114話 蠢く闇
『家柄や過去に拘らず才ある者を推挙なさい』
それは黄巾の乱を平定し、大幅に戦力を拡大した曹操が更なる高みを目指す為に発した令であった。
黄巾の乱を経て、曹操は多くの力を手に入れた。北郷一刀の天の知識、荀彧の智謀、許褚の腕力、楽進の氣力、于禁の練兵力、張三姉妹の魅力、典韋の膂力、虎豹騎の兵力。これだけの力が曹操と夏候姉妹の築き上げた土台に積み重ねられたのである。そして反董卓連合に参加することで、張遼の用兵力を見事手中に収めたのだった。
その結果、曹操は袁紹に次ぐ二番目に強大な勢力へと成長を遂げる。文武官の数では袁紹陣営を圧倒し、中華大陸に並ぶ勢力はいない。しかし、それでも曹操は満足していない。むしろ貪欲と言えた。陸に打ち上げられた魚が水を求めるように、飢えた獣が獲物を求めるように、曹操はまるで生きる為に必要なのだと言わんばかり執拗なまでに優れた人材を求めたのである。
曹操が求める才能は多岐に渡った。文武官は勿論のこと、学者や易者だけでなく絵師や詩人まで幅広い分野で人材を募ったのだ。
袁紹が河北を統一せんと躍動している間、曹操は淡々と人材雇用を進めていた。その責任者を任されていたのが参謀の荀彧である。
よく晴れた日の午後、雲一つない青空が広がっている。そんな気持ちの良い空の下、城壁の縁にちょこんと手をのせ天を見上げるネコミミフードの荀彧がいた。
「ハァ……」
深いため息を漏れる。天気とは対照的に、荀彧の心は黒く厚い雲で覆われていた。外の空気を吸い、晴れ渡る青空を見上げれば、少しは気分も優れるかと執務室を出たものの、余計に憂鬱さを感じさせられるのであった。
荀彧は視線を城壁の縁の手元まで落とす。手には一通の書簡が握られていた。その書簡を確認し、再び深いため息を吐く。
「……ハァ」
「なんやなんや、若い娘が昼間っから陰気臭い顔しよってからに」
「どうかなさいましたか、桂花様?」
俯く荀彧に声をかけたのは張遼と楽進であった。二人の存在を横目で確認した荀彧であったが、すぐに視線を戻して押し黙ってしまう。
「ははーん、分かったで。大方ババでも我慢しとるんやろ。あかんあかん。出せる時に出しとかんと糞詰まりになってまうで、ナッハッハッハッハ!」
下品極まりない張遼の発言にギロリと睨む荀彧。楽進は慣れてしまっているのか素なのか、表情に変化はない。
底冷えするような声が荀彧から放たれる。
「……喧嘩売ってるのかしら?」
「ナハハハ、冗談やん。冗談。そやけどアンタが一人でおるやなんて珍しいな。いつもやったら『華琳様~、華琳様~』言うて曹操はんのケツ追いかけ回しとるのに」
「……」
「ちょう、ホンマにどないしたんや?」
明らかにいつもと違う様子の荀彧に、張遼は少し心配になって真面目に訊ねてみた。しかし、荀彧は押し黙ったままである。それを見て、楽進が一歩前に出た。
「桂花様、お困りなのですか?」
問いただすわけでもなく、かと言って投げやりでもない、楽進らしい真っ直ぐな問いかけであった。
その真摯な態度に、荀彧も辛うじて声を絞り出す
「……放って、おいてよ」
「それは出来ません。見て見ぬ振りなど、そんな器用な真似は私には出来ません」
楽進は真っ直ぐに荀彧を見つめていた。その目力に荀彧はたじろぐ。不謹慎とは思いつつも、張遼は口元を緩めてしまう。
「何ぞあったんやろ? 話してみい。誰かに話したら楽になる事かてあるんやで」
「そうです。たとえ応えられなくても、桂花様の不安や迷いを少しでも受け止めたいのです。お願いします。この私に、我らにぶつけて下さい!」
楽進は熱かった。ただひたすらに篤かった。その思いは確実に荀彧の心を揺さぶったのである。そして、耳を澄まさないと聞こえないようなかすかな声を漏らした。
「――――なったのよ」
「へっ?」
「……今なんと?」
