125話 あ閑話という傍題
青州からの無事に帰還した日の夜、李鳳は真桜に二人きりで祝杯を上げようと持ち掛けた。李鳳の私室は真桜の部屋に比べると整理整頓されており、物が乱雑に散らかっているという事はない。二人は寝台に腰をかけ互いの杯になみなみと酒を注ぐ。李鳳はかなり酒精分の高い酒を用意していた。
「ほな、白螺隊の初任務成功を祝して――乾杯ッ!」
「乾杯」
二人は杯の酒を一気に飲み干し、再び酌み交わす。高い酒精分のせいで食道が熱い。
「ぷはーッ、ぼろ儲けした後の一杯は格別やな。間違いないで」
「ククク、真桜はいつも同じような事を言っていますねェ。仕事終わりの一杯、水浴びの後の一杯、絡繰りの後の一杯。でも本当に格別なのは……先月体験した、あの口移しの一杯……でしょ?」
「うぅ~ん、伯雷のいけずぅ」
甘えと照れを隠すように真桜は頭で李鳳の胸元をグリグリ押す。李鳳も真桜の淡い紫色の髪を優しく撫でた。女性独特の甘い香りが漂う。
「フフフッ、知ってるでしょ? 私の性格は少々歪んでいるんですよ。そんな私を理解してくれるのは、中華広しと言えど真桜しかいません」
「ホンマにィ……?」
「さぁ、もっと飲んで下さい。せっかく真桜の為に特注で用意したお酒なんですから」
頭を起こして首を傾げる真桜に、李鳳はさらに一献傾ける。それを何度か繰り返すと、真桜の頬は赤みを帯び始めた。
「……ウチを酔わせて、どないするつもりなん?」
熱っぽく潤んだ瞳で李鳳を見上げる真桜は艶やかな大人の色気を醸し出す。放たれた分泌物は目に見えず、匂いもない。けれど確かに李鳳の本能を刺激した。艶めかしくしなを作り、真桜は自慢な胸を主張する。水着のような上着が隠すという役目を果たせぬ程、真桜の乳房は大きく美しい。呼吸の度に上下する巨乳に釣られて李鳳の視線も上下した。
「もぅ、どこ見てんの……?」
「……ククク、悪い子ですねェ」
「えぇ、なんでぇ……?」
「……さァ、どうしてでしょう?」
李鳳の熱い視線を感じる真桜が意地悪く問う。李鳳は答えないをはぐらかす。真桜が望む時には与えず、望まぬ時に不意に与えて来る。李鳳とはそういう天邪鬼な男なのだ。真桜もよく知っている。だからこそガバッと抱き付き、その豊満な胸をグイッと押し当てた。弾力性に富む真桜の乳房は李鳳の胸板とぶつかり、やわらかくその形を変える。互いの鼓動さえ感じる事が出来た。そしてそのまま両手で李鳳の背中をゆっくりゆっくりと愛撫する。
「にしししし、伯雷の体はあったかいにゃぁ」
「……これは大胆な、我慢し切れなくなりますよ?」
「うふぅん? 何をやぁ?」
「何って……これをです――ッ!」
「ふぇっ――にゃぅ!?」
李鳳はいきなり真桜を寝台に押し倒した。持っていた杯が落ちて床を転がる。
「はぁ……はぁ……はぁ……はぁ」
李鳳の呼吸は明らかに荒く、興奮状態である事を示した。一方、横たわる真桜は両腕を広げて李鳳を呼び込む。李鳳は真桜の腰に馬乗りになり、重力に抗ってそびえ立つ双丘を凝視した。ある種の緊迫した空気に包まれる。
「……優しくしてなぁ」
「はぁ……はぁ……はぁ……」
酔いのせいか、それとも恥じらいのせいか、真桜の顔はこれまでになく赤い。ギュッと目を閉じて李鳳を受け入れる覚悟を決める。今か今かと待ち続け、期待と興奮で生唾を飲む。すると、おかしな言葉が耳をよぎった。「私のこの手が真っ赤になんたらかんたら」と……不思議に思い、そっと目を開ける。その瞬間、真桜は――
「いだだだだだだだだ」
胸を鷲掴みにされた。それも力いっぱいに。
「ヤーッ! ヤーッ!!」
「いたッ、いたたたた、痛いて! ちょっ、コラッ! 放せ! 放さんかいッ!」
痛みに耐え兼ねて真桜は李鳳を突き飛ばした。寝台から転げ落ちる李鳳。その後、自分の胸に手を当て何かを呟いている。真桜はワケが解らなかった。ヒリヒリする胸を擦りながらも今は静観するしかない。
しばらくすると、李鳳は苛立ちと共に床を叩いた。
「くそッ! どうしてだ!? どうして私は……ッ!?」
