幸福の小瓶
大切なものは瓶の中にしまっておくといい。長持ちするから。僕が小さい頃、母がそう教えてくれた。
キッチンにはいくつもの瓶が整然と並んでいた。
母は砂糖や塩といった調味料から、梅干しやパスタといった食品まで趣味のいい瓶に詰めていた。
キッチンの電灯の光に照らされて乱反射する瓶は、キラキラしていてとても美しかったのを覚えている。
瓶にものを詰めるのは母の趣味みたいなものらしく、玄関には瓶につめられたポプリ、トイレには消臭剤の詰まった瓶と、家には至る所に瓶に詰められたものが並んでいた。
父はその趣味があまり好きではなかったようで、よく小言を言って、母と喧嘩になっていた。
ある日、僕は母に小瓶をもらった。何かに使おうと思っていたが、微妙な大きさだったため、何に使うにも不便だったという。
幼い僕の手に合わせて作られたような大きさの瓶を僕は大事に受け取った。
大切なものをしまうといいと母には言われたが、何も思いつかない。
僕は小瓶の蓋を開けると、小瓶の口に自分の口を近づけ、ぼそぼそと父と母と過ごす時間が幸せだと呟いた。
当時の僕にとって、もっとも大切なものは三人で過ごす時だったんだ。
しばらくして、僕ははたから見れば、何も入っていない小瓶の存在をすっかり忘れていた。
そんな小瓶のことを忘れてしまうほど、当時が僕にとって目まぐるしいものだったからだろう。
父と母の喧嘩はより一層激しいものになっていた。
子供である僕に気をつかって、表面上は仲良くしているようだったが、夜、僕が寝たのを確認すると言い争いをしていた。僕には詳しい内容は全く分からなかったが、布団の中で、はやく二人の喧嘩が終わって、三人で幸せに過ごしたいと願っていた。
そのとき僕は小瓶のことを思い出した。
僕は小瓶に父と母と過ごす時間が幸せだと言って、瓶の蓋をしめた。
小瓶の中に幸せな時間が閉じ込められてしまったから、今、父と母は喧嘩をしているんだろう。
父と母に気づかれないように布団から這い出し、おもちゃ箱の中から小瓶を取り出すと小瓶の蓋を開けた。
あの後、父と母は離婚した。
小瓶の中にいた幸せは、どうやらもうダメになってしまっていたと、幼い僕は大泣きした。
もちろん、今大人になった僕はあの小瓶の中に幸せが詰まっていたとは考えていない。
だが、小瓶を見ると、父と母と過ごした幸せな日常がまだ詰まっているようで、その小瓶はまだ捨てられないでいる。