18話
――とある街道――
曹操率いる黄巾党鎮圧軍の本隊が、先発隊の許緒達が待つ街へと急ぎの行軍で馬を飛ばしていた。
その中で一刀は曹操の側ではなく、最後方に布陣している兵站輸送部隊の補佐を担っていたのである。
【北郷】
「はあぁ……」
馬をパカパカ走らせながら大きな溜め息を吐く一刀。
すでに両手では数え切れない程の回数溜め息を吐いていたのだった。
そして自嘲気味に呟いたのである。
「……はぁぁ……最悪だぁ」
今日は朝から華琳の機嫌が悪く、数時間前に爆発したんだけど……原因は、俺だった。
美少女に囲まれたキャハハウフフな生活を送ってたから、ここが血で血を洗う三国の世ってことを失念してたんだ。
甘く見て賢くて強い華琳達なら楽勝だって高を括ってたのかもしれない……一歩間違えたら、死んじゃうんだよな……。
一刀はガックリとうな垂れて、再び溜め息を吐いたのだった。
「はぁぁ……」
すると、斜め前を先行する壮年の男が口を開いたのである。
「北郷殿、失礼ながら申し上げます。天の御使い殿がそのような様子では、兵の士気が下がるというもの」
「……部隊長さん、す、すみません」
いかにも困ったという感じで一刀に話しかけたのは、輸送隊の指揮を執る部隊長であった。
何かと女性が目立つこの世界にあって、現場からの叩き上げで今の地位まで昇ってきたベテランなのである。
武芸の腕は並だが小隊を率いる手腕に長けており、一刀がこの世界に来るはるか以前より部隊長を勤め、曹操の信頼も篤いのだった。
気落ちしている一刀に、部隊長は低く穏やかな声で語りかけた。
「何があったかは存じませぬが、曹操様の深いお考えあってのものかと」
「……そうですか? でも……これですよ?」
そう言って一刀は、自分の後頭部を部隊長にアピールしたのである。
「ぷ、くははは……し、失礼。……ぷぷ、わはははは、すまぬ」
「……別にいいですよ。自業自得なんですから……はぁぁ、取り返しのつかない事しちゃったかなぁ?」
笑われるのも当然だ。
俺の後頭部には大きな大きな……ミステリーサークルが出来てるんだから……。
当初は曹操の補佐を命じられていた一刀だったが、調子に乗って有り得ない粗相を働いてしまったのである。
喜んでくれると思ったんだけどなぁ……ああ、もうダメかも……?
最初は華琳がツッコミに慣れてないせいで、力加減を間違えたんだと思ったんだよ。
でも、その後でチビる程怒られて……しばらく視界から消えろとまで言われちゃった。
一刀は自己弁明するかのように話し出した。
「ベタすぎるかもって懸念もあったけど……『お約束』ってのは俺の国では文化なんだって及川が言ってたんですよ。確かに戦場に向かう命懸けの兵や将に対しては、かなり不謹慎だったかもしれないけど……俺の国の芸人達も命張ってネタ作って、ガヤって、ボケて、リアクション取ってるんです。華琳の為に……少しで役に立てればと思って、より大きい振り幅を追求したんだけど……はあぁ」
「……天の国の文化は、私には少し難しくてよく分かりませぬ」
部隊長は困惑の表情を一刀に向けている。
一刀は一刀なりに考えて、笑いで心にゆとりを与えたかったのだ。
曹操の為を思って実行し、文化を説明し、土下座してまで謝ったからこそ未だに生きているのである。
土下座はこの世界じゃ知られてないみたいで、天の国で謝罪の最高峰の体勢だと説明したら、桂花は「よく似合ってるじゃない、とっても無様よ」って言ってたし、春蘭は「潰れたカエルみたいだぞ、気に入った。わはははは」って笑ってた。
でも、華琳だけは……冷たい目をしたまま後方支援の補佐を命じただけだった。
……俺……嫌われたよな……。
華琳に言われた通りにやってれば良かったのに、欲出して笑った顔を見ようとしたから……。
調子に乗っちゃったんだ……殺し合いをするってことがまだよく分かってなかったのかもしれない。
前回も俺はただ見てただけで春蘭や季衣は実際に人を殺して、華琳はそれを命じてたんだよな……何にも分かってなかった。
今だって、分かったような気になってるだけだと思うし……。
もう、昨日まで生活は戻って来ないんだ……ううぅ……泣きそうだ。
この世界に来てからの心の拠り所だったのに、俺……俺……。
裏切ったんだ……華琳の信頼を……。
総司令官の補佐なんて大役を与えてくれていたのに、俺はなんてダメな人間なんだろう……自分のことなのに、情けないな。
いっそのこと、もう……。
一刀が負の思考に陥っていると、部隊長がまた声をかけたのだ。
「ふぅ……北郷殿、歯を食いしばられよ」
……ん? なんて――。
よく聞き取れ無かった一刀が部隊長に顔を向けた瞬間、バチーンという乾いた音と共に視界が左右にブレたのであった。
「いってぇぇぇぇぇぇぇ」
ほっぺたがジンジンする……っていうか、唇が切れた!?
