117話 罪と罰②
今回はダーク&ヘヴィです。
苦手な方は回避して下さい。
能力や人格の大きさを総じて『器』と呼ぶ。器は数値で表せるものではなく、その判断基準も人によって千差万別である。一般的に器は小さいより大きい方が良いとされる。大器はそれだけで人を魅了するが、大きければ大きい程良いというワケでもない。
客間は水を打ったように静まり返っていた。息を飲む音さえ聞こえてくるようである。長い静寂は劉備が黙り込んでから続いている。
袁紹との問答は劉備の心を激しく揺さぶった。これまで戦ってきた敵は皆『悪』だったと劉備は認識している。盗賊然り、黄巾党然り、宦官然り、董卓然りであった。しかし、話を聞く限り袁紹を悪だとは思えないのである。悪と呼べない者を討つ事が果たして『正義』なのか、心の中に芽生えた迷いは大いに劉備を悩ませた。
袁紹はみすぼらしい衣装に身を包み、幾分痩せたように見える。富と権力を全て失った袁紹は『弱者』と言っても過言ではない。劉備は親友・公孫賛の仇討ちをしたいと本気で思っていたが、目の前にいる弱者を討って心が晴れるとは思えなかった。
どれだけの時間が経ったであろうか。袁紹は待ちくたびれて茶菓子のおかわりを要求し、詠を大いに腹立たせた。顔良と文醜は緊張した面持ちで固唾を呑んで待っている。趙雲と諸葛亮もジッと劉備を見守っており、李鳳も珍しくここまで一言も発していない。
長い静寂を作ったのが劉備であれば、それを打ち破ったのもまた劉備である。迷い抜いた末に劉備は、己の正義に従うと決意した。
一呼吸置いて、劉備は袁紹を見詰める。
「私、袁紹さんを保護しようと思います」
「「「なっ!?」」」
「あ、ありがとうございます」
「助かったぜ~」
「おーっほっほっほ、当然ですわ!」
客間中に袁紹の高笑いが響く。半数が驚き、半数は安堵で顔が綻ぶ。
劉備の出した答えは『悪を倒したい』ではなく、『弱者を守りたい』であった。実に劉備らしい決断であるが、趙雲は異議を唱える。
「桃香様、私は承服しかねますぞ。大義なき戦を仕掛けておいて、負けたから助けてくれとは笑止千万!」
「まあ、なんですって!?」
「重大戦犯としての責を鑑みれば、斬首刑であって然るべきです!」
「わ、私も保護は拙いと思いましゅ……うう、噛んじゃった」
「こ、子供まで何を言い出しますの!?」
袁紹は趙雲と諸葛亮をキッと睨み付けた。趙雲は動じた様子もないが、諸葛亮はおどおどして目を逸らせる。
「二人の言いたい事も分かるよ。でもね……憎しみからは、何も生まれないと思うの。きっと復讐はまた新しい憎しみを生むよ?」
「承知の上で申しています! ここで袁紹に制裁を加えず保護したとあっては、白蓮殿の墓前に手合わせ出来ませぬ」
「白蓮ちゃんが亡くなったのは、私も悲しいよ。でもね、誰かの為に復讐して、またその人の為に復讐して……それで、本当に世の中は平和になるのかな?」
「しかし、今回は――」
「私はね、争いのない平和な世界を築く為に大事な事は“許す”って気持ちだと思うの。互いに歩み寄って理解し合う事が出来れば、争い事なんて起きないと思うの」
「しょ、正気で言っておられるのですか?」
趙雲は耳を疑った。劉備の言っている事は正論かもしれないが、受け入れる事など到底不可能である。何かの間違いであって欲しいと趙雲は祈った。しかし、そんな思いとは裏腹に劉備はハッキリと言い切る。
「勿論、私は真剣だよ!」
「……保護して、その後はどうなさるのです?」
「私達と一緒に泰平の世を築くお手伝いをして貰います」
「……」
もはや趙雲は言葉も出ない。劉備の目は本気であり、気の迷いではなかったからである。袁紹の保護など百害あって一利もない。公孫賛の直参部隊であった白馬隊を率いる趙雲にとって、何よりも残酷な決定であった。
怒りを通り越してしばし放心する趙雲に代わり、今度は諸葛亮が口を開く。
「あのぅ……仇討ちを度外視したとしても、深刻な問題が発生します」
「深刻な問題?」
