45話
――洛陽のとある館――
館の一室にて一人の小柄な女性が座していた。
彼女は連合軍に対抗する為の指示を竹簡に記しているのだ。
「くそ…………くそ、くそ! どこに居るのよ!? ……このままじゃ……」
その女性は持っていた墨筆を床に投げつけ、険しいというよりはむしろ悲愴な面持ちで叫んでいた。
女性の名は賈詡文和(かくぶんわ)、真名を詠(えい)と言い、連合の討伐対象である董卓の腹心であり、今回の戦の総大将であり、軍師であり、文官であり、そして親友であった。小柄で緑色の髪に眼鏡をかけており、武才が無い代わりに文の才に長けていた。
賈詡がこのような悲愴な顔をする羽目になった発端は、張譲の誘いに応じてしまった事にあった。賈詡は張譲という嘉徳殿に長年棲み憑いた魔物の力量とその性質を測り切れなかったのである。
相手に善からぬ思惑があることは承知していた。しかし、それは賈詡も同じであった。
張譲は武力・軍事力を欲し、賈詡は朝廷の権力・発言力を欲したのだ。両者共に力を求め互いの利害は一致していたのだ、どちらが主導権を握るかという点以外。
ただ、張譲が一枚上手だったというだけである。ただ、それだけなのだ。
たったそれだけの事が、賈詡に一生分の後悔を体感させていた。後悔が何も益を生み出さないと知っていても、賈詡にはそれを感じずにはいられなかったのだ。
頭脳明晰で連合諸侯お抱えの名軍師にも劣らない、むしろ計略に関しては抜群の才覚を見せる賈詡だったが、彼女には大きな欠点があった。
それは他人に頼ることを好しとしない頑固さとで異常なまでの董卓への狂愛であった。
張譲などはまさに正反対である。他者は利用出来る限り酷使し、用済みとなればあっさりと斬り捨てる代替品と認識していた。皇帝でさえ御飾りと思っているかもしれない。
賈詡が負けたのは、ある意味必然と言えるだろう。
その結果、董卓は囚われの身となり、賈詡は張譲に言われるがままに政を行うことを余儀なくされたのだ。
「月(ゆえ)……月……どこに……居るのよ……?」
いつの間にか賈詡の両目から涙が零れていた。
一旦溢れ出した感情は留まることなく噴き出して声を押し殺して泣きじゃくった。
二刻ほど経過して、侍女がやってきて扉の前で呼びかけてきた。
「賈詡様。今宜しいでしょうか?」
「す、少し待ってなさい……!」
賈詡は慌てて涙を拭い、息を整える。
「……入っていいわよ」
彼女は決して他者に弱みを見せない。見せてはいけないと思っている。
「失礼します。張譲配下の者を探らせていた部下から先程、隠れ家らしき屋敷を発見したと報が入りました」
「月は!? 月は見つかったの!?」
僅かに見えた光明に焦りを隠し切れない賈詡。
「それが……警備が厳重な為、忍び込むのはほぼ不可能で確認出来ておりません。しかし、あれだけの警備がされていることを考えると……」
「月が幽閉されている可能性は高い、ということね」
「はい。親衛隊と私兵団を密かに招集しますか? 今なら張譲に気付かれる前に制圧し董卓様をお救いする事も可能かと……時間との勝負になりますが」
賈詡は思案する。
その隠れ家に董卓が居れば何の問題もない。救出して逃亡する計画は練ってある。
問題なのは万が一董卓が居なかった場合だ。そうなったら厄介なのである。
大部隊を動かす以上は失敗は許されない。
しかし、内情が分からない現時点では確実に制圧出来るだけの多勢を動かす必要があるのだ。
これは賈詡にとって一種の賭けであった。
チップは自分自身と董卓の命。
ボク自身はどうなってもいい……月さえ無事なら……。
でも、月を助けられないままで死ぬことは……出来ない。
連合が結成されて攻めて来たのはボクらにとっては好都合だった。
張譲の目|(間者)が連合に向いてくれたおかげで、以前より自由に動けるからだ。
