120話 新たな胎動
億千の星が漆黒の夜を照らし、その恩恵は地上にまで降り注ぐ。キラキラと輝く鏡のような湖面はまるでもう一つの空を彷彿とさせる。奥深い森にひっそりと存在する湖は、野生動物にとっての聖地であった。
普段は梟の鳴き声が響く程度の物静かな湖畔も、今宵は何かと騒がしい。その理由は招かれざる人間の集団にある。彼らは湖畔に天幕を張り、魚を釣り、鹿を狩り、火を焚いて宴を始めた。大人しい草食動物は人を恐れ、大型の肉食獣も火を畏れて湖畔には近付けない。人間の襲来は動物にとって迷惑この上なかった。
そんな事情を知ってか知らずか、宴はますます賑わいを見せる。下処理を施し適当な大きさに切り分けた肉と魚を枝に刺し、焚火の熱と炎によって炙り焼く。岩塩と数種の香辛料をまぶしただけの味付けではあるが、脂ののった身はジュウジュウと音を立て、香ばしい匂いが食欲をかきたてた。
「かぁぁぁ、うんめーッ!」
焼き魚にかぶり付くと、李典は舌鼓を打った。ほどよく焼き目のついたパリパリの皮に柔らかく弾力のある脂身、空腹という調味料も相まって極上の味わいをもたらす。他にも森で採れた山菜を焼いてはいるが、育ち盛りの若者は肉と魚にしか手を伸ばさない。
「おい糞チビ、それはオレんだぞ」
「にゃははは、早い者勝ちなのだ。それに仙花には鈴々が釣ったのを分けてやったのだ」
「ああッ!? 一口だけじゃねーかよ、ふざけんな!」
「ウフフ、まだまだ沢山ありますから仲良く食べて(ブクブク太るといいわ)」
「この行儀の悪さ……山賊の晩餐、と言ったところでしょうか」
和気藹々として一見微笑ましいが、実に奇妙な面子が同じ焚火を囲んでいた。張飛と丁奉はお世辞にも上品とは言えない不作法で魚や肉を頬張る。その横には焼き魚に夢中の李典と冷ややかに観察する李鳳、そしてもう一人――妖光が存在した。
妖光とは董卓に侍女兼軍師補佐として仕え、董卓没後は劉備の所で侍女をやっていた李儒である。余計な詮索と諍いを避ける為に名を捨て、現在は真名を名乗っていた。
誰彼構わず真名で呼ばれる事に対して最初は殺意を抑え切れずにいたが、人間はあらゆる環境に適応する生物である。数ヶ月も経てばすっかり殺気を隠せるようになっていた。妖光が李儒であり董卓に仕えていた事は李鳳以外誰も知らない。また李鳳としてもこの事実を誰かに話す気はなかった。
満足いく釣果を上げた李典は饒舌である。やれ自分は何匹釣ったなどと自慢げに話す。
「それにしても仰山釣れたな。やっぱウチのバンブーちゃんのおかげやろ」
「正確には私発案、マンセー製作総指揮の『六角バンブーロッド』です……が、設計よりも遥かに高性能なのはどういう絡繰りでしょう?」
「そ、それは……ウチが天才っちゅう事か!?」
「それは間違いないでしょう。紙一重ですがねぇ、クックック」
「その通りです! 竹をそのまま釣り竿にする凡夫は数多存在しますが、分割して組み合わせる事で耐久性と安定性を増すなんて、天才的な発想ですもの。さすがですぅ(あぁ、痺れますぅ)」
「ナッハッハッハ、せやろせやろ……ん? 発想?」
李典は小首を傾げた。妖光の物言いに少し引っかかりを覚えたのである。しかし、考える暇もなく張飛が話に入って来た。
「お姉ちゃんの竹竿は本当にすごいのだ」
「ニッシッシッシ、面と向かって真顔で言われたら照れるやん」
「ハッ、テメェに道具の良し悪しが判んのかよ?」
「鈴々がこの湖の主を釣れたのは竹竿のおかげなのだ」