「はい。袁紹さんを保護したという事実が知れ渡れば、散り散りとなった袁紹軍の兵達もこの徐州に集まって来るかと。ただでさえ流民の受け入れだけで困窮している現状、とても負傷兵の救護をする余裕はありません」
「確かに、食糧にも限りがあるよね。でもね、私達を頼って来る人を、目の前で困っている人達を見て見ぬ振りは出来ないよ。私は弱っている人を一人でも多く助けたい、その為に出来る事なら何でもやるよ」
努めて明るく話す劉備であったが、諸葛亮は表情をさらに曇らせる。
「それだけではありません。一番の問題は、この徐州に攻め入る大義名分を曹操さんに与えてしまう事です」
「えっ!?」
「ご本人を前にして申し上げるのは恐縮なのですが……その……曹操さんは、わざと袁紹さんを逃がして火種を残した可能性があります。何卒ご再考をお願いします」
「お黙りなさい、このおチビ! 華琳さんに情けをかけられる程、わたくしは落ちぶれていませんわ! 失礼な物言いは聞き捨てなりませんわよ!」
「はわわ、ごめんなしゃい」
立ち上がって怒鳴り散らす袁紹に諸葛亮は狼狽えた。保護の話が反故になる事よりも、曹操の事で激怒したのである。
諸葛亮とて無益な殺生は本望ではない。しかし、今回ばかりは殺生が益を生む。むしろ不殺生は無益どころか有害でしかない。気弱な諸葛亮は袁紹に怯えて李鳳の陰に隠れた。
文醜と顔良は慌てて袁紹を宥める。
「姫、落ち着けよ。子供相手に大人気ないぞ」
「そうですよ。少しはお立場を弁えて下さい」
「そもそも華琳さんは卑怯者ですのよ。わたくしは正々堂々戦っていましたのに、華琳さんときたら――」
文醜と顔良の声すら袁紹には届かない。延々と愚痴を垂れ流し、己の無能さを露呈していく。
「――なんですのよ。酷いと思いませんこと? 劉備さんならわたくしの気持ち、分かって下さいますわよね?」
「えっ? う、うん……な、何となくは……はは、ははは」
極々普通の兵法を卑怯呼ばわりする袁紹に、戸惑う劉備は苦笑いで返す。
「と、とにかく、困っている弱者を討つというのは私の“正義”に反します。曹操さんの事も含めて平和的な解決策を考えようよ」
劉備の建設的な言葉が聞けて、袁紹はご満悦な様子で椅子に腰をかけた。顔良達もホッと胸をなで下ろす。逆に、腸が煮えくり返る者もいた。当初から袁紹の不遜な態度に腹を立てていた詠である。詠が苛立つ原因は袁紹だけではない。
詠はその元凶に向かって「ンンッ」と咳払いする。
「ククク、意外と気が短い。いや、こんな茶番によく耐えたと言うべきでしょうかね。それにしても……正義、ですか」
ボソリと呟く李鳳はニヤリとほくそ笑む。詠を苛立たせる一番の元凶は他の誰でもなく李鳳であった。催促を受けた李鳳は笑いながら片手を挙げた。
「劉備殿、発言しても宜しいでしょうか?」
「えっ、李鳳さんが!?」
「はい。何か不都合でも?」
「いえ、その……あの……えーっと……」
「お主、先ほど余計な事は話さないと言っておったではないか」
放心状態から復帰した趙雲がしどろもどろの劉備に代わって問う。
「ええ、言いましたよ。ですから、余計な事以外の事を話します」
「また屁理屈を……」
「クックック、構いませんよね?」
「……わ、分かりました」
劉備は渋々了承した。趙雲は目を細めて李鳳を注視するだけで、止めようとはしない。李鳳が介入すれば碌な事にならないと判っているが、今回ばかりは趙雲も納得出来ていないのである。
李鳳の才能は趙雲も認めていた。ただし、それは決して褒められた才能ではない。すでに確定した事案を蒸し返し、混ぜ返し、こね倒し、原型がなくなる程に話をややこしくする天才――それが李鳳に対する趙雲の認識であった。
この分野に関して李鳳の右に出る者を趙雲は知らない。今回はその異才に賭けたのである。諸刃の剣である事は重々承知していたが、この局面を打破するには李鳳に頼るしか方法はないように思えた。
そんな趙雲の心境を知ってか知らずか、視線の合った李鳳は片目を閉じてウィンクで応える。趙雲は苦虫を噛み潰したように顔をしかめ、李鳳はその顔を見て満足そうに笑う。
