3話 幼少と成熟のあいだ
とある寝室で李鳳は寝転がっていた。時折煽と塁が食事を運んでくれる以外に人の出入りはない。
夕方になって燈が訪ねて来た。そこで語られたのは、斉が死んだ事、それも暗殺者であった事という内容である。李鳳は耳を疑う。呆ける李鳳を見て、燈はいつも以上に優しく頭を撫でた。李鳳は少なくないショックを受けている。
「さ、斉が……暗殺者で、死んだ?」
「うん。浮浪の流民だとばかり思ってたけど、実は李一家討伐を目論む県尉が放った間者だったらしい。伯雷が気付いて殺してなかったら……危なかったよ。アジトの場所はバレた可能性が高いから、近々引っ越す事になる」
「……はぁ」
李鳳は溜息のような生返事を返す。
「何にしてもお手柄だよ、伯雷。そうそう、日頃の君の上達ぶりと才気はお頭も認めていてね。今度からは李家秘伝の隠形と暗殺術を教えてくれるみたいだよ。頑張ってね。態度にはあまり出さないけど、お頭はいつだって伯雷の事を一番に気にかけているんだから」
「……はぁ」
燈は努めて笑顔で話すが、当の李鳳は上の空であった。
(まさか……まさか、そんな事になっていたとはね……驚いたよ。ってか……逃げたな、斉)
李鳳の思考は遥か彼方であり、その目は遠くを見ている。
(くそっ、絶好のカモにして良きライバルになると思ったのに……大方、お漏らしの羞恥心に耐え切れなくなったんだろ。もしくは先輩方のイビリが過激で逃亡したか……どっちにしろ、イビってた先輩の代表格が燈だと見て間違いないだろう。燈は責任逃れの為に偽の報告をして、情報を操作した可能性が高い。もしくは李単と結託して丸く収めようって魂胆だろ。イイ奴だと思ってたけど……案外腹黒いな、うちの参謀だし悪知恵は働いて当然か。さては今後も俺を利用して自分の手は汚さずに、高みの見物を決め込む気だな……おのれ、策士め)
李鳳が思考の海を遊泳していると、いつの間にか燈は居なくなっていた。そして、そのまま夜は更けていく。
翌日から李単のスパルタ訓練は苛烈さを増した。剣や拳に込められた殺気からも、李単の本気度が窺える。養父だからとて手心など加えず、まだ幼いからとて容赦はしない。
李鳳は訓練のたびに気絶した。覚醒以来鋭敏になった痛覚は、小さな怪我でもあっさりと意識を刈り取る。それは自己防衛本能であった。脳が情報の受け入れを遮断する事で、痛みによる精神の崩壊を回避したのである。
気配の消し方から始まり、人体の急所や捕縛・拷問に至るまで実戦形式で叩き込まれた。厳しい訓練は毎日のように続き、李鳳は生傷が絶えない。それでも李鳳は弱音を吐かず、侭達が遊んでいる間も一人鍛錬を続けた。
季節が一巡りした頃、李鳳は印可を得る。それは驚異的な早さであった。才能がなければ一生不可能、凡才ならば二十年、才能があっても十年かかると言われている。現在は皆伝の李単も例外ではなく、印可まで十五年を要した。ただし、これは男に限った場合であり、女はその限りではない。しかし、李鳳は間違いなく天賦の才を有している。それだけは揺るがない事実であった。
「貴様に印可をくれてやる。今後も……励め」
李鳳に印可を与えた日、李単は一言だけ労いの声をかけた。これに満足せず精進を続けよという意味である。その言葉を聞いて、李鳳はキレた。
(はぁ!? ハゲてねェよ! だいたいMッパゲ予備軍のアンタに言われたくないね!)
