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其の一「何故邪神が招来することになったのか」

「来たれ、汝ふにゃふにゃの、……なんでしょう、これ?」

 僕の名前は蛇神呑雄(へびがみのみお)、椅子に縛られた男子大学生だ。

「あー……ほにゃほにゃより浮かび上がりし? 破壊をふにゃするほにゃららの……?」

 こっちの字が読めてない奴は加納優妃(かのうゆうひ)。我らがオカルト研究会部長で、今日の活動内容は邪神の招来だ。

 頼む、誰か助けてくれ。

「なあ、読めないならやめないか? 僕実はこの後用事があるんだよ」

「まあ、童貞の蛇神さんに一体何の用事があるっていうんです?」

「童貞だって用事はあるんだよ! 童貞が皆暇だと思うなよ!」

「あー……ほにゃほにゃより浮かび上がりし?」

 クソ、何事もなかったかのように魔導書を読み直し始めた……!

 正直ネタなのかマジなのかよくわからないが、このまま呪文? を詠唱させ続けるのは間違いなくまずい。邪神の招来なんて本来信じるに値しない戯言だが、万に一つということもなくはない。

 というか縄は解いてほしかった。

「待て! 助けてくれ! 大体僕達友達だろ? なんだかよくわからないものの触媒にするなんてあんまりだ!」

「あ、蛇神さん、ここ何て読むかわかります?」

「わかるかばーか! ばーかばーか! 加納ちゃんばーか!」

「……破壊をふにゃするほにゃららの……神よ!」

 死ぬほど適当で曖昧な呪文の詠唱が終わると同時に、加納ちゃんの持つ魔導書が妖しげな光を放つ。その光はやがて部屋全体を包み込み、僕の身体へと集約する。

 いや無理だろ、流石に冗談だろ、と心のどこかで高をくくっているが嘘でも冗談でもネタでもなくマジなのかも知れない。だって僕今光ってるもん。

 何故こんなことになっているのか、何故こんな目に遭っているのかわからない。ここはいつもの部室棟の一室で、僕は普段通りに授業を終えて部室に来て駄弁ろうと思っていただけだったのに……。

 どうせこのままどうにかなってしまうのであれば、せめて何故こうなってしまったのか原因くらいは突き止めたい。


 それは、ある暑い夏の午後――――ごめん今春だったわ、春の暖かな午後。


其の一「何故邪神が招来することになったのか」


「これは絶対! ムー大陸……的なものよ!」

 場所は蝶上(ちょうじょう)大学の休憩室、その隅のテーブル。授業に疲れてぐったりと座っていた僕の前に、一枚の新聞記事が叩きつけられる。叩きつけた時の勢いで乱れた長い黒髪を適当に整えつつ彼女――安藤桜子(あんどうさくらこ)は僕の正面に座ってふんぞり返って見せた。

「ごめん、まず何の話か教えてもらっていいかな」

「ムー大陸……的なものの話よ!」

「それはもう聞いたんだ。そこを踏まえてわからなかったんだよ僕は」

「きっと古代人類的なものが潜んでいるに違いないわ」

「安藤会話苦手だったりする?」

 切れ長で釣り気味の目を得意げに見開きながら、安藤はふふんと鼻を鳴らす。自分が何かを発見したかのような調子だが多分そんなことはない。叩きつけられた記事をチラリと見ると、どうも日本近海にある、孤島に関する記事のようだった。

「よくわかんないけど無人島の話?」

「違うわよ! 古代人類的なものが潜んでいるわ!」

「ほんとに?」

「多分」

 少しだけ口をすぼめてそう答えた後、安藤は「あ!」と声を上げて新聞記事の一部を指差す。

「ほらここ、ここ見なさいよほら! はやく見て!」

「わかったから急かすなよ! 後人を引き寄せる時は胸ぐら以外を選……違う髪じゃないハゲる!」

 痛ぇ今ぶちって聞こえた。

「あぁ……」

「ほら、髪ならこっちにいっぱいあるから元気だして」

「お前の髪がいっぱいあっても仕方ないんだよ、それをわかってくれ安藤」

 テーブルの上に落ちた数本の毛に虚しく別れを告げた後、僕は一応安藤の指差した部分に目を通す。

 よくよく考えれば、ただの無人島が見つかっただけなら新聞には載らない。どうも今回新聞に載っているこの島には、何やら知的生命体らしきものの痕跡が発見されているようなのだ。おまけに現在は調査チームと連絡が取れていない、という恐ろしい事実までもが記載されている。でも書いてある大きさ的にはとても大陸とは呼び難く、何を思って安藤がムー大陸と言い始めたのか全然わからない。