「ぬ、主とか言ってんじゃねーよ! ちょ、ちょっとデケーだけの魚だろ、調子乗んな! そ、それに数じゃオレの方が圧勝してんだからな!」
「にゃははは、負け惜しみなのだ。鈴々の方が釣り竿を上手く使えるのだ」
丁奉は誰よりも多く魚を釣り上げており、その数は六十を越える。一方の張飛は数こそ少ないが、己の身体の十倍はあろうかと言う大魚を釣って見せたのだ。丁奉が釣った全ての魚を足し合わせたものより尚大きいソレは、この雄大な湖の主と言っても過言ではない。丁奉はその事実を受け入れられずにいた。
「いや、釣り竿っちゅうか……アンタ途中から手掴みやん?」
「竹竿のおかげなのだ!」
「お、おう……さよか」
「はッ、べ、別にデカけりゃイイってもんじゃねーだろ!」
「その通りね!(大きいと垂れるのも早いって聞くわ、イイ気味よ)」
「にゃ?」
「へ?」
不毛な展開になりつつあった話題をさり気なく李鳳が変える。
「釣りにもコツがありますからね。針先で魚の当たりを感じ取り、竹竿と一心同体になれれば、大物だろうと数だろうと釣り放題です」
「ケッ、偉そうに」
「お兄ちゃんの教え方は分かりやすかったのだ」
「私も李鳳さまにコツを教わったおかげで、五十匹も釣れちゃいましたぁ(ホントはもっと沢山釣れたけどぉ、李鳳さまに構って欲しくて釣れないフリしちゃったぁ)」
「クククッ、まぁ釣果は上々でしょう。コツさえ掴めば釣りなんてこんなものですよ」
「さすがは李鳳さまですぅ(ウフフ、笑った横顔もカッコ良し)」
殺伐としかけた雰囲気が和やかになった。しかし、そこで一人話題の外にいた李典が一言。
「……いやいやいや、伯雷ボウズやん」
「……」
「……」
時は静止した。李典の言うボウズとは無釣果を意味する。李鳳は一匹も釣れていなかったのである。
「そうそう、こちらの芋が良い感じに焼けていますよ。マンセー級の特大芋です、どうぞ」
李鳳はあからさまに話題をすり替えた。すかさず妖光もそれに便乗する。
「李典さまに相応しい大きさですね。熱い内にお召し上がり下さい(李鳳さまから笑顔の手渡しだなんて超ムカつくって感じぃ。がっついて口を火傷すればいいわ……でもでもぉ、ダッセー貴女にはそのイモが超々お似合いですぅ)」
「お、おおきに……」
「李鳳さまぁ、私にも何か焼いて下さりませんか?(たっぷり愛のこもったモノを)」
妖光は必要以上に李鳳へとすり寄り、吐息を吹き掛けるように囁いた。芋を受け取ろうと伸ばした李典の手が空を切る。先程からの言動で李典の視線は妖光に釘付けであった。
「え、ええ……構いませんよ。この茸なら焼き色も良く、まさに今が食べ頃かと」
「キ、キノコッ!?(そ、それって……もしかして……もしかして)」
「おや、お嫌いでしたか?」
「いいえッ!!(これは試練よ。李鳳さまは私を試しているのね……この試練を乗り越えれば、ウフフフフ)」
別の世界へと旅立った少女は恍惚の表情で茸を愛でる。李典にも似たような空想癖はあったが、客観的に見るとかなり引いてしまう。李鳳の袖を引っ張って強引に手繰り寄せ、妖光から見えないよう口を手で隠し耳打ちした。
「あんな、昼間から聞こう聞こう思てたんやけどな」
「はい、何でしょうか」
「……なんでこの子らがおるん?」
「なぜいるか……ですか、なかなか哲学的な質問ですねェ。そもそも人間が存在する理由自体が存在するのか、しないのか。人間は理由を知りたがる生物ですし、無理くり――」
「ちゃうわ。この子らがココにおる理由や」
「おやおや、徐州からついて来てたじゃないですか。もう忘れました? 胸ばかりに栄養がいって頭は不足しがちなんですかねェ。クックック、流石は紙一重」
可哀想にと茶化して笑う李鳳。しかし今の李典には冗談に付き合う余裕がなかった。耳打ちで内緒話をしていたにも関わらず、つい声を荒げてしまう。
「せやから、なんでこの子らがついて来たんか、そのワケを聞いとるんやッ!!」
「…………はて、なぜでしょう?」
「は!? アンタも知らんのッ!?」
「鈴々は仲間なのだ。仲間は一緒にいるのが当たり前なのだ」
「今更何言ってんだよ、姐御」
李典が大声を出したせいで、会話の内容は周囲にも丸聞こえであった。李典は目を丸くし、まばたきを繰り返す。
「ん? ん? んんん? なんて……?」
「鈴々達は仲間なのだ」
「だな」
互いの顔を見て頷きあう張飛と丁奉。色々とツッコミ所満載で李典は混乱した。
「えーっと……うん……うん、一個ずつ整理しよか。まず鈴々、アンタは仙花とバッチバチにやりおうてたやろ?」
「仲間ならケンカくらいするのだ」
「だな」
「いやなんぼ仲間や言うても喧嘩は良うないで。それに……むしろ殺し合いに近かったやん」
「仲間なら殺し合いくらいするのだ」
「だな」
「あっ、そうかそうか、仲間やったら普通殺し合いくらいするやんな。ちょっとでも隙見せたら背中からグサッ――って、するかボケッ!! 仲間を何や思とるねんッ!?」
激昂する李典に対して張飛と丁奉はキョトンとしている。話がかみ合わずに李典はますます混乱した。冷静さをかく李典に落ち着くよう丁奉が促す。
「まぁまぁ落ち着けよ、姐御。いくら仲間っつっても、ちょっとした諍いくらいはあんだろ。肝心なのは、その後で仲直りすんのが本当の仲間なんじゃねーの?」
「むっ……それは……そうかもしれへんけど……」
「だから鈴々達は仲間なのだ」
「ほな、もう二人は仲直りしたんやな?」
丁奉の言う事も一理あるとして李典は確認を求めた。
「ハッ、まさか。今でもブチ殺したくてウズウズしてるぜ!」
「……はい?」
「おい糞チビ、飯終わったら即死なすからな。覚悟しろよ!」
「にゃははは、返り討ちなのだ!」
「えっ…………何それ!? お互い殺す気満々なん!? 全然仲直りしてへんやん!?」
「仲間なのだ」
「だな」
「もうええて! おのれら、どたまかち割ったろかッ!!」
李典は大声で怒鳴り散らし、ゼーゼーと肩で息をする。目の前の状況がどうしても理解出来ない。どうしてこうなったのか、そこでふと李鳳に視線を向けた。すると、李鳳はニヤニヤと見返して来る。
「……伯雷、アンタの仕業か?」
「おやおや、バレちゃいましたか」
悪びれた様子もなく笑い続ける李鳳を見て溜息を吐く李典。
「……ほんで、どういうこっちゃ?」
「暗示を少々。趙雲殿や孔明殿からも相談がありましたし、マンセーからもどうにかならないかと頼まれていましたからね」
「あー、あん時の……絶対聞き流しとると思てたわ」
「一線を超えないよう御まじない程度の仲間意識を植え付けたのですが……二人とも、とてもよく効く体質だったようで」
「それでこれかいな。せやったらもっと早よ言うてや。普通について来たさかい、劉備はんとこが嫌になって家出したんかと思て心配したで」
ホッと胸をなで下ろす李典。しかし、問題はもう一つあった。
「……で、そちらさんは?」
未だお花畑に旅立ったままの妖光を顎で指す李典。妖光が李鳳を好いている事は明白であり、必要以上に接触しようとする姿は目に余った。釣りに夢中で李典は気付いていなかったが、李鳳が集中力を乱した原因は彼女にある。
しかし、李遊軍の将たる李典には敬意を払っており言葉遣いも丁寧な為、軽々に叱り付ける事は出来ない。しかも、厄介な事に妖光はとびきり有能であった。董卓軍の元軍師で中華でも一二を争う戦略家の賈駆をして、才気あふれる人材と言わしめた女傑なのだ。
李鳳は懐から一通の書簡を取り出した。その表情は若干曇っている。
「徐州を出る前に詠殿から預かったものです。彼女がココにいる理由が書かれています」
「詠……って、誰やっけ?」
「劉備殿に仕えている侍女長で、妖光殿の上司に当たります。詠殿と妖光殿はあの袁紹と浅からぬ因縁がありまして、袁紹を捕縛した我ら李遊軍に恩を返したいそうです」
「ふーん、義理堅いっちゅうか何ちゅうか……別にウチらかて私怨やったし、気にせんでもええのに」
李典は書簡を受け取ると中身をパラパラと確認した。
「その詠殿が仰っていました。仁をもって義をなし、義によって仁を尽くせ、と」
「…………へ?」
「孔子の説を受け継いだ孟子の思想ですね。礼に基づき、人を思いやり、正しい道理で行動する。彼女の思いを汲んでやって下さい」
「孔子に孟子て……めっちゃ博識やん。なんで侍女なんぞやっとんのや? 文官やったらええのに……朱里と雛里の負担も減るやろし」
「鈴々も子牛くらい知ってるのだ。モーウ!」
無垢で素直な張飛に釣られて李典も笑う。
話がそれた事で李鳳はホッと胸をなで下ろした。下手に勘繰られて妖光が何か喋っては李鳳も都合が悪い。なぜなら李鳳の話は正確でなく、詠と話した内容も別物であった。詠は月の為に、李鳳は自分の為に、お互いの利になる策略として妖光は従軍している。
袁紹の一件で詠は劉備の危うさ、徐州の危うさに気付いた。月を護る最後の砦として詠はパイプ役として妖光を李遊軍に送り込み、李鳳も優秀な参謀は大歓迎である。しかし、一つ誤算があった。
言われるがままを受け入れる程、李鳳はお人好しでも世間知らずでもない。むしろ天邪鬼と言えるだろう。好みもまた然り――。
先ほどからも視線が合う度に妖光は顔を赤らめる。鈍感系イケメンな主人公ならば「どうして赤くなるんだろう?」と思う場面であっても、鬼畜系外道を地で行く李鳳ならば「発熱ですね。解熱効果の高い座薬をケツからブチコミましょうか?」と言って退けるだろう。李鳳の辞書に容赦という言葉はない。
ところが、妖光という女は「是非お願いしますぅ」と返してしまう。変態と取るか、イエスマンと取るかは紙一重である。期待も予想も裏切らない妖光は、李鳳にとって酷く退屈な存在でしかない。
李典は笑いながら張飛の頭を撫でた。
「ウッシッシッシ、こうし違いや」
「にゃはははは」
「今更一人や二人増えたところで変わらんか――なっ、伯雷」
「……ええ、まぁ」
李鳳の反応は薄い。湖畔に天幕を張り焚火を囲む人影は百に上った。
公孫賛の元配下である。彼らは元々李典の部隊に所属していた工作兵であり、李典の事を慕っていた。徐州にいた頃はよく李典とも飲み交わしており、酔った勢いで李遊軍への従軍を許可してしまったのである。李鳳には事後報告だけであり、相談すらなかった。しかも工兵を主体とする特殊部隊を編成し、『白螺隊』と名まで付けてしまう始末。
今回の出来事は李鳳の意趣返しでもあった。
2016/3/29 サブタイトル追加