119話 孫呉の暗躍
劉備が袁紹を処刑した。
その事実は瞬く間に広まり、中華全土の知る所となった。袁紹を快く思っていない者達にとっては吉報であり、袁紹を慕う一握りの者にとっては血涙ものの訃報である。
しかし、実際のところ漢国民の多くは袁紹の死より劉備の政に興味を抱いた。民衆の関心はいつの世も常に英雄へと向かう。悪はただ忘れ去られるのみ……十常侍然り、董卓然りである。
民衆は善政を敷き正義を貫く劉備を絶賛し、他の領主とは違うと噂した。そうなると狭量な州牧や太守達は面白くない。自領の民が自分ではなく他州の劉備を称えるのだから当然であろう。
心ない者達は口々に劉備を揶揄し、鬱積のはけ口とした。
「たまたま袁紹が落ち延びてきたのを捕まえただけだろうに……愚民共は何も判っておらんな」
「まさしく。劉備などただ運が良かっただけ、実に恐ろしきは袁紹の大軍を破った曹操殿よ」
「捕えた相手を処刑するだけなんぞ、誰にでも出来るわ!」
民から搾り取った血税で肥え太った太守は僻みの感情を隠そうともしない。そして苦々し気に劉備を罵倒し、参集した者達も同じ気持ちだとばかりに相槌を打つ。
そんな中、若輩の県尉が最近起きたという近隣の惨劇を話し始めた。そして、驚くべき事に首謀者は孫策であると言い出したのである。
「揚州を簒奪した孫策殿は不正を働く県長や県令を次々と粛清し、ご自身の勢力を拡大なさっているとか。不徳の輩に対しては一切の慈悲なく、聞く耳もなく斬り捨てると聞きます。太守様もご用心した方が良いのでは?」
「馬鹿馬鹿しい。広大な揚州をこの短期間で制圧出来る者などいるか! それに山越共が黙っておらんだろうに、なぜワシがそのような心配をせねば……ッ!?」
太守の脳裏に嫌な想像が浮かぶ。悪い予感とは得てして当たるものだ。太守の顔に戦慄が走り、脂汗が冷や汗に変わった。その変化を見た若い県尉の声色も酷く冷たいものに変わる。
「孫策様の揚州平定はすでに最終段階。性悪な害虫は駆除し、腐った枝葉は焼き払うのみ……」
次の瞬間、太守のたるんだ腹を県尉の長剣が貫き、背中へと突き抜けた。手首を捻って傷口を剣で抉ると、太守は口からコポコポと血を流し、そのまま床に倒れ伏す。
その場に居合わせた傘下の県丞や県令達は太守を助ける為に駆け寄る……事はなく、慌てて部屋を飛び出して行く。状況を確認する前にまず逃げるという行動を起こせるからこそ、彼らはこれまで生き残ってこれた。若い県尉を裏切り者と罵りながら、我先にと他者を押し退けて走る。
しかし、屋敷の出入り口は孫呉の兵が取り囲んでおり、逃げ場を失った悪徳地方官は断罪の一撃を受けて沈んでいく。人目を気にする密会であった為、警備や護衛も最低限の人数しか配備しておらず、今回はそれが仇となった。
放たれた火矢によって屋敷は燃え上がる。それはまるで聖なる炎が裁きを与えているようにも見えた。高揚感と達成感を得た孫呉の兵達は勝鬨を上げ、天に孫呉の存在を誇示する。
その中にひときわ異彩を放つ黒い集団――忍装束の特務部隊がいた。部隊長らしき男が的確な指示を出す。
「任務完了、急ぎ周泰様に報を飛ばせ。他の者はこれ以上炎が燃え広がらんよう計らえ……お前も、ご苦労だったな」
「はっ!」
平服する下忍は件の県尉と同じ顔であった。彼は誰も裏切ってなどいない。これは初めから仕組まれた事であり、似たような粛清はその後もあちこちで起こったという。
袁術に反旗を翻した孫策はあっという間に反対勢力を制圧した。その後も不穏因子の炙り出しと粛清に励み、孫呉は頑強で巨大な一枚岩と化す。その目覚ましい躍進ぶりは『小覇王』と称されるに相応しかった。
しかし、岩は巨大になればなるほどその場から動けなくなる。人である孫策も同様に権力が増す程に不自由さも増していく。玉座にて足を組み交わし頬杖をつく姿は王者の威厳に満ちてもいたが、見ようによっては不貞腐れているだけにも見えた。
立場上、以前のように軽々と居城を留守にする事は許されない。賊徒討伐などの小規模な遠征には参戦出来ず、先陣を切って野を駆ける回数も減っていた。大軍師にして親友の周瑜から、くれぐれも勝手な真似はするな、と釘を刺されたせいである。
