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海を越えた破綻者  作者: パトラッシュ
独立する愚連隊
130/132

130話 同じ穴の

 北郷一刀は天の御使いと呼ばれているが、特別な力も秀でた才も何も持っていない。また学生だった故に社会の荒波にもまれた経験もなく、大人の対応というものにも極めて不慣れである。ただでさえ経験不足なのに加えて、今回は相手も悪かった。李典をして底意地の悪さは天下随一と言わしめる李鳳がその相手である。善良なだけの一刀が口論にて相対するには三十年早かった。


 正直なのは美徳であるが、時と場合を考慮する必要はある。嘘をつかない事が必ずしも誠実とは限らない。そういう意味で今回一刀の取った対応は最悪の部類に入る。潔く己の非を認めて誠心誠意謝るのと、追い詰められて渋々謝るのでは、同じ謝罪でも受ける印象は全く違う。前者にはまだ真心を感じるが、後者には微塵も感じない。本当に申し訳ないと思っているのかさえ疑わしくなる。


 戦時や警邏中であれば一刀ももっと注意を払っていただろう。しかしながら今回は油断や慢心があったと言わざるを得ない。とは言え、情状酌量の余地はある。なにせ身内に後ろから刺されたのだから。沈着冷静を心がけていても、流石に不意をつかれてはどうしようもない。動揺するなと言うのは酷である。


 ではなぜ陳登は一刀を陥れたのか。実は一刀が陳登を嫌っていたように、陳登も一刀を嫌っていた。曹操をはじめとして魏の名立たる文官武将は智勇のみならず容姿にも優れている。そして一刀はそんな美女らに真名を許されている。しかし陳登は許されていない。嫌悪の根幹にあったもの――それは嫉妬である。


 陳登は自分自身が秀でていると思った事は一度もない。この世界では女性の方が圧倒的に優れているのだから、そう思うのも自然であろう。また同性である李鳳に対してもどこか劣等感を抱いている。しかしながら一刀に対しては違う。陳登は一刀を無能な男だと見下していた。明らかに自分より劣っているのに、天の御使いという立場だけで、周囲からは英傑の如き扱いを受けている。


 嫉妬の炎は日に日に大きくなった。妬ましい。羨ましい。自分も真名を許されたい。自分も馬鹿と罵られてみたい。一刀に恥をかかせたい。そんな感情に支配された陳登にとって、憎き一刀を陥れられる千載一遇の機会を見逃すはずもなく。



 とんだ失態を演じる結果となった一刀は居心地の悪さから貝のように口を閉ざした。水に流すとは言っても、起こった事が無くなるわけではない。李鳳と李典に気にした様子は見られないが、楽進は一刀と目を合わそうとせず、程昱は露骨に無視している。ただ一人、陳登だけが落ち込む一刀を満足げに眺めていた。さぞ留飲の下がった事であろう。



 一方の李典は使者の一人が楽進と判り、また曹操もいなかった事で仮面を外した。李典にとっての仮面はあくまでも交渉が決裂した際に備えた保険の一つである。旧友の楽進が居た時点で正体を隠す意味はなく、また墓穴を掘って自爆しているため何の意味も為さない。ある種の開き直りとも言える。


 しかしながら李鳳は未だ仮面を外していない。もともと仮面を外すつもりはなく、無礼なのは承知の上である。また名前も白狐と偽り、声色も変えていた。李鳳なりの考えがあっての事だが、使者や仲介役の商人への配慮などあったものではない。



 互いに名乗りを終えると、向かい合うような形で席に着く。程昱が商館の主人に耳打ちすると、館主は声を出さずに恭しく頷き、そして一瞬だけ李鳳へと目をやり下僕に指示を出した。然程待つ事もなく皆の前に料理と酒が並ぶ。程度差はあれど、程昱以外は皆が意外そうな表情を浮かべた。


 商談の際に酒が振る舞われるのは稀である。通常はお茶でもてなす。商談が成立した後に祝宴を催す事はあっても、商談前に酒を出すのは何かしらの意図を含む。酒で機嫌を取り交渉を優位に進めようとする商人もいるにはいる。酔わせて詐欺を働こうとする小悪党もいないわけではない。


