愛しい人
本作は、とあるイベントにて出されたテーマ【時と少年】を描いた作品です。
時が解決する、そんな言葉はただのまやかしだと思っていた。
ずっとその意味が理解できなくて、その言葉を思い出すだけで耳障りだといつも感じていた。
それが彼女の口癖だったから、余計に――
***
「伸ちゃんは、いつも真面目だねぇ」
「そうか?」
隣で屈託なく笑いながら、面倒くさっと言って宿題のノートを放り投げて寝転がったのは、同級生の宮根心海だ。『みやねここみ』の苗字と名前の真ん中をとって、みんなからは『ネコ』と呼ばれている。
実際、あだ名は本人に影響を及ぼすのか、ネコは本当に猫みたいな奴だった。懐いてきたかと思えば威嚇して、おいでと呼べばツンとそっぽを向いて逃げていく。コイツを飼おうとするのは誰にも無理、もちろん自分にも……と悟ってからは、随分と気楽に付き合えるようになった。
――と思っている、けど。
「おい、スカート捲れてるぞ」
「ん? ……っ! ち、違いますぅー。ワザと見せてるんですぅー」
ちらりと太ももまでさらけ出していたことが恥ずかしいくせに、ばーか見てんなよっ、と悪態を吐きながらスカートの裾を伸ばしているネコ。馬鹿はお前だ、と思いながらも、そんなものに興味が無いとばかりに視線をテーブル上にあるノートから動かさずに、ペンを走らせる音を立てた。間違っても、チラリと見えた生足に唾を飲み込んだなんて態度、俺は見せられない。
「つーか、お前さ。もちっと真面目に勉強しろや」
「えー、やってるしぃ」
「それがやってる態度か、それが」
「やってるじゃん、睡眠がくしゅー」
ひたすらカリカリと数式を解きながら、チラリと横を見るとネコは英語の暗記ブックの真ん中あたりを開いて顔の上に乗せていた。こいつ、本気で寝るつもりだ。
「あのな、それで勉強できるのはドラえもんの」
「はいはい、分かってますよ。ドラえもんの何とかカントカですよね」
「何とかカントカじゃなくて」
「あーもっ、うっさい黙って!」
本当にこいつは何しに来たんだ? そんな思いに駆られて眉を顰めてから、ふぅとため息を吐く。本を顔に乗せて、全く動かないネコをじっと見つめていたら、1分もしないうちに寝息が聞こえてきた。
「マジかよコイツ」
思わず漏らしてしまった本音に、またため息を吐く。無防備にも程があるだろうと怒鳴りつけてやりたい、けどそうすればネコが離れていくのが分かっているから出来ない。こんな中途半端な距離ですら、今俺は満足しているからだ。
壊したくない、壊したくない。
そうやって同じ言葉を胸中で繰り返して、またふぅと息を吐きだしてから手に持っていたシャーペンを放り出した。立ち上がって背にある襖を開け、ネコ専用になりつつあるピンクのタオルケットを取り出す。
耳をネコの顔に近づけて、完全に寝落ちているのを感じてからそっと掛けてやった。以前、寝落ちかけの時に掛けて、伸ちゃんが起こした、ってうるさく怒られたからだ。が、絶対俺は悪くない。そう思うのにこのネコ様に逆らえないのは、気付かぬうちに俺の方が飼われていたせいかもしれない。
***
初めて彼女に会ったのは、小学校4年の時だ。
身体が弱かった彼女は、都会の空気よりも幾分か良いだろうと言うことで俺たちの住む町へと転校してきた。当然の如く、とでもいうべきか。地域密着型、新参者は何モノぞ。と言わんばかりの田舎町に住む小学生の俺たちにとって、縄張りへと張り込んできた転校生の彼女は少し浮いていた。
性格的にも竹を割ったような、と言うのがしっくりくるほどのさっぱりした性格ゆえか、友達と馴染むのが下手くそそうだなと転校当初から感じていたことも原因にはあるだろう。けれど、男子の自分がどうにか出来るわけでもないし、正直さしたる興味はなかった。
ただ、地元でずっと育ってきた他の女の子と、少し彼女は違うなと思っていた。どこが、とか何がではないけれど、幼い男心にも可愛い子だと思たコトは認める。とはいうものの、特段の接点もないまま俺たちの時間は流れた。
そうして6年生になって、好きな子の取り合いだか何だかに巻き込まれたらしいネコは、ちょっとしたいじめに遭っていた。クラスでもあまり女子と馴染まない俺ですら、可愛いと思ったネコだ。他の奴がそう思うこともまた当たり前で、そう言う空気が女子の反感を買った。そしてそれを繕わない彼女の態度が、クラスの女子たちを苛立たせもしてしまったのだろう。
陰湿なイジメという行為にくだらないと思っていたけれど、傍観者を決め込んで何もせずにいたある日。目の前で思い切り彼女が転んだのを見て、ようやく俺は、人ごとじゃないと気が付いて咄嗟に身体が動いた。
