124話 李遊軍白螺隊④
青州に所属する東莱群のとある小さな県。中華大陸の北東部に位置する海に突出した半島であり、北海と城陽に隣接する西側以外の三方全て海に囲まれている。青州の中でも特異な立地であり、自領の繁栄のみを強く望む東莱の役人は以前から州牧との折り合いが悪かったという。
現在の領主がその県の長官――県長の地位に就けたのは、郡の役人のおかげと言っても過言ではない。為政よりも金勘定が得意な彼は金の力で役人を取り込み、その後押しによって県長まで出世出来た。使える物は親でも金でも使、それでのし上がれたら万々歳なのだ。支配者が袁紹から曹操に代わっても大した苦もなく、のらりくらりやり過ごしてきた。
そんな領主が今とても困っている。今月に入って蛮族の目撃情報と賊徒の被害報告が相次ぎ、県尉と共に頭を悩ませていた。すぐにでも討って出るべきだという血気盛んな用心棒五百人からなる私兵団と、調査が進むまでは城下の警備強化に留め万全の態勢を整えるべきだという県尉とで意見が割れる。元々私兵団と県尉は仲が悪かった。用心棒は領主の権力を笠に着てやりたい放題、県尉は何度目を瞑らされた事か。しかし、その度に袖の下を受け取った事も事実である。
領主は悩みに悩んで疲れてしまい、結局は役人の助言で県尉の案を採用した。当然ながら用心棒らの不平不満は募っていく。城下では肩が当たったなどと難癖をつけては無辜な民に暴力を振るい、酒場では周りの客に迷惑をかけた上に飲食代を踏み倒す。以前にも増して狼藉を働くようになった用心棒を何とかして欲しいと懇願に来る民も日に日に増え、領主にとっては蛮族や賊徒に並ぶ頭痛の種となる。このままでは例え家族や友人を人質にしているとは言えど、追い込まれた民はいつ何を仕出かすか判らなかった。
どうにかせねばと困っていた矢先、白螺隊と名乗る傭兵団が雇って欲しいと自ら売り込みに来たのである。期待を込めて会って見れば総勢五十人ほどの少数傭兵団だと言う。何人かは人を小馬鹿にしたような仮面を被っており、怪しい事この上ない。交渉の際には仮面を外して素顔を見せていたが、一貫して態度が大きかった。
さらに言うに事欠いて
「給金は相場の三倍貰うで。そんかし賊でも何でもすぐに追っ払ったるわ。その辺の雑魚とは違うんや、用心棒とは」
と大口を叩く始末。荒くれの用心棒でさえ最初の内は従順な姿勢を見せていたのに、こいつらは雇う前から自分を舐めていると領主は頭に血が上った。お前らに何が出来ると罵りたかったが、給金の支払いを成功報酬で構わないと言う。
自信に満ちた不敵な顔も癇に障った領主は「そこまで言うならば――」と、兵力差が十倍以上ある蛮族の撃退を命じたのだ。白螺隊が勝てるとは微塵も思っていない。少しでも時間が稼げれば儲けもの、負けても損のない捨て石集団だと考えた。その間に私兵団と正規軍を動かして賊徒を瞬殺し、返す刀で蛮族も葬れば良いと。遠回しに死んでこいと言っているようなものだが、白螺隊はこれを快諾した。そして明朝早々に発つと言う。
しかし領主は白螺隊を信用していない。しっかりと見張りを付け、蛮族との開戦を確認した上で行動に移すつもりでもある。自信満々な白螺隊が勝手に全滅するのは痛くも痒くもないが、せめて蛮族を一人でも多く道連れに欲しいものだと領主は切に願う。万が一粘りに粘って辛うじて生き残りがいたとしても、蛮族諸とも潰してしまえば何の問題もないとほくそ笑む。
蛮族と賊徒の居場所は斥候の報告で判明していた。蛮族は城から少し離れた山岳地帯、一方の賊徒は城からほど近い林の中に隠れ住んでいる。臭いに釣られて寄って来たと思うと忌々しいが、今回はかえってそれが好都合であった。汚物にたかる蝿共を一掃し、山猿共を追い払い、用心棒達の憂さを晴らし、領民達に恩まで売れる。一石二鳥ならぬ一石四鳥で全てが片付くと思うと、領主は笑いが止まらなかった。
