111話
関平率いる伏兵隊と趙雲将軍率いる本隊との挟撃で袁術軍は極めて劣勢。数では依然圧倒しているものの、冷静な判断を下せる指揮官が皆無なのである。総司令の張勲ならば可能だったかもしれない。
しかし、その張勲はと言うと――。
「美羽さま、ちょ~っと困ったちゃんな状況ですよ~?」
「うきー、さっさと蹴散らしてしまうのじゃ!」
「うふふ、無理ですよ~。だってェ、前後を挟まれちゃって皆さん混乱しちゃってますもの」
袁術は真っ赤になって怒鳴るが、張勲はその様子を微笑ましく見ていた。まるで他人事のように話す張勲に袁術の怒りの内力は上がる。
「何とかするのじゃ、七乃! 妾の軍は皇帝の軍なのじゃぞ!」
「ふふふふふ、弱りましたね~。まさか呂布さんが寝返るなんて……」
言葉とは裏腹に張勲はご機嫌であった。張勲は袁術が喜ぶ顔も好きなのだが、困った顔や怒った顔はもっと大好きなのだ。斥候を出し忘れた失態の事などすでに頭にない。
張勲は勅の効力を妄信していた。勅の前では全ての人間がひれ伏し、従うものだと思っているのだ。その考えは正しい、しかし何事にも例外が存在する。それが呂布であり、孫策であった。
袁術は怒り心頭に発する。
「そ、そうじゃ! こりゃ、呂布! 妾を裏切るとは何事じゃ! 妾は皇帝であるぞ!」
「…………」
呂布は無言。勿論、袁術の声は届いている。
袁術の顔はさらに赤く染まっていく。張勲は高揚を隠せない。
「むきー、無視するでない! 答えるのじゃ! どうして寝返ったのじゃ!?」
「…………咖喱」
「ほえ!? か、れい?」
呂布の回答は一言。袁術には理解できない。袁術に限らず、理解出来る者など稀であろう。
「七乃、“かれい”とは何者じゃ!? 皇帝の妾より偉い奴かや!?」
「誰でしょうねェ……う~ん……あっ、そう言えば、東の海にそういう名前のお魚さんがいたような」
張勲は顎に指を当てながら答えた。
袁術は目を見開く。
「さ、魚じゃと!? わ、妾より……魚の方が偉いと申すのかえ!?」
「うふふふふ、お魚さんに負けちゃったみたいですね~」
「うっきー、許さぬぞ! 七乃、呂布もろとも懲らしめてやるじゃ! それから、かれいと言う魚も根絶やしにしてやるのじゃ!!」
袁術は呂布を指差して宣言した。呂布は無関心のまま残り一切れとなった干しイモをハムハムとかじっている。李鳳や関羽とは違って袁術からは微塵も脅威を感じていない。
「無理ですよ~。こちらの部隊は混乱中で防戦一方になっちゃってますから~」
張勲はのほほんと否定する。張勲には勝敗に対するこだわりはあまりない。勝てるに越したことは無いが、今回に限ればどっちでもいいと思っていた。大義名分が無い事は張勲もよく理解していたのである。張勲は袁術を持ち上げて楽しめればそれだけで良いのだった。
しかし、ある人物の発言によって張勲の表情は青褪める事になる。
「黙って聞いておれば、ぬけぬけと……皇帝の名を語るなど、不届き千万! 漢の献帝様は曹操殿によって無事に保護され、許で奉戴されておるのだぞッ!」
猛々しい声を上げたのは関羽であった。漢に対する反逆としか取れない皇帝自称を看過する事など出来なかったのである。
これを聞いた袁術は不敵に笑う。
「にょほほほほ! 何を勘違いしておる、愚か者めが! 誰が漢の皇帝じゃと言うた。妾は、“仲”王朝の初代皇帝なのじゃ!」
腰に手を当てて堂々と宣言してみせる袁術。威張り散らした袁術の姿を、隣では張勲が満足そうに見ていた。
「仲王朝、だと!?」
「驚いたかえ? にょーっほっほっほっほ、妾の偉さが判ったのなら素直に跪くのじゃ! 大人しくかしずくならば、侍女として召し抱えてやっても良いのじゃぞ」
袁術にとって戦況など無関係なのだ。自分は偉い、それだけが唯一絶対の真実であった。