心で毒づくが、表情には決して出さない。
「……はい、ありがとうございます」
内心とは裏腹に感謝を述べる李鳳であった。解釈は間違っていたが、やりとりは成立している。李鳳は度々このような勘違いをした。大人の頭脳と子供の肉体が綱引きするせいか、李鳳の精神はとても不安定なのだ。この勘違い癖が重大な過ちへと繋がるのだが、それはまだ先の話である。
斉の一件で李一家は拠点を北の呉群に移した。斉が逃亡したと思っている李鳳は出来る範囲で情報を集めたが、噂すら聞く事は出来ない。本当に死んでしまったのだから、当然であろう。
李鳳は友人が少なかった。いないと言っても過言ではない。李一家と馴染みのある賊仲間がよく子供を連れて来たが、同年代の少年少女は論外であった。一緒にママゴトをやって遊ぶ程子供ではなく、無邪気な悪戯を笑って許せる程の大人でもない。精神状態が不安定な影響もあるが、元来李鳳はそういう人間なのだ。
しかし、そんな李鳳に転機が訪れた。
李一家に拾われて七年が過ぎた頃、李鳳は夢の中で信託を聞く。それは母親が残した遺言であり、真実を綴った記録であった。
李鳳は実の両親が何をして、何を思い、何を成し遂げたかったのかを知る。そして、母親が命と引き換えに与えてくれた加護の存在を知った。二度の人生を通して初めて母親の愛を感じたのである。そして、大いなる存在も――
(神様……もしくは、それに類似する存在って本当に居るんだ。信じた事もないけど……疑った事もない、興味がないからね。どうやら俺がお気に召さないようだけど……ミートゥだよ)
信託はDVDを再生するかのように夢の中で映像と音声で語られた。しかし、七年も昔のそれは古びていたせいか音飛びや映像が乱れるシーンもあった。そのせいで李鳳には全容が正確には伝わらず、彼は独自の解釈で補完する。これが彼の人生と人格を歪める発端になった事は本人すら判っていない。
朝になって夢から覚めると、李鳳は虚空に向かって呟いた。
「母上、感謝します。この世に再び生んでくれた事、受けた恩……決して忘れません。恨みなどあろうはずもない。あの世という世界があるのなら、これから俺が成すコトを見届けて下さい。そして……存分に笑って下さい、くくくくく」
李鳳の笑みは狂喜に歪む。七歳の誕生日にして李鳳は母親の想いと真実を知った。自分の成すべき事が間違いでないと確信し、夢の実現に向けて更に邁進していく。
(母上、俺はやりますよ! 他人の事などどうでもイイ、俺と母上だけが笑って暮らせる世界――理想郷を創って見せます!)
李鳳は満面の笑みで宣誓した。彼の彼による彼の為だけの世直しが今まさに始まったのである。
(それにしても加護か……この異常な身体能力はそのせいか。前世でこのスペックがあれば左団扇で暮らせたな。スポーツ全般嫌いじゃなかったけど、平凡の域を出なかったしな)
加護は身体能力の向上だけではなく、回復力や免疫力の強化にも作用している。それだけに留まらず、身体の頑丈化や感覚の鋭敏化という効力も働いていた。
しかし、人の身で行う『神おろし』の儀式は完璧ではない。李鳳に施された加護は非常に強力である反面、大きなデメリットを抱えていた。それが“痛み”の倍増である。大いなる力には大いなる代償が伴う。母親の命を持ってしても支払い切れない程、李鳳の加護は特別であった。
(加護の代償か……本来であれば、神器を身に付けて負の要素を中和するらしいけど……俺はそんなの持ってない。どうせ俺を嫌ってる神とやらがワザと与えなかったんだろう……忌々しい。前世で乾燥肌だった俺は、現世では超敏感肌ってワケだ。くっくっく、笑えるねェ)
加護の代償はそれだけではない。母親の切なる想いは「絶対に死なないで欲しい」であった。
(なかなか死ねない体……ありがたいけど、迷惑だな。この世界じゃ拷問だって日常茶飯事だろうし、延々と痛みにもがき苦しむのは趣味じゃない。例の神がそんな俺を見て嘲り笑うんだろうな……くそっ、無理だろうけどいつか笑い返してやる! 理不尽な神め……今日からお前は、理不神だ! 母上、俺は理不神の仕打ちに負けず頑張りますよ!)
李鳳、まだ七歳の夏である。
誰も気付けなかった侵入者(斉)を返り討ちにし、李家の秘伝を身に付けた事で李鳳の株は更に上がった。大人達は「二代目は決まりだな」「これで一家も安泰だ」などと酒の席では決まって李鳳の話題を持ち出す。
その雰囲気を快く思わない者がいた。李鳳の義兄・侭である。侭は従順な舎弟二人と結託して数々の嫌がらせを敢行するが、そのほとんどが失敗に終わった。それでも彼らの心が折れる事はない。
(……またか、よくもまぁ飽きもせず……大したモンだ)
李鳳の汁物には小さな虫が入っていた。明らかに後から入れられたと判る。
(舎弟ABを従えて大将気取りかよ? この前も別の奴を引き連れていたな……フン、俺には舎弟なんて必要ないね。友達だって必要ない……べ、別に羨ましがってなんかないモンね! 侭ばっかり……不公平だ、理不尽だ! いや、理不侭だ!)
