115話 羽化の兆し
袁術から河南の簒奪に成功した孫呉陣営は、かつての力を取り戻しつつある。孫堅亡き後、気骨のある豪族達は袁術の統治を嫌って疎遠になっていた。しかし、孫策の王としての気質が孫堅に勝るとも劣らないと感じるや、続々と助力を申し出始めたのだ。
長きに渡って孫呉を支えてきた将軍・黄蓋はそんな孫策を誇りに思っていた。その一方で、妹の孫権に対しては不安な思いが日に日に増していく。
反董卓連合が解散され領地に戻ってからの孫権の生活は、それまでとはガラリと変わっていた。陸遜から政治や経済と共に兵法を学ぶ為に割いていた時間を、そっくりそのまま甘寧との練武に当てるようになったのである。朝から晩まで孫権は飢えた獣のように武を渇望した。
黄蓋の不安はまさにそこであった。悲しい事に孫権には武の才はないと、黄蓋は確信している。皆無ではないが、孫策とは比べるまでもなく桁が違った。妹の孫尚香にも遠く及ばないであろう。
しかし、文事つまり学芸の才には長けていた。その才能は姉妹の中でも群を抜いており、誰もがその才に大きな期待を寄せていると黄蓋は思ってきたのである。
武の才が乏しい孫権はたとえ十年鍛えようとも、今の孫策の域には達しないだろう――黄蓋だけではなく、甘寧も口には出さないが同じ意見であった。
才能が全てとは思わないが、天賦の前には越え難い壁がある。孫権が孫策のような強さを得るのは不可能だと黄蓋は伝えた。酷な事実だったが、古参の将であり親のようにも接してきた自分が伝えなければと思ったのである。
孫権はそれを聞き「分かっている」と呟いただけであった。その後も今日まで変わる事無く武の鍛錬は続いている。従者である甘寧は孫権の意向を尊重し、熱心に指導を続けてきた。
その甲斐あってこの半年で孫権は見違える程強くなっている。孫権の努力は並ではない。全身全霊で取り組む姿勢はまさに命懸けとさえ思えた。
しかし、それでも現実は非情なのだ。
孫権が半年を費やしてやっとの思いで進んだ距離は、孫策であれば数日で達してしまう進歩でしかなかった。それでも腐らずに孫権は未だ鍛錬を続けている。残酷過ぎる現実に、黄蓋は胸が痛む思いであった。
乱世を収める王は孫策、その後の治世を治める王は孫権、常日頃黄蓋が考えてきた理想であり、夢である。文事に励めば孫権は孫策にも負けない名君になれると黄蓋は確信していた。皆もそう思っているはずだと黄蓋は信じていたのだ。
黄蓋は今、軍師達がいるであろう執務室に向かっていた。ドタドタを大股で進む姿を衛兵らは呆然と眺めるしかない。
執務室の扉を乱暴に開けると、軍師達は一斉に黄蓋を見た。その黄蓋は目的の人物に向かって開口一番怒鳴りつける。
「こりゃ公謹! いつまで権殿を放っておく気じゃ! 儂が言うても聞き入れてはくれんがのぅ、お主か策殿であれば耳を貸すじゃろぅ」
いきなり来たかと思えば、挨拶も抜きに本題を切り出した黄蓋を見て、周瑜と苦笑した。しかし、陸遜と最近護衛として登用された呂蒙は突然の事に目をパチパチさせている。
「フフ、こんな朝早くから…・・・おはようございます。黄蓋殿」
「おはよ~ございます~、祭さま~」
「お、おはようございます。祭様」
周瑜を皮切りに次々と挨拶を始める軍師であったが、黄蓋にはそんな余裕はない。
「ええーい、挨拶など無用じゃ! さっさと答えて貰おうかのぅ!」
「そうですか? では答えましょう。答えは『いつまでも』です」
「なんじゃと!?」
「そもそも黄蓋殿が言ってダメなものを、私や伯符が言ったからとて変わらないでしょう」
周瑜は淡々と答えた。その冷静さが今回ばかりは黄蓋の癇に障る。孫権への配慮を欠いているとしか思えないのだ。
「権殿が今どのような心境でいるか、分からぬお主ではあるまい!」
「蓮華様は深い闇の中をさまよっています。そこで足掻き、もがき、必死に這いずり回っています」
「それが分かっておるなら、なぜ助けてやらぬのじゃ!? お主ならば妙案の一つも思い付くじゃろぅ!」
黄蓋の表情は悲痛であった。
この半年、甘寧と共に誰よりも近くで孫権を見てきた黄蓋だからこそ、心が泣いているのだ。努力と言うには生温い程に骨身を削って奮迅している孫権に、何か一つでも報いてやりたいと思っていた。報われないと知っていて続ける努力ほど空しいものはない。自己満足の為の努力をいくら続けたところで、孫呉の繁栄に役立つはずもないのだ。