 しかし今回は超大国である魏の文官にして優れた政治家でもある程昱が差配したのだ。この事実を李鳳は軽視しなかった。館主の目配せと楽進らの反応から、これは予定にない対応と見て間違いない。何かしらの裏があるはずと考える隣で、呑気に喜ぶ者もいた。李典である。程昱の乾杯を受けて一気に酒を飲み干す。


「うんまーッ! なんやこの酒!? めちゃくちゃ美味いで!」


 李典の歓喜が屋内に響く。聴覚に優れた李鳳には五月蠅過ぎるほどの声量であった。よほど気に入ったのか、李典は空となった杯をまじまじと見つめている。


「とても良い飲みっぷりなのです。さあさあ、もう一杯どうぞ」

「おおきに。くー、やっぱり美味いわ。こないに美味い酒を飲んだんは初めてや」

「ふふん、そうでしょう。これは曹操様が天の知識を借りて作らせた秘蔵の美酒なのです。皇帝陛下に献上した事もある逸品なのですよー」

「こ、皇帝陛下に!? うわあ、そら美味いはずやん……ちゅうか、ウチが飲んでもええんか?」


 李典はご機嫌な様子でおかわりしていたが、皇帝御用達と聞いて顔を青くする。しかし程昱は何の問題もないという。


「曹操様の許可を得て、特別に許都より十瓶持参しました。お会いする前から思っていたのです。あの絡繰りを作った李典さんは只者ではないと。そしてお会いしてはっきりと分かりました。李典さんはまさに英雄。英雄には美酒が相応しく、美酒こそ英雄が相応しい。英雄と美酒とは魚と水の如く、切っても切れない関係なのです。どうぞ心ゆくまで堪能して欲しいのですよー」

「いやあ、それほどでも、あるけどなあ。ウチは美人過ぎる天才やさかい、控え目にしとっても才気が溢れ出てしまうんやなあ。ナッハッハッハッハ、ほな天子様と曹操はんに感謝して、遠慮のう頂くとするで」


 コロコロと笑いながら杯を傾ける李典。深読みするのが滑稽に思えるほど軽率な言動を繰り返す李典はやはり李典である。丁奉あたりであれば警戒しろとは言わないが、せめて用心しろと諫言したであろう。曹操が来るかもと怯えていた時は、過剰なまでに警戒し、行きたくないと駄々をこね、李鳳を真似て仮面まで被ったというのに、旧友と再会して安堵した途端にこれである。


「さあさあ、白狐さんもグイっとどうぞ」


 程昱は李鳳にも酒をすすめてきた。程昱の狙いが読めない李鳳はどうしたものかと思案する。顔全体を覆う仮面をつけたままでは酒を飲めないが、袖で顔を隠して仮面をズラせば飲めなくもない。いっそのこと相手の思惑に乗ってみるのも一興と考えるが、ひとまずは様子を見る事にした。


「あいにくと不調法なものでして、申し訳ありませんが……」

「まあまあ、そう言わずに」

「しかし我々にはまだ商談が残っておりますので……」

「商談の前に互い緊張を解くのは良い事なのですよー、さあさあ」


 小柄で物静かな外見から内気と思われがちであるが、程昱は魏でも一二を争うほど頑固で気も強い。あまりにもぐいぐい来るそのギャップに思わず李鳳も笑ってしまう。


「クックック、分かりました。一杯だけ頂戴します」

「いえいえ、一杯だけと言わず二杯でも三杯でも十杯でも飲みましょう」


 程昱の押しはとどまることを知らない。李鳳が引いた分も即座に距離をつめてくる。仮面の内側で李鳳は目を細めた。これまでのやりとりも含めて程昱の狙いを推し量る。しかし未だ確証を得るには至らない。そこで李鳳は呼吸をするように嘘を吐いた。


「そう言って頂けるのは恐悦至極でございますが、昔患っていた持病が先日ぶり返しまして。なるべく酒は控えるよう医者から言われております。どうかお気持ちだけ受け取らせて下さい」


 大人の対応と呼ばれる伝家の宝刀――社交辞令である。一刀もこれを身につけていれば、あるいは落ち込まずに済んだかもしれない。しかし程昱は一歩も引かなかった。


「おやおや、とんだやぶ医者に騙されましたね。酒は百薬の長と言い、優れた酒は時としてどんな良薬にも勝るのです。控えるなんて、とんでもない話なのですよー」

「クククッ、確かに。おっしゃる通り酒は百薬の長と申します。されど酒は万病の元、とも申します。酒が原因で人生を棒に振った失敗談など、世間には履いて捨てるほど転がっていますよ。酒は時として毒にもなり得ます。私は先人たちと同じ轍を踏みたくありませんので……」

