桜と梅
「薄桜さま」
紺の袴を揺らし男が庭に面した廊下を歩く。裸足で踏む床板が時折きいきいと音を鳴らす。
歳は四十代ほどだろう。
その身のこなしや所作は町の商人や地主――つまることろ、勉学を学ぶ環境に育ったものだと分かる。しかし、実際住んでいるところはにぎやかな店でも街にある贅沢な御殿でもなく、犬すら居付かぬ寂れた土地のあばら家当然の屋敷だ。
「…薄桜さま?」
再度、同居人の名を呼んだ。手にはみたらし団子と茶の入れられた湯呑が乗るお盆がある。
探している童女は出てこない。男は小さくため息をついた。
倉に籠って宝探しをしているか、屋根で空を見ているか、もしかしたら大きな石をひっくり返してわらじむしでも観察しているのかもしれない。どちらにしろこの時間に呼んでも応じないということは何かに夢中になって気付いていないのだろう。
どうしたものかと思案しながら庭に目をやる。そして瞠目した。
視線の先には見事な桜の大樹が植わっており、枝いっぱいに花を咲かせている。
童女の力の制御の問題でかれこれ三カ月はこの状態だったが、今の問題はそこではない。
その後ろで蝶がへろへろと飛んでいたのだ。男が張り巡らせた結界が壊れる寸前の形。すなわち異常事態の知らせ。
「来たか…っ!」
盆を片手に、裾に手を入れようとしたところで石が飛び込んできた。飛んだのはただの小石だが、その威力は手の甲の皮膚を破るには充分だった。
湯飲みや団子が落下し、喧しい音を鳴らしながら廊下に散らばる。
それらを見下ろし、桜の木の後ろに視線を戻した。
「…あなた方は呼んでいませんが」
「こんなこわっぱめいた結界、入ってくれと言わんばかりだろう?」
そこに立っていたのは妖だった。鬼の形をしたものが、三匹。
そのうち一匹はきひきひと笑いながら結界の残骸を指先で弄ぶ。蝶は音もなく灰になり空気中に散らばった。
「こんなところで清貧な生活していれば俺たちが来ないと思うたか?間抜けよのう」
妖は男に近寄る。男は顔色も変えずに、その場から動かない。
「やけに大人しいな?怖くて足が動かぬか」
「ええ、恐ろしいですよ。おやつを抜きにされた彼女は、それはそれは手が付けられませんからね」
怯えるでも恐怖に震えるでもなく男はほほ笑む。
同時に、妖たちは身が竦むような気配を感じ取った。男からではない。もっと別の、恐ろしい何か。
ごちそうを目の前に彼らは油断をしてしまったのだ。
「彼女はその強い気のせいで妖から逃げられ、私はこの血肉のために妖に追われる。共に行動していれば彼女は飯にありつけ、私は脅威から身を守れる」
「なに…?」
「よい共存関係だと、思いませぬか」
その笑みは絶対の信頼に裏打ちされたものだと、妖には分かるまい。
「ねえ、薄桜さま」
応えるようにりん――と涼しい音が鳴った。
同時に赤い風が舞い降りる。
今まさに男を食らおうとした妖はその正体を確認することも許されずに跳ね飛ばされ、地面にめり込む。
童女がふわりと男と残る妖の間に立つ。
黒髪は後ろで結ばれており、紐には鈴がついている。
珊瑚のように赤い目。
紅に染めぬかれた着物、黒い帯。
人形のように整った顔立ちと、うっすら色づく小さな唇。
「――妖食いだと!?」
みっつ角の生えた妖が叫んだ。
妖たちを気にも留めずに童女は振り向いて、男の手の甲を見る。
血がしたたり落ちている。そこからは鉄錆びの匂いではなく、梅花のごとく香しい芳香が漏れ出していた。
「とびうめ、くわれたか」
「擦り傷です。なにより飛び道具のようでしたから、奴らには一滴も入っておりません」
「そうか。ちょっと、はなれのくらであそんでいたからおそくなった」
「ああ、あんなところにいたんですね。道理で聞こえないわけだ」
呑気に会話をする二人とは対照的に、妖たちは騒ぐ。
「ど、どうする!?逃げたほうがいいんじゃないか!?」
「おい、狼狽えるな!まだ餓鬼当然の妖食い一匹だ! 俺たちでどうにか――」
「へえ、どうにか?」
妖の目の前で鈴が揺れた。一瞬のことだ。瞬きもしない間に童女は妖の目の前に来たのだ。
桜色の唇が横に引かれる。幼く拙い笑みはいっそ恐怖さえ感じさせた。
童女はまるで甘えるように妖の袖を掴み――そのままひょいと投げた。面白いほどに妖が高く飛び上がり、塀に強かに叩きつけられた。反動で塀に大きなひびが入る。
屋敷の補修を担当している男が後ろで小さくため息をついた。
童女はいまだ地面にめり込んでいる妖を引っこ抜く。
全体を見回して、一番肉がついていそうな二の腕に視線を止めた。意識を取り戻した妖は一拍置いて自身の未来を察したが、もう遅い。
あーんと童女は口を開く。
可愛らしい唇とは裏腹に、歯は――否、牙は鋭く獲物の血肉を爛々と待ちわびていた。
「薄桜さま」
だが、すんでのところで男が声を掛ける。
「今はおやつの時間ですよ」
「あ」
言われて思い出したか童女は目を丸くし、牙をひっこめた。
「とびうめのおやつ、たべる」
「ええ。たべましょう」
手に掴んでいた妖を近くにあった木に放り投げると、もはや興味もなくした顔で埃をはらう。
「され」
それから目を細め、睨みつけた。
「おまえらなどたべていたら、はらにはいらなくなる」
「ひ、ひぃぃ!」
唯一無事だった妖は仲間を脇に抱えると結界の破れた部分から一目散に逃げていった。
それを見送ると男は床の惨状を改めて見る。
無残に散らばる団子と、皿の破片。湯呑だけが奇跡的に無事だった。
「……」
「……」
「…あの、薄桜さま」
「だいじょうぶだ、たべる。わたしはあやかしぐいだぞ」
根拠のない自信とは裏腹に瞳は潤んでいた。それもそうだ、団子は童女の好物なのだから。
「食い意地が張っているのは結構ですがこちらの心中が穏やかではないので――そうですね。まだ材料もありましたし、みたらし団子とあんこの団子を作りましょうか。手伝っていただけますか」
「てつだう」
男は手早く食器の欠片と団子の残骸を片付けると、傷のついていないほうの手で童女と手を繋ぐ。
稀有な血ゆえに妖に狙われる男と、甘いものが好きな妖食いの童女。
ふたつの影が桜吹雪の向こうに消えていった。