溜まる鬱憤は錬武で何とか発散させてきたが、最近は忙しくその余裕すらない。頬杖をついたまま片手で竹簡を持ち上げ、忌々しげに目を通す。
「やってくれるじゃない……」
孫策は不満ありありに漏らした。臣下には見せれぬような険しい表情だが、幸いにもそばに控えるのは旧知の仲である周瑜と、孫呉の宿将たる黄蓋のみであった。
「して、曹操はなんと?」
黄蓋が内容は何かと尋ねる。孫策の気分を害した竹簡は曹操からの親書であった。
「……」
「相互不可侵条約、つまり魏は呉と同盟を結びたいと言ってきました」
ムスッとした孫策に代わって周瑜が答える。事前に検閲を行った周瑜は中身を把握していた。同盟と聞いて黄蓋の眉がピクリと動く。
「ほう、あの曹操が儂らとのぅ……どういう風の吹き回しじゃ? 臆病風に吹かれたとは思えん。何か企みあっての事じゃろぅが……儂らにとっても都合の良い話ではないか、のぅ公瑾?」
「人間万事塞翁が馬。物事は目先の出来事だけに囚われてはいけません。不幸な人間は希望を持ち、幸福な人間は用心すべきなのです」
「これこれ、儂にも分かるように話してくれんかのぅ」
周瑜は孫策の表情を確認しながら言葉を選び、困った顔で頭をかく黄蓋に説明を始めた。
「まず官渡で起きた先の一戦、河北を支配下に治めた事で曹魏は領土・戦力共に頭一つ抜きん出た存在になったと言えるでしょう。だから曹操は袁紹を殺さなかった」
「わざと逃がしたと?」
「まんまと逃げられたと思う人もいれば、他領に攻め入る大義名分を得る為に逃がしたと思う人もいるでしょう。肝心な事はどう思われても、曹操自身は損しないと言う事です。侮りや憶測はむしろ大歓迎でしょうから」
言われてみれば一理あると頷く黄蓋。
「雪蓮と私もそれは判っていたわ。曹操が袁紹を逃がす事も、袁紹の行き着く先が劉備であろう事もね。唯一予想が……いえ、期待が外れたのは、劉備が袁紹を殺した事です」
「む? あれだけの狼藉を働いた袁紹じゃ。わざわざ疫病神を抱え込む事はあるまい。劉備でなくとも処刑するのが自然な流れと思うがのぅ」
「ええ、誰もがそう考えるでしょうね。劉備以外なら……けれど、彼女のお人好しは筋金入りよ。袁術をけしかけた時もそう思ったけど、私が諸葛亮の立場ならとっくに劉備を見限っていたわ」
袁術が呂布を従えて徐州を攻めた際、孫策は劉備と協力する予定であった。結果だけを見れば孫策は劉備をも裏切ったと言える。しかし劉備は抗議はおろか文句一つ言わず、今後も互いに頑張りましょうと激励の書を送っていた。
限界ぎりぎりまで約束を信じたが為に多くの自兵が犠牲となったのだから、怒り狂って孫策を糾弾してもおかしくない。しかし、劉備はそれをしなかった。否、させなかったのである。
諸葛亮は頭と胃が痛くなったに違いないだろう。自分はごめん被りたいと周瑜は切に願う――と同時に、劉備の持つ特異性を不気味に感じる。
普通これだけお人好しの君主であれば、民衆はともかく配下の臣から離反者や簒奪者が出ても不思議ではない。にも関わらず未だ英傑揃いの臣下から信を得て、徐州にて独立割拠しているのだ。
時代は血で血を洗う乱世、平時ならば正常と言える思考も、今は異常でしかない。なぜ貫けるのか、なぜ従えるのか、周瑜は本人達にそう問いたかった。
そんな劉備だからこそ、袁紹を殺さない可能性を考えたのである。例え中華全土が見捨てても、劉備だけは見捨てないのではないだろうかと。
「しかし予想が外れたからとて、大勢に影響はなかろう? 儂らは儂らのやり方で名を上げてきた、今後も同じようにして勢力を広げれば良いのじゃ。どうせ長くは続かんじゃろぅが、それでも同盟による利と益は十分にあると思うがのぅ」
同盟を結んでいる間に曹魏を上回る力を蓄えればいいと黄蓋は言う。容易ではないが、不可能でもない。黄蓋にはそう思えるだけの根拠があった。
一つは特務をこなす隠密である。暗殺の甘寧と諜報の周泰、孫呉の躍進はこの暗部連隊の存在なくしては語れない。