『オイ、足出してこかすなんて、つまんねーことやめろよっ!』
誰だか分からないけれど、ネコの足をひっかけるために出した足でネコは驚くほど大きくひっくり返った。ひっくり返ったことは仕方がない。けれどそれをわざと引き起こそうとした態度には耐えられず、ましてそんな人間と同じクラスで過ごしているのかと思うと、思春期特有の潔癖な気持ちが沸き起こって、咄嗟に誰とはなしに対して勢い込んで叫んでいた。
そんな俺に対して驚いたのか、誰も反応を見せないことに苛立って舌打ちを一つしてから、ようやくネコに駆け寄って彼女に手を出したら、初めて手が掴まれた。自分の思っている以上に、女子の手が小さいことに気が付いてドキリとする。しかしそんな俺のそんな気持ちなど一切感じない様子で、ネコは俺の手をすぐに離すと、パンパンと音を立ててスカートを叩いた。
正面から思い切りこけたネコは膝をすりむき、肘にも打ち身が出来て、かなり痛々しい様子に思わず顔を顰める。けれどネコは俺のそんな表情も意に介さず、ぶちまけてしまった色鉛筆のケースとその中身を拾おうと、黙ってその場にしゃがみ込んだ。一瞬、痛みに苦渋の表情を浮かべたけれど、それでも何も言わない。そんな彼女に焦れて、大丈夫か、なんてしょうもない問いかけをした俺に、彼女は言った。
『こんなの舐めておけば治るでしょ』
『舐めときゃ治る、とかじゃなくてさ。このままでいいのかよ』
正直、女子同士のくだらないイジメの現場にも辟易していた。我関せず、と思っていたけれど目の前で起きた現象にそうも言ってられないと気が付き、俺が先生に言ってやろうか、なんてことまで口走ってしまった程だ。けれど、そこでスッと冷めた視線を俺に送り、彼女は告げた。
『下手な口出ししないでくれる? どうせ、……時が解決するから』
小学生らしからぬその言動に気圧された俺は何も言えず、言い返されてバツの悪い思いをした。
というより、恥をかかされた、と思った。
――親切で言ってやったのに、何だよ。
上から目線なその言動こそを彼女が嫌がったのだろう、と気が付いたのはずいぶん後になってからだ。けれど幼かった俺は、それから中学に上がってもずっと、その時の苛立った想いが拭えなくてネコを避けるようになっていた。
しかし、それだけ気にしていると言うのが証拠だったようで、中学3年に上がって張り出されたクラス表を見て、真っ先にあ、と思った。中学入学以来一度も同じクラスにならなかったのに、3年になって初めて同じクラスになった。その時の気持ちは、何とあらわしていいのか分からない。ただ、あ、と思った。一緒だな、って。
正木伸也の俺と宮根心海は出席番号では並びになっていて、中3の受験シーズン、何度もやったテストの度に前後の席になっていた。そのうち、自然と話す機会に恵まれて、いつの間にか一方的に持っていた、ぎすぎすしていた気持ちもなくなっていた。そうして気がつけば、家で一緒に宿題までやる仲になっていて、受験勉強まで一緒にやるのが当然になっていた。俺だけの空間をガンガンぶち壊してくれて、それでいてネコの手を掴もうとすると、するりとすり抜けられていた。
だから俺は――彼女は俺なんかに捕まえられる奴じゃないんだ、って勝手に理解していた。
けれど、それこそ女心なんて難しいものを理解できていなかった俺は、後にその判断を大きく違えていたことに気が付く。それは、もう気持ちを隠すことの方が苦痛になって、ネコを避け始めた高校2年になったころだった。
ネコに彼氏が出来た。
そのショックに俺は耐え切れずに、お前は誰にも懐かないんじゃないのか、と彼女を一方的に罵った。
たくさんの時間を一緒に居た。
2人でたくさん話をした。
2人で喧嘩もした。
2人並んで、昼寝までしたほどだ。
そんな俺たちは、ともすれば恋人のような関係にも他人からは映ったほどなのに、彼女は俺の気持ちなんか1ミリも気が付かずにあっさり振り捨てたと思った。
だって、あいつが言ったのは――伸ちゃんとは、付き合えない。その一言だ。
戸惑う俺は、その言葉がただ辛くて、理解できなくて……それからネコを一切視界から消した。2人の時間も、何もかも。全部を捨てて、気づかぬ間に温め続けた淡い恋心にも蓋をした。
それなのにズルいんだ、あいつは。俺を惹きつけてやまなくて、最後の最後まで俺の心を揺さぶった。
――なぁ、ネコ。俺は、どんなお前だって受け止めてやる度量ぐらい、あったつもりだぞ?