「クククククッ……では、袁紹殿にお尋ねしたい」
「わたくし? ところでアナタ、誰ですの?」
「お、おいおい姫、覚えてないのかよ?」
「……」
「李鳳と申します。今は劉備殿の下で食客をやっています。以後、お見知り置きを」
「ふーん、覚えておきますわ」
袁紹と李鳳は初対面ではない。反董卓連合結成時に一度顔を合わせているが、袁紹は忘れていた。文醜は呆れているが、顔良の顔は強張る。
李鳳が公孫賛の軍師であった事を袁紹に伝えるべきか否かを躊躇していた。下手に忠告して袁紹がまた何か失言すれば、元も子もなくなるのである。
「さて、袁紹殿は先ほど隣国を攻めた理由に、泰平の世を築く事を挙げられましたね。その結果として“河北の覇者”になられたと?」
「その通りですわ」
「とても素晴らしく崇高な理想をお持ちのようですね」
「おーっほっほっほ、当然ですわ!」
袁紹は気分良く李鳳の問いに答えていく。
「帰順した敵兵の扱いに関しては?」
「キジュン?」
「抵抗を止め、華麗な袁紹殿に降伏し、服従を誓う事です」
「わたくしを敬い、わたくしを崇め、わたくしを奉り、わたくしにかしずく者は全て、わたくしの尊い民と致しますわ」
袁紹はなかなかのバカであった。しかし、バカ故に己を決して疑わない。
「では逆に、味方の中から謀反者や貴女の意に反する兵が出た場合、どうなります?」
「わたくしの言う事が聞けない兵なんて必要ありませんわ」
「つまり、処断なさると?」
「決まっておりますわ。だって、存在する意味がありませんもの」
「厳格な縦割りの規律は軍を正すとも言います。賛否があろうと、私は支持しますよ」
李鳳の質問はイマイチ要領を得ず、趙雲にはその意図が掴めなかった。李鳳の顔には薄ら笑いがべっとり貼り付いており、表情からは何も読み取れない。
「それでは最後の質問です。これまで敵国に住まう民の扱いはどうしてこられたのでしょうか? 袁紹殿に直接弓引いたワケでもなく、何かを命じたワケでもない。ただその国で静かに暮らしていただけの無辜な民達です」
「変わらなくてよ。わたくしに従うならば助けますし、そうでなければ知った事ではありませんわ」
「ククク、素晴らしい。媚びへつらわない言動は、むしろ清々しさを感じますねェ」
「おーっほっほっほ、当然ですわ!」
袁紹がこの日何度目かになる同じ台詞を口にした瞬間、ついに李鳳の本性が牙を剥く。
「五十七人」
「い、いきなり何ですの?」
「この徐州の一区画に住まう妊婦の数です。皆さんもうすぐ出産予定なんですよ」
「あら、それはおめでたいですわね」
「おいおい、随分お盛んな街だな」
袁紹と文醜は微笑みを浮かべるが、顔良だけは表情が曇った。李鳳は元々笑っていて変化は見られない。
「その区画と言うのが、なんと貴女方が侵攻した遼東の避難民が暮らす仮設地域なんですよ。クヒヒヒヒ」
「え?」
「へ?」
「な?」
袁紹と文醜から笑みは消え、顔良の顔は険しさを増す。
「遼東の街がどうなったかはご存知ですよね? 略奪と虐殺の限りに遭い、廃墟と化しました。男は嬲り殺され、女は昼夜を問わず強姦され続け、結果として孕んだ女の数が五十七人です」
「そ、そんな……ッ!?」
「じょ、冗談だよな!?」
「略奪直後に半数以上が自殺あるいは死亡したという話ですから、おそらく被害を受けた女の数は百や二百では効かないでしょう」
「う、嘘ですわ! わたくしの高貴な兵がそのような下賤なマネをするはずありませんもの!」
袁紹は悲鳴に近い大声を上げた。李鳳の笑みは徐々に狂気を帯び始める。
「そうですか? おや、顔良殿は顔色が優れないようですが」
「と、斗詩さん?」
「おい斗詩、大丈夫か!?」
「……」