黄蓋は孫権がそれを知って絶望するのが怖かった。だからこそ、文事への道を示してやりたかったのである。
「汜水関で権殿が李鳳めに心挫かれた時、儂は何もしてやれなんだ。不甲斐無い自分をこれほど呪った事はない。しかし、権殿は再び己の足で立ち上がった。剣を手に自ら戦うと決意されたのじゃ! その励まれる姿を見て、儂は感動に震えたわい! 虎の娘はやはり虎じゃと、歓喜に沸いた程じゃ!」
周瑜はジッと黄蓋を見据え、黙って聞いていた。他の軍師も黄蓋の真剣な訴えを静聴している。
「じゃが……肝心のその剣に没頭する余り、権殿は大事なモノを失くしてしまわれた! 権殿を奮い立たせ、日々の活力を与えておる剣こそが、輝ける賢王への道を閉ざしてしまっておるではないか!」
黄蓋は歯を食いしばり、掌に血が滲む程強く拳を握り締めていた。自分の無力さが歯痒く、憤りを隠せないのだ。
「文治・文政こそが権殿のあるべき王の姿ではないのか……のぅ、公謹?」
「仰る通りかと」
「武の才は無いと何度も申し上げた。文の道を進まれよとも進言した。じゃがのぅ、剣を捨てよとは言えぬ! 言えるはずがない! 剣の稽古はどんなに苦しくても弱音一つ吐かず、むしろ生き生きとされておる。あのような権殿を儂は初めて見た」
黄蓋は目を細め、昔を思い出す。
「策殿や尚香様と違うて権殿は幼き頃から我が侭をあまり言うた事がなかった。多少頑固な面もあったがのぅ、誰よりも優しく、誰よりも真面目じゃった。袁術の下へ人質に出されるはずであった尚香様の代わりも自ら名乗りを上げられた程じゃ。孫家の責務を誰よりも重く感じておられる権殿は、今まで多くの犠牲を払ってきた。そのせいかのぅ……先代亡き後、権殿の笑顔を見た覚えがないのは」
目を閉じ、拳を震わせる黄蓋。
「そんな権殿にまた『孫呉の為に剣を捨てよ』などと言えるわけがないじゃろぅ! 再び立ち上がる切欠となり今を生きる拠り所とされておる剣を捨てよとは、口が裂けても言えんわい! どうして権殿だけが、これほど犠牲を払わねばならぬのじゃ!? 儂がしてやれる事を教えてくれぃ!」
鎮痛なさ叫びが室内に響く。
周瑜にも黄蓋の想いは痛い程伝わった。
「黄蓋殿のお気持ち、よく分かります。私から助言できるとしたら、一言だけ――蓮華様を潰して下さい」
「なにを……ッ!?」
黄蓋は驚愕のあまり目を見開く。衝撃的過ぎて言葉すら出てこない。
「以前も話しましたが、蓮華様は李鳳が原因で全てに対し自信をなくされていました。深い闇をさまよう彼女は手足の生え揃っていないおたまじゃくしのようなもの。這いずり回るしか出来ないのです。一度折れた心を立て直したけでは脆く、何かあればまた折れてしまう」
「なればこそ、儂らが支えてやるのじゃ!」
「……それは本当に彼女が望んでいる事ですか?」
黄蓋は押し黙った。
孫権が何を望んでいるかなど分かっていない。責任感の強い孫権が軽々に助けを求めるはずがない事は分かっていた。だからこそ、周囲の者が察して助けてやるべきだと考えたのである。
しかし、周瑜はその答えを知っているように思えた。孫権の望みは黄蓋とて叶えてやりたいが、それが武を極める事であっては困るのだ。その望みを叶えてやる事は不可能に近い。
黄蓋は聞くことを躊躇っていた。
そんな躊躇いを他所に周瑜は淡々と続ける。
「亡き孫堅様は強烈な光で民が進むべき道を示していました。同じ光を今は伯符が放っています。それは尚香様にもあって、蓮華様にはないもの。黄蓋殿もご存知でしょう?」
「……うむ」
「孫権様が欲しているのは差し出される手でもなければ、道を示す誰かの光でもない。彼女が本当に欲しいモノは民に差し出す己の手であり、民ともに歩む己の足なのです。彼女は自らが闇を照らし、民を見守る事のできる太陽になりたいのです」
黄蓋は言葉を呑んだ。ハッとさせられ、何も言えなくなった。
「彼女は確かに闇の中にいますが、それは自ら望んでのこと。それは今よりもっと、誰よりもっと、伯符よりも強く輝きたいという意思の表れだとは思いませんか?」
「……」
黄蓋は口を閉ざした。周瑜は返答も聞かずに続ける。