「きっとこの島は浮上してきたのよ、海の底から」

「もしほんとにそうなら面白いけど、そんなことは全然書いてないだろこれ」

「一大スクープよ! これを真っ先に議題に上げてあの加納優妃に一泡吹かせるわ」

「うん、僕達会話してるハズなんだよな。もうちょい僕の話聞いてくれる?」

 僕も安藤もオカルト研究会のメンバーなのだが、実はこのオカ研、僕ら二人と部長の加納優妃の三人で全員なのだ。去年度卒業の先輩達が部の大半だったせいで、卒業と同時に一気に存続そのものが危ういかわいそうなサークルに成り果てている。

「そもそも、加納ちゃんはもう知ってんじゃないかな……」

「いいえ、きっと知らないわ」

「根拠は何だよ」

「ないわ、でも私は信じてる」

「そうか、僕は応援だけしてるよ」

 オカ研の次期部長決める時、安藤か加納ちゃんかで先輩達の中で意見が割れたらしい。そして最終的に加納ちゃんの方が肝が座っていてオカ研に相応しい、という理由で部長は加納ちゃんに決定。ちなみに僕の名前は誰一人として挙げなかったとか。いいよ僕器じゃないし……いいよ……。

 そしてその一件以来、安藤は加納ちゃんを一方的にライバル視してるんだけど当の加納ちゃんはどこ吹く風だし、安藤は安藤でこんななので全く決着がつかない。一生仲良くやってるんじゃないかなこいつら。

「じゃあ、今日は部活来るんだな? 加納ちゃんも何か見せたいものがあるって言ってたけど」

「えぇ……」

「露骨にテンション下げたな」

 安藤はバイトの都合もあって部活に来ないことも結構ある。そのため、僕と加納ちゃんだけで部室に集まって駄弁っているだけのこともそこそこある。言い換えれば、僕はそこそこの確率で加納ちゃんのお守りを一人でやっているということになる。

「……今日はバイトで……」

「それで見かけた僕に慌てて発表しちゃったわけか……」

「今日のところは勝ちを譲ってあげるわ加納優妃……でも次は覚悟することね」

「負け慣れてる……」

 とは言え、加納ちゃんの持ってくるものだって今のところそう大したものではない。というかそもそも、オカルト研究会がまともにオカルトの研究をすること自体久々だったりする。先月なんかはゲーム機持ち寄って加納ちゃんVS安藤のどうでも良い対戦がひたすら続いていたくらいだ。

 ちなみに三時間ぶっ通しでやって加納ちゃんの全勝。僕は小説を一冊読み切って静かに涙していた。

「そういえばその加納さんだけど、蛇神君のこと捜してたわよ」

「いやそっち先言えよ」

「自分の推測が正しければ今日の蛇神君の日程は午後から空いてるハズだからって」

 あいつ僕の授業日程把握してやがる。

 僕の日程は単位の計算上、前期の木曜日(今日)は午後からの授業は受けなくて良いように組んである。たまたま同じ日程で組んでいるのか、それとも僕のスケジュールを把握しているのか、どうやら加納ちゃんも木曜午後は空けているらしい。

「……じゃあ、部室行けばいるか」

「じゃないの? 私はこの後授業でバイトだからここでお別れね」

「ああ、また明日な」

「加納さんをお願い。私の代わりに倒して」

「……自分でやってもらって良いかな」

「善処するわ」

 冗談っぽくそう言って、安藤は腕時計で時間を確認するとやや足早にその場から去って行く。

 加納ちゃんが待ってるならあまりここでのんびりもしていられない。そう思って立ち上がり、何か連絡が来てないかと携帯を確認すると加納優妃から十件近く不在着信があった。

 めちゃくちゃ怖えなぁ、これ。





 キャンパスを出てから歩くこと数分。キャンパスの隣に建っている学生寮の更に向こうに、部室棟がある。三階建ての簡素な建物で、大抵のサークルの部室はこの建物の中にあり、我らがオカルト研究会は二階の206号室だ。目印は、上から加納ちゃんが「666」と油性ペンで書きなぐった部屋番のプレートである。

