108話
袁術軍に包囲され徐々にその重圧に押され始め、劉備軍の本隊は窮地に立たされていた。
限界だと判断した諸葛亮は劉備へと進言する。
「桃香様、やはり孫策さんはこの戦場に参軍していない模様……もう、これ以上は待てません。雛里ちゃんに、伝者を……伝者を送らせて下さい」
諸葛亮の表情はとても険しい。
鳳統の策に穴らしい穴はなかった。
当初の計画通り進んでいれば、ここまで追い込まれる事は無かっただろう。
しかし、たった二人の問題児によって計画は狂わされた。
ある意味で、同盟破棄以上の裏切り行為と言えるだろう。
軍幹部という重責を担うハズの将軍が己のエゴを優先し、策を無視して暴走するなどあってはならない。
地位が高ければ高いほど、権力が強ければ強いほど、裏切りの反動は大きく圧し掛かるのだ。
張飛は本末転倒な判断で失態を犯し、全兵を危険に曝してしまった。
劉備はゆっくりと目を閉じる。
迷いはある、しかし、迷ってばかりでは前に進めないのだ。
約束を反故にはしたくないが、約束よりも大切な『モノ』が劉備の脳裏をよぎった。
深呼吸をし、決意を新たに目を開く。
「劉玄徳が命じます! ただ今の時刻をもって孫策さんとの同盟は破棄されたものと見なし、以後の作戦を速やかに実行して下さい!」
「桃香様……よくご決断を。 伝達――“一の矢”不発、“二の矢”を放て! 繰り返す――“一の矢”不発、“二の矢”を放て!」
「はっ!」
力強く宣言してくれた劉備に諸葛亮は安堵し、この主君で良かったと再認識した。
伝者は森の奥へと消えていく。
こんなギリギリまで鳳統を待たせてしまった事を申し訳ないと思いつつ、手遅れになる前に伝令を送れた事で少し気持ちが楽になっていた。
険しかった表情も緩和し、ホッとした様子で劉備に話しかける。
「あとは雛里ちゃんが上手くやってくれるでしょう。……鈴々ちゃんの事があっただけに、“あの二人”も誘発されないかと心配しましたが、どうやら杞憂だったようですね」
「……うん……そう、だね」
一方の劉備は歯切れが悪かった。
「やはり、気になりますか……鈴々ちゃんの事」
「……胸騒ぎが消えないの」
「胸騒ぎ、ですか?」
「作戦を無視した鈴々ちゃんに非があるのは判ってるよ……でも、それでも……生きていて欲しいんだ」
劉備の言葉に耳を傾け、諸葛亮は目を細めた。
思い出されるのは汜水関での華雄である。
こちらの挑発に乗って暴走した華雄は一騎打ちで関羽に討たれ、結果として汜水関もあっさりと陥落した。
今回の張飛の行動は華雄のそれと酷似している。
諸葛亮の想いも劉備と同じであるが、その思いは違っていた。
諸葛亮の表情が引き締まる。
「そうですね、生きていて欲しいです。いえ……きっと生きている、そう思います」
「……だよね? そうだよねッ!?」
「はい。鈴々ちゃんには生きて……“責任”を取って貰わないと」
「うん…………えっ!?」
劉備は耳を疑った。
しかし、諸葛亮の表情は真剣そのものである。
「しゅ、朱里ちゃん? せ、“責任”って……?」
「……その件は、戦が終わってからお話しします。今は、この戦に勝つ事だけに集中して下さい」
「ふぇ? あっ……う、うん」
劉備は生返事をするが、簡単に割り切る事など出来ない。
劉備は複雑な心境で張飛の無事を祈っていた。
諸葛亮は心根の優しい少女であるが、信賞必罰を重んじている。
張飛の取った行動は独断専行・作戦無視・指揮放棄という明らかな命令違反であり軍罰に値した。
将軍という立場を張飛は全く理解していない。
そのせいで部隊は混乱し、本来受けなくても良い損害を被ったのである。
子供だからという言い訳はこの乱世では通用しない。
諸葛亮も鳳統もまだ子供だが、戦場で軍師が担う責務をよく理解していた。
武のみに注目すれば、張飛は関羽を超える器と言えよう。
実際に鍛錬での手合わせでは関羽を何度も倒した実績を持つ。
しかし、戦場においては絶対に勝てない。
張飛には致命的に欠けているモノがあったのだ。
それは関羽にあって呂布すら驚嘆させる力を発揮せしモノである。
少しは関羽将軍を見習って欲しいと諸葛亮は常日頃思っていた。
そこまで考えて、諸葛亮は頭を振る。
自分も他人(劉備)の事は言えないと苦笑してしまう。
気持ちを切り替えて、劉備の隣で戦況を確認しようとした瞬間――それは起きた。
「どけどけどけーいッ! 道を開けよッ! 俯くな! 顔を上げよ、我が進撃を括目せよッ!!」