◆◆◆
最北の地より南下してきた蛮族は野蛮であっても愚鈍ではない。そもそも野蛮と定義するのは漢民族を基準とした場合であり、蛮族も生きる為に必要な活動をしているのだ。彼らは大きな街道を避けて険しい森や山岳地帯を抜けて来た。
領土は広大になればなる程その支配が難しい。黄巾賊残党の大規模な接収を行ったばかりの青州は、曹操の警戒が弱まった地域の一つである。曹操は護るよりも攻める事に注力しており、青州兵はその最たる矛となった。
予備兵力のなくなった青州に目を付けた蛮族は利発で嗅覚も鋭い。彼らは一所に長く留まらず、南へ東へと移動を繰り返し、中華大陸東端の地に至る。蛮族はこの東莱に腰を据え、疲弊した体力の回復に努めた。その間に何度か狩人や行商に目撃されたが、この地の領主は何もしてこない。まだ事を起こすには時期尚早と考えた蛮族の首長は、領主の放つ目障りな斥候を決して殺すなと厳令する。首長の目論見通り、こちらから刺激しない限り領主は見て見ぬ振りを続けた。
これなら再起を図れると思っていた矢先、何の前触れもなく領主が寄越したとおぼしき傭兵団が攻めて来たのである。その傭兵団は五十人ほどしかおらず、統率も取れていない。足並みが揃わず、あまつさえ単騎で飛び出す者さえいる。流石の首長もこれには面食らった。お粗末にも程がある。漢族の犬が舐めおってからに――そう思ったが首長は憤慨を堪えた。よくよく見れば後方の一団は大した事なさそうだが、単騎で駆けて来る者からは強烈な武の匂いを感じる。だから首長は油断なく一族の精鋭百騎を先行させ、取り囲んで殺すよう命じた。
白螺隊はこの日の為に設計した機能的な軍服を身に纏い、幹部の半数は仮面も着用している。名前の通り白を基調とした軍服のデザインは洒落ているのに対し、仮面の方は全力でふざけていた。元々は正体を隠したいと言う李鳳が個人的に依頼したのだが、途中から李典が悪乗りしたせいで逆に目立つ結果となった。迷彩柄の衣装を捨てた李鳳の覚悟も虚しく終わる。
李典の仮面はたれ目と膨らんだ赤い頬が特徴的な『おかめ』であり、妖光は二本の角が生えた鬼女である『般若』を模した仮面であった。羞恥心と良心を併せ持つ丁奉と郭離は仮面の着用を丁重に辞退している。
そして張飛はと言うと
「にゃーにゃー鈴々こそは、天下無敵の大将軍『ひょっとこ』仮面なのだ! 腕に覚えのある奴はかかってくるのだッ!!」
力強く口上を述べて単独のまま蛮族の集団へと突っ込む。仮面に隠れて表情は見えないが、間違いなく嬉々としているだろう。『ひょっとこ』はぎょろりと見開いた目にすぼめて曲がった口と頭に巻いた手ぬぐいが特徴的な仮面で、本来は『おかめ』と対になる仮面なので李鳳が着用するはずであった。しかしどういうワケか張飛は『ひょっとこ』をいたく気に入ってしまい、泣く子と張飛には勝てないと言う事で譲ったのだ。
蛮族の若き精鋭達は漢民族の言語を覚えておらず、張飛が何と言ったか解っていない。たった一人で何が出来ると内心では思っていても、首長の命令なので慢心なく全力を持って迎え撃つ構えだ。平地の小娘と侮れば痛い目に遭う。それは曹操軍を相手にして経験済みであった。
殺到する蛮族の精鋭は巧みに馬を操り、曲乗りのようにして上下左右から張飛に襲い掛かる。普通なら面食らってしまうような連携であったが、張飛は意に介さず馬ごと一刀両断してしまう。一振りで少なくとも三騎、二薙ぎでゆうに十騎。まるで伸びた雑草でも刈り取るかの如く、邪魔な有象無象を次々と狩って行く。人馬一体という匈奴の神業をもあざ笑うその所業はまさに驚嘆ものであった。
信じられないと目を見開く首長は、すぐさま第二・第三陣を投入して迎撃を命じる。弓矢で射ようにも、同胞が重なり盾にされてしまう。上手く間隙を縫うように狙っても蛇矛によってその矢も弾かれる。二十、三十、五十、百と、蛮族の死体はみるみるうちに増えていく。
