪で引っ掻いたりと大暴れだったらしいのだ。

「ずっとキーキー喚いてて、何とか取り押さえてしばらくしたら落ち着いたんですけど……」

「……けど?」

「その後、画用紙に絵を描き始めたんです」

 そう言って、田原さんはデスクの引き出しから一枚の画用紙を取り出す。

「普段は家族の絵とか、動物の絵を描くんですけど、この時だけ変な絵を描いていて……」

 画用紙に描かれていたのは、海に囲まれた孤島だった。平面的な絵で、草木の生い茂る孤島の左右が海、上の方が空で微妙に色分けされている。これだけならただの島の絵だが、不可解なのは下の部分だ。

「これ、は……手……かしら?」

 島の下、地面に当たる部分は真っ黒に塗りつぶされているが、その下に人間の手と思しきものが描かれている。別段おどろおどろしく描かれているわけではなかったが、他の部分が普通なせいで妙に不気味に感じられる。

「手、だな……でも何で島の下に?」

 島の下が黒でわざわざ塗りつぶされている、ということはここは空白のスペースではなく明確に地面として描かれたものだと考えられる。仮に地面ではなかったとしても、塗りつぶしたことには何らかの意図があるんじゃないかと思えた。

 その中に……手?

「これ、ちょっと写真撮らせてもらっても良いですか?」

 田原さんからの許可を取り、一応スマホで写真に収めておく。後で加納ちゃんの意見も聞いてみたい。

「佐伯さんはあまり気にされてなかったようですが、私にはこれが不気味に思えて仕方なかったんです」

「まあ、ただの落書きにも見えますからね……」

 だが、子供の絵は落書きに見えるようでいて内包する情報量が多い。子供に限った話ではないが、人の描く絵の中には多かれ少なかれ心理状態が現れるものだ。患者に木の絵を描いてもらう心理検査が実際に精神科で採用されているくらい、絵は重要だったりする。

「……」

「……どうかしました?」

 愛ちゃんの絵を真剣に眺めていると、ふと田原さんが僕をジッと見ていることに気づく。

「いえ、遊び半分の胡散臭いサークルの学生かと思ってたんですけど、結構真剣に考えてくれているんですね……」

「あ、はい、意外でしたか、そうですよね」

 そう思いながらも一応ちゃんと対応してくれる辺り、この人は良い人なんだなと思う。辛辣だけど。



 田原さんとの話を終えて、事務室を出ようとするとドアの前に一人の男の子が張り付いているのを見つける。男の子は出ようとする僕達に気づくと、驚いたようにドアから離れたが、逃げようとはしなかった。

 ドアを開けると、男の子はジッと僕の方を見つめてくる。

「どうした? ごめんな、知らない人が来てびっくりしたかい?」

 腰をかがめてなるべく穏やかにそう尋ねてみたが、男の子は首を左右に振った。

「あ、愛ちゃんの話、してたでしょ……」

「え、ああ……」

「聞こえたんだ、さっき入っていく時……」

 どうやら事務室に入る前、田原さんと軽く話していたのを聞かれていたらしい。

「お、俺、俺のせいで……あいつ、来なくなっちゃったんだろ!?」

「えっ……」

 そこでやっと、その男の子が愛ちゃんをからかった張本人だと気づいた。よく見るとわんぱくそうで、今時珍しく感じるくらい典型的なやんちゃ坊主と言った出で立ちだが、その両目は潤んでいる。

「お、俺が……お猿さんとか言って……いじめた、から……」

 段々男の子の言葉は嗚咽混じりになっていく。どうやら必死にこらえていたようだったが、結局男の子はボロボロと大粒の涙を流しはじめてしまい、慌てて服の袖で拭き始めた。

「俺……ちゃんと、謝らなきゃ……愛ちゃん……ごめんねって、もうしないよって……言わなきゃ……」

 話を聞いた時はとんだ悪ガキだと思ったが、彼は彼で今日まで悩んでいたようだ。親に怒られて気づいて、きちんと自分で自分が何をしてしまったのか理解したのだろう。でなければ、赤の他人の僕に思わずぶちまけてしまう程思い詰めたりはしない。

「大丈夫」

 何だか見ていていたたまれなくなって、思わず僕は男の子の頭の上に手を乗せていた。

「お前は心配しなくて良いぜ。僕達がまた、愛ちゃんがここに来られるように頑張るから」

「ほんとに……?」

「ああ、だから愛ちゃんが戻ってきたら……ちゃんと謝るんだぞ」

「……うん」

 僕達に何が出来るのかはわからない。何も出来ないのかも知れない。だけどこうして約束してしまった以上、精一杯やるべきだ。

 子供に泣かれたら、出来ないなんて言えねえよ、僕。



「……あそこで“絶対”って言えたら、かっこよかったんだけどな」

 帰りのバスを待ちながら、思わず僕はそんなことをぼやく。すると、安藤は隣でそうかしら? と笑みをこぼした。

「十分かっこよかったんじゃない? 私にはそう見えたけど」

「……何でだよ」

「それはね、私がかっこいいからよ! かっこいい私にはかっこよさがわかるわ!」

「なんだそれ……」

「かっこいい私が言うんだから間違いないわ」

「……そうだな、かっこいい安藤が言うんなら、そうだったかもな」

 僕がそう答えて小さく息を吐くと、安藤は満足したように屈託のない笑みを見せる。

 そうしてバスを待ち続けていると、不意に僕のスマホ(ひとまず新品が到着するまで代用品を借りている)が鳴り響く。着信は加納ちゃんからだった。

「ああもしもし…………本当か!?」

「何!? どうしたの蛇神君!?」

 加納ちゃんと簡単な会話を終え、スマホをポケットに収めた僕に安藤が詰め寄る。

「魔導書の解読、終わったみたいだ……!」

「なんですって……!?」

 詳しいことは電話では聞けなかったが、ひとまず魔導書の解読が一通り終わった、とのことだった。

『……マジか』

 思わず言葉が漏れるのはわかるんだけど、出来れば外では黙っていてほしかった。


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