 206号室、もとい666号室のドアを開けると、加納ちゃんこと加納優妃がこたつに寝転んだ状態でくつろいでいた。

「随分と待ちましたよ蛇神さん。私、捨てられたのかと思いました」

「僕がお前を捨てるわけないだろ、優妃」

「次下の名前で呼んだら通報させていただきますね」

「僕を弄びやがって……!」

 ふざけたことをのたまいながら、加納ちゃんは小さな身体をぐっと伸ばしてから立ち上がる。身長160センチにも満たない小柄な彼女は、見た目だけなら華奢で可憐な少女だ。部内での通称は「ふわふわボブカットの悪魔」だけど。

「さて、まずはこたつを片付けるのを手伝ってもらえませんか? 可憐な私では少々大変ですので、例え童貞だとしても男手が欲しいと思っていたんです」

「嫌だ、僕は童貞だから力がない」

「では逆説的に力持ちであれば童貞を脱することが出来るのではないでしょうか? 力持ちになりませんか蛇神さん」

「何でも力で解決するのは良くないぜ。童貞は力で解決出来ない」

「……それでも何とかしてしまうのが……蛇神呑雄という男でしょう」

「……ああ!」

 うん、違うけどな。

 言いつつも、僕は荷物を床におろして加納ちゃんと一緒にこたつを運び始める。

 この部室、誰が持ち込んだのかはわからないが机や椅子の代わりにこたつが置いてあるのだ。学校側からこたつを持ち込むなと言われてはいないが、そもそも向こうはこたつの持ち込みなんて想定していない。とりあえず黙認されているが、今後どうなるのかはぶっちゃけわからない。

 中央にあったこたつを敷物ごと隅に避け終わると、加納ちゃんは壁にかけてあったパイプ椅子を組み立てて中央に置いて僕に座るように促す。

「では、そのまま目を閉じてください」

「……何でだよ」

「良いことをしましょう」

「マジで言ってる!?」

 童貞、胸が高鳴ってしまう。

「え、マジで? 何すんの? 具体的なとこ聞かせてもらって良いかな!?」

「それはこれからのお楽しみですよ、まずは目を閉じてください」

「いやあしょうがないなぁ! 僕はね? 僕はそういうのどうかなって思うんだけどね? 加納ちゃんの頼みなら仕方ないなぁ」

 期待に胸を踊らせながら目を閉じると、そっと加納ちゃんの細い手が僕の手に触れる。すべすべした細い指先が僕の手の甲をそっと撫でる。どこかくすぐったいような心地よさが手の甲を滑っていき、加納ちゃんは僕の腕を優しく掴む。そのまま僕の両手は椅子の後ろにまわされ――――

 ロープのざらりとした感触が僕の両手首を包み込んだ。

「待って」

 目を開けた時にはもう遅い。僕の両手は信じられないスピードでパイプ椅子に縛り付けられる。暴れようとした両足も強引に押さえつけられ、両手と同じように椅子へ縛り付けられた。

「おい! ふざけんなよ! 童貞を捕獲してどうするつもりだ! えっちなことはしてくれないのか!?」

「そういう浅はかなところが童貞なんですよ。観念してください」

「冗談じゃない! えっちなことするんだろ! 同人誌みたいに!」

「いや、しませんけど」

「……しないの?」

 道端のゲロでも見るような顔をされた。

「じゃあ縛られ損じゃないか! 放してくれ! 何が目的なんだ!」

 異様にきつく縛られたロープは、もがいたくらいじゃどうにもならない。そんな僕をしばらく見つめた後、加納ちゃんは肩にかけている鞄から、ナイロン袋に包まれた一冊の古びた本を取り出して見せる。

