127話 獅子身中の虫
調子に乗った李典がマ改造を施した李遊軍の隠れ里は、もはや隠れ里という体裁を保ててはいない程に発展しつつあった。上下水道完備という時代錯誤な生活環境を整えた居住区をはじめ、近代化された工業区や農耕区は整然と居並ぶ。中でも防壁の各所に設けられた超大型弩弓や投石器は、李典の趣味嗜好によりとにかく派手で大きい。まるで国を落とさんばかりの大型兵器に囲まれ、下僕達は戦々恐々とする日々を余儀なくされた。彼らが暮らしに慣れるまでは体力よりもむしろ気力の消耗が激しかったという。
李遊軍の拡張が着々と進む一方、周囲の情勢もまた大きく変化しようとしていた。袁術去りし後、独立を実現した孫呉が江東に基盤を固め、荊州全域は劉表が手中に収めた。袁紹を下して大陸一の勢力となった曹魏も北方の平定を加速させた。また漢中の張魯も勢力を拡大すべく西蜀へと進攻した。さらに西涼の馬謄と内通して中原への進出も密かに企んでいた。
李遊軍が誇る暗部組織――李鳳直轄の白狐衆は各地に潜み、主君の目となり耳となる。諸侯の挙動に目を光らせ、民の噂に耳を澄ませた。李鳳の非人道的な施術により、白狐衆の目と耳は常人より優れ、物事を俯瞰で見聞きして記憶する。例え木が節目まで見えても森が見えねば意味はない。それが李鳳の考えであり、白狐衆にはそれを徹底した。
そして今朝方、朝議の場を賑やかす一報が届く。
「も、申し上げます。先ほど徐州城より急ぎの報せが入りました。りょ、呂布殿が、呂布殿が徐州牧に任じられたとの事にございます。また左将軍にも封じられ、さ、さらには陳宮殿が広陵郡太守となりました」
「はぁ? なんやそら?」
「呂布の奴が……? お姉ちゃんはどうしたのだ?」
「そや。徐州牧は劉備のはずやろ」
張飛は軽く怒気を放ち、また眠気も吹き飛んだ李典が呆れたように尋ね返した。張飛に威圧されて怯む伝者であったが、慎重に言葉を選んで返答する。
「ひぃ、そ、それが……先日朝廷よりの使者が現れて勅を奉じたとか。劉備殿も諸葛亮殿も寝耳に水だったらしく、城内は騒然とした模様。も、元々劉備殿は朝廷より選任されていなかった事もあり、こ、今後改めて上奏するかは不明であります」
喉がカラカラになるのを自覚しつつ、伝者は息も絶え絶えに言い切った。
「……臭うなぁ、謀の匂いがプンプンするで」
「どういう事なのだ?」
「呂布の武勇は確かに大したもんや。天下無双の英雄やし、それだけで崇拝するもんも少なからずおる。せやけど劉備の義と仁かて捨てたもんやない。大した失策も落ち度もないのに州牧の座を追われるなんぞ有り得ん。つまり、これは曹操の仕掛けた罠っちゅう事や。なぁ、伯雷はどない思う?」
「ええ、ご推察の通りでしょう。あちらには賢しい軍師が大勢いらっしゃいますからねェ。どなたの諫言なのやら……かなり強引な策ですが、天子を擁立している強みを最大限に活かしたとも言えます。面の皮も随分厚いと見える。誠に強かと言わざるを得ないでしょう。劉備は良くも悪くも漢室の末裔、勅命に逆らえますまい、クククッ」
李典に賛同の意を告げる李鳳であったが、彼はずっと前からこの事実を知っていた。情報源は現在曹操陣営に潜り込んでいる陳登からの密書である。しかし李鳳はこの密書を李典に見せていない。そして自分も初めて知ったという演技を続けた。
「呂布殿としても朝廷からの勅命とあらば受けざるを得ません。呂布殿も漢臣ですからねェ、拒否すれば……それこそ国賊として逆に討伐の勅を受けてしまう。本心はどうであれ、呂布殿も劉備も拝命するしか選択肢はありません。不和の種をばら蒔くのに、これほど便利な名分はないでしょう」
「せやけどな伯雷、呂布にどうこうしようっちゅう野心は無いやろ。州牧になった言うたかて、権力を振りかざすようになるとは思えん。劉備かてそこは理解しとるやろし、簡単に仲違いするとは思えへんで。曹操はそもそもの的を外しとるんとちゃうか」
確かに呂布に覇業や大業を為さんとする野心はない。これは呂布をよく知る者の共通認識である。しかし、李鳳は首を横に振った。
「いえ、狙いは正確だったと思いますよ。下手な弓矢は数射ってもそうそう当たりませんよ、クククッ」
「ほな何か、あの呂布に野心が芽生えたっちゅうんか? ウチには信じられんで」
「いえいえ、そもそも曹操殿の標的は呂布殿ではありませんよ」
「ほぅ、逆に劉備の嫉妬心でも煽ろうっちゅうんか? まぁ一度手にした権力を手放しとうないっちゅうんは理解できるで」
呂布でないなら劉備と考えるのは極々自然な流れである。しかし、李鳳は再び首を横に振った。
「いいえ、劉備も本命ではないでしょう」