もう一つは海兵部隊である。彼らは操船術と船上戦闘に長けており、その強さは中華一と言っても過言ではない。
これら二つは間違いなく曹魏を上回っており、陸戦においても数以外は負けていないという自負もあったのだ。
さらに――と黄蓋は続ける。
「河北を支配したと言うても、北方の烏桓は曹操を認めておらぬ。その烏桓が袁紹軍の残党一万を匿っておるとも聞くしのぅ。南の劉表あるいは東の劉備を攻めるにせよ、後願の憂いは絶っておきたいじゃろぅ。同盟の狙いも、それらを邪魔させん為ではないかのぅ?」
烏桓とは北方の山に住まう蛮族(非漢民族)であり、幼き頃より馬に慣れ親しみ驚異的な馬術を扱う。また袁紹が公孫賛を攻めた際に和親を求めた。袁紹は野蛮な蛮族などお断りと一蹴したが、本筋から遠い親戚らが密かに親交を深めており、官渡敗戦後に身を寄せたのである。この事は顔良すら把握していなかった。そして曹操を憎む袁家の残党は烏桓と結託し、復讐を企てようという動きがある。
一方、孫呉にも因縁と呼ぶべき蛮族が存在した。長江下流一帯を縄張りとする山越である。彼らは非常に強く、先代孫堅をして殲滅には至らなかった。
また単于率いる烏桓は部族がまとまり大集団で活動するが、山越は山岳毎に小集団で活動する多種部族の総称を指している。よって討伐は個別に行う必要があり、厄介さは烏桓の比ではない。これは他国も承知している周知の事実であった。
黄蓋は曹操の狙いが牽制にあると読む。今ぶつかって戦力を消耗させるよりも、ここは一時休戦し互いに勢力を広げ、最後の二国となった暁に雌雄を決する方が得策だと考えたのだ。この時季に親書が届いた辻褄とも合うだろうと黄蓋は語った。
しかし、周瑜の考えは少し違う。それを説明しようとした矢先――。
「あいつは私達を舐めてるのよッ! こんな屈辱は袁術以来ね……ッ!!」
遮るようにして孫策が声を荒げた。突然鳴り響いた怒声に周瑜は目を細め、黄蓋は目を丸くする。一呼吸置いて、周瑜は努めて冷静に孫策の意見を肯定した。
「ええ、そうだと思うわ」
「ど、どういう事じゃ?」
「曹操は孫呉を見下しているのよ。そっちが困ってるなら組んでやってもいい、そういう態度が滲み出てるわ。どこまでも傲慢な奴ね!」
「な、なんと……ッ!?」
黄蓋は驚きと困惑で言葉を失う。それならば孫策が腹を立てるのも無理はないが、腑に落ちない点もあった。
「しかし……では、なぜこの時季なんじゃ?」
「……」
「私の目論見が一つ破綻したからでしょうね。人間物事が順調に進むと思わぬ落とし穴に引っかかるものよ。意趣返しの意味もあるんじゃないかしら」
周瑜は少し自嘲気味に応える。直感で大まかな正解を叩き出す孫策に対して、周瑜は膨大な情報を解析して完璧に近い答えを導き出す。答えは正しくても感覚派の孫策に過程を説明する事は出来ない。この役回りはいつも周瑜であった。
「もし劉備が袁紹を保護していれば、私は曹操を潰す為に合従軍を起こす公算でいました」
「が、合従軍じゃとッ!? そんな話は聞いておらんぞ!」
「済みません。まだ実現するか解らない話でしたし、情報漏洩は避けたかったので、雪連以外の誰にも話していませんでした。現に失策に終わっていますから、話していたらいらぬ動揺を与えた事でしょう」
「いやはや合従軍とはのぅ……劉備が袁紹を保護しておれば、本当に実現したとでも言うのか?」
反曹操連合と聞いても、黄蓋はやや懐疑的である。確かに連合軍を組めば単独で戦うよりも味方の犠牲を減らし、敵に大きな被害を与えられるだろう。しかし曹操は董卓や袁紹と違って民を蔑ろにしていない。そんな曹操を倒す為にどう呼びかけて挙兵を促すのか、黄蓋には想像出来なかった。
「はい、それは間違いないでしょう。劉備のお人好し加減が絶対不偏的なものであったのなら、私は無条件で彼女を信頼し、各国にこれを送っていたでしょう」
そう言って周瑜は懐から何かを取り出して見せた。黄蓋の目が驚愕に見開く。
「こ、これは……いつの間にッ!?」
「袁術に渡す前に、印だけ押しておきました。立ってる者は親でも使えと言いますし」