本日侭が率いている舎弟は李鳳より一つ年上の嬰と微意であった。侭は塁に似て頭は弱いが、体は大きく性根は優しい。面倒見も悪くない侭は他の子供達にも慕われていた。敵対しているのは李鳳だけである。
(俺だって面倒見は……それほど良くないけど、他の子とは話だって……ほとんどしないけど、あっ!? ふふふ、なるほど……頭が良くて運動も出来て他人を見下しお高くとまる嫌な奴――それが俺か! はっはっはーっ、人望なんかあるワケないじゃん)
溜息を漏らして汁物をすすった。心なしかいつもよりしょっぱく感じた。それは虫のせいだけではないだろう。
侭達は離れた席から李鳳の様子を窺っていた。李鳳が汁物に手をつけると、自然と口元が綻ぶ。しかし、李鳳は何のリアクションもなく哀愁を帯びた表情で虫をバリボリ噛み砕く。予想外の展開に侭の目は点になり、子分AとBは李鳳の不気味さに半泣き状態となった。
横目でチラリと侭達を見た李鳳は
(くっくっく、俺クラスの陰険な根暗にこの程度の仕打ちなど無意味! 虫は友達、怖くない。貴重なタンパク源さ!)
虫ごと呑み込み微笑む始末。子分達は怯えて泣き出してしまい、慌てて侭が慰める。
(愚か者共め、イイ気味だ。しかし、彼らには学習能力がないのだろうか? うーん……謎だな。虫如きで腹痛にはならないけど……くくく、さっきの顔。間抜け過ぎて笑えてきた……ひっひっひ、腹痛ェ)
侭達の目論見はある意味成功したのであった。そして、懲りないのは李鳳も同じなのだ。
(うん、真顔で奇行に走った方が断然笑えるな。今後もそうしよう。さてさて、明日はどんな手でくるかな?)
意外と仲良くなれるかもしれない義兄弟であった。
李鳳が悪巧みを考えていると
「来い、貴様に仕事だ」
いきなり背後から声をかけられた。声の主は李単である。自分の世界に浸っていた為、李単の接近に気付かず内心驚いていた。しかし、それまでニヤニヤしていたせいで、顔は引きつり変な顔になってしまう。
「……仕事って、何するの?」
李鳳は振り返らずに尋ねた。変な顔を見られたくないからだ。
「黙って来い! 貴様は俺の命令に従っていればいい!」
李単は声を荒げた。騒いでいた周囲は静まり返る。鍛錬以外で李単が李鳳に話しかけるのは珍しい。自然の周りの注目も集まり出す。
(げっ、お、怒ってる!? どうして!? 目を見て話さないのは失礼だったかな? でも変な顔だったし……うん、変な顔だったから仕方ない! 「……えっ? なんて?」って聞き直したい衝動に駆られるけど、ここは我慢だ)
李鳳は笑いそうになるのを必死で堪え、声を絞り出した。
「……わ、わかったよ」
李鳳の声は震えている。周囲の者は李鳳が怯えていると思い同情的な視線を送っていた。李鳳は食事もそのままに李単の後を追う。
(しっかし、七歳で初仕事か……まっ、この時代に労働基準法があるとは思えないもんね。犬の散歩とかじゃないだろうし……何だろ? ドモホルンなんたらみたいに一滴一滴見てるような仕事だと……逆に辛いなァ)
仕事内容を想像して李鳳は表情を曇らせる。李単は時折振り返って李鳳を見た。その眼光は鋭く、親が子に向けるものではない。
李鳳の初任務は燈の推薦によって決定した。燈は李鳳の才能を一家の誰よりも高く評価している。李単も李鳳の才能は認めていた。しかし、仕事となれば話は別だ。李一家は一般的な河賊と異なり、子供にも重要な役割があった。
それは潜入である。無垢な子供であれば警戒され難く、大人に比べて標的の懐に潜り込むのが容易であった。
その点、李鳳はあまりに子供らしくない。むしろ大人と同じ戦闘部隊に加えた方が活躍するだろう。李単の懸念はそこにあったが、最終的には燈の提案を呑んだ。ある思惑と共に――。
最後まで読んでくれて、ありがとうございます。
2014.05.02
時系列に沿うよう話を入れ替えました。
一部修正および加筆も行っています。
2014.05.04
サブタイトルを追記しました。