首長の背中に冷たいものが走る。過剰とも思える戦力で迎え撃ったにも関わらず、未だ漢民族の娘は掠り傷一つ負っていない。過去に戦った公孫賛や曹操の軍中にも恐ろしく強い猛者はいたが、ここまで圧倒的な暴力の化身を見るのは初めてであった。首長はここにきて漸く自分の判断が誤っていたと気付く。
「ナッハッハ、見てみィ妖光。圧倒的やないか、我が軍はッ!」
「す……すごっ(……って言うかぁ、り、鈴々ちゃんってあんなに強かったの!? うぇぇぇぇ!? ば、化け物じゃん! うそぉ……てか、マジ呂布さまとタメ張んじゃね!?)」
満面の笑みを浮かべて高らかに笑う李典と対照的に、妖光は驚愕で目を丸くしていた。もっとも仮面のせいで二人の表情は見えないのだが……。
「なんぼ伯雷の策やから言うても、鈴々一人をぶつけるんはどうかと思とった……けんど、杞憂やったなぁ。あれ見せつけられて間違うとるとはよう言わんで、圧巻や」
「いや、ガチヤバっしょ(うふふ、仰る通りですぅ)」
「へっ?」
「――あら? あ、あはははは……李鳳さまの慧眼には感服するばかりですぅ(…………)」
「……ふーん、まぁええわ。ほんで、奴さんらの"目"の方はどないや?」
「は、はい。鈴々さんが飛び出したのを確認して、すぐに合図を飛ばしていました。おそらく勝てないと踏んでいるのでしょう。見張りも高台に三人だけ……それでも領主が動き出すのは時間の問題かと(…………)」
「慎重なんかせっかちなんかよう判らんな。あれの始末はアンタに任せるさかい、あんじょうやったって」
「はい。お任せあれ(……あ、危なかったですぅ)」
妖光は目を泳がせ心臓がドクンドクンと脈打った。仮面のおかげで表情こそ悟られていないが、動揺は隠せていない。慌てはしたが、何とか誤魔化せたと胸をなで下ろす。
白螺隊は幹部以外一人も騎乗していない。初陣のせいか剣や槍を持つ手が震えている。彼らの不安が伝わったのであろう。李典は前方を向いたまま
「心配せんでもアンタらを戦わす気はあれへん。そんかし事が終わるまではシャキッと立っとき」
そう言い放った。その声は落ち着いており、それでいて力強く威厳を感じさせる。
白螺隊は返事こそしなかったが、気持ち背筋を伸ばして応えた。戦わないで済むという言質を得た事で安心した者も少なくない。人間とは現金なものである。しかし容易に納得出来ない者もいた。
「いかに李鳳さまの策が素晴らしくても、こう愚図愚図されては困りますぅ。案山子の方がまだマシじゃありませんかぁ?(理解も動作も決断も遅過ぎって感じィ。害にしかならないなら、いっそ死んでくれた方が……)」
「そう言うたりな。初めての戦場で必要以上に気負っとるだけやて」
妖光が本音を吐露するのは珍しく、まぁまぁと宥める李典も苦笑する。今回の策は謂わば妖光と李鳳の合作である。妖光にとって計画を滞りなく進める事こそ、李鳳に役立てる唯一無二の奉公なのだ。邪魔する者は例え味方でも許す気はなかった。
そんなやりとりをしている間にも、張飛は蛮族をなぎ倒している。既に半壊状態にある蛮族の首長は青褪めた顔で「撤退だ」と叫ぶ。蛮族の言語を知る由もない張飛であったが、本能がそれを理解した。
「にゃははは、死にたくなければ逃げていいのだ。大将軍とは"じひ"の心も持っているのだ!」
慈悲とは『ひょっとこ』の仮面を譲渡された時に李鳳から習った心得の一つである。曰く、立ち向かってくる敵には慈悲の心を持って一撃のもとに息の根を止めるべし。曰く、背を向けて逃げる敵には慈悲の心を持ってこれを追うべからず。李鳳に習う以前から張飛はこの行為を実践していたが、口上を覚えてからはやたらと難しい言葉を使いたがるのであった。そういうお年頃なのかもしれない。青州に来てからの蛮族は生きるのに必死で無駄な殺生をしていない。情状の余地ありと判断した結果であろう。
