水の中
ごぼ、っと空気が上昇する音で目が覚めた。四方上下は透明の膜で覆われたように不鮮明で、微睡んだ視界はゆらゆらと揺れている。まるで水の中にいるみたいだ。いや、水の中にいるのだ。ここは大きな水槽だ。こぽこぽと僕の吐いた二酸化炭素が上へ、上へと上っていく。手を前方に伸ばすと呆気なく指先が硝子に触れた。爪先も少し伸ばすと水より冷たい無機質な感触に触れる。天井はどうやらもっと、高い。何で、僕はこんな所にいるのだろう。何も思い出せない。
こんこん、と硝子を叩く音が水を振動させた。ぼやけた視界の向こうにいるのはどうやら女だった。何時からいたのか、ずっとそこにいたのかは分からない。女は真っ赤な口紅を引いている。それは僕の不明瞭な視界の中でもよく映えた。毒々しい赤が何かを話している。「 」どうやら僕と女を隔てる硝子は思ったよりも分厚いようで、僕には何も聴こえなかった。こぽこぽ。呼吸の音だけはこんなにもよく聴こえるのに。
それから僕はずっとここにいる。水の中は思ったよりも快適だ。僕は眠る時と、日に何度かある女の訪問以外はゆらゆらと水に身を委ねている。食事も、排泄も水の中では必要なかった。僕は誰なのか、僕は何でここにいるのか。初めこそは疑問に思ったものだが、今はもうそれさえ如何でもよかった。こんこん、と女が硝子を叩いた。今日も女は赤い唇で何かを僕に伝えようとする。そうして最近は硝子越しに、僕へとキスを送るのだ。
女がいなくなった後、べったりと硝子に残る赤に僕も口づける。水の中は快適だ。眠ることと、日に何度かの彼女との逢瀬があればもう何も必要ない。しかし彼女の唇に触れられないということだけが、少し残念なようにも思うのだ。
僕は何時ものようにこぽこぽと二酸化炭素を吐き出してから、ゆっくりと目を閉じた。
「ごめんなさい」