「ククク、女は夫や両親を目の前で殺されました。愛する家族を殺した憎き敵の子を孕まされた心情、貴女に分かりますか? 同じ女性として共感出来ますか? 怒り、悲しみ、恐怖、怨恨、絶望するなと言う方が無理でしょう。お腹の子共々無理心中を図った者も少なくない。宿ってしまった子供には何の罪もないでしょう。しかし、母親は無条件でその子を愛さなければいけませんか? 心中自殺した母親は“悪”ですか?」
「……」
喚き散らしていた袁紹は沈黙した。文醜も言葉がない。顔良の顔はどんどん青褪めていく。
「ご存知ないようなので教えましょう。男の大半は賭け事に利用されて死にました。抵抗されないように四肢を切断した男達を並べ、家屋から家屋まで競争させたそうです。芋虫のように這いずり周り、流れ出た血痕が線のように何本も何本も引かれていました。勝った者は家族を助けてやるとでも言われたのでしょう」
「酷ェ……」
「大量失血で混濁する意識の中、死に物狂いで這いずった……にも関わらず、待っていたのは非情な現実です。志半ばで力尽き絶命する者が多い中、辛うじて到着した者もいた。その者に兵はこう言った『約束通り、お前が“生きている”間は家族に手を出さない。せいぜい長生きしろよ』とね。クックック、救いがないでしょ」
李鳳は自他共に認める鬼畜であった。袁紹と文醜は呆然として、顔良は顔面蒼白で冷や汗を流す。
「あっ、そうそう。報告がまだでしたが、今回の旅で袁紹軍の兵だった者を数名捕えて来ました。彼らを拷問……もとい、丁寧且つ誠意を持って尋問したところ、皆が皆『袁紹様の命令に従ってやった』と白状しましたよ。クヒャヒャヒャヒャ!」
「で、デタラメですわ! わたくしがそのような事を命じるはずありませんもの! そ、その者達が嘘を付いているに決まっていますわ!」
「ふむ、そうかもしれません。しかし、そうじゃないかもしれない。どう思われますか、顔良殿?」
「……」
顔良は真っ青な顔で呼吸も荒い。
「斗詩さん!?」
「斗詩、しっかりしろよ!」
「おやおや、これはいけませんね。呼吸が促迫し、動悸も激しいようです。この症状は――」
「……」
「隠蔽したはずの悪事が露呈した事による動揺、と診ました。違いますか?」
「ど、どういう意味ですの?」
「おい、斗詩?」
顔良の沈黙は袁紹と文醜の不安を煽った。李鳳の笑みはますます狂気に歪む。
「クックック、沈黙は肯定と見なしますよ?」
「……申し訳、ありません」
「どうして謝りますの!?」
「斗詩、何があったんだよ!? ちゃんと分かるように説明してくれよ!」
袁紹と文醜の悲痛な叫びが響く。絶対の信頼を寄せていた忠臣の告白は、袁紹の恐怖を駆り立てる。
「部下の勘違いから誤った命令が伝達されたようで、気付いた時には遅く……麗羽様の意に反する最悪の形となっていました」
「な、なんですって!?」
「ま、マジかよ!?」
「しかし、麗羽様がご存知なかったのは本当です。心労をかけまいと私の独断で敢えて報告しませんでした。全ては部下が勝手にやった事、麗羽様の本意ではありません!」
顔良は必至で李鳳に訴えた。しかし、返って来たのは冷笑である。
「フッ、部下が勝手にやった事……ですか。確か意に反した者は処断なさるのでしたよね、袁紹殿?」
「え? え、ええ」
「ならば話は簡単です。早速顔良殿を処刑しましょう」
「「「なっ!?」」」
「報告を怠ったばかりか、事実を隠したのですから当然でしょう。主君に対する裏切り以外の何物でもありませんよ」
顔良の顔は血の気が完全に失せていた。縋るような目で袁紹を見る。
「ち、違いますわ。斗詩さんはわたくしを思って」
「そ、そうだよ! 斗詩は何も悪くない。悪いのは勝手に暴走した兵共だろ」
「その通りですわ。不埒な行為を実行した兵こそ罰するべきですわ!」
「おやおや、そうでしょうか? それを言うなら兵の方々も手違いとは言え、袁紹殿の命令だと思って従ったワケですよね。これは意に反したと言わないでしょう。むしろ忠実な部下であり、守るべき尊い民じゃありませんか。それを処断なさるので? 言ってる事が矛盾してませんか?」
「うっ……し、知りませんわ」
袁紹はしどろもどろになった。李鳳は追及の手を緩めない。