か弱き囁きを聞き取れずにもう一度と促す二人は、今度こそ聞き漏らすまいと耳を澄ませる。そんな二人の聴覚を破壊せんばかりの怒号が響いた。
「最近御呼びがかからなくなったのよッ! さぁ言ってやったわ! どう!? 満足ッ!?」
癇癪を起したように喚く荀彧。耳を澄ましたのが仇となり張遼と楽進はキーンという耳鳴りと頭痛に襲われたのであった。
一方、喚き散らした荀彧は幾分スッキリした様子で大人しくなる。そして二人の聴覚機能が回復するまでの間、静寂が続いたのである。
「きゅ、急にデカイ声出しなや。ウチはツンボとちゃうんやで」
「桂花様、『御呼びがかからなくなった』とはどういう事なのでしょうか?」
文句を言う張遼に対して楽進は落ち着いたまま問いかけた。
荀彧は話すべきか一瞬迷い、ボソッと呟く。
「夜伽よ」
「はぁ?」
「うぇ!?」
沈着冷静であった楽進の顔が一瞬で茹で上がった。顔色や表情を変えず真摯に荀彧と向き合っていたはずの楽進の思考はその一瞬でホワイトアウトしたのである。
戻って来ない楽進を放置し、張遼は呆れたように笑う。
「ぬっはっはっは! なんや、そないな事かいな」
「そんな事とは何よ! そんな事とはッ!」
女同士の情事に何の興味もない張遼は笑い飛ばしたが、それはとんでもない藪蛇であった。激昂した荀彧が噛み付かんばかりに牙を剥き、騒ぎ始めたのだ。
「わ、分かった。ウチの失言やったわ。悪かったて思とるさかい、堪忍したってや。アンタにとっては大事な問題やったな」
「ふん。分かればいいのよ」
苦笑いで取り繕う張遼。ご立腹だと態度で示す荀彧。楽進は未だ帰還していない。
「ほんで、お声がかからんようになったんはいつ頃からや?」
「……ひと月前からよ」
「なんぞ心当たりはあらへんのか?」
「……」
俯く荀彧を見て張遼はピンときた。
「あるんやな?」
「……ええ」
苦い表情の荀彧は俯いたまま返事をし、張遼は話の続きを促す。当初あった茶化そうという気概が消えていると感じた荀彧はボソボソと事の発端を話し始めた。この時になって漸く楽進が復帰を果たす。
荀彧はこれまで誰にも言えなかった胸の内を吐露した。相手が夏候惇や北郷一刀であれば、絶対に打ち明けなかったであろう内容が語られる。おしゃべりな于禁やまだ幼い許褚や典韋にも出来ない相談だった。曹操を巡るライバルと成り得ず、且つ信頼の置けるこの二人だからこそ荀彧も思いの丈を打ち明けたのである。
話を聞き終え、荀彧の苦悩を知った張遼は微笑みを浮かべ優しく声をかけた。
「そうかぁ、そないな事があったんや」
「ええ」
「アンタ……アホちゃう?」
「ンなっ!? なんですって!?」
先ほどまでの態度と打って変わって張遼の目は一気に冷めていた。声を荒げる荀彧であったが、張遼のジト目は変わらない。楽進はその要素をじっと見守っていた。
「要するに、言われた通り人材を推挙しとるのに、曹操はんが振り向いてくれへんと?」
「そうよ」
「自分を疎む誰かが邪魔をしとるに違いないと?」
「そうよ」
「その妨害工作が見破れんで困っとると?」
「……そうよ!」
荀彧は不機嫌さを隠そうともせずに大声を上げた。張遼は呆れたようにため息を吐く。
「ハァ、アンタ頭はええのにやっぱりアホやで」
それを聞いた荀彧は張遼をキッと睨み付けた。しかし、何かを言うわけではない。張遼の次の言葉を待っているのだ。
「単純な話やのに、アンタが難しゅう考えとるだけやんか」
「……どういう意味よ?」
「全部アンタが悪いっちゅうこっちゃ」
「わ、わたしが!? ど、どうしてよッ!?」
動揺する荀彧に張遼は畳み掛ける。
「アンタの連れてきた奴やったら何人か知っとるわ。言う事はよう聞くし、仕事もきっちりこなしよる。規律も破らんし、悪目立ちはせェへんな」
「……」
「あれだけの数を揃えたんは感心するで。ホンマ従順でアンタの命令には服従するような奴ばっかりよう集めたわ」
「そ、それのどこが不満なのよ!?」