部隊長は一刀をビンタしたのである。
頬を押さえ唇からの出血を拭う一刀は恐る恐る部隊長を見たのだった。
すると、部隊長の怒声が響いた。
「いつまで済んだ事にくよくよしておられるのだ! 挽回の機会を与えられたのだから、しっかりと役目を果たさんか!」
頬を押さえたままの一刀には、部隊長の言葉は厳しくそして重く、しかし優しく暖かく聞こえたのである。
頬が痛いし熱い……でも、それ以上に……胸が痛く、熱くなってきた……。
怒られているのだろうか、励まされているのだろうか……頭がうまく回らないや。
「……部隊長さん」
「曹操様が本気で怒っておいでなら、北郷殿は今頃生きてはおられなかったでしょう」
「えっ!? 」
部隊長から出た衝撃の一言で、一刀は絶句した。
や……やっぱり、脅しは冗談じゃなくて……ほ、本気だったんだ!?
「曹操様は功ある者は労い、失態を犯した者には相応の罰を公平にお与えになるお方です。北郷殿が今生きておられるなら、汚名返上の機会は必ず訪れるでしょう。それが、今のようにしておられては掴めるものも掴めんですぞ」
「……挽回の、機会? お、俺にも……あるんでしょうか?」
「曹操様のことは、北郷殿もよくご存知なのではないですかな?」
部隊長は不敵な笑みを浮かべる。
一刀は曹操と過ごした数ヶ月を思い起こしていた。
「……そうか……そうだったよ。うん、華琳はそういう人だ」
部隊長さんの言葉はまるで魔法のように心の霧を吹き飛ばしてくれた。
俺にもまだチャンスはあるんだ……それは今日かもしれないし、明日かもしれない。
1年後かもしれないけど……俺にもまだ、チャンスがあるんだ!
一刀の表情に明るさが戻った瞬間であった。
それを確認した部隊長は、さらに続けたのである。
「水、食料、予備の武具を運ぶ我々は戦をやる上で非常に重要な部隊ですぞ。戦場での功績と言えば一番槍や大将首級が目立ちますが、補給無しでは満足に戦えますまい。華こそありませぬが、我らはしっかりと曹操様の軍を支えておるのですよ。そして……曹操様が、そのことを一番認めて下さっておりまする」
一刀はハッとした。
兵站が大事なのは知識として知っていたが、改めて思い知らされたと感じたのである。
「すみません。俺、そんなつもりは無かったのに、心のどこかで……」
「なぁに、構わぬよ。気分は晴れましたかな?」
「はい。俺、華琳の為に……みんなの為に頑張ろうと思います!」
一刀の力強い宣言に部隊長は声を上げて笑い出したのだった。
「わはははは……結構結構、期待しておりますぞ。この隊には以前、警備隊に出向しておった者もおっての、北郷殿の話は聞いておるんじゃよ。武芸に長けておらぬそうだが……奇抜な思い付きで街の治安向上に大いに貢献し、仕事も実直であるとな。此度の戦が終われば、皆に天の国の話を聞かせてやってくれませぬかな? 私も興味あります故」
ニコリと微笑む部隊長の笑顔は今の一刀には眩しかった。
雷に打たれたような衝撃を受けたのである。
それは自分が求めるモノが何か分かった気がしたからだった。
「ありがとう、俺、精一杯補佐を努めるよ!」
一刀は改めて部隊長を礼を述べた。
ほんと自分が情けないよ……でも、こんな俺に期待してくれてる人もいるんだ。
それに……華琳だってまだ、俺を見捨てたわけじゃないだ!