「おや、先ほど仰っていたのにもうお忘れですか? まだお若いのにご愁傷様です、クククククッ。あっ、同じ君主であられる劉備殿ならどうします? 不問ですか? それとも処断します?」
「えっ? わ、私!?」
「袁紹殿は何一つ悪くなく、全て部下が悪い。劉備殿もそう思いますか?」
「わ、私は……」
即答出来ない劉備に、李鳳の射殺すような視線が突き刺さった。
「袁紹殿が遼東を攻めた本当の理由をご存知ですか?」
「へ? ほ、本当の理由?」
「泰平の世など関係なく、ただ“河北の覇者”という称号が欲しかっただけですよ。“中原の覇者”と噂される曹操殿への対抗心からね」
「ど、どうしてそれを「姫ッ!」……あっ!」
その瞬間、一人の武士が切れた。
「貴様ッ! そんな下らぬ理由で白蓮殿を亡き者にし、罪なき民を嬲ったと言うのか!」
「ひぃぃぃぃ」
普段冷静沈着な趙雲だけにその怒りは凄まじく、恫喝だけで袁紹は腰を抜かした。
「ま、待って下さい。ご、誤解です。麗羽様はそのような――」
「誤解だろうが何だろうが、遼東の民が蹂躙されたのは事実です。ちなみに、略奪行為は全面降伏した後も続いたそうですよ。敵国の民でも服従すれば何ちゃらとか、偉そうに言ってませんでしたか? えーっと……泰平の世の為、でしたっけ? もしかして、笑わそうとしてます? クックック、だとしたら成功ですね」
「……」
「可笑しいと言えば、公孫家のバカ一族のこんな笑い話を知っていますか? 当主・公孫賛は筋金入りのお人好しでしたが、一族も相当のバカでしてね。略奪と虐殺を止めて欲しいと、一族郎党の首を差し出して懇願したそうですよ」
「……」
最早誰も呻き声すら出せない。今や客間は李鳳の独壇場となりつつあった。
「民を助けたい一心で大地を必死に駆け抜けた使者が耳にした第一声は何だと思います? 『今昼寝中だから後にしろ』だそうですよ。ねっ、笑えるでしょ?」
「……」
「頭に血の上った使者は強行突破で訴えようとして切り殺されたとか。そのせいで虐殺は延々と続いたそうです。どうです? 笑っちゃうでしょ?」
「……」
「でもね、そんなバカ一族をうちのマンセーは好いていました」
ここに来て李鳳の顔から笑みが消えた。狂気は失せ、冷徹な怒気が渦巻く。
「どんな事情があったとしても、負けたのは弱かったからです。勝った者は正義となり、負けた者は悪とされる。国を守れなかった王とその一族は、せめて民だけでも守りたいと願ったのでしょう。しかし、それすらも叶わなかった……その無念、いか程のものか。民を捨てた貴女方には想像すら出来ないでしょう」
「「「……」」」
李鳳の口元は笑っているが、目は恐ろしく冷たい。
「なぜ袁紹軍が最初の頃は曹操軍に互角以上の戦いが出来ていたと思いますか? 諸葛亮殿」
「ふぇ? え、えっと……し、士気が異常に高かったと聞いていましゅ」
「そうです。では、なぜ士気は高かったのでしょう?」
「ま、まさか?」
「ええ、そのまさかですよ。略奪が発覚した後も、袁紹兵はその行為を続けていました。そして、上官はそれを黙認したのです。おそらく顔良殿がその事実を隠蔽して来たのでしょう」
新たな事実に劉備達は強い衝撃を受けた。そして、それは袁紹や文醜も同じである。ただ顔良だけが俯き、小刻みに震えていた。
趙雲は殺気に満ちた目で呟く。
「……この外道めが」
「兵の士気を維持・向上させるのに、褒賞と違って略奪は懐が痛みませんからね」
「……」
「言いましたよね。沈黙は肯定と見なすと」
「……」
「おやおや、どうされました? 顔色が悪いですよ。心配しなくても身の安全は劉備殿が保障してくれます。だって袁紹殿を保護すると言いましたからね。ねっ、劉備殿?」
李鳳の毒牙はとうとう劉備にも襲い掛かった。
「悪いのは勝手に勘違いした部下、罪は全部押し付けましょう。文句を言ってくるかもしれません。逆恨みで襲って来るかもしれません。でも大丈夫! 弱者の味方・劉備殿が守ってくれますから」
「……」