「ふ、ふざけ「関羽殿、少々お耳を」――くっ、今度は何なのだ!?」
怒鳴りつけようとした関羽は突如として遮られた。またかと言う思いで問い返す。
「むっ、どうしたのじゃ?」
「何でしょうね……案外、偉大なお嬢様に降る相談をしているのでは?」
「おおっ、そうじゃ! そうに決まっておる! にょほほ、相談などせぬとも、答えは決まっておろうに」
「うふふふふ、そうですね~」
二人が悠長に笑っていられるのは、劉備軍の本隊と伏兵を辛うじて袁術軍が押さえているからである。しかし、一度入れられた亀裂は埋められず、逆に広がるばかりであった。刻一刻と、死を呼ぶ飛槍が迫っている事を袁術は知らない。
数瞬して、再び関羽が口を開いた。しかし、それは袁術に向けられたものではない。
「此度の侵攻、孫策殿が参戦しておられぬようだが……よく許したものだな」
「なぬ!? 孫策めがおらぬじゃと!?」
「えっ……そ、そう言えばッ!?」
「おや、把握していなかったのか? だとしたら、いささか間の抜けた話と言わざるを得んな」
「ど、どう言う事じゃ!? 七乃……な、七乃!?」
袁術が張勲に意見を求めようとして振り向くと、そこには顔面蒼白な張勲の姿があった。額には冷や汗を浮かべており、ブツブツと呟いている。それは「マズイ」と言っているように聞こえた。
「な、七乃、しっかりするのじゃ! 関羽は何を言うておるんじゃ? 孫策の奴が来ておらんと言うのは本当かや!? 妾にも分かるように説明してたもう」
「……や、やられました。玉璽は私と美羽様の目を欺く為の……ううッ、非っ常にマズイ事になりましたよ~、お嬢さま!」
「な、何じゃ!? 孫策の奴……まさか、家でぐぅぐぅ昼寝でもしとるのかえ!?」
袁術は自身が考え得る最高に腹の立つ状況を思い浮かべた。いつもの張勲であれば笑っていただろうが、今はそんな余裕がない。
「いいえ、そんな可愛いものじゃありません。孫策さんの狙いはこの機会に美羽様の地位を簒奪する事です」
「ほえ? さ、簒奪?」
「つまり、孫策さんはお嬢様の領地と権力をそっくりそのまま奪うつもりなんですよ。以前から独立したがってましたからね。今回まんまと出し抜かれちゃいましたから、早く戻らないとお城も土地も何もかも失っちゃいますよ。もしかしたら、今頃は……」
張勲は内容を噛み砕いて説明した。袁術にも理解出来るようにと配慮したのである。
しかし、袁術に反応は見られない。無表情のまま時が止まったかのようにピクリとも動かないのだ。
流石の張勲も「おや?」と思い始めた。状況を静観していた関羽達にも「ん?」という空気が漂う。
どうしたのかと皆の目が袁術に集中する。袁術は依然動かないままであった。
そして、しばらくすると――。
「なんじゃとッ!?」
漸く張勲の話を理解した袁術が顔を真っ赤にして叫ぶ。関羽達は「遅ッ!」という表情をありありと浮かべていた。
「は、ハチミツ水もかや!?」
「ええ、ぜ~んぶ飲まれちゃいますよ」
「むっきゃー、ダメなのじゃ! あれは全部妾の物じゃ!」
袁術の顔が赤みを増して激昂し始める。領地より何よりも大切なのが蜂蜜水なのだ。
張勲にしても戦の勝敗にあまり興味がなくても、城を奪われては困るのであった。何不自由ない今の暮らしを失うだけでなく、怯えて生きる事に成りかねない。袁術を快く思わない者は多いのだ。同じ袁家でも袁紹は領民に支持されている。同じ自己中心的な性格の二人だが、決定的に違うのは自己の範囲であった。袁術の自己が己一人であるのに対して、袁紹の自己は自分と自分に付き従う大勢の者達まで含まれるのである。