どこに問題があるのかと反論する荀彧。張遼は鼻で笑う。
「曹操はんの言う『才ある者』っちゅうんは、アンタの言いなりになる才能の事なんか?」
「うっ……」
「ちゃうやろ。確かにそれなりには優秀やで。そやけど個性があらへん。小そうまとまってもて全然おもろないわ」
「……」
耳が痛くなり押し黙る荀彧。痛い所を突かれてぐうの音も出ないのだ。
「曹操はんかてウチと同じ気持ちなんとちゃうか? きっと物足りんのや」
「……」
「それに使われる側の人間ばっかり連れてきて、使う側の人材を一人も推薦せェへんのは最悪やで。つまらん独占欲が邪魔しとるんとちゃうか?」
「……」
一言も発しない荀彧。口を尖らせて拗ねている姿は子供そのものであった。
すると、それまで静観していた楽進がここで口を挿んだ。
「曹操様は立派なお方です。桂花様を見ていらっしゃるのは、他に軍師殿がいらっしゃらないからではないと思います。桂花様が優秀で曹操様の期待に必ず応えてくれると、信頼しているからではないでしょうか」
「……」
「他に軍師がおったら曹操はんがアンタを見んようになるとでも思っとるんか? 曹操はんはそんな御人なんか?」
「違うに決まってるでしょ!」
荀彧はバッと顔を上げて叫んだ。楽進はウンウンと頷き、張遼は不敵に語る。
「そやろ。そんな御人やない。配下の誰もが知っとる事をアンタが知らんはずないわな。分かっとるんやったら、才能の無駄遣いはもうヤメや。せっかくエエ目持っとるのに、飼い慣らされた猫探してどないすんねん。探すんやったら虎やろ! 最善も尽くさん奴が褒美だけ求めるやなんて、そら曹操はんも幻滅するで」
「……」
再び押し黙る荀彧。しかし、先ほどまでの拗ねた様子はない。むしろ自身を強烈に恥じ、歯を食いしばって悔いていた。
同じことを夏侯淵に言われても素直には聞かなかっただろう。夏候惇や北郷であれば喧嘩になっていたかもしれない。
曹操の寵愛に固執する荀彧は、たとえ味方であっても障害に成り得る者を敵視していた。目下の仇敵は夏候姉妹と北郷であろう。他の者はまだ脅威足り得ず、強敵と思われた張遼は軍門に降る条件としてそれを拒んだ程である。楽進に至っては一番縁遠い存在であり、初心で生真面目で愚直なまでに主従関係を重んじる彼女を寵愛など望みもしないだろう。曹操とは常に一定の距離を保ちつつ、優れた能力を有する張遼と楽進であったればこそ、荀彧は二人の言葉を受け入れる事が出来たのである。
荀彧も決して手を抜いていたわけではないが、張遼の言う事も否定出来ないと気付かされた。言われてみれば確かに、荀彧は優秀さよりも従順さに重きを置いて人物を選りすぐってきた傾向にある。しかし、荀彧自身それは間違いと思っていない。その考えは今でも変わらず、いくら才能に溢れていても命に背く者など不要と思っていた。それでも曹操の期待に応えられていないのであれば、そんな考えも意味はないと荀彧は頭を抱える。
荀彧の葛藤する様子を面白げに見ていた張遼はニヤリと笑う。
「ナッハッハッハ、済んだ事は済んだ事や。スパッと切り替えて次善策と行こうやないか。アンタの事や、虎の一匹や二匹くらい当てはあるんやろ?」
荀彧は抱えていた頭から手を離し、張遼を見上げた。豪快な笑いに思わず釣られそうになるが、ふと右手の感触を思い出して笑みが消えてしまう。
「えっ、ないん!? ようけ間者放っとるくせに、一つも当てないんかいな? 意外と大した事ないねんなぁ」
「くっ、当てがないなんて言ってないでしょ!」
荀彧は叫んだ後にハッとして口を押えた。張遼の見え見えの挑発に乗ってしまったのである。
「ぬっしっしっし、やっぱりあるんやんか。勿体ぶらんとウチにも教えてや。どこの誰や? その虎は」
「……虎じゃないのよ」
荀彧は書簡を握りしめ忌々しそうに呟く。
「はぁ?」