「ふむふむ、風も雑酒が引き起こした醜聞を耳にした事はあるのです。されどまがい物の酒は酒にあらず。むしろ酒に対する冒涜なのです。真なる酒は決して悪酔いなど致しません。ましてやこれは皇帝陛下の御為に作られた美酒、病もたちどころに治るのですよー」

「……」


 ああ言えばこう言う。さらに皇帝まで持ち出されては、いかに李鳳と言え迂闊な発言はできない。程昱は強かに皇帝の威光を利用する。


「もしや、白狐さんは天子様にも捧げた事のあるこの美酒を、毒だとおっしゃるつもりなのですかー?」


 程昱が半開きの眼で問いかけるが、その眼光は普段と違って鋭い。ただならぬ気配に皆の視線が李鳳に集まる。天子の名が出た以上、返答を誤ればただでは済まない。なぜか緊張している一刀がゴクリと喉を鳴らす。


「滅相もありません。これほどの美酒に出逢えた事は我が人生の僥倖と言えるでしょう」


 慌てた態で手を振って大げさに否定して見せる李鳳。どんな酒でも度が過ぎれば毒になると思っていても、流石にこの場で口にする事はできない。また注がれた酒は正真正銘ただの美味い酒である。一刀のにわか知識を元にして作られた酒で、酒精はかなり強くなっているが美酒である事は間違いない。


 しかし李鳳はある事実に引っかかっていた。それは程昱ら魏の使者の杯に注がれた酒だけ白湯で薄められている点である。巧妙に隠してはいるが、李鳳はその事に気付いていた。そして程昱もまた李鳳が気付いた事に気付いている。


 仮にここで李鳳がその事を指摘しても、飲み干してしまえば証拠は残らない。また酒瓶をすり替える等の隠ぺいも平然とやるだろう。すると李鳳は難癖つけた分だけ損をする。だから李鳳はそんな指摘をしないし、する気もない。単純に酔わせる事が目的という可能性もある。酔って判断力が鈍れば交渉も有利に進められるというもの。程昱の狙いは読み切れないが、長考していられる時間も李鳳にはなかった。


「それは何よりなのですよ。さあさあ、乾杯しましょう。おっと……」


 のほほんとした態度の程昱ではあったが、一瞬だけ手を滑らせて杯を落としかける。その瞬間、李鳳の脳裏に電流が走った。手が滑ったのは手のひらに汗をかいているから他ならない。手のひらの汗は精神性発汗であり、緊張からくるものなのだ。すなわち程昱は今とても緊張している状態にある。仮面に隠れて他人は見えないが、頬が裂けんばかりに口角を上げた。


「クックック、承知しました。今日はとても良き日です。十杯でも百杯でもお付き合いしましょう」

「それは重畳なのです。それでは改めて乾――」

「――ただし、商談の後に致しましょう。私は商談の内容が気になってしまって気が気ではなく、せっかくの美酒の味に集中できておりません。天子様の御酒にこれでは申し訳が立ちません。私の心の平穏のためにも先に商談の方を済ませたく。何卒ご理解とご容赦をお願い申し上げます」

「……」


 折り目正しく頭を下げる李鳳を前に、猪突猛進だった程昱が突如沈黙する。平身低頭する李鳳を見ても、程昱は何も言わず、周囲がざわめく。李鳳は己の推測が正しかった事を確信した。そして同時に己の判断が遅かった事も確信する。


 すぐさま部屋の外が騒がしくなり、ドタドタと複数の足音が聞こえてきた。慌ただしく駆け寄ってきた下僕の報告を受け、館主は程昱に耳打ちする。それを聞いた程昱はホッとした様子で部屋へ通すように指示を出した。すると帯剣した兵士が続々と入ってくる。程昱が宿で待機させていた兵士を呼び寄せたのだ。


 息苦しいほどに居並ぶ兵士たちに囲まれて、程昱はニコリと微笑む。


「はい、もう大丈夫なのですよ。さあさあ、商談を始めましょうか」




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