「HA-HA!! Get out of my way!!」
甲高い雷声が鳴り響き、静まり返っていた本陣の兵士達がざわめき出した。
ざわめきは膨れ上がり、大きな歓声へと化ける。
「ぐ、軍神様だーッ!!」
「将軍が……関羽将軍が来て下さったぞッ!!」
「千人力の合力じゃーッッ!!」
「やったぞ! これで勝てるッ!!」
暗かった兵の表情が一気に明るくなった。
劉備と諸葛亮は皆の視線を辿って目を凝らす。
「あ、あれって……愛紗ちゃん、だよね?」
「そ、そのようですね」
「押してるのは……もしかして、李鳳さん?」
「……だと、思います。あの変わった衣装は見間違えようありませんから」
「でも、どうして……? どこに行くつもりなんだろう……?」
諸葛亮はコメカミを押さえた。
眩暈で膝をつきそうになる。
千里を駆ける駿馬のような速度と、全てを薙ぎ倒す竜巻のような破壊力を兼ね備えた姿は、南蛮に棲息する巨大な猛獣を彷彿とさせた。
行く手を阻む袁術兵は次々と跳ね飛ばされ、数瞬遅れで劉備兵から歓喜の雄叫びが上がる。
低下していた兵の士気が回復する事自体は喜ばしい。
しかし、それを行っているのが関羽達である事が問題であった。
諸葛亮は出陣前の二人の言葉を思い出す。
後方部隊の護衛という不本意な役割も「自分に任せよ」と頼もしく語った関羽。
将軍らしい頼もしい言葉であった。
一方、前線も本陣も嫌だと駄々をこね、李典を巻き込んで後方支援に回った李鳳。
元軍師とは思えない我侭で自己中心的な言葉である。
諸葛亮は激しい頭痛に襲われていた。
想定外の出来事は張飛と丁奉だけでもお腹一杯なのに、また将軍と李遊軍が暴走とあっては吐き気すら覚えるのだ。
そして関羽将軍を見習って欲しいと常々思ってきた自分が急に恥ずかしくなる。
諸葛亮は顔面が熱くなるのを感じていた。
少し赤面した諸葛亮は咳払いをして口を開く。
「コホンッ、恐らくは……最前線、それも……呂布さんの所かと」
「ええーッ!? 愛紗ちゃんまでッ!? な、なんで!? どうしてどうしてッ!?」
劉備の動転ぶりも当然であろう。
孫策に始まって、丁奉・張飛と続き、関羽までが勝手に動き出す事まで想定しろと言う方に無理があった。
諸葛亮の表情も苦みを増していく。
「詳しい事情は聞いてみないと分かりませんが……愛紗さんの判断だとは思えません」
「そ、それって……?」
「李鳳さんに何か考えがあって……という事だと思います」
「でもね、でもでも、愛紗ちゃんも李鳳さんも、雛里ちゃんの“伏兵の計”は知らないんだよね? このままだと……作戦に影響が出ちゃうんじゃ!?」
「……」
諸葛亮は沈黙した。
劉備の心配はもっともだと思う反面、李鳳ならばそこまで読んでいるのではないかと思う気持ちもある。
鳳統ほどではないが、諸葛亮の中でも李鳳の評価は低くない。
しかし同時に、何を考えているか分からないという不気味さを危惧している。
鳳統が素直に“凄い”と感じるのに対して、諸葛亮は心の片隅で“怖い”と感じていた。
渋い表情の諸葛亮に劉備は不安そうに声をかける。
「しゅ、朱里ちゃん?」
「……この段階で、作戦を修正するのは不可能です。今は雛里ちゃんと、“あの二人”を信じましょう」
諸葛亮はすでに見えなくなってしまった木蓮・四式の後姿をずっと眺めていた。
☆☆☆☆☆
木蓮・四式は普通の車椅子とその形状が大きく異なる。
背もたれは腰までしかなく、土木用一輪車のような取っ手が付属していた。
偃月刀を振り回す邪魔にならないよう幾重にも工夫が施されているのだ。
上半身のみで全身を支え、右腕のみで偃月刀を振ってきた関羽は肩で息をしている。
総合的な戦闘力は以前の彼女に及ぶべくもない。
しかし、その代償が思わぬ副産物をもたらしていた。
左腕と下半身が動かぬ事で自然と右腕のみに集約された氣の一振りは、以前と遜色のない威力を再現したのである。
並み居る袁術兵を退け、呂布へと辿り着いた関羽。
しかし、その表情は青褪めている。
現着した瞬間、倒れている張飛を発見したからだ。
関羽は取り乱したように叫ぶ。
「り、鈴々……ッ!? 無事かッ!? 生きておるなら返事をしろッ!!」
「……」
張飛に反応は見られない。
蛇矛を手放し、ピクリともせず地面に臥す張飛に、最悪の事態を想像してしまう。
関羽の表情が絶望の色に染まっていく。
「そ、そんな……」
「…………関