「当てはあるわ。でも……虎じゃないのよ。虎なら、虎だったらこんなに悩まないわよ!」
「ハァ、さっき言うたやろ。もう猫はいらんて」
「違うわよ。猫でも虎でもない、化け物なのよッ!」
吐き出された荀彧の言葉。これには張遼も楽進も驚きを隠せなかった。
「ば、化け物やて!?」
「黄巾賊三万をたった一人で討った怪物を知ってるわよね?」
「よ~う知っとるで。仲間やったさかいな。確かに恋の強さは化け物級やで。なんやなんや、当てっちゅうんは呂布の事やってんな」
「違うわ」
「ちゃうんかい!」
旧友を思い出して懐かしむ張遼であったが、あっさり否定されて思わずツッコミを入れてしまう。それをスルーして荀彧は話を続けた。
「呂布の噂は大陸の西域から広まって、今や北から南まで知れ渡っていたわ。子供からお年寄りまで最強の武人と言えば呂布を連想するでしょうね。でも、東域の一部では違うのよ。そこでは全く別の噂が流れているわ」
「へぇ、どんな?」
「黄巾賊が個から集団で行動するようになった頃、河内郡の古びた砦にもかなりの数の賊が集まって集団を形成していたそうよ。その数少なく見積もっても五万、もしかしたら十万に届いていたかもしれないわ」
「ほぅ、そないな話聞いた事あれへんで。これでも当時は官軍の偉い立場におったんやけどなぁ、ウチ」
張遼は顎に手を当てて記憶を掘り起こすが、そのような情報は出てこない。
「それほどの兵力を有した砦だったけれど、たった一夜で陥落したわ」
「所詮は有象無象っちゅうわけやな。雑魚過ぎて報告するんも恥ずかしかったんちゃうか? なっはっはっはっは」
一人納得する張遼であったが、荀彧は首を振った。
「いいえ、その連中は集団戦闘に慣れていたそうよ。返り討ちに遭った義勇軍の数も片手じゃ済まないわ。間違いなく東部で最大規模の勢力だったはずよ。それがたった一夜で滅んだの」
「へ? ほんならなんで?」
「砦を落とした人数が問題なのよ」
「あぁ、賊以上の大人数で攻め落としたんかいな。そら一夜で片付く……て、ちょう待ちや。東部にそないな規模の軍を動かせる奴なんぞおらんで。ほんなら……化け物? ま、まさか一人でやったとか言うんちゃうやろな!?」
「いいえ、一人じゃないわ」
一瞬ヒヤリとした張遼であったが、荀彧が否定してくれた事で安堵の息を漏らす。しかし、次の瞬間背筋が凍り付くのであった。
「やったのは、“二人”よ」
「なんやてっ!?」
張遼は驚愕の声を上げた。楽進は声も出ずに目を見開いている。荀彧の表情も冴えない。
「う、嘘やろ……?」
「本当よ。裏も取ってあるわ」
そう言って荀彧は握っていた書簡を差し出した。張遼はそれを受け取り、恐る恐る中身を確認する。楽進も隣からその文面を覗き見た。二人に戦慄が走る。
「これに書かれとる内容……ホンマの事なんか?」
「五度目よ」
「へ? 何が?」
「私がその真偽を確かめさせた回数よ。だって信じられるわけないでしょ! 五万を越す賊が砦に篭っていたのよ! たった二人よ! それもたった一夜で陥落させただけじゃないわ。賊は全滅、皆殺しよ。焼け焦げてバラバラになった死体が砦から溢れていたのよ! 人間業じゃないわ! 信じられないに決まってるじゃない!」
荀彧の叫びは慟哭であった。この噂を耳にしてから荀彧は詳細な情報を集め、何度もシミュレーションを行っている。しかし、曹操をして天才と言わしめる荀彧をもってしても頭を悩ませた。豪雨という悪天候、一夜という時間制限、五万を越す大軍、陥落および殲滅、これら全ての条件をたった二人で攻略するという不可能とも思える超難度の問題に荀彧が出した答え――それが化け物である。
楽進はゴクリと息を呑む。
「呂布殿に匹敵する武人が他にまだ二人もいたという事ですか。確かに信じられない話ですね」
「……少し、違うわね」
「ちょっとちゃうな」
楽進の呟きを荀彧と張遼は否定した。
「と、言いますと?」
