4話 童子のお仕事(挿絵あり)
月日は流れに流れ、李鳳は十歳になった。たゆまぬ鍛錬により膂力や技巧は著しく成長したが、背丈はあまり伸びていない。二つ上の義兄・侭は大人と変わらぬ程大きくなっており、その差は年々開いていくばかり。
李鳳の黒髪は癖が強く、整えてもすぐボサボサになる為、諦めて無造作ヘアを貫いている。大人びた雰囲気を出すように努めているが、見た目はまだまだ幼いままであった。二十歳を超えていれば、若く見られて喜べるだろうが、李鳳は違う。年齢と身長は李鳳にとってコンプレックスと言えた。
働かざる者食うべからず。本来は徒食を戒める言葉であるが、この時代では言葉通りの意味を持つ。それは子供とて例外ではない。貧しい家庭は特にそれが顕著であり、賊ともなれば言わずもがな。李一家の子供達は幼い頃からそれを徹底して教え込まれた。
仕事を叩き込まれると言っても、所詮は子供である。己を殺して割り切る事は大人でも難しく、また大人ほど力も体も強くない。任務中に泣き出す事や、失敗して命を落とす事は日常茶飯事であった。
まだ残暑の続く秋の夜長、月明かりが照らす河を一隻の商船が下っていた。中華大陸を流れる運河は恐ろしく広い。その広大さは海さながらである。その水面を商船から突き出た何本もの櫂が漕いで行く。
緩やかに進む船の甲板には、デッキブラシを握る黒髪の少年がいた。清掃員兼給仕係として潜入中の李鳳である。満天の星空の下、キラキラと輝く額の汗を拭う。
(ふぅ……くくく、これでもかって位磨いてやったぞ。ここまでピッカピカになれば、ぐうの音も出まい。ふははははは)
「ぐ~」
(なにっ?)
李鳳の背後で誰かの腹の虫が鳴く。振り返ると、上質な衣服を身に纏った小太りの中年が立っていた。
「雷、甲板の掃除にいつまでかかっておる? そこが済んだら次は船底だぞ。あいつら糞尿を垂れ流しおって、臭くて堪らんわ。これだから田舎者は嫌なのじゃ……おい雷、聞いておるのか!? ったく、愚図が! あ~腹が減ったわい」
雷というのは李鳳の事である。潜入任務の際は、この偽名を使う事が多い。
一方、怒鳴り散らす小太り中年は李鳳の雇い主である。以前は洛陽に店を構えて商いをしていたが、縄張り争いに敗れた現在では地方を転々とする旅商であった。しかし、阿漕な商売で得た蓄えのおかげで、未だに贅沢な暮らしをしている。
「申し訳御座いません。すぐに取り掛かります」
李鳳は深々と頭を下げた。小太り商人は李鳳と同じように顔中に汗を浮かべ
「暑い、暑い。これだから田舎は嫌なのじゃ……」
そう言い残し、ギシギシと板を踏み鳴らして船室に戻って行く。
(お前の体臭の方が数倍鼻につくよ、お豚様。都落ちした畜生の分際で……「ブヒブヒ」鳴いてりゃあ、まだ可愛げもあるのにな。そもそもこの季節は田舎も都会も関係なく暑いんだよ。それが嫌ならもっともっと北に行きやがれ……いや、あのお豚様ならどこ行っても「暑い暑い」言ってそうだな。くひひひひ)
李鳳は商人を見送ってほくそ笑む。甲板の掃除を終えて船底に下りると、そこは異臭で充満していた。その臭いに流石の李鳳も少し顔をしかめる。何度も経験しているが、未だに慣れない。
船底では二十人以上の男が虚ろな目をして櫂を漕いでいた。彼らは漕ぎ手として商人に雇われた沿岸の村に住まう貧民達である。近年は塩害のせいで作物がうまく育たず、苦しい生活を続けて来た。彼らは見せかけの給金に目が眩み、結果として割に合わない労働を強いられている。しかし、彼らに逆らう意志はない。ギリギリで生かされている彼らは、半ば奴隷と化していた。