俺は俺なりに、現代の知識でも何でも活用できる物は利用してやる。
そして……そして、俺も……。
「俺も『おじ様』って呼ばれるようなダンディーミドルを目指すんだ!」
それまでの稚拙や思考や行動を恥じて、考えを改めた一刀であった。
改めた方向性は、人それぞれである。
一方、先頭を進む曹操はというと――。
【曹操】
あの男のことが……よく分からない。
未来から来たという天の御使い、北郷一刀……。
天の国の学び舎に通っていたというだけあって、浅いけれど広い知識を有しているのが気に入ったわ。
軟弱さが目立つけど、仕事は真面目にやるし、警備隊での評判は上々。
甘さは残るし、武の才はあまり感じないけれど、一個中隊程度を率いれば輝くだろう期待感は持ってたわ。
実際、今回の討伐を終えたら警備隊の主任をやらせようかと考えていたのに……。
どうして、あんな事をしたのかしら……?
「急げ急げ! 急いで先遣隊に合流するぞ!」
夏候惇が発する大きな声が耳に入った。
即座に思考を切り替えて、夏候惇に声をかける曹操。
「そんなに急がせては、戦う前に疲れてしまうわよ、春蘭」
「う、うぅ……華琳さまぁ。私だけ、先遣隊として先に向かってはダメですか?」
「ダメよ。目と鼻の先ならまだしも、今の距離でこれ以上隊を分けても効果は薄いわ」
曹操はピシャリと申し出を却下したのだ。
季衣たちの事が心配なのは分かるけど、暴走されるのは困るわ。
いつもは従順な夏候惇でも慕ってくれている許緒や妹の夏候淵の身を考えると、素直には引き下がれないのである。
しかし、反論の言葉など思い浮かばずに、ただただ唸るのみであった。
「うぅ……」
「今は体を休めて力を溜めておくのね。寝不足で……一刀みたいなマネされると、困るわ」
「なっ!? それこそ心配無用です、華琳さま! 北郷のような無様な醜態は晒しません……ぷぷぷ、それにしても……あの土下座というのは今思い出しても笑えます、はっはっは」
唸りから一転して爆笑し出す夏候惇を見て、溜め息が出る曹操。
はぁ……頭痛がするわ……。
泣きそうな顔をして天の国の芸について説明していたけれど……真面目にふざけてるとしか思えなかったわ。
私の為にやったっていう熱意は伝わったから命までは取らなかったけど……正確には、首を刎ねようとしたら寝惚けて落馬したおかげで髪の毛を刈るだけに終わったのよね。
まぁ、今回はこん(剃髪)刑と後方待機で大目に見ることにしたけど……戻ったらきつい再教育が必要ね……。
一刀のコトで頭を悩ませていた曹操の下に、伝令がやって来たのである。
「華琳さま。秋蘭から報告の早馬が届きました」
思い出し笑いを続ける夏候惇を放置して、曹操は荀彧に声をかける。
「桂花。報告なさい」
「敵部隊と接触したそうです。張角らしき存在は確認していないようですが、予想通り敵は組織化されており、並の盗賊より手強いだろうとのこと。……くれぐれも余力を残して接敵して欲しいそうよ、春蘭」
「はははは……へ? あ、あぁ」
曖昧な返事を返す夏候惇に、曹操の疲れは増す。
「それで、数は?」
「夜間の為、詳細は不明。ただ、先遣隊よりは明らかに多いため、迂闊に攻撃せずに街の防衛に徹するとのことです」
「そう。さすが秋蘭、懸命な判断ね」
ふふふ、秋蘭を補佐に付けて正解だったわね。
こういう時に冷静な判断が出来るのはとても頼りになるわ。
夏候淵の的確な判断を聞けて、少し癒される曹操であった。
妹が誉められて満足気な様子の夏候惇に、荀彧が皮肉をぶつける。
「ええ、どこかの猪武者さんには出来ない判断だと思います」
「おい、それは私のことを言ってるのか?」
「あら、他に誰かいるのかしら?」
「貴様ぁ! 誰が猪馬鹿だと?」
烈火の如く怒る夏候惇と荀彧が睨み合う。
……はぁ、寝ていないのに2人とも元気ね……。
そんな2人を横目に、曹操はポツリと呟いた。
「張角本人が指揮を執っているか、とも期待したけれど……やはり、別の指揮者がいるのね。張角の才覚、侮れないわ」
ふふふ、それだけ人を惹きつける魅力を持っているということね……面白いわね。
張角の人となり次第だけれど、利用価値があれば部下に欲しいわね。
そうでなければ、舞台から消えてもらうだけね、ふふふふふ。
最後まで読んでくれてありがとうございます。