「許す事が大事? 歩み寄り理解し合う事が大事? ククク、反吐が出る。略奪と虐殺を繰り返す者の気持ちを理解出来れば、この世から争いはなくなりますか?」
「……」
「愛する家族を殺されて復讐を誓う兵や、憎き敵に孕まされて絶望する女性に、袁紹殿は何も悪くないので全てを許し、逆に襲って来る者から守ってあげましょうと言えますか?」
劉備は泣きそうな顔で服を握りしめていた。
「憎しみからは何も生まれない? 生まれるんですよ! 死にたい程の絶望から生き残る活力は、まず憎しみによって生成されるのです! そうやって辛うじて命を繋ぎ止めている人が今、どれだけ大勢いるか分かっていますか? 憎しみに支配されれば、身を滅ぼすかもしれません。しかし、憎しみを糧にして生きる者がいるのもまた事実なのです!」
「……」
「貴女が本当に守りたいモノは何ですか? 貴方の“正義”とは目の前の哀れな加害者(強者)の意見を鵜呑みにして、故人の遺志や忠臣の進言はどうでもよく、遠くの被害者(弱者)に更なる苦痛と我慢を強いる事を言うのですね。結局のところ、本当の弱者は何一つ救済されていない。クックック、腐った宦官のやり方と一体何が違うと言うのでしょう?」
「……」
「敢えて言おう。貴女の正義は糞だ! 都度目の前の弱者だけにイイ顔をしようとするクズ、それが貴女です」
李鳳は劉備を思い切り罵詈雑言を浴びせた。本来であれば庇うべき趙雲や諸葛亮も、今は何も言えない。
「復讐はまた新たな憎しみを生む? それがどうした! 我が李遊軍の信条は目には目を歯には歯を、やられたらやり返す。受けた恩は倍返し、受けた仇は十倍返しです! なぜ弱者だけが報復を我慢せねばならないのです? それが出来ない理不尽な世の中だからこそ、必死で変えようとして来たのではないのか!」
「……」
「趙雲殿は恨まれる事を承知の上で制裁を加えるべきだと進言しました。諸葛亮殿も当人を前にして保護に反対されました。貴女は我々や遼東の民に恨まれる事を想定して保護を決められたのですか?」
「……」
「結局のところ、貴女には肝心なモノが欠けている。それは“覚悟”です。誰に何を言われても、何をされようとも変わる事のない“断固たる決意”は覚悟を持って成されるのです!」
「私は……ただ……助けたくて……」
劉備の両目からは涙が溢れていた。それは己の不甲斐無さからか、言われっ放しの口惜しさからかは分からない。
泣き出した劉備を不憫に思い、趙雲が間に入る。
「事実関係は理解した。つまり、お主も袁紹は死刑にすべきだと言いたいのだろう?」
「いいえ」
「「「「「「はぁ!?」」」」」」
客間にいる全員が素っ頓狂な声を上げた。李鳳はニヤリと口角を上げ、歪んだ笑みを浮かべる。
「死刑には反対します」
「な、なぜだ!? まさかお主まで保護などと言うのではなかろうな!?」
「いえいえ、処刑はすべきですよ。ただし、奪うのは命ではなく、“自由”です」
「自由?」
「言ったでしょ、受けた仇は十倍返しにすると。首を刎ねて終わりでは物足りません。晒し、嬲り、辱め、いたぶり、皆で報復するのです。殺さない程度に加減してね。な~に、多少の傷は私の治癒功で治しますのでご安心を。死にたくなっても死なせませんよ。貴女に自由はありませんから、クヒヒヒヒ」
「……な……何を……言って……いますの?」
袁紹は心の底から李鳳に畏怖した。顔良と文醜も同じ心境である。肝心の劉備は泣いていて頼りにならない。全身の震えが止まらず、やがて思考は絶望に支配されていく。
そして李鳳は泣きじゃくる劉備に微笑みかけ、優しく告げる。
「劉備殿、涙を拭いて下さい。せっかくの美人が台無し――あっ、そうそう我々の要望が却下された場合、李遊軍は直ちに劉備軍を脱退し、袁紹殿と劉備殿に対して宣戦を布告する“覚悟”ですので、ご承知置きを」
「「「なっ!?」」」
「クヒャハハハハハハハハハッ!」
客間は陰鬱な空気で充満し、狂気に満ちた李鳳の笑い声だけがこだまするのであった。
2016.3.29サブタイトル追加