高台にて一部始終を目撃した見張り役は開いた口が塞がらなかった。戦闘が始まった時に狼煙で合図を送って以降、何の追加情報も送っていない。あまりの出来事をどう伝えたら良いか戸惑っている内に、あろう事か戦闘そのものが終わってしまったのだ。
あの恐ろしく屈強な蛮族が為す術もなく瓦解し壊走していく。余裕すら感じさせるほど一方的な展開には戦慄を覚える。目の前で起こった事なのに未だ信じられず、彼らは驚きを通り越して放心状態にあった。すぐにでも戦闘が終了したと領主に伝えねばならないが、自分達の頭ですら整理がついていない。何をどう伝えたら良いのと悩む。しかし、その悩みもそう長くは続かなかった。
「うふふ、戦はもう終わりましたよぉ。それと~、貴方達の人生もここでお終いで~す。皆さ~ん、今までオッツーでしたぁ」
下から暢気な声が聞こえたかと思うと、見張り役三人の体に激しい痛みが走る。見ると鬼のような仮面を被った女が弩を構えていた。しかも普通の弩ではない。てこのような操作棒が付いており、女がそれを握って回すと連続して矢が飛んできた。装填と同時に発射された矢は見張り役が着用している革製の鎧をあっさりと貫く。間髪入れずに二射、三射と矢が放たれ、あっという間に三人はハリネズミと化して倒れた。
大きな血だまりに足を踏み入れ、首に手を当て死亡を確認する仮面の女。勿論妖光に他ならない。入念に時間をかけてしっかりと三人の生死を確かめる。万が一にも生きていられては困るのだ。三人とも絶命している事が判り、漸く安堵の息を吐く。
「偉そうに高みの見物なんかしちゃって、何様のつもり――あっ、やばっ。無駄撃ちするなって言われてたんだ……もう、この威張り散らす馬鹿のせいよ! バカバカバカッ!」
態度を一変し悪態をつく妖光。グチグチと文句を言いながらも刺さった矢を抜き取り始める。連弩の矢は専用に作った物であり、数に限りがある上に節約するようにと釘を刺されていた。鬱憤を晴らす為とは言え矢倉が尽きるまで撃ちまくった事を少し後悔する妖光であった。
戦場では李典が張飛の奮闘を労っており、白螺隊は緊張の糸が切れ地面に座り込む。
「ご苦労さん、大したもんや!」
「にゃははは、鈴々は大将軍だから当然なのだ!」
「ウッシッシ、後ろでへたり込んどる連中にも見習って欲しいで」
皮肉交じりに笑うが、李典の本心とは少し違う。李典は彼らに過度な期待をしていない。やれやれという目で一瞥し、仕上げが残っていると移動を促すのであった。
◆◆◆
討伐隊の編成に際して一つ問題が発生した。領主は当初討伐隊の指揮を県尉に任せようとしたが、私兵団の用心棒達がこれに異を唱えたのである。相手は闇夜に隠れてコソコソ盗みを働くしか出来ない腰抜けの賊徒、数でも質でもはるかに勝る私兵団だけで十分だと言い張った。見え透いた建前だと領主は思う。しかし間違っているとは断定出来ない。
用心棒にとって賊徒は虱潰す害虫であり、領民は餌を運んでくる益虫という認識でしかなかった。役に立つ内は生かしておくが、そうでなくなれば言うに及ばず。これまで何人もの無辜な民の命を奪って来た。今さら賊徒という虫けらをただ殺すだけで満足するはずがない。
さらに用心棒にとっては漢帝国すらどうでも良かった。栄えようが滅びようが自分達は酒を飲み、女を抱き、人を殺せれば良いのだ。だから高い倫理観を持つ県の軍隊は邪魔だと感じたのだろう。荒くれ用心棒に慈悲の心はない。これでまた機嫌を損なうのも旨くないと考えた結果、領主は血気に逸る私兵団に賊徒討伐を一任したのだった。
こうして五百人の用心棒からなる私兵団だけが城を離れ、県尉の部隊は引き続き城下の警備強化に努めた。賊徒は酷い殺され方をするだろうが、蝿共の末路など領主の知った事ではない。領主はこの後の予定を全て断り、懇意にする役人を招いた。討伐隊は出発したばかりだと言うのに、もう祝宴である。賊徒討伐が失敗に終わるなどとは思ってもいない。白螺隊が敗走したという報せもまだない。勝てるとは夢にも思わないが、足止め出来てればそれで良かった。思った事と言えば、こんなにうまい酒は久しぶりという事だろう。