万が一にも居城を奪われる事態になれば、自分と袁術の命が危ういと感じていた。孫策に殺されるか、あるいは領民に殺されるかの違いしかない。悪政を敷いてきた自覚はないが、善政を敷いたという自負もない。どちらかと言えば、民を苦しませたであろうと悟っていた。しかし、張勲にとって今も昔も、そんな事は知った事ではない。民がどれだけ苦しもうとも、袁術との暮らしが平穏であれば良いと本気で思っているのだ。民あっての国という考え方が張勲には欠落している。
そして現在、その平穏が危機に瀕していた。名門袁家と玉璽の絶大な権力で飼い慣らせると思っていた虎が主に牙を剥いたのである。状況は一刻を争う。
袁術を生き延びさせる手は二つあると張勲は考えていた。一つは今すぐに寿春に引き返して孫策の陰謀を阻止する事、そしてもう一つはこのまま劉備軍を破って徐州を奪取する事である。前者と後者、比べるまでもなく後者の方が旨味が少ない。河南全土を失う事になるからだ。
張勲に長考する時間はなく、瞬時に判断を下す。
「戻りましょう、お嬢さま。今引き返せば、孫策さんの野望を挫けるかもしれません」
「ほ、本当じゃな?」
「城には二万の防衛部隊を残してあります。孫策さんの部隊は多く見積もっても一万に満たないでしょう……彼らが打って出ずに篭城していれば、まだ十分に持ち堪えているはずです」
張勲は今までで一番頭を働かせていた。冷静に彼我戦力差を算出し、現実的な戦況を予測する。城からは急報を告げる早馬や伝者は届いていない。実は何事もなく考え過ぎているだけ、と思える程に張勲は子供ではなかった。伝令係が来ない理由、それは孫策軍に潰されているからに違いないのだ。
玉璽と増兵の交換条件に始まり、呂布という巨大な隠れ蓑まで用意し、徹底的に目と耳を潰した周到な計画であった。誰の描いた絵図かは張勲にも容易に想像がつく。呉において幼少時より天才の名を欲しいままにする策士――周瑜をおいて他にいない。
張勲は己の迂闊さと周瑜の狡猾さに歯噛みする。悔やんでも悔やみ切れないが、まだ手遅れにはなっていない。張勲に出来る事は目の前の愛すべき者と平穏を守る事である。
袁術もまた守るべきモノの危機に直面して焦燥していた。
「な、ならば即刻戻るのじゃ! ハチミツ水は何があっても守るのじゃ!」
「はい、お嬢さま。伝令、全軍に通達なさい!」
「はっ!」
撤退を告げる伝者を送る張勲。袁術も帰る気満々である。早々に踵を返す。
しかし、世の中そんなに甘くはない。
「下衆な侵略者共を黙って帰すと思っているのか?」
関羽から底冷えのする声が響いた。
張勲はゾッとする。懸念していた事が悪い方向で表面化してしまったからだ。ある程度の追撃は覚悟しているが、どこまで続くかは想像も出来ない。関羽の言葉はまさにそれを表している。殿を務める部隊は間違いなく全滅するだろうと張勲は予想していた。問題はその被害をどれだけ小さく抑えられるかに尽きるが、いつの世にも勇者というのは存在する。そして、袁術はある意味では河南一の勇者なのだ。
「なんじゃと! 妾のハチミツ水が危機的状況なのじゃぞ! 貴様ら如きを相手にしておる暇などないのじゃ!」
「お、お嬢さま!?」
勇者とは土壇場で状況を一変させる力を発揮する者であり、時に空気が読めない者でもある。決して勇気ある者だけを指す言葉ではない。空気を読めない者に限って、周囲には空気を読む事を強要する傾向が強く見られた。袁術はまさしくその典型と言える。
火に油を注いでる事に気付かない袁術に張勲は半ば感心し、半ば呆れてしまう。
「なんと身勝手な、そのような道理が通じると思っておるのか!?」
関羽は怒りは凄まじい。しかし、袁術に怯んだ様子は見られない。むしろ不遜と言える態度である。
「当たり前なのじゃ! 妾は皇帝じゃぞッ!!」
「お、お嬢さま~、も、もうその辺で」
張勲は嫌な汗でじっとりしてきた。