「そ、それは……!?」

 加納ちゃんは何も言わずに、ナイロン袋から古書を取り出す。むわっとしたカビ臭さや古い埃の臭いが僕の方まで漂ってくる。加納ちゃんこういう時は不敵なままやってほしかったんだけど、すごい嫌そうな顔で古書を顔から離していた。

「その本は一体……!?」

 加納ちゃんはまだ答えない。古書の臭いに顔をしかめている。

「加納ちゃん……その本はッ……!」

 臭いに耐えかねた加納ちゃんは本をナイロン袋に収めた。

「加納ちゃん!? さっきの本は!?」

「さて、これから蛇神さんをどう料理しましょうか」

「加納ちゃーん!?」

 やれやれ仕方ないなとでも言わんばかりの表情を見せた後、加納ちゃんは再びナイロン袋から本を取り出し、またしても顔をしかめる。そしてすぐに本を開くと、僕の顔に向けてパカパカと開閉を繰り返す。勿論むせた。

「やめろ! わかった! 臭いはわかった! その臭いは僕に効く! やめてくれ!」

「ふふふ……蛇神さん、これが何だかわかりますか?」

「僕わかんねえからもう三回くらい聞いたんだけどな!? そろそろ教えてもらえる!?」

「これは遥か昔に書かれた魔導書ですよ」

 本をパタンと閉じ、神妙な面持ちで加納優妃はそう告げる。

「魔導書……?」

「恐らく、ですけどね。行きつけの骨董品店で先月偶然見つけまして」

 言いつつ、加納ちゃんは僕に本の表紙を見せつけた。表紙に書かれている文字は僕からすれば見たことのない言語で、本の装丁からして海外のものらしいことがわかる。焦げ茶色の表紙には、所々染みがついている。

「一ヶ月かけてなんとかちょっとだけ解読出来たので、その内容を明らかにしようと思ったんです。わくわくしませんか?」

「わくわくするけど僕を拘束したこととの因果関係がイマイチ見出だせない」

「時として真実は因果関係とかを結構無視します」

「しない! するものか! いつだって真実はどこかで何かに繋がっているハズだ!」

「ふふ……ではそれを証明してみてください、蛇神さん!」

「ごめん、縛られてるから無理」

「では後にしますか」

 後で良いんだ……。

「それはさておきこの古書の名は、『邪神デル・ゲルドラの書』……。かつて辺境の地で少数の民族に崇拝されていた神について記された書です」

「……一体どんな邪神だって言うんだ……!」

「解読中です」

「辺境の地の少数民族……どんな奴らだったんだ……!」

「解読中です」

「……どのくらい前に書かれた本なんだろうなぁ」

「解読中です」

「わかった! さてはお前まだあんまり解読出来てないな!?」

 とは言え、考古学者でも何でもないのに自力で古書の解読をある程度進めているところが末恐ろしい。きちんと勉強して学者になれば何か歴史的な発見をしそうなモンだけど、本人にそのつもりがあるかどうかはわからない。というか今はそんなことより解放して欲しかった。

「実のところ、私が解読したのは本の触りと邪神招来の呪文くらいで、後は全然読んでないんですよね。多分内容はその民族と邪神に関するものだと思うんですけど」

「まあでも、素人が一ヶ月で部分的にでも解読出来ただけでもすごいと思うよ。えっと、本の触りと?」

「邪神の招来」

「なるほどね、邪神の招来ね……なんて?」

「何度も言わせないでくださいよぉ、邪神招来の呪文です」

 お前は僕にその本について三回問わせたけどな。

「これも完全に解読出来たわけではないんですけど、どうも触媒を一体用意して呪文を詠唱することで邪神を呼ぶことが出来るようです。他にも条件がいくつかありそうですが……」