真昼間から始まった酒宴の盛り上がりも最高潮になろうとしていた。役人はこの場にいない州牧に対する不満が次々と挙げる。それはもうグチグチ愚痴愚痴、延々と――。
「よくもまぁ飽きもせず続くものですねェ。感心しましたよ、クックック」
聞き慣れない声が響き、役人達の笑いがピタリと止む。声のした方向を見ると、宴会場の入り口に怪しげな男が立っている。男は『狐』を模した仮面を被っていた。白地に赤く染まった耳と口、釣り上がった目は黄色く塗られている。領主はすぐに白螺隊のそれと判った。
「なっ、どうして城内に!? 門兵は何をしてる!? どうやって入ったッ!?」
「城を盗りに。外で寝ています。扉を開けて普通に入りましたが……何か?」
仮面の男――李鳳は嗤う。
領主は唖然とし言葉が出ない。役人が小声で衛兵を動かす。
「おい貴様ッ! 真面目に答えろッ!」
衛兵は李鳳を睨め付け、首元に刃先を突き付けた。
「クククククッ、一度だけ警告しましょうか。貴方は今、私の"真名"を呼んだ。即刻訂正を」
「……何を言っている?」
「貴方に"真名"を許した覚えはないと言っています。訂正を――」
「いい加減にしろッ! 貴様は聞かれた事だけに答……ッ!?」
ゴキッという鈍い音を立てて衛兵の首が捻じ曲がる。
「――されても困りますがねェ。なんだか懐かしい気分ですよ。クヒヒヒヒッ、今ならあの猛牛の首も刎ねれるでしょうか」
領主と役人は大きく目を開いた。首筋に刀を当てられたまま動けば普通その首は斬れる。それなのに李鳳は無傷のまま衛兵の首を掴み圧し折ったのだ。刃に沿って動いていたはずなのに理屈に合わない。しかも衛兵は首を折られるまで抵抗らしい抵抗をしなかった。まるで懐に潜り込み首を掴む李鳳の一連の動きが見えていなかのように……領主達が目を疑ったのも無理ないだろう。
「ふむ……この展開なら、プランAよりもプランBを修正した方が良いでしょうか。思った通り、深謀遠慮とは無縁な方のようですからねェ。自分達の都合と状況が悪くなれば決断に鈍り、逆に良ければ早計に判断を下す。子飼いの部下にすら手を焼いているのに……よくここまで成り上がれましたねェ、クックック」
「……ひっ……だ……誰だ?」
「余程運が良かったのか、それとも環境に恵まれていただけなのか。あるいは仲良しこよしでお手々繋いで頑張りましたか。どちらにしろ……これからの貴方の余生を思うと、胸が痛みますねェ。いや、悩みとは無縁の生活を送れてむしろ快適かもしれませんよ。クククククッ」
独り言のように呟く李鳳。領主は腰を抜かし下半身を黄色く濡らした。頼ろうした役人は心臓から小刀を生やして事切れている。彼らの背後には息を潜めてじっとしている人影があり、白よりも黒に近い灰色の衣装を身に纏う。その中の一人が李鳳に近付き耳打ちする。
「白狐様、例の準備が整いましてございます」
「ご苦労様です。では私も仕上げに取り掛かりますので、住民の移送を始めて下さい」
「はっ」
李鳳の一声で灰色の集団は音もなく散開した。彼らは『白狐衆』。李鳳の謀略を実行する為だけの部隊であり、戦闘よりも隠密に長けた生え抜きの諜報員で構成されている。眷属の小動物では不可能な流言、扇動、交渉、偽装、放火、破壊などの工作が主な任務であり、元は白螺隊の一員だけあって身体能力は高い。今回は報酬に関する重要な役目があって街中に潜伏している。
白狐衆が去った部屋で李鳳と二人きりにされ領主の顔は引き攣った。腰を抜かしたまま後ずさりするが、壁際に追い詰められて後がなくなる。李鳳はゆっくりと仮面を外した。