(臭いは仕方ないとしても……こいつらはこいつらで終わってるな。完全に目が死んでやがる。その日その日が生きれれば満足ってか? 豚に飼われる家畜ってのも……笑えるな、くっくっく)
李鳳の仕事には漕ぎ手の世話も含まれる。日に数度こうして船底を訪れては食事の用意をしていくのだ。
「皆さん、お疲れ様です。糞桶を取り替えに来ました。夕食は水洗後に持ってきますね」
努めて和やかに話しかける李鳳であったが、彼らから返事はない。ブツブツ呟いて櫂を漕ぎ続ける。
「……飯……飯」
彼らには根本的なものが欠けていた。疲労は確かに溜まっているだろうが、彼らは考える事すら放棄している。
(まるで生きる屍だな。落ちぶれてはいるが……賊の俺よりは遥かにマシか? 皮肉だね、コイツらの方が上等な人種だなんて……どんなブラックジョークだよ? くひひひひ)
李鳳は慣れた手付きでテキパキと汚物を片付けていく。その流れるような所作は熟練の域である。
当初、李鳳は潜入に向かないと思われた。子供らしくない部分が怪しまれると懸念したのだ。しかし、初任務で彼は意外な才能を発揮する。驚くべき事に李鳳は社交性に富み、他者の心を掌握する術に長け、更には演技派の役者であった。全ては前世の知識と経験の賜物である。
これまで李鳳は驚異的な確率で仕事を完遂してきた。李鳳が関わった案件はほぼ全て成功している。当然、李鳳の株はますます上がった。対抗心を燃やす侭が潜入任務を買って出たが、李鳳とは逆の意味で体格がそれを許さない。悔しがる侭の代わりを何とか務めようと舎弟AとBが奮起するが、結果は芳しくなかった。
いつしか李鳳はこう呼ばれるようになっていた――『李一家の麒麟児』と。
(船への細工は仕込み済みだ。あとは一服盛った薬が効いて奴らが眠ってから、船の進路を本川から派川に変えるだけ……俺がガキだからって疑いもしないとは、なかなか心の広い汚豚様じゃないか。はっはっはっはっは、臭いけど)
李鳳は商人の船室を訪ねた。酒を届ける振りをして、薬が効いたか中の様子を確認するのが目的である。
「し、失礼します。つ、追加のお酒をお持ちしました」
室内には空になった酒瓶が何本も転がっていた。小太り商人は料理を頬張りながらも声を荒げる。
「遅い! 何をしておったのだ、愚図が! あ奴らの飯など後回しで良いのじゃ! 臭いし、不潔じゃし……臭いのじゃ!」
叫ぶ事で食べカスが辺りに飛び散った。小太り商人の室内は船底に負けないくらい汚れている。
(汚ェ……臭いのはお前もだよ、それにしても意外だ。とっくに酔い潰れて寝ていると思ったのに……予想外の耐久性で粘りやがるとは)
李鳳は少し感心していた。しかし、任務が最優先の為、急いで酒を注ぐ。勿論、睡眠薬入りである。
「ど、どうぞ」
「うむ。それにしても、ここは夜でも暑いんじゃの。ヒック……何だか今日はよく回るのぅ……うぃ」
注がれるままに商人は酒をあおった。何度もお酌をして漸く眠りに付いた商人を、李鳳は揺すって起こす。目を覚まさない事を確認し、安堵の息を漏らす。
「ふぅ、危なく予定が狂うところだったな。まっ、いざとなれば当て身で気絶させたけど……汚豚様にしては、よく頑張った方か。くっくっく」
口角を上げて笑う李鳳の顔に、先ほどまでの幼さは残っていない。小太り商人は他人を叱咤する事で自尊心を満たす小物であった。彼は何事も完璧にこなす優秀な子供など求めていない。李鳳はそれを見抜き、商人が気に入りそうな凡夫を敢えて装ったのだ。
