132話 一寸先は闇
程昱が軽く右手を上げると、李鳳を取り囲む兵士達が一斉に剣を抜く。他でもない李鳳を殺すためである。一刀や陳登が息を呑む中、楽進は李鳳よりも李典の身を案じていた。ところが、その李典は「なんやなんや余興の剣舞でも始まるんか」と事の重大さに全く気付いていない。
酒は好きでも決して強くはない李典は完全に酩酊状態にあった。一刀のにわか知識から蒸留されて出来た酒は、それでも他の追随を許さぬ程の高いアルコール度数を誇る。最初の一杯か二杯で止めておけばまだ理性を保てただろうが、既に正常な判断力は失せていた。また急性中毒を起こしてもおかしくない量を呑んでおり、おそらくまともに立つ事も出来ないだろう。
これも程昱の計略通りで、下手に抵抗されると無傷で捕らえる事が困難となるため、酔い潰そうとしたのである。しかし程昱もここまで上手く策にハマってくれるとは思っていなかった。あまりのチョロさに初めは演技かと疑った程である。
そんな程昱も最初は李鳳を殺すつもりなどなかった。交渉相手が楽進の旧友たる李典という事は予想できていたし、血生臭い展開など好き好んで望んだりはしない。李典同様に酔い潰してくれさえすれば、生かして捕らえるつもりであった。
しかし仮面を被ったままの李鳳とやりとりをする内に、程昱は己の考えを改めた。李鳳は極めて尋常ではなく、程昱をして腹の底が読めない。そして一旦疑い始めると丁寧な物言いは慇懃無礼にしか聞こえず、謙虚な姿勢も面従腹背にしか見えなくなっていた。危険だと判断した後の程昱に迷いはなく、殺すと決めたのも全ては魏と曹操のためである。
許都を発つ前、曹操からは李遊軍と誼を得よと命令されていた。つまりここで李鳳を排除するという行為は完全に程昱の独断専行である。李鳳を殺してしまえば、李典は決して曹操に従わないだろう。程昱もその事は十分に理解している。理解した上で殺すという決断を下した。結果的には曹操の意に背く形になってしまうが、程昱は己の決断を曲げる気はなかった。叱責や厳罰など覚悟の上なのだ。
一方の李鳳はと言うと、もはや敵愾心を隠そうともしない程昱を興味深く観察していた。こちらも剣を構えた兵士など意に介していない。
(こうも簡単にこっちの狙いが看破されるなんて……エスパーピンク以来かな)
李鳳が用いる計略は詐欺まがいの奇策が多く、邪道であるが故、知恵者と呼ばれる者達でもそうそう見破れるものではない。孫策の直感に匹敵するだけの洞察力を程昱は兼ね備えている、李鳳は彼女をそう高く評価した。
(いいね、実にいい。敵意と自信に満ち溢れた眼光が何とも素晴らしい)
久々の強敵と間近に迫りくる死を前にしても、李鳳に焦りの色はない。冷静を通り越してむしろ無頓着にさえ思えるが、程昱はこれを強がりであると推察した。これまでのやりとりで李鳳が天邪鬼である事は判っている。交渉事や駆け引きでは、強気の姿勢を貫く事が思いがけず勝ちを呼び込む事もある。ある意味では外交上の常識とも言える。
「白狐さん、最期に何か言いたい事はありますか? 聞くだけなら聞いてあげるのですよ、ふふふふふ」
右手を軽く挙げたままの程昱が不敵に笑う。己の勝利を確信しているからだ。武器の類いは事前に預けさせてあるので、李鳳も李典も今は丸腰である。例え天下無双を誇る呂布であっても、この状況を無手のままひっくり返すのは不可能。ましてや相手が文官然とした線の細い男とあればさもありなん、程昱はそう判断していた。
唯一憂慮すべき点があるとすれば、それは楽進の存在である。仮に彼女が仏心から李鳳の助命を嘆願すれば、処刑を強行するのは憚られた。李典だけでなく楽進の心象をも悪くしてしまい、後の憂いへと繋がる可能性があったからだ。
しかし件の楽進は何も言わない。程昱が李典の命を保証した事で、納得出来ずとも一定の理解を示していた。さらには楽進自身もまた得体の知れない不気味さを李鳳に感じていたのである。しかもその違和感は未だ消えていない。李典と李鳳の二人と相対した時からずっと何か変だと感じているが、それが何かと言葉で説明する事ができず、結果として彼女は沈黙せざるを得なかった。これが後の明暗を分ける事となる。
「まずは……お見事、と。此度の舌戦は私の完敗です」
「おやおや、意外と潔いのですねー。三の矢でも四の矢でも、いくらでも射て貰って風は構わないのですよ」