***
「ほーらパパ、可愛い女の子ですよぉ」
耳慣れない、パパ、という代名詞をつけられた俺は、助産師さんから小さすぎる一瞬で壊れてしまいそうな『女の子』らしいその子を手渡された。
「あら、だっこ上手じゃないですか。いいパパになるわねぇ」
ふふふ、なんて言いながら助産師はそのまま俺の元を離れてしまった。慣れない腕の中には、俺の大事な大事な子供が顔をくしゃくしゃにして泣き出しそうな顔をしている。それなのに、なぜか泣かずにぐうっと耐えて、小さく震えていた。その姿が、初めて見た存在なのに愛しくてしょうがない。
「俺の子、か」
ぽつりと呟いたのはそんな言葉。そうしてやっと、俺の中で何かがすとんと胸の奥に落ち着いた。
――ねぇ伸ちゃん。私なんかより、ずっと、ずぅっといい人見つけてね。
――ばか言うなよっ。俺は、俺はお前が、お前のことが……っ
――だめだよ、それ以上は言わないで。
――なんで!?
――時が、解決するから。伸ちゃんの気持ちも、何もかんも、ぜーんぶっ。解決してくれるから。だからそれは、言わないで。
元々身体が弱かったネコは、高3に上がるころには学校に来られなくなっていた。
そうして、彼女は……18歳までしか生きられなかった。よりによって、高3の夏。彼女は俺を置いて、この世を去った。
最後の最後まで気丈な奴で、舐めて治らないこともあるんだね、って逝く寸前に笑っていた。そして最後の最後に俺に残した言葉は、伸ちゃんはいい人見つけてね、だ。
もし私、伸ちゃんと結ばれてたら、穏やかに死ねなかった。もっと欲が出て、死ぬなんて耐えられない。
だから伸ちゃん、何も言わないで――
こんな言葉を残す彼女は、本当に残酷だ。告白もさせてくれないなんて、本当に酷い。
それでも俺の10代の気持ちも時間も、全部ぶっ込んだ価値のある女の子だった。だから、ネコを好きだったことも振られたことも後悔していない。それでも、ずっとずっと、彼女以上なんて無理だと思っていた。イイ人なんてこの世に居ないと思っていた。
でも今、俺の腕の中には――愛しい、自分の血を引く生命がある。
「ネコ、俺いま……幸せだぞ?」
ずっとネコだけだ、そう思っていた。
告白も出来なくて、触れられる距離に居たのに抱きしめることも出来なくて、ずっと彼女が見せてくれる澄んだ瞳に魅せられて、俺は彼女に嵌っていた。そんな彼女に告白すらも許されず、どうしようもないまま燻った想いを抱えて10代を過ごした。理解なんて、出来なかったし知りたくもないと思っていた。
――時が、解決するから
そんなこと、起こるわけがない。
俺がネコを好きな気持ちは、生涯消化しきれないだろうし、きっとネコ以上の女の子なんて自分の人生には現れるはずがないと、10代の潔癖な精神は新しく出会う人間を拒否していた。
それなのに……俺の前に、腕の中に眠る我が子を産んでくれた、愛しい人が現れた。
初めて会ったときは、なんてトロ臭い奴なんだろうと呆れた。
何もないところで躓く。人の悪意には気づかないし、そのくせ善意に対しては過敏で、ありがとうありがとうと何度も言うのだ。ネコのように寝転がって、睡眠学習、なんてふざけたことを大よそ言えるキャラではなくて、綺麗に正座をしながら雑誌を読むほどの、ふざけているのかと思わせるほどのクソ真面目。
正直、要領の悪さにイライラした。
それでいて、最後には手を出さずにはいられなくなって、仕事で困っているのを見ては、不機嫌顔を丸出しにしながら何かと手を焼いていた。
極め付けは、傘破壊事件だ。
台風が近く、暴風暴雨に見舞われたある日。例によって鈍くさい彼女は、傘を開いた瞬間に逆方向へと傘が吹き飛び、挙句全身に豪雨を受け止めていた。その様子に呆れながらも、彼女がこの状態を晒しながら帰宅することを思うと可哀想に思って、自分の傘を差しだした。
『折り畳みだけど、アンタなら大きさ足りるだろ』
折り畳み傘は、男の俺には小さいもので、まして目の前の暴雨では確実に無意味なものに成り下がると思えた。だけど、彼女なら多少の盾になるかもしれない、そう思ったのに――
『あ……、お、お、折れちゃい、ました……っ!!!』
傘を開いた瞬間、強風によって本来の用途を達成できない状況にされてしまった俺の傘。ケンカ売ってんのか!? って言いたくなるほどのありえない事態が起きたのに、なんだかあまりにも彼女らしくて笑えて久しぶりに腹の底から笑った。そうしてなぜかその瞬間、ストン、と何かが胸に落ちた。