吃驚する真桜であったが、黙り込んでしまった李鳳の方へゆっくりと近付く。李鳳は床にうずくまり悔しそうに歯噛みしていた。ここまで取り乱す李鳳を真桜は見た事がない。
「……ど、どないしたんや? わ、悪酔いでもしたんか?」
「…………」
「き、気分が悪いんやったら、湖畔で火照りを冷ますか……?」
真桜は出来る限り神経を逆なでしないよう努めて話しかけた。
「……して…………は……」
「へっ? なんて……?」
「……して……私…………ない……」
「あー……大丈夫やで、伯雷。ウチは怒ってへんよ。もう大丈夫や。大丈夫」
ブツブツと何かを呟く李鳳の背中を撫でてあやす真桜。すると李鳳は急にバッと立ち上がり、部屋の窓を開けた。そのまま身を乗り出し、大声で叫んだ。
「どうして私はおっぱいじゃないんだーッ!!!」
森中におっぱいがこだまする。
「…………へっ?」
「私はねェ、真桜。おっぱいになりたいんですよ」
「……」
「柔らかいおっぱい。弾力のあるおっぱい。張りのあるおっぱい。おっぱいのおっぱいによるおっぱいの為の素敵な世界……子供の頃からの夢でした。大きくなったら絶対おっぱいになろう……ってね」
「……」
「でも、なれなかった。若気の至りで一度もへもへになろうとした時期もありましたよ。でも変でしょ? 私がもへもへなんて。笑っちゃうでしょ? もへもへなんて……」
「……も、もへもへって何や?」
「それなのに……神は残酷だ。望んだ才能を与えてはくれない。いつだって私は笑いものだ。どこへ行っても笑われる。何をしていても笑われる。私ほどおっぱいを愛した者はいない。おっぱいへの信仰を忘れた事など一度もない……それなのに、神はどこまで私を試されるのか。真桜、貴女は罪なおっぱいだ。いつも私を惑わせる……くそっ、なんでそんなもの魅せ付けるんだ!? 私は……私だって……」
「……」
「そもそも、おっぱいって何だと思います? 人生ですよ。人の一生はおっぱいに始まっておっぱいに終わるんです。それなのに……それなのに……私は、おっぱいにはなれない。おっぱいじゃない人生なんて、生きる価値があると思いますか!? 私は思わないッ! 道化として、もへもへになれと言うのかッ!?」
「……もへもへて何やッ!?」
「は、ははは、はーッはッはッはー。そうか、神はそんなに哀れな私を見て嗤いたいのか! いいだろうッ! もへもへにでも何でもなってやろう! もへもへーッ! もへもへーッ! もへへへー…………ッ!?」
窓から飛び出した李鳳は壊れたように騒ぎ走って行く。走って、走って、そして、転んだ。
………………。
…………。
……。
「――て言う夢を見たんや。伯雷の間抜け面ときたら……ニシシッ、どや!? 笑えるやろッ!」
李典は身振り手振りを交えて、そう力強く熱弁した。
青州領東莱郡北岸より船にて海を迂回して徐州に戻り、拠点に帰還したのが昨夜遅く。連れて来た下僕は総勢四百人になる。解放した当初は千人以上いたが、四割が城下を離れた時点で、また二割は徐州に到着して船を降りた後に逃亡した。少々無理をして船倉に詰め込んだ為、不信感を与えた可能性は高い。なにせ慣れない渡航のせいで船酔いし、船倉は嘔吐物と汚物で酷い惨状と化した。そのような環境が何日も続けば嫌にもなるだろう。
それでも四百人がこの森の奥深くまで自分の足で付いて来たのだ。強行軍で疲れ果てた下僕達は泥のように眠った。張飛もぐっすりしてしまい、諸々の話は翌日に持ち越しとなる。そして翌朝、どうしても話しておきたい事があると李典が幹部を招集したのだった。
「……あ、姐御。大事な話って……それか?」
「え? そうやけど」
「……マジかよ」
「にゃはははは、面白い夢なのだ! もへもへ~」
「ウッシッシッ、ういやっちゃのぅ」
あまりの馬鹿馬鹿しさに丁奉は頭が痛くなる。無邪気に笑う張飛を嬉しそうに李典が撫でた。
「う、羨ま……(ひどいわ李鳳さまッ! 私の夢には出て来てくれないのに……!)」
妖光は悔しそうに唇を噛み、恨みがましい視線を李鳳に送る。ふむ、と郭離は顎に手を当てた。
「しかし……解せませんな。夢なのに痛みを感じたのでありますか?」
「おっ、流石は隊長。ええとこに気付いたな。むっちゃ痛かったで。これがまた笑えるオチがあるねん」