「はぁ!? 呂布でも劉備でもないっちゅうんやったら、誰やっちゅうねん?」
李典は曹操が呂布と劉備を仲違いさせるために離間の計を仕掛けたと考えた。劉備と呂布が手を組む事は曹操にとって都合が悪い。関羽や趙雲といった勇将だけでも手強いというのに、万夫不当の豪傑である呂布まで相手にするとなれば、万単位の被害が出る可能性もある。むしろその可能性の方が高い。
北方の烏桓族に手を焼いていると噂される曹操軍の疲労は幾ばくか。決して軽くはないだろう。だからこそ謀略を用いて劉備と呂布の力を削ごうとしていると考えた。潰し合ってくれれば儲けもの、最低でも互いの信を失すれば上策であろう。
しかしながら李典の推測を李鳳はあっさりと否定した。怪訝に思う李典は眉間に皺をよせて李鳳に詰め寄る。巨大な双丘を押し付けられ苦笑する李鳳。
「クククッ、一人いるでしょう。呂布殿のおこぼれで大任を得た、無駄に張り切って空回りしそうな御仁が」
「無駄にて…………あっ、せやから陳宮かッ」
「ご明察です。劉備の為さんとする事は全て民のため、諸葛亮殿はそこをとても良く理解しておられました。されど陳宮はいかがでしょうか」
話を聞いてなるほどと李典は思った。しかし納得したわけではない。
「そう言うたらおったな、ちんちくりんが一人……せやけど、陳宮は無能やないで」
「ええ、むしろ有能な部類に入るでしょう。主君に向ける忠義も諸葛亮殿に劣らないかと」
「せやったら心配せんでもええんとちゃう?」
「あっ、別に心配は欠片もしていませんので、どうかご安心下さい。仲違いしようがしまいが、陳宮が泣き喚こうが野垂れ死のうが、私は気にしません。クククククッ」
「いやいや、ちょっとはしたりーな」
冷徹を通り越して冷酷に聞こえる言動も、日常茶飯事の事となれば嗜め程度で終わってしまう。慣れとは恐ろしいものだと思うも、口に出して正せる者は李遊軍にいない。ある者は笑顔で、またある者は苦笑いを浮かべるものの静観を貫く。
「心配はしていませんが、陳宮は和を乱すと思いますよ」
「なんでや!? 陳宮は有能やて、さっきアンタが認めたやんか」
「確かに、陳宮はそれなりに優秀な文官でしょう。しかしこの場合、能力の優劣はあまり関係ありませんねェ。肝要なのは思想の相違なのですから。マンセーは徐州城の蔵にどれほどの兵糧が備蓄されていると思いますか?」
「そら肥沃な土地と気候に恵まれた徐州なんやし、半端ない量やろ。最低でも四十万石以上、六十万石はあるんとちゃうか。それだけあったら年単位の行軍も可能や」
自信満々に双丘を張って答える李典。しかし李鳳はまた首を横に振った。
「いいえ、そんなにありませんよ」
「ほんなら二十万か?」
「いいえ、実のところ二万石足らずです」
「に、二万!? なんでそないに余裕がないねん!? それやと軍を動かせてもせいぜい一ヵ月や、籠城するんも心もとない量やんか」
「おっしゃる通りです。劉備が袁紹を捕えて断罪した功績は赤子からお年寄りまで万民が知るところ、噂は万里の彼方を駆け抜けて広がり、劉備の名声は中華全土に轟きました。万民が名君や明主との称賛を惜しみません。そして少しでも良い暮らしをしたいと思うが民の偽りなき心情でしょう。その結果、劉備を頼り各地から流民が徐州になだれ込むは必然。いかに豊かな徐州と言えど、限度はありますからねェ」
「なるほどな。増え続ける流民を食わせてやるために、劉備は国庫を開いてもうたっちゅうわけか」
「はい。これまでは諸葛亮殿が主君の意を汲み辛うじてやり繰りしてきましたが、実権を握った陳宮がこの事実を知れば……彼女は民を優先するか、それとも主君の呂布殿を優先するか。またその時、劉備はどう動くでしょうか。クヒヒヒヒッ、見ものですねェ」
「……伯雷、アンタはホンマ性格うんこやな」
「クククッ、ありがとうございます」
李典と李鳳がいつも通りのやり取りを繰り広げる中、心ここにあらずという者が一人いた。
「……お姉ちゃん、愛紗」
劉備三姉妹が三妹――張飛である。
その日の張飛は著しく集中力を欠き、練兵でも鍛錬でも上の空で、たびたび丁奉を怒らせた。呂布との一件で劉備陣営を飛び出した張飛であったが、それは己の不甲斐なさと幼さ故に他ならない。感情のまま行動してしまった張飛ではあるが、姉を見限ったわけではなかった。少し困らせてやろう、きっかけはそんな些細な事だったのかもしれない。
張飛にとっての呂布は自分の居場所を奪った憎らしい存在である。その呂布が今度は敬愛する姉――劉備の居場所を奪うという。とても座して成り行きを見守る心境にはなれなかった。
「……許さないのだ。お姉ちゃんは鈴々が守るのだ!」