「そう怯えなくても恐れなどすぐに感じなくなりますよ。ああ、ついでに喜怒哀楽もね。クヒヒヒヒッ……さぁて、キレイキレイにブレインウォッシュしましょうか」
李鳳の表情は狂喜に歪み、領主の顔は恐怖で歪む。この日を境に領主は怒る事も、泣く事も、笑う事もなくなったと言う。
一方、林に着いた私兵団も驚きで眉を顰めた。賊徒を狩る為にここまで来たはずなのに、待ち構えていたのは白い軍服を纏い見た事のない武装をした集団なのだ。それは確かに蛮族の方に向かったはずの白螺隊であった。どうして此処にいるのか解らず混乱して騒ぎ始める五百人の用心棒。
そんな彼らを無視するかの如く、郭離の怒号が飛ぶ。
「これより賊徒掃討作戦を開始する! 総員戦闘準備! これは演習ではない! 繰り返す! これは演習ではないッ! 眼前の賊徒共を一人残らず――駆逐せよッ!!」
「おーッ!!!」
白螺隊は大声を上げて突撃を始めた。郭離の物言いに用心棒は大いに腹立てる。
「はぁ!? 俺らが賊だと? ゴミが何言ってやがる……ッ!?」
「ざけんな! 誰に調子こいてんだ! ああ? ぶち殺すぞッ!」
「たかが五十かそこらの傭兵団に俺様が負けるかよ! 返り討ちにしてやるぜッ!」
「おいお前ら、ピーピー泣き喚いても許さねーからな!」
いきり立つ私兵団と奮い立つ白螺隊は激しくぶつかった。私兵団は数で、白螺隊は質でそれぞれを上回っている。しかし、その差は圧倒的であった。激突した瞬間、最前線にいた用心棒が数人はるか後方に吹き飛ぶ。飛ばされた者の体はぺちゃんこに潰れている。巻き込まれた者も無事ではない。
白螺隊の前衛は体格に恵まれ筋力に優れており、円錐状に尖った大楯を持つ。その重量は百斤(60kg)もあり、かがむと全身を覆い隠せる程大きい。正面からの攻撃に対しては比類なき防御力を誇り、全力でかます体当たりは絶大な破壊力を生んだ。全てを跳ね除け全てを押し潰す大楯、名を牙王と言う。大楯・牙王は一度の突進で確実に一人以上を戦闘不能に出来る。さらに中・後衛に敵が近付かないよう前線を保つ力にも長けていた。
中衛は技量に優れた器用な者が多く、弾道三尖槍・孤蜂と多節鞭・大蛇を操る。蜂も蛇はどちらも毒を喰らった事で、その殺傷能力を著しく向上させた。刃先に塗りたくられた即効性の毒は触れただけで体の自由を奪う。中衛は見事な槍捌きと鞭捌きを披露し、前衛の間隙を縫って用心棒の体を貫いた。巧みな連携で指揮官級の動きを封じ、初見殺しの毒針を飛ばす。かわせる者など一人もいない。
離れた後方からは後衛が妖光も使っている連弩を射った。今のところ矢倉に装填出来る矢の最大数は三十本、つまり三十連射が可能となる。普通の弓を使っていてはどんな達人でも実現不可能だろう。白螺隊は確実に、そして着実に一人また一人と用心棒を倒していった。
戦闘が始まって四半刻が経過した頃、両者の戸惑いは最高潮に高まった。私兵団は白螺隊のあまりの強さに、白螺隊は私兵団のあまりの脆さに驚く。五百人いた私兵団は既に百までその数を減らしている。対して白螺隊は未だ一人の死者も出していない。
白螺隊はこれまで張飛という超人を毎日のように相手してきた。そのせいで彼らは自分の強さにイマイチ自信が持てていない。最初は私兵団の連中が手加減しているのかと疑いさえした。それなりには戦えるだろうという自負はあったが、ここまで差があるとは思いもしなかったのだろう。
私兵団も白螺隊がここまで強いとは思いも寄らず、用心棒達は半狂乱となって逃走を図った。我先にと仲間を押し退けて逃げ出す。
「何チンタラやってんだよ! あんな糞共、もっと早く潰せただろう!?」
林の中から甲高い丁奉の怒声が轟く。万一に備えて彼女はずっと林の中から様子を窺っていた。余程の事がない限り手出し無用と李典に念押され、戦闘狂の丁奉にとっては拷問に近い仕打ちである。ただでさえ気が立っている状態なのに、白螺隊の不甲斐無い戦闘は丁奉をさらに不機嫌にさせた。