「ええか、凪。呂布が賊三万を討ったんは飽くまで野戦や。攻砦戦とはちゃうねん。篭っとる敵と戦う大変さは先の大戦でウチら相手に経験したやろ?」
「は、はい。確かに賊とは言えど、一度篭ってしまえば易々とは討てないでしょう……と言う事は」
「正真正銘の化け物、下手したら呂布以上かもしれへんっちゅうこっちゃ」
張遼は冷や汗を掻いていた。仮に自分と呂布の二人でやったとしても、同じ事が出来るとは思えなかったからである。
沈着冷静な楽進ですら愕然としていた。荀彧は両手で自分を抱きしめるようにしている。そうでもしないと震えを堪えられないのだ。
「何度確認しても結果は同じだったわ。近隣に住む村人の証言もあるし、砦もボロボロになってたそうよ」
「そやけど雨の日に焼け焦げるやなんて想像付かんな。火なんぞすぐ消えてまうやろ?」
「……轟く雷鳴を村人は聞いたそうよ。でも、落雷だけで五万もの人間が焼け死ぬとは思えないわ」
「そんなん天変地異やん。そやけど二人だけでっちゅう話よりは、よっぽど納得でけるけどな」
張遼とて俄かには信じられないのだった。呂布を最強と見てきた張遼にとって、呂布以上の存在は自分の目で直接確かめない限り信じようがないのである。
「天候を自在に操るだなんて竜の化身だとでも言うの!? 馬鹿馬鹿しい、私は絶対に信じないわよ! 飛び散った血痕やバラバラの死体こそ、戦闘があったって証拠じゃない。相手はきっと人間よ! じゃないと……そうじゃないと、困るのよ」
「桂花様……」
「相手が人なら殺せるもの。だけど、人にあらざるモノだったら……そんなモノ、そんなモノを近付けて華琳様に万一の事でもあれば……私は……私は……」
堪え切れずにガタガタと震え出す荀彧。それを見て張遼と楽進が手を伸ばそうとした瞬間、聞き知った声が響いた。
「随分面白そうな話をしてるわね。私にも聞かせて貰えるかしら?」
「「か、華琳様!?」」
「気配消して盗み聞きかいな? ええ趣味とは言えんで、妙ちゃん」
「フフッ、許せ霞。華琳様のご意向だ」
三人が振り返ると夏候淵を供にした曹操が立っていた。曹操は嬉しそうにニコニコしている。
「いやぁ、不覚にも気付かんかったで。惇ちゃんは一緒とちゃうんか?」
「姉者なら季衣と街に出掛けておるよ」
「ウフフ、それで……その二人の詳細については、当然調べてあるのよね? ねぇ、桂花」
「……はい」
荀彧の心は複雑であった。久しぶりに微笑んでくれる曹操の顔を見れて嬉しい反面、話して良いものか迷っているのである。しかし、曹操の笑顔には絶対強者の強制力があり、虚偽や黙秘は許されそうにない。荀彧は意を決して声を振り絞る。
「二人は放浪の旅人だったそうです。一人は仮面を付けており『夜叉』と呼ばれていたそうです。身の丈を越す見た事もない造形の武器を持っていたとか……申し訳ありませんが、この者に関してはこれ以上の情報はありません」
「そう、構わないわ。それで、もう一人の方は?」
曹操は特に気落ちした様子もなく、腕を組んだまま続きを促す。荀彧は一瞬息を呑み、少し表情を歪めた。
「もう一人は『羅刹』と呼ばれており、目に見えるような武器は携帯していなかったそうです。しかし、その外見はあまりに美しく見た者全てを虜にしたとか……この者については、正体は分かっております」
「へぇ」
曹操の顔に喜の色が浮かぶ。それを見た荀彧の表情はますます曇った。夏候淵は落ち着いているが、張遼と楽進は呂布級の武人の正体が気になって仕方ない様子でソワソワしている。
「……華琳様は、“司馬八達”をご存知でしょうか?」
「無論よ。かの司馬防が誇る八人の子、その全てに『達』の字が与えられ、その全てが優秀だった為についた呼び名が『司馬八達』、でしょ。でも、おかしいわね。彼女達は皆仕官先が決まってたはずだけど」
「うーん、聞いた事あるようなないような。凪は知っとった?」