「……加納ちゃん、僕は縛られてるよね」

 僕の言葉に、加納ちゃんはキョトンとした表情で小首を傾げて見せる。

「そうですが?」

「『そうですが?』じゃないんだよ! お前僕を生贄にする気か!? そんなことないよな!? えっちなことするんだよな!?」

 加納ちゃんはしばらく逡巡するような表情を見せたが、やがて芝居がかった様子で顔を両手で覆い、僕から目を背ける。

「……仕方がなかったんです!」

「何が!?」

「こうでもしないと、蛇神さんが了承してくれないと思ったので……」

「どうしても了承するわけないだろ! 嘘だろお前!」

「痛いのは最初だけですよ~」

「最初もクソも後がねえの! 僕ここで終わりなの! 鬼! 悪魔! サイコパス! 加納優妃!」

「最後の罵倒は度し難いですね」

 お前の名前だぞ。

「それに、生贄ではなく触媒なので多分大丈夫です」

「もっと保証してくれよ……」

「儀式終了から一年間はアフターサービスで無料で返品交換致します」

 じゃあもう僕残りの人生新品の僕にお願いしようかな……。

「ではそろそろ詠唱を始めましょうか」

「そういえば加納ちゃん、加納ちゃんの下の名前なんて書くんだっけ?」

「優しいの優に王妃の妃ですね。優しくて高潔な子に育って欲しいという両親の願いが伝わってきます」

「お前は両親の願いを踏みにじってなんとも思わないのか!」

「……私、優しくないですか?」

 こいつダメだ、本物のサイコパスかも知れない。









 ここまでが、僕が加納優妃に邪神招来のための触媒にされるまでの経緯である。正直経緯の中に何かしらヒントがありはしないかと思ってたんだけど全然なかった。最早ただの走馬灯でしかなかった。僕は意味もなく利用される命だった……。

 恨むなら、加納優妃という悪魔との関係を今日までの間に切ることが出来なかった僕自身を恨むしかない。あの災害魔女に理由はない、事象なんだ。

 赤紫色の輝きが僕を妖しく包む。ひどく興奮しているようでいて、どこか狼狽した様子で僕を見つめる加納をにらみながら、僕は覚悟を決める。僕はこの後多分死ぬ。さよなら現世、僕は必ず化けて出て加納優妃を呪い殺す。

 しかし、すぐに邪神が現れて僕を取って喰うなり全て破壊するなりするものだと思っていたが中々現れない。というか赤紫色の輝きパート長過ぎてここまでの経緯を思い返せる時点でだいぶテンポの悪い招来だ。

 そんなことを考えてる内に、光は僕の左腕に集約される。そしてその直後、自分の腕の中を無数の虫が這い回るかのような違和感を伴いながら、腕の形状が変質し始めた。

 不思議と痛みはなかったが、肘より先がドンドン赤黒く変色していく。手首が一回り大きくなったせいか、ロープが千切れて両手の自由が戻ったので、慌てて顔の前まで持ってきた。絶叫する僕を置き去りにしたまま変化は進行し、爪が鋭く伸び、グロテスクな怪物のような左腕へと完全に変質する。

 程なくして変化は終わり、部室の中に左腕だけ怪物化した僕と、呆気に取られているサイコパス、そして何とも言えない静寂だけが残った。

 数秒停止した後、僕は試しに左手を動かしてみる。形はグロいが問題なく動くし、爪の都合上若干握りにくいがグーも作れる。

「…………」

「…………」

 試しに鋭い爪で足を縛るロープを切ってみると、何の問題もなく斬り裂くことが出来た。解放された僕が立ち上がると、加納ちゃんは目を丸くしたまま僕を見つめていた。

「うぅ……わあああああああッ!」

「きゃあああああああああああ!」

 左手を振り上げて加納を追いかけ回した。

 僕はマジで化けて出てしまった。もう選択肢は加納を呪い殺すしかないのだ。殺す、殺すのだ。僕はこいつを殺すしかない。殺すんだ。

 そのままドタバタと部室の中を駆け回っていると、流石にうるさかったのか隣の部室の壁がどつかれる。アイツも後で殺す。

「うおおおおおお加納ォォォォォォ!」

 しばらく狭い部屋での追いかけっこが繰り広げられたが、ついに僕は加納を部屋の角まで追い詰める。左手を振り上げたままじりじりと詰め寄ったが、加納は普通に僕のお腹に一発ぶち込んできた。