理不尽な物言いの袁術に対して、関羽の声も視線も恐ろしく冷たい。身に纏う氣色が怒気から殺気に変わっていくのを李鳳だけが見えていた。苛立っているのは関羽だけではない。
「薄汚い侵略者共を飼っているだけのお主が皇帝? いや、愚かしい反逆者であれば仕方のない事か」
「むきーィ、痴れ犬の分際で! 生意気なのじゃ! 七乃、こやつらを成敗してたもう!」
「う、うふふふふ。もしかして、手遅れかしら~?」
張勲は遠い目をしていた。主君にして勇者である袁術の言動はどんどん状況を悪化させていく。張勲は必死で打開策を考えるも、互いにこう荒れてしまっては一発逆転の解決案などそうそう浮かばない。
関羽が右腕だけで青龍偃月刀を一振りすると、空を切り裂き土埃を巻き上げた。
「その言葉、そっくり返させて貰おう。呂布よ、いけるか?」
「…………腹、一分目」
「フフッ、先程よりは幾分マシと言うワケだな。覚悟は良いな、袁術!」
関羽は偃月刀を、呂布は方天画戟をそれぞれ構え、袁術らを睨み付ける。その威圧感たるや、他に類を見ない。まともに関羽の殺気を浴びてしまった張勲の膝が笑う。
「こ、こりゃ、呂布! ど、どうして、貴様がそっちにおるのじゃ!?」
「…………」
「お、お主、正気で言っておるのか……?」
「ほえ?」
袁術の叫びに呂布は無言。関羽は驚きを隠せない。袁術は本気で小首を傾げていた。そのあまりの馬鹿さ加減に関羽は毒気を抜かれたと言っても過言ではない。しかし、ある者の中ではプチンッという音が鳴っていた。
「呂布は我ら側についたと、先程話したばかりではないか」
「……あっ、そうじゃった! こりゃ呂布! どうして妾を裏切ったのじゃ!!」
「…………」
「……」
「うふふふふ、色々超越しちゃってて、素敵過ぎますよ~」
関羽たちは呆気に取られていたが、張勲はいつの間にやら復活していた。殺気の呪縛から解放された為である。無限連鎖に突入すると誰しもが覚悟した瞬間、それは起こった。
「あぅゎぅゎ……」
袁術が泡を吹いて倒れたのである。突然の事に周囲は騒然となった。
「お、お嬢さまッ!?」
「むっ? 何事だ!?」
張勲は大慌てで袁術を抱き起こす。
しかし、張勲が何度揺すっても袁術に反応はない。完全に気絶してしまっているのだ。
「まさか……毒!? す、すぐにお嬢さまを運んで、衛生兵を呼びなさい! 直ちに撤退しますよ!」
「はっ」
親衛隊の衛兵に抱えられて袁術は馬車へと運ばれていく。
唖然としていた関羽が慌てて呼び止める。
「ま、待たぬか!」
「待てと言われて待つ馬鹿なんていませんよ~ッ! ……お嬢様を除いて」
「おのれ……ッ!」
関羽の制止を振り切って、張勲は一目散に逃げ出した。張勲に追従する形で袁術軍も撤退を開始する。
それを見て李鳳は木蓮ごと関羽を持ち上げた。その高さは軍馬騎乗に匹敵し、広がった視界で関羽は戦場の全貌を捉える。李鳳の意図を読み取った関羽は今日一番の雄々しい声を上げた。
「勝鬨だ! 勝鬨をあげよ! 我ら劉備軍の圧勝だぞ!」
響き渡り浸透していく関羽の美声。偃月刀を突き上げて叫ぶ姿がこれほど似合う人物は他にいない。
次の瞬間、大地が震えるような歓声が沸き起こった。声による振動で空気までがビリビリと震えている。
「これより反逆者を崇める残党の駆逐作業に移行する! 徐州に攻め入った侵略者共を生かして帰すな!」
「おおーッ!」
士気の跳ね上がった劉備軍は疲れている体に鞭打って袁術軍を追う。その追撃は苛烈で尚且つ執拗であり、袁術軍が国境を越えるまで続くのであった。
歓喜に沸く劉備陣営にあって、丁奉だけが笑顔を浮かべていない。その視線は張飛と李鳳に注がれていた。だからこそ気付けたのである。ほくそ笑んでいる李鳳の呼吸が再び荒げているという事実に――。