コイツは俺が守ってやるしかないな、って。そんな気持ちが。
行くぞ、と言って手を差し出して勝手に手首を掴んで歩き出すまでにどれくらいかかっただろうか。一瞬だったかもしれないし、1、2分くらい経過していたかもしれない。ただもう、ストン、って落ちた瞬間に、コイツは俺のだって思った。そこに理屈はなくて、ただ守るのは俺だって思った。
そうやって無理矢理俺に俺の中に落ちてきた彼女は、戸惑いつつも掴む俺の手を離さずにいてくれた。不器用ながらに握り返してくれた時、ネコのスカートが捲れた時のような情欲が身体の奥底から込み上げてきて――むしろ、それを超えるような気持ちがせりあがってきて、抑えが利かなくなった。
強引に家まで連れ帰ってタオルにくるんで、そのまま抱きしめて。開口一番に言ったのは、俺に守らせろ、って言葉。戸惑う彼女は俺の勢いにただただ圧倒されて、目を丸くしていた。
けれど最後にふわりと笑って、お願いします、なんて馬鹿丁寧な返事をした彼女にまたノックアウトされて、俺は無我夢中でキスをしていた。
理屈なんてない。
もういきなりドンっと彼女が入ってきて、この瞬間にはネコのことなんてすっぱり飛んでいた。
それで初めて、時が解決する、と言う言葉がじわりと胸を刺した。理解したくないとずっと反目していたのに、気がついたら逃げられないくらいにその言葉がのしかかってきていた。
それでも彼女から離れるなんて考えも出来なくて、ある日弱い俺はネコのことを洗いざらいぶちまけた。
それはあまりにも酷くて、言った傍から後悔したほどだったのに、彼女は言ったのだ。
――ネコさんを好きだと言うあなたそのものを、私が守ります。
その言葉にたまらなく泣けて、涙が止まらなくて。ネコが死んでから、初めて俺はネコのことを思い浮かべながら泣いた。
でもさ、聞いてくれよ。
アイツ、死んだ人と比べられると辛いけど……っていうか、私なんて誰と比べてもドジでどうしようもないと思うんですけど、大丈夫でしょうか。ってさ。笑えるだろう?
ネコだったら、私がいて大丈夫じゃないわけないじゃん、とでも言いそうだって思ったら、たまらず吹き出してたよ。
10年前には分からなかった、時が解決してくれるよ、と言う言葉が腕の中の存在を見下ろしながらじわりじわりと広がっていく。そんなこと、本当は知りたくもなかった。
でも俺は、いつまでも少年では居られなくて、時は、俺を少年ではなくしてしまった。一生涯に一人だけ、そんな恋でもいいと思っていたけれど、それだけが全てではないと大人になった俺は言える。
ネコを嫌いになることなんて一生無い。
そして、ネコをきっと死ぬまで忘れなくて、一番ではないかもしれないけれど、多分一生好きなんだ。
でも、そんな俺でも今、イイと思っている。
そうして彼女が、そんな俺を良いと言ってくれている。
――なぁネコ。俺は、……間違ってない、よな?
揺れる瞳の先、そう問いかけながら窓の外を眺めると、ネコと最後に会った日を思わせるような、綺麗な青空が広がっている。あの日は別れの青空だったけれど、今日は初めましての喜ばしい青空だ。
「空海で、あみ、って名付けたら、まずいかなやっぱ」
ネコなら、ばーっかそれじゃ「くうかい」じゃん、くらいツッコむだろう。でも彼女なら、そんな風に読める字を考えるなんて、伸さん賢いですねーってのんきなことを言いそうだ。
そんなことを想像しながら、くすりと笑う。
いつの間にかスヤスヤと寝てしまった我が子に、さらに募る愛しさを感じながら、俺は緩む頬を引き締めることも出来ないままに彼女の元へと向かう。顔を見たら、どう言ってやろうか。
愛しい君に出会って、俺は今、最高に幸せだ。
26.7.3 【完】
26.9.5 【転載】
イベントの規定が、1ページ1000文字以内×10Pというもので、短い作品となりました。長編で読みたかった、との嬉しいコメントも頂きましたが、長編に出来る余力もなく、この作品は短編であったからこそ出来上がったものだと思い、加筆修正することなくアップしています。テーマから逸れていないかが一番心配ですけども。
最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。