「クックック、ご無体な。今から下手な矢をいくら射ったところで無駄な事くらい、貴女が一番ご存知のはずでしょう」
「ええ、よーく存じ上げているのですよ」
程昱は今や瀕死のネズミをいたぶる猫のようであった。ゴクリと誰かが唾を呑む音さえ聞こえそうな程静まり返り、初めて見る程昱の静かな怒気に味方でさえ背筋に冷たいものを感じている。一刀もブルっと大きく震えたかと思うと、直後もプルプルと小刻みに震え続けた。楽進は苦悶の表情を浮かべ、陳登や商館の主も顔が青褪めている。
ところが、肝心の李鳳に怯えた様子がない。虚勢だと考えていた程昱も僅かに眉をひそめる。
「やはり知恵比べでは一生勝てる気がしませんねェ。いやはや、まいりました」
「……でしたらもっと深く頭を垂れて、必死に命乞いでもしてみたらどうなのです?」
「命乞い? 私が? はて、どうしてでしょう?」
李鳳は首を傾げて如何にも解りませんと言った感じで問い返した。その不自然さに兵士達がざわめく。何かを狙っている、程昱は李鳳の発言を頭の中で反芻し、裏の裏まで推し量る。
李鳳が死を恐れていないのは、自分が死ぬと思っていないからか、それとも死んでもいいと思っているか、そのどちらかと考えられた。後者である可能性は低く、必然的に前者であると予想する。助かると思っているのであれば、その手段は何か。自力での脱出は呂布以上の豪傑でもない限り不可能に近い、であれば援軍と考えるのが妥当であろう。しかしそれも不可能である。
程昱は商館の外にも兵を配置しており、さらに別部隊を周囲の哨戒に当たらせていた。何かあればすぐに報せが来るはずだが、未だにそれもない。そうなるとやはり本気で殺す気はないと高を括っている可能性が高い。呼びつけておいて殺すというのは確かに外聞が悪い。曹操の名が傷付くような事はしないだろうと踏んでいるのかもしれない。
小賢しいと程昱は奥歯を噛み締めた。この期に及んでまだ自分と曹操を侮るのかと怒りの熱量が増す。しかし、冷静な自分が頭の片隅で「本当にそうか?」と問うてくる。程昱は再び李鳳をジッと睨んだ。表情の読めない仮面をこれほど腹立たしく感じたのは初めてであった。堪えていた舌打ちが思わず漏れてしまう。
「…………ッ」
「こんな話を聞いた事がありますか? 誰が言っていたかは忘れたのですが、切り札と言うものは先に見せた方が負ける説があるそうですよ。本当でしょうかねェ? ちなみに奥の手があるなら切り札を先に見せてもいいらしいんですよ。本当でしょうかねェ? クククッ」
「……何の話をしているのです? それともアナタが本当に切り札やら奥の手を残しているなら、先ほども言った通り、三の矢として打ってみればいいのですよ。風に当たるとは思えませんがねー」
死を覚悟している、そんな印象は皆無であった。また死を前にして開き直っているわけでもない。やはり李鳳は自分が死ぬ事はないと確信しているように思えた。殺せるわけがないのに、殺せるものなら殺してみろという態度が鼻につく。暗にお前の独断で曹操の名を汚すぞと語りかけてくるようさえ感じた。
「こちらも先ほど申し上げた通り、今から三の矢を打とうとは思いません……だって、零の矢がすでに刺さっているんですから」
程昱の脳裏で警鐘が大きく鳴り響いた。慌てて右手を振り下ろす。それと同時に楽進と一刀もバッと立ち上がった。
そして、四者四様の声が室内にこだまする。
「殺しなさい! すぐに首を刎ねるのです!」
「気をつけろ! 何かを仕掛けてくるぞッ!」
「と、トイレ! お、お茶飲み過ぎてさッ!」
「クックック、おやすみなさい、良い夢を!」
次の瞬間、熱風のようなものが吹き荒れ、糸が切れた操り人形のように兵士達がバタバタと倒れていく。立ち上がろうとした一刀も倒れ、座していた程昱や陳登も同様に机にうつ伏せてしまいピクリとも動かない。
「……な、何をしたッ!?」
ただ一人、楽進を除いて。その楽進も理解の範疇を超えるあまりの出来事に「何をした」と叫ぶしか出来ずにいた。
「おやおや、マンセーでの検証実験では上手くいったのですが、やはり氣の熟練度が高い楽進殿には効果がありませんでしたか。流石です。いやはや、この辺りは今後の課題でしょうかねェ。未だ敵味方の識別も出来ないですし」