「おぅえッ」

「落ち着いてください蛇神さん!」

 いや、無理だろ……。





「すまない加納ちゃん、僕としたことが錯乱して部室棟にいる全員を皆殺しにするところだった」

「仕方ないですよ、腕がそんなになったら錯乱もします」

 ひとしきり悶えた後、僕と加納ちゃんはひとまずこたつを元の位置に戻し、向かい合ってこたつに入っていた。電源は入っていないがこたつに包まれると温かいし気持ちが良い。左手の長い爪が何箇所か毛布を切り裂いてしまったので、後で修繕する必要がある。

「さて、まずはその左手をどうするかですね」

 机の上に投げ出された僕の左手を、加納ちゃんは鼻息を荒くしつつ、興奮気味に見つめている。すごい触りたそうに手を伸ばしているが、怖いのか触れずにいるようだ。

「……触って良いよ、多分大丈夫」

「……では……!」

「どう?」

「質感がすごく本物っぽいというか……一応生物の手ですね、これ。この浮き出た血管、普通にコリコリしててリアルです」

 いや本物なんだよなぁ、これ。

「どうしましょうね、これ」

「お前がやったんだけどな」

「邪神を招来させる予定だったんですが、まさかこんなわけの分からないことになるなんて……蛇神さん、かわいそうです」

「お前がやったんだけどな」

「私、何でも協力します! 困った時はいつでも頼ってください。一年間はアフターサービスの範囲内です!」

「お前が!! やったんだけどな!?」

「何か困ったことはありませんか?」

「僕の左手新品と交換してくれる!?」

「現在店舗に在庫がございませんのでしばらくお待ちいただくことになりますが……」

「言ったな! 在庫きたら交換しろよ! 僕の左手交換しろよ!」

 アフターサービスはさておき、ひとまず現状を整理しよう。

 加納ちゃんが持ってきたのは、骨董品店で偶然見つけた魔導書。その魔導書には、デル・ゲルドラと呼ばれる邪神を呼び出すための呪文が書かれていた。加納ちゃんは僕を生贄に捧げ、邪神を呼び出そうとしたが、何故か僕の左手だけが怪物化した。

「わからん」

「わかりませんねぇ」

「びっくりするほど支離滅裂だしこの左手見せても経緯の方信じてもらえないと思う」

「私もそう思います」

 わかんねえの主にお前の倫理観とかの方だけどな。

『我も全然わからん』

 唐突に、地の底から這い上がってくるかのような声が部室に響く。思わず肩をびくつかせてから、僕と加納ちゃんは顔を見合わせた。

『何? 何をどうしたんじゃ? 我どうなっとる? イマイチ身動き取れんのじゃが』

 机の上で勝手にびったんびったん左手が動き出し始める。長い爪が嫌な音を立てながら机を傷つけていく。

『うむ、答えろ。我どうなっとる?』

 その声は、明らかに僕の左手から聞こえていた。

「え、何、お前喋れんの?」

『え、まあ……』

 試しに声をかけてみると、わりと普通に返事をしてくれる。困惑気味とは言え声のトーンも落ち着いた感じだし、あんまり悪い奴じゃないかも知れないな、僕の左手。知らんけど。

「あのさ、急にこんなことになってお前もわけわかんないと思うんだ」

『うむ……』

「帰ってもらって良い? ほんと悪いんだけど」

『えぇ……』

 そう思う気持ちはわかる。左手だって急にこんなことになって混乱してるのに、帰れなんて言われたら困るだろう。だが左手がこのままでは困るのだ。オカルトを研究するのは良いがオカルトになりたいとは一言も言っていない。本当に帰って欲しい。