白螺隊は結成時に比べて数倍の力を得たが、その思考はあまり成長していない。ずっと強者と戦ってきた弊害であろう。それなりに戦える技量は身についているのに、弱者との戦闘はあまりにもお粗末だった。堅実を通り越して慎重過ぎたのだ。これまで倒すべき時に相手を倒し切れない。案の定、何十人かの用心棒には逃げられてしまった。
逃げた先は判っているので大きな支障はないが、郭離は隊長たる自分の責任だと頭を下げる。
「申し訳ありません。相手の実力を見誤りました……まさか、あれが全力だったとは」
「チッ、糞面白くねーッ! さっさと追うぞッ!」
「はっ!」
「……気に入らねー、全部あの糞李鳳の思惑通りかよ」
「はっ?」
「なんでもねーよッ! それより計画は大丈夫なんだろうな?」
「はっ。恐らく"ぷらんびー"にて進行中と思われます。我らも急ぎ参りましょうぞ!」
丁奉と白螺隊は逃げた私兵団を追って走った。五十人の傭兵団が二百人の私兵団を追う、傍から見れば非常に難解で奇抜な様である。しかし、そのさらに後方にも白螺隊を追う複数の影があったのだ。
私兵団は死にたくない一心で無我夢中に駆けた。恐怖から吐き気を催し、嘔吐しながらも走った。白螺隊は追い詰め過ぎないよう適度な距離を保って追走する。そうする事で私兵団に指向性を持たせた。城以外を目指して散り散りになられても面倒なのだ。
しばらくして東莱の外壁が見えると、私兵団の足は心なし軽くなった。さらに近付くと外壁の外で隊列を組む郡兵も見える。私兵団の用心棒は助かったと安堵した。用心棒は疲労困憊で立っているもやっとの状態である。喉もカラカラで声も出ない。まずは水を飲みたいと思う用心棒の耳に領主の声が届いた。
「捕えよ……奴らは下賤な賊にして、東莱郡の役人を殺めた罪人。その罪は死をもって償え」
希望の色が絶望に染まる。領主は明らかに用心棒を指して罪人と呼んだ。謂れない疑いだが、彼らとて清廉潔白ではなかった。県尉の部隊には不可解に思う者もいたが、横暴に振る舞ってきた用心棒を擁護する者はいない。領主の命令に背くワケにもいかず、躊躇いもなく制圧にかかる。姿は見えないが退路は白螺隊に塞がれていた。まさに前門の虎後門の狼である。倒れゆく仲間を見て用心棒は壊れたように笑う。もう笑うしかなかった。
他方の袁紹によって太守の座を追われた公孫賛遠縁の一族は、外壁の陰に身を隠しつつ大捕り物を見ていた。そしてこれまでの苦労が報われたと破顔する。思い返すと不運の連続であった。袁紹から逃げ延び、持ち出した宝石や着物を売って生活する日々。その後は連れて来た馬を殺して飢えを凌いだ。しかしそれも限界を迎え、とうとう盗みを働く。
その頃になって青州の支配者が袁紹から曹操に代わった。曹操になら下っても良いと考えたが、時すでに遅い。もう自分達は何の役職もなく、卑しい者と見下し侮蔑していた賊と見なされている。その行為自体は恥じておらず、生きる為には当然だと盗みを繰り返してきた。辛うじて殺人は犯していないが、必要であればやっていただろう。
落ちる所まで落ちそうになった時、公孫賛の元配下と名乗る白螺隊の使者が現れた。使者は耳を疑うような提案と共に協力を求めて来た。なんと国を奪うと言う。領地を得て役人に返り咲けると言う。馬鹿げた事をと一笑したが、使者は本気だった。すでに根回しや細工も進んでいると言う。領主を傀儡にして領地を支配するなど無理だと思ったが、使者は怪しげな薬と呪文によって一族の一人を支配して見せた。さらに驚くべき事にあの万夫不当の(張)飛将軍が味方にいると言う。飛将軍と言えば黄巾軍三万をたった一人で破った事で有名な豪傑であった。