「……勘弁してくれよ」
「実はな、起きてから胸見たら薄っすら痣が残っとってん。ほんで自分の手と重ねてみて吃驚! ピッタリ一致するんや。どうも寝とる間に自分で掴んどったみたいやわ。なっはっはっはっは、笑てまうやろ?」
「やろ――じゃねーよ! 馬鹿なのか!? だったらなんでその痛みで起きねーんだよッ!?」
「フッ、ええか仙花。女っちゅうんはなぁ、痛みと闘わなあかん時があるんや」
「……ついてけねーよ」
丁奉は頭を抱えて深いため息を吐く。文字通りの白旗宣言である。いい女ぶって笑う李典には最早何を言おうと勝てる気がしない。朝っぱらからギャーギャーと興奮気味に騒ぎ、下僕達への説明より前に何を言うかと思えば、まさかの何の益にもならない夢の話であった。
正確に言うと、一人だけ害を受けた者はいる。いくら夢の話であっても李鳳にとっては辱め以外の何物でもない。それを李典はわざわざ皆の前で発表した。李典自身の痴態も多分に含まれると言うのにである。困った事に当の本人には一切の悪気がない。ではなぜ話すのかと聞けば、面白いからと胸を張って答えるだろう。
とばっちりで李鳳は辱めと嫉妬を受ける破目に陥ったが、実のところ全く腹を立てていない。むしろ李典らしいと言える奔放さに、ずっと笑いをかみ殺していた。李典の破天荒ぶりは絡繰りに留まらず、普段の行動や言動にまで及んでいる。振り回されて迷惑している者も多いが、李鳳や張飛のように楽しんでいる者も少ない。そのせいもあり李典は良くも悪くも自由過ぎた。
「クククッ、そんな事より下僕への対応はどうします? 道中や今朝の様子を見る限り、まだ我々に対して心を許していません。食事や寝床の提供は受け入れていますが、仕事を頼むとなれば……」
「そんな事て……現実の伯雷は冷たいにゃぁ」
「彼らは貴重な労働力です。生産部門や拠点開発部門の発展の為には……特に」
「無視……?」
「所詮はヒエラルキー最下層の下僕、彼らに人権なんてありません。必要ならば暗示でも催眠でも――」
「ひえら……何? っちゅうか、あかんッ! それだけは絶対に許さんッ!!」
李鳳は皮肉な笑みを浮かべて提案したが、李典はそれを断固拒否する。
「ええか。あの下僕らは東莱で脅迫されとったんやで。せやのにまた強制して働かせるような真似はしたないねん」
「ほぅ。まさかあの人数を無償でも養っていくとでも?」
「おいおい姐御、いくら大金が入ったっつっても、そこまでの余裕はねーだろ!?」
「ちゃうちゃう。誰がタダ飯なんぞ食わせるかいな。ちゃーんと働いて貰いまっせ。ただしや、強制はしたない」
「でもよォ……あいつらがはオレらの下じゃ働きたくねーって言ったらどーすんだ?」
「……えっ?」
「え? じゃねーよ!」
李典は信じられないと言う表情で丁奉を見た。そして分かり易く取り乱し始める。
「な、ななな、なんで働きたないとか言うねんッ!? こ、困る……そんなん困るで!」
「……いや、可能性はあんだろ」
「もし働きたくないって言うなら……単純に出て行って貰えばいいだけじゃ?(李鳳さまとの楽園にダニは不要ですぅ)」
「あ、あかん。そないな事したら路頭に迷うだけや。見捨てる事は出来ん。何やかんや言うても、連れて来たんはウチらや。途中で逃げた者はどうにも出来んけど、残った者に対してはそれだけの責任は背負わないかん!」
「……かもな。じゃあ、どうする? 最終的に決めんのは姐御だ?」
丁奉は戦闘狂で思考は短絡的だが、正義感が強く頭も悪くない。李典はしばらくウンウン呻っていると
「にゃはは、簡単なのだ。鈴々達の事をよく知ってもらえば絶対に手伝ってくれるのだ!」
張飛は呑気に笑う。呆気にとられる丁奉を他所に、李典は我が意を得たりとばかりに
「鈴々の言う通りや! まずは知って貰う事が必要やな。ウチの事を! ウチらの事をッ! ほんで気持ち良ぅ働いて貰うッ! か……完璧やッ!!」
「……おいおい……そんなんで大丈夫なのかよ!?」
「問題ないで! 後は伯雷と妖光が何とかするさかいッ!」
そう、したり顔で命じるのであった。