『あの……我さ、左手? になってる感じじゃん?』

「なってるね。というか僕の左手が意志を持ったわけではない?」

『そうじゃな。我お前とはそもそも別物じゃな』

「取り憑いた感じの?」

『近い、それ相当近いぞ。もうそれでええわ』

「あ、じゃあなおさら帰ってもらえると助かるな。僕この左手じゃちょっと日常生活難しいし」

『いやまあ……うん、そうじゃなぁ。そうじゃろなぁ』

 左手はしばらく、考え込むようにして唸り声を上げた後、不意に机の上で派手に跳ねた。

『いやおかしくない!?』

「いやおかしいよ。おかしいんだって今」

『そこじゃないんじゃよ!』

 どこなんだよ。そもそも喋り方が~のじゃ系なのか結構ラフなのかイマイチ判然としないなコイツ。

『我! 我ね!? お前の左手になってるわけじゃん!?』

「何回確認するんだよ、そうだって言ってるだろ。なあ加納ちゃん」

 加納ちゃんもそうだそうだと頷いている。

『でさ、我喋ってるわけじゃろ? 左手のまま!』

「うん、そうだね」

『リアクショーーーーーン! なんじゃその喋って当然みたいなノリ! なんじゃいそれ!』

「そこかぁ……」

 そう言われてもなぁ。

 ぶっちゃけもう一通り驚き終わってるから喋ったくらいで一々驚けないというか、もう一捻り欲しかった気もする。

「もう僕さ、よくわからない儀式の触媒になって変な光が出て、左手が化け物になってるわけじゃん」

『そうじゃな、そうっぽいな』

「もうこれ以上無理じゃないか? 驚き切っただろ僕。ここにきてちょっと喋ったくらいでリアクション要求されてもなぁ」

『肝座り過ぎじゃろ……』

 肝が座り込むまで縛り付けられちゃったからなさっき。

「あ、そうだじゃあお前何者なんだよ? どっから来たわけ?」

『何でそんな転校生に質問みたいなノリなんじゃ』

「彼氏とかいます?」

『我一応人間でいうところの男性にあたるんじゃよ……。その転校生みたいなノリやめてくれんか』

 深淵から響くような野太い声に彼氏の有無を聞いちゃうところが加納ちゃんらしいと言えばらしい。

「あ、スマホ持ってますか? 私今ハマっているアプリがあるので、招待受けてもらえると嬉しいんですけど」

『いや持っとるわけないじゃろ……』

 そういえばこの左手、加納ちゃんや今の僕よりも感性がまともである。どう見ても異形の存在なのに手が喋ったら驚く、とか普通の感性を考慮してくれてるとこあるし、加納ちゃんの質問に一々答えてくれてるし、やっぱりあまり悪い奴には思えなかった。

「まあいいや、最初の質問に答えてくれよ。お前なんなの?」

『我の、名は……』

 左手がそう呟いた瞬間、何故か朗らかだった部室の雰囲気が一気に凍りつく。僕も加納ちゃんも、言いようのない威圧を感じてゴクリと生唾を飲み込む。

 悪い奴かどうかはさておき、こいつは魔導書の呪文の影響で現れた存在だと見て間違いない。もしあの魔導書が、加納ちゃんの言う通りデル・ゲルドラと呼ばれる邪神を呼び出すためのものだとすれば、この左手は……

『そうじゃ……我の名はデル・ゲルドラ。破滅の邪神、デル・ゲルドラ』

「――――ッ!」

 僕の身体のコントロールが一切効かなくなる。今までは左手も含めてある程度動かせていたが、今は何一つ動かすことが出来ない。そのまま僕の身体は、こたつを出てゆっくりと立ち上がった。