その言葉を聞いて周囲をよく見ると李典でさえも床に倒れ伏している。楽進は李鳳を警戒しつつ、程昱や一刀の生死を確認していく。幸いな事に脈もあり、呼吸も安定している。最悪の事態ではない事に、楽進はホッと胸をなでおろす。
「……そうか、お前も氣を使えたのだな」
「はい。私はずっと気を遣っておりましたよォ。最初からずっと、ね。お気付きになりませんでしたか?」
「…………」
「…………」
「…………」
「すみませんねェ、冗談ですから気にしないで下さい。おっと、この場合の気は氣じゃありませんよォ。クククククッ……ご推察の通り、私は氣を使えます。と言うより、本当にずっと氣を使っていましたよ?」
「まさかッ!? あ、有り得ん……」
沈黙に耐え兼ねたのか、あっさりと手の内を明かす李鳳。しかし楽進には戦慄が走る。氣弾を得意とする楽進が氣を認識できたのは、皆が倒れる直前の一瞬だけあった。その刹那の氣を感じて警告しようとしたが、時すでに遅し。
仮にずっと感じていた違和感の正体が氣であったとすると、目の前にいる狐面のこの男は、自分よりも氣を扱う技量が高い事になる。それを悟った楽進の額には冷たい汗が浮かぶ。
「ああ、ご安心下さい。氣圧の変動で意識を失っているだけですので、命に別状はないでしょう」
「氣圧? それは何だ?」
「それは勿論、教えるわけありませんよォ。さて、楽進殿に質問です。今のは私の切り札でしょうか? それとも奥の手でしょうか? クヒヒヒヒッ」
違和感の正体はやはり氣であったのだと楽進は悟る。しかも只の氣ではない。楽進の扱う氣弾は物理的な破壊を伴うが、今回の氣は全く別物だった。目立った外傷もなく、意識だけを奪う術は氣弾以上に危険と言える。自然と拳に力が入り、氣を練り上げて半身に構える。
「戯言に答える義務などない。私と尋常に立ち会え」
「おやおや、この状況下で私と戦うおつもりですか?」
「当たり前だ。お前のような危険人物を放ってはおけん!」
「いやあ、止めておいた方がいいですよォ。助けられる命がどうなってもよいのですか?」
「…………」
李鳳の言う通り、現状は楽進にとって極めて不利であった。楽進には守らねばならない者が多過ぎた。反対に李鳳は仲間の李典すら守る必要がない。楽進の性格上、李典を人質に取るなどという卑劣な行為が出来るはずもなかった。
一方の李鳳も実はそこまで余裕があるわけではない。初対面時よりずっと李鳳は一刀や程昱に対して、氣圧によるプレッシャーをかけ続けていた。楽進ですら感知できないほど薄く且つ広く展開した氣は、まるで真綿で首を締めるかのように、領域内にいる者の精神力をじわじわと疲弊させていく。例えるならば、夏場の会議を冷房なしで行うようなものである。かなり不快な思いをした事であろう。
また先ほどの技は呂布戦で見せた氣圧変動に改良を加えて、李典や妖光に白螺隊といった尊い協力(犠牲)の上に完成させた、言わば必殺技である。殺傷能力が皆無なため、必ず殺す技と呼ぶ事を李鳳は嫌うが、与えるインパクトは申し分ない。格上や同格に対してはあまり効果がないという弱点もあるが、それでも格下相手においては無類の強さを発揮する。その分消耗も激しく、一日にそう何度も使用できない。
(負けるとは思わんが、やり合うのは正直面倒だな。氣の研究のためには是非とも手に入れたい素材ではあるけど……さて)
後がない楽進と違って、李鳳には一歩分くらいは下がれる猶予がある。これがもし脳筋の夏候惇が相手であれば戦うという選択肢の一択であっただろうが、堅物ではあれど責任感の強い楽進であれば話も変わる。おもむろに李鳳はチラリと視線を楽進から外す。氣の影響か、それとも酒の影響か、あるいはその両方かもしれないが、気持ち良さそうに眠る李典の顔が見えた。
(何しに来たのやら……、やれやれ。偶然かもしれないけど、マンセーが望んだ通りの展開になりつつあるな。解せぬ。なんか釈然としないけど…………結果オーライとしますか)
再び李鳳を視線を楽進に向ける。未だに仕掛けてこない。彼女自身どうしたら良いのか判らず、迷っているのが見て取れる。なんだかんだ言って楽進は李典の親友である。憎まれ口を叩く事も多い李典だが、本心から楽進を嫌う事などこの先もない、と言っていいだろう。
李鳳は李典を手間のかかる面倒な上司だと思う。同時に面白くて飽きさせない上司だとも思った。少し苦笑した後、李鳳は上司の願いを叶えるために動き出す。
「楽進殿、提案があります。私と、取り引きしませんか?」