「いえ、私は初めて知りました」
感心したように話す張遼と楽進。
「仰る通りです。しかし、情報は操作されていたのです。そして、その人物こそ『羅刹』の正体であり、その司馬八達の中でも唯一人異端とされ、鬼才とまで称されている次女――司馬“仲達”です」
「あの司馬懿か!」
終始不敵な態度であった曹操が、この時ばかりは身を乗り出していた。それは驚きよりも歓喜の感情からである。次女の仲達は八人姉妹の中でもずば抜けて優秀であり、幾人もの役人が仕官を求め訪ねて来たが決して応じようとはしない。卓越した智謀と弁舌で並み居る役人は成す術なく追い返されてしまう。そんな仲達に曹操は当然興味を示す。しかし病弱であるという理由で家に引き篭もるようになり、ここ数年は近隣の者でさえ仲達の姿を見なくなっていた。端麗で絶世の美女と言われた容姿は見る影もなく痩せ細り、老婆のように醜くなってしまったとさえ噂されるようになったのである。美しさを失ったと聞いた時点で、曹操の興味は失せていた。だが、それも全て仲達の謀と知れば曹操が放っておくはずがない。
一方、張遼は首を傾げて荀彧に問う。
「そやけどなんで今頃になって噂が流れ始めたんや? 黄巾の乱が終わったんはえらい前やで」
「そこが仲達の恐ろしい所よ。彼女はわざと情報を隠し、最近になって敢えて情報を洩らしたに違いないわ」
「ど、どうしてそのような事を?」
楽進も戦々恐々として尋ねた。
「待っていたのよ」
「待っていた? 何をでしょうか?」
「時代が生まれ変わる“時機”を、よ」
「なるほどな。めっちゃ怖い奴やな、司馬懿っちゅうんは……思い出したわ。ウチの知っとる司馬家っちゅうんは優れた文官を多く輩出した名門のはずや。そやけど司馬懿は武にも優れとる言う事か? 優れとる言うには桁がちゃうけどな……それとも、仮面のモンが恐ろしい程の化け物なんか?」
「……」
楽進も荀彧も言葉がなかった。仮に仮面の者が呂布並だとしても、仲達にも同等の武力がなければ殲滅など不可能である。下手をすれば呂布以上の武力に、荀彧以上の智謀を兼ね備えた化け物の可能性さえ出てきたのだ。味方に出来れば頼もしいかもしれないが、敵となった場合は空恐ろしい。
しかし、まるで逃がした大魚が再び釣り針に喰らい付いてきたかのように、曹操は天を仰いで笑みを噛みしめた。そして、ボソリを呟く。
「欲しいわ」
やはり、と思う夏候淵とは違って荀彧は焦燥感に駆られていた。調べれば調べる程、仲達という存在は得体が知れず気味が悪いのである。一番聞きたくなかった言葉が耳に届き、荀彧は俯く。
「桂花。それで司馬懿は今どこにいるの? 貴女の事だから、それも調べてあるわよね?」
「…………河内郡の実家に戻っているそうです。恐らく、仮面の者も一緒かと」
「なるほどな。河内郡はたまたま立ち寄ったんやのうて、そいつの故郷やったっちゅうワケか」
言うべきか迷った挙句、荀彧は曹操に抗う事は出来なかった。後悔の念が押し寄せ、荀彧の心は土砂降りの雨になろうしていたが、曹操の一言で黒く厚い雷雲は霧散する。
「吉報よ。よくやったわ、桂花。今夜は久しぶりに可愛がってあげるわ」
「え!? は、はい! ありがとうございます!」
曇っていた表情は一瞬で明るくなり、心配事などどうでもよくなる荀彧であった。夏候淵を連れて去ろうとする曹操を、荀彧は目に見えない尻尾を振りながら追いかけて行く。恍惚な笑みを浮かべて。
残された張遼と楽進は互いの顔を見合わせる。
「ま、まぁ、なんや。桂花の悩み事も解決したみたいで良かったやんか」
「は、はぁ……いや、あの、解決したのでしょうか? また新たな問題が……?」
「ええねん、ええねん。桂花が考えても分からん事をウチらが考えて分かるワケないやん。そう思う事にしよや」
「はぁ……」
二人は天を見上げ、深いため息を吐くのであった。
2016/3/29 サブタイトル追加