効果はてき面だった。沢山いた付け人の中で、同行を命じられたのは李鳳一人である。他の付け人が李鳳より愚図だからではない。他の者は言われなくても仕事をこなすので残してきたのだ。それが命取りになるとも知らず――。
イビキをかいて寝入る商人の懐を探り、李鳳は倉庫の鍵を抜き取った。他にも金銭や意匠をこらした短刀なども奪い盗る。
(なかなかの業物と見た……正直、全然分からないけど……よし、ネーミングセンスに定評のある俺が銘を授けよう。汚豚様が持っていた短刀でしょ……うーん…………短足豚野郎! もしくは子豚丸! どっちがイイかな? どっちも捨て難い……)
頭を悩ます李鳳であったが、仕事が残っていた事を思い出す。思考を切り換えて船室を後にし、護衛と漕ぎ手の様子を見に行く。すると、商人同様皆眠りに付いていた。
李鳳は舵を取って分岐から派川に進路を変える。一味が待つ合流地点はこの先であった。
(これでまた、物資の流通が途絶え町や村で餓死者や流民が出るんだろうな……弱肉強食の世界か、真理ではあるんだろうけど……面白くないな。他者を蹂躙するのは楽しいだろうけど……絶対、“強肉弱食”の方が笑えるだろ! まっ、他人がどうなろうと――いやいや、他人は大事だよね。うん、俺には必要だ……だって、夢があるもん! くっくっく、母上。俺は立派に育ってますよ。他人が労して得た物資を奪い盗って……ね)
李鳳は舵を手に夜空を見上げる。
(満月か……月までの距離は約三十八万キロ、この時代の人間じゃアレに行こうって発想すらないよな。そもそも月の満ち欠けだって理解しているかどうか。侭なんか月は何個もあるって豪語してたしな……くくく、そういう考えも悪くない)
合流地点を過ぎると、甲板に飛び移って来る複数の気配を感じた。忍び足で近付くと、李単と配下の先遣隊が周囲を窺っている。
李鳳は警戒されないように合図を送り、物陰から姿を現した。そして聞かれる前に状況の説明を始める。
「船員は全て眠らせた。これが倉庫の鍵」
「首尾は上々のようだな、寄越せ」
李鳳は鍵を投げて渡した。上手くいったにも関わらず、李単の表情はあまり嬉しそうではない。
「貴様の役目は終わりだ。さっさと燈に報告しろ」
淡々と命令する李単。李鳳も黙って頷き返すだけである。そこに主従関係は見えても、親子関係は微塵もないように見えた。いつもの事なので誰も不思議に思わない。
立ち去る李鳳は後頭部に強い視線を感じたが、振り向くのが面倒なのでスルーした。
(やれやれ、これでやっとあの異臭から解放されるな……色々あったけど、ありがとう。そして……さようなら、汚豚様。この短刀は形見の品として大事に使わせて貰うよ、くひひひひ)
懐刀を擦って李鳳は笑う。この日李鳳は初めて李一家の鉄の掟を破った。金目の物は全て足のつかないルートで捌き、換金してから分配するのが決まりである。無断で着服した者は容赦なく李単が処断してきた。狡猾且つ残忍で小心者の李単は反逆行為を決して許さない。
李鳳は知らなかった。物欲が少なく金品に興味が薄かった李鳳は、これまで一度も戦利品に手をつけた事がない。そのせいで掟の存在を失念していた。
とんでもない火種を抱えた事に気付かず、李鳳は鼻歌まじりで燈の下へと向かうのであった。
最後まで読んでくれて、ありがとうございます。
挿絵は「はぶー」様提供です。
この場を借りて感謝申し上げます。
2014.05.02
時系列に沿うよう話を入れ替えました。
一部修正および加筆も行っています。
2014.05.04
サブタイトルを追記しました。