恋(れん)達になるべく時間を稼いでいてくれってお願いをしてあるけど、本当は彼女達にも死んで欲しくなんか無い。
無理だけは絶対しないで欲しい……けど、ゴメン……ボクは最終的には月を選ぶよ。
董卓軍の連合に対する方針は『撃退』では無い。
総大将である賈詡から指示されたのは『戦状維持』であった。
交戦は積極的に行わず、とにかく防戦で膠着状態を維持せよ、と言うのが当初出された作戦であった。
連合軍は寄せ集めである為に連携が弱く、物資の補給線が確保出来なければ戦線を維持出来なくなって撤退せざるを得なくなると賈詡は説明した。
しかし、それは彼女の真意では無かった。
賈詡が本当に描いた青写真は、この状況を引っ繰り返すフルカウントからの逆転満塁ホームランを狙ったようなものだった。
だから、誰にも言えなかったのである。
「確証の無い今はまだ動かないで。顔の割れていない者を数名宛がって頂戴、頼みたい仕事があるの」
「は。すぐに!」
そう言い侍女は部屋を出て行った。
「月……みんな……」
自責の念と董卓への想いが強過ぎて賈詡の視野を極端に狭め、本来優れているはずの判断・分析能力を鈍らせていることに彼女自身は気付いていない。
そして、それを指摘してくれたであろう者は今現在洛陽を離れていたのだった。
――虎牢関――
虎牢関を守護する将は『天下の飛将軍』として名高い呂布奉先(りょふほうせん)、真名を恋と言う。圧倒的な武力を誇るが、普段はボケーっとしており無口で何を考えているか分からない存在である。肌は色黒で髪は赤毛、犬猫などの動物が大好きという。
もう一人は張遼文遠(ちょうりょうぶんえん)、真名を霞(しあ)と言った。こちらも『神速』と名高い用兵術を駆使する勇将で武力にも優れており、紫髪で胸にはサラシを巻き、李典と同じ方言で喋るのが特徴である。
そして軍師である陳宮公台(ちんきゅうこうだい)、真名は音々音(ねねね)と言う。呂布と敬愛しており、常に行動を供にしている。軍師としてそこそこ有能ではあるが、波が激しく安定性が無いのが欠点と言える。小柄で身軽な体躯を生かした飛び蹴りを得意とする。
主な武将はこの3名であり、実質彼女らが董卓陣営の最高戦力でもあった。
「ねね、賈駆っちから連絡あれへんの?」
「今の所は何も無いのですぞ。それよりも連合が汜水関まで来たそうなのです! 華雄一人でどこまで凌げるのかの方が、ねねは気がかりなのですっ!」
「あぁ……暴走せーへんように祈るしかないやろ。ウチらは突破された時に備えるだけや、連合の顔ぶれと数は戦況と一緒に探らせんとな」
洛陽の状況と賈駆の心境を察しているのが、この張遼と陳宮の2人である。
だからこそ、賈駆から新しい指示が来ない限りは出来るだけ時間を稼ぐつもりでいた。
――汜水関・華雄陣営――
一人の斥候兵が城門での物見から戻って来た。
「華雄将軍、反逆者共の先陣がゆっくりと向かってきております。如何なさいますか?」
「城門の弓兵は射程に充分捉えてから迎撃するように伝えよ。その他の隊は別命あるまで籠城の策を維持せよ! 寄せ集めの逆賊など私が一網打尽にしてやりたいが……賈駆がとにかく時間を稼げと煩いのでな」
「はっ!」
董卓軍の総大将であり軍師でもある賈駆は華雄の武人としての力量は信頼していたが、猪武者な性格だけは信用出来ずにいたのだ。しかし、武将の数も限られている戦力を効率的に分配した結果でこうなったのだ。
だからこそ華雄の側近や隊の副官にも暴走させないように、と強く言い含んでいた。
そんな部下の苦労も知る由も無い華雄はまもなく始まろうとしている決戦に昂っていた。
その時である、大地を揺るがす地鳴りのような音が轟いてきたのだった。
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