「孫権様は賢い。それは私も穏もよく知っています。その孫権様が武芸で台頭できると、本気で考えるでしょうか? むしろ逆です。今の我武者羅なお姿は、むしろ進化の為の禊に思えます」
「……」
「ご自身の中に根強く残る孫堅様や伯符の武に対する憧れ、周囲から才能がないと言われて『はい、そうですか』と簡単に諦める者が孫家にいますか? 自信を失っている孫権様は妥協したくないのです。もう少しやっておけば良かった、あれを試していれば自分だって……そう言った悔いを残さない為に、あれ程必死になられているのでしょう」
「……」
黄蓋は一言も発さず、黙って聞いていた。表情には何の変化もない。
周瑜はそれを確認し、メガネをクイっと上げる。
「武才との決別――それが彼女の本当の望みです。頭では理解していても、心が受け入れない。魂で納得しなければ、王の高みへは登れない。とことん不器用な生き方ね……でも、待ちたいと思わせてくれるわ」
周瑜の顔には微笑みがあった。室内の空気が少し変わる。それに呼応して陸遜が口を開いた。
「そうです~。私達は~、蓮華さまが納得されるまで~、ず~っと待つって決めたんですよ~。ねぇ~、亜莎ちゃん?」
「は、はい。私も蓮華様を信じております!」
急に話を振られた呂蒙はどもりながら答える。
「私達は何ヶ月でも何年でも黙って待ち続けるわ。そして蓮華様が自らの意思で練武を終えられた時、それはかつてのどの王よりも強く優しく賢い王が誕生する瞬間よ。その時が来るまで、伯符と私達で孫呉を守ってみせるわ」
「うふふ~、楽しみですね~。その為に~、色々と役立ちそうな文献をまとめているんですよ~」
山積みにされた竹簡を指して陸遜は巨大な胸を張る。それはブルンブルンと上下に揺れて、存在を主張していた。呂蒙は鋭い眼光でそれを見ている。
黄蓋はクルリと反転し、周瑜達に背を向ける。そして、いきなり大笑いを始めた。
「わーっはっはっはっは! わーっはっはっはっは!」
突然の事に周瑜達は唖然となる。
黄蓋は天井を見上げて高らかに笑い続けていた。
(なんと言う事じゃ……こやつらが主君の事を想いやらんはずがなかったのじゃ。儂の目は節穴か! 今まで何を見ておった! 権殿の何を見た! 公謹らに何を見た! 孫呉の宿将が聞いて呆れるわ、この馬鹿者ッ! ええーい、曇った目の汚れは今ここで全て流れ落ちよッ!)
笑う黄蓋の肩は震え、目から止めどなく涙が溢れている。様々な感情が入り混じった涙は、黄蓋の心すら洗い流してくれた。黄蓋にもう迷いはない。
「さ、祭さま~?」
心配した陸遜が恐る恐る声をかけた。
「わはははは、すまんすまん」
名を呼ばれた黄蓋の涙はピタリと止まっていた。振り返った顔は打って変わって晴れやかである。
「あ、あの~、どうかされました~?」
「いやなに、孫呉を背負う若き芽が順調に育っておると思うと嬉しくてのぅ」
「はぁ~」
黄蓋は再び陸遜達に背を向けた。そして嬉々として声を上げる。
「公謹よ、見事この老兵の老婆心を吹き飛ばしてくれたのぅ。礼を言う」
「フフフ、それには及びませんよ。それで、これからどちらに?」
「興覇はまだまだ甘い。兵の鍛錬は骨の一本や二本折るくらいでなければならん。手心を加えていては、権殿の為にならぬ。ならば、せめて儂の手で潰してやるわい」
そう言って黄蓋は来た時と同じようにドカドカと帰って行った。
その後姿を微笑ましく見ていた周瑜はある事を思い出し、陸遜に尋ねる。
「そう言えば、伯符はまだ来ないのかしら? 約束の時間はとっくに過ぎているようだけど」
「えっと~、その~、あの~」
陸遜は言いづらそうに目を泳がせていた。
周瑜はすぐに矛先を呂蒙に変える。
「亜莎、報告なさい!」
有無を言わせぬ命令であった。
「はっ。孫策様は太史慈様達を連れられて練兵場に行かれました。蓮華様に負けていられないとか……こ、公謹さまには内緒にと口止めされまして」
「……あのバカ、何が『分かっているわ』よ! 何にも分かってないじゃない! フフフ、いい度胸ね」
握っていた厚めの竹簡がバキッと音を立てて圧し折れる。周瑜から放たれる禍々しい黒い気が室内に充満した。
「ひ、ひぃ」
「きゃわわ」
哀れな陸遜と呂蒙は抱き合って震えるのであった。
2016/3/29 サブタイトル追加