『ふふふ……段々思い出してきたのぅ……。我はこの世に破壊をもたらす邪神、デル・ゲルドラ……不完全とは言え我を呼び出したのはそこの小娘じゃな』

 僕の口元が、僕の意志とは無関係にニヤリと釣り上がる。

「良い質問ですね」

 緊張感。

「確かに私です。本日はお忙しいところお越し頂き、ありがとうございます」

『お、おう……』

「大変恐縮なのですが、この世の破滅? というのは了承いたしかねます」

『……それで我が……』

 グッと。左手に力が込められる。振り上げられた左手を、僕の力ではもうどうすることも出来ない。必死に抗おうともがこうとしても、精々左手がプルプルと震える程度だった。

『了承するとでも思うたか!』

「だ、ダメだ! 誠実な対応なんてしてる場合じゃない! 逃げろ、加納ちゃん!」

『阿呆が! もう遅いわ! 我は手始めに生意気なこの小娘を殺し、まずはこの建物全体に恐怖と破壊をもたらしてくれるわ!』

 奇しくも数分前の僕と目的が一致してしまった。

「待ってくれ! アレは気の迷いというか、ほんとにもうヤケクソだったんだ! そんなことを僕は望んでいない!」

『いや関係ないじゃろ』

 ないな。こいつ僕の望みとか聞きに来てくれたわけじゃないしな。

「そういうわけらしい! 僕には止められない! 逃げろ加納ちゃん!」

「そんな! 私が蛇神さんを置いて逃げるなんて、出来るわけないじゃないですか!」

「大丈夫だよ! 加納ちゃんなら出来るよ! お前、僕のこと儀式の触媒にしただろ? 逃げるくらい平気だよ! 大したことじゃない!」

「だからって……だからって私、蛇神さんを置いてなんていけません!」

「僕に構うな! マジで置いていってくれ!」

 というかそんな会話を悠長にしている場合ではない。このままだと僕はデル・ゲルドラに操られたまま、僕の左手で加納ちゃんを殺してしまうことになってしまう。

『ふふふ……何故か悠長に話しているところ悪いが死んでもらうぞ小娘ェ!』

 ほら悠長指摘された。

「クソー! その悪いと思う気持ち、そこの小娘を殺すという行為にもっと向けろよー!」

 ゲルドラはもう、僕のそんな言葉なんて聞き入れはしない。鋭い爪を立て、僕の左手が加納ちゃんに振り下ろされる。

 しかし加納ちゃんはこたつから転がり出るようにしてそれを回避すると、そのまま前転して立ち上がり、僕の腹部に拳を叩き込む

「『おぅえッ!』」

 童貞と邪神の悶絶ハーモニー。だが悶える余裕も与えてもらえず、加納ちゃんは僕の右腕の方を掴むと、そのまま背負投げの要領で投げ飛ばした。

「『ちょッ、待っ……!』」

 背中からドアに叩きつけられ、うつ伏せに倒れ込む僕。加納ちゃんは素早く接近してくると、僕の身体をひっくり返してマウントを取り、左手を押さえつけたまま僕の顔面に往復ビンタを叩き込む。

「ちょ、待っ……ま、痛ェ! 痛ェ! あぁ!」

『いやおかしいじゃろ!? おかしいじゃろこの流れ!? えぇ!?』

 僕もおかしいと思う。

「待て! 待って! 待つんだ! ステイ! 加納ちゃんステイ!」

 そこでようやく、加納ちゃんはビンタをやめて動きを止める。相変わらずマウントを取って左手も押さえつけたままだけど。

「はぁ……はぁっ……!」

「躊躇なさ過ぎない?」

「流石に死ぬかなと思いましたので」

「そうだね、そうだよね……うん……いや良いんだそれで」

 すごい当然のようにやってのけたせいで気づけなかったけど、加納ちゃんも必死だったのか息を荒げている。

『この男は貴様の友人ではないのか!? 何故躊躇なくここまで出来るんじゃ!?』

 そうだそうだ!

「……邪神に限らず弱い部分を狙うのはセオリーなので……」

 弱い部分。

「蛇神さんのボディを叩けばなんとかなるとは思ってました」

『我が言うのもなんじゃけど、こいつやばいのぅ』

「やばいだろ? お前も気をつけた方が良い」

『覚えとくわ……』

 ……何で僕こいつにアドバイスしてるんだろう……。

「デル・ゲルドラさんでしたね」

『そうじゃが……』

「この私の目の黒い内は、蛇神さんの身体もこの世も好きにはさせません」

 不意に加納ちゃんの顔つきが真剣になる。柔らかい印象の、垂れ気味の両目できつく睨みつけ、加納ちゃんは言葉に静かな怒気を込めた。

「邪神デル・ゲルドラ。これからあなたを私の監視下に置きます」

『小娘風情が何を言い出すかと思えば……調子に乗るでないわ!』

 しかし次の瞬間、加納ちゃんが右手を振り上げると僕の身体がびくついた。

「『ひぃッ』」

「あなたを退散させるための呪文は必ず見つけ出します。覚悟しておいてくださいデル・ゲルドラ、次に蛇神さんを操ればただではおきませんよ」

「加納ちゃん」

「何でしょう」

「邪神呼んだの、お前だからな」


 こうして邪神と僕は、加納優妃の監視下に置かれることになってしまった。


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