それが本当であれば小国を盗る事も可能に思えた。計画自体は力技な部分も多いが、十分に可能性を感じさせる。しかし、その為には一族の者を五十人ほど貸し出さないといけない。誰も死にたくないと迷っていると人選は誰でも構わないと言ってきたので、嬉々として小間使いや下っ端を差し出す事にした。大半の事は白螺隊でやってくれるらしく、国を奪った後で財産を折半する。今の県長は商才に長け、それなりの額を貯め込んでいると聞く。それに実際の領地経営は公孫一族の好きに出来るし、白螺隊は所詮しがない傭兵団に過ぎず、自分達の上に立たれる事はない――ならば乗らない手はないだろうと判断したのであった。
そして今日、策は見事に成功したのである。蛮族を相手にしている部隊から連絡はないが、策が成った今となっては関係ない。清々しい凱旋という気持ちで足を踏み入れた城下であったが、公孫一族は不思議な事に気付く。田畑を耕す民の数はこれまでに比べて少ない。何度も畑を荒らした事があるので、農家の人数はおおよそ把握していた。街中を見回しても馬車馬のように働かされていた下僕の姿がどこにもない。何かがおかしい感じた公孫一族は一も二もなく領主の館へと急いだ。真っ先に赴いたのは金蔵である。傀儡となった領主に命じて鍵を開けさせ蔵の中を覗き込む。そして愕然とした。金品で溢れているはずの金蔵は空っぽなのだ。それどころか屋敷中の金目の物が全てなくなっていた。一族は躍起になって白螺隊を探したが見つからない。見つかったのは一通の書簡だけであった。
『領主の土地は丸ごとくれたる。せやから金銭類は全部貰っとくで。約束通り折半や。あと戸籍登録もされてへんのに働いとる流民が仰山おったで。税も納めてへんし邪魔やろうから全員貰って行くわ。ああ、礼はいらんで。それから白珪はんが袁紹に攻められて窮地に立った時な、一目散に逃げたおどれらの罪はこれで許したるわ。ほな、さいなら! 美少女戦士おかめ仮面より』
非常に刺激的な文面である。詭弁の中にも無数の脅迫めいた事柄が含まれていた。公孫一族は顔を真っ赤にしてぷるぷる震える。
「…………ふ、ふざけるなーッ!!」
「我らを謀ったのか!? 金がなければ何も出来んぞ!?」
「至急曹操殿に事の真相を話して制裁を加えてもらおう! 我々は全てにおいて被害者であろう!」
「いや待て! 曹操殿は法の番人……下手に話せば我らとて放免という保証はないぞ」
「……確かに、かのお方は上級官僚ですら棒叩きにしたという鬼だからな」
「では、どううるのだ!? 州牧に頼るのか!?」
「州牧と我らは犬猿の仲だ。足止めの依頼すら難しいぞ?」
自分達の行いは棚に上げて言いたい事を言い合う公孫一族。
「案ずるな。あれだけの下僕と金品を連れて行けば歩みも遅くなろう。馬を飛ばせば後からでも十分追い付けるさ」
「しかし白螺隊にはあの飛将軍がおるのだぞ! どうやって交渉するのだ?」
「そうだ! それにあの白螺隊自体の強さも尋常ではないぞ!」
「交渉など無用だ。蛮族討伐に向かった小間使いから出発前に受けた報せだが、白螺隊に呂布殿はいないそうだ」
「なっ!? それすらも虚言であったか! では……蛮族を相手にした部隊は全滅か!?」
「そんな事はどうでもいい! 交渉もなしでどうするつもりだ!? 我らの金だぞ!」
「確か西に抜ける街道には崖に挟まれた箇所があっただろう。県尉に軍隊を派遣させて崖上から弓で射殺すのはどうだろうか? 用心棒などと違って正規の部隊は容易くなかろう」
「おお、素晴らしい名案よ! 使える馬と弓は全て出せ! 彼奴等を一族復興の礎とするのだ!」
「おおよ!」
判刻ほど前には白螺隊に涙を流す程感謝していた公孫一族であったが、今では再起に燃えて熱くなっていた。李典が聞いていれば公孫一族の面汚しと罵ったであろう。
結局、彼らと白螺隊が再会する事はなかった。それもそのはずである。白螺隊は街道など使っていない。白螺隊が移動に使ったのは陸路ではなく航路なのだ。大量の資金と人を一度に運ぶ方法として、これ以上のものはない。李鳳の昔取った杵柄であった。