周瑜が見せた物は玉璽の押された白紙の書簡であった。親ならまだしも相手は皇帝だけに不敬とは思うが口には出さない。
「傀儡の天子様から『逆臣曹操を討て』のと勅命が下れば、劉備は一も二もなく兵を起こすでしょう」
「うむ。劉備の性格からして間違いあるまい」
「劉備の配下には関羽、張飛、趙雲、それに呂布といった猛将が揃っています。彼女達が合従軍の先陣を切って曹操軍と潰し合いをしてくれれば、孫呉にとって一石二鳥というもの。名立たる猛将はその時に死んでくれれば尚結構です」
「お、恐ろしい事を平然と言うのぅ」
「そんなのつまんないって言ったんだけどねェ。冥琳が頑固で……」
周瑜の鬼気迫る気圧を感じて身震いする黄蓋、そしてブツブツと文句を言う孫策。結果に辿り着くまでの過程を如何に楽しめるかを求める孫策に対して、周瑜はいつも結果のみを求めた。
「しかし、そういう事であれば今からでも遅くはなかろう。劉備は応じに即答するであろうし、南方の劉表も己の身可愛さに賛同しよう。中央から西方に追いやられた馬謄も曹操を快く思っておらぬはず、南西の劉璋がどう出るかは判らぬが、これだけ揃えば曹操相手でも圧倒出来ようぞ」
「いえ、そう楽観は出来ないでしょう。曹操が親書を送った相手が私達だけとは限りません。歩調が揃わねば痛手を負うのはこちらになります。それに……やはり劉備の影響力が低下していると思われる今、こちらの望む通りに動いてくれる可能性は低いでしょう。袁紹さえ保護してくれていれば、それを盾に取る事も出来たのですが……私ともあろう者がこのような失態を、くっ」
「公瑾……」
「冥琳……」
周瑜は歯噛みして自らの失策を悔やむ。彼女が望むのはいつも完璧な勝利であった。それを穢したとして自責の念に苛まれているように見える。しかしである――。
「プ、プププ、アハハハハハ」
「ワッハッハッハッハ」
「フフフッ」
しばしの静寂の後、三人は破顔し一斉に笑い始めた。傍から見る者がいれば気が触れたとさえ思ったであろう。
「アハハハハ、勲功ものの演技よ、冥琳」
「フフフ、伯符ほどではないさ」
「ワハハハハ、儂も最初は気付かんかったわぃ」
周瑜は合従軍の件を気に病んだりはしていなかった。当然の如く、次善策は用意してある。それを敢えて口にしなかったのは、孫策の言動が芝居めいていると悟り乗っかったからであった。付き合いの長い黄蓋でなければキョトンとして終わっただろう。
「確かに劉備と曹操は思いの外やってくれたけど……別に問題ないわ」
「うむ。何せ儂らは困ってなどおらぬからのぅ」
「それに、相手の動きに合わせるのも強要されるのも嫌いなのよねェ」
「伯符のそれはただの天邪鬼でしょ、フフッ」
先ほどまでの卑屈な空気はどこかへ失せ、孫呉らしい陽気な雰囲気を醸し出す。周瑜は孫策の顔を見て密かに安堵した。最近の孫策は政務で忙殺されており、ここらでガス抜きが必要と判断したのである。不幸にも巻き込まれただけだが、それを根に持つほど黄蓋の器は小さくない。
「して、曹操への返答は如何致す?」
「適当でいいわよ。どうせ曹操の手には届かないんだし」
「では、いつも通り山越に動いて貰うかのぅ。あやつには苦労ばかりかけるわぃ」
「祭、全て終わったら母様の墓前で朝まで飲むわよ」
「ワハハ、そいつは重畳じゃ。堅殿も喜ぶじゃろぅ」
その数日後、親書を運ぶ曹魏の使節団は無残な姿で発見された。使者は身包みを全て剥されており、賊の仕業である事は明らかであった。
◆◆◆
徐州の街から少し離れた森林の奥深く、普段は静かな湖畔があった。鏡のような湖面は深緑の森を映し出し、広大な湖域は水量に富む。少種ではあるが多数の魚が棲息し、野生動物達が水を飲む憩いの場でもある。
ところが今日に限っては周辺に動物の気配がなく、湖面は異物の介入で無数の波紋を立てた。ボチャ、バシャという水が跳ねる音が響き、歓喜の声がこだまする。
「よっしゃーッ! これで八匹目や、ウチ最強ッ!! ウチのバンブーちゃんも無敵過ぎるでッ!!!」
こちらも誰の仕業かは明らかであった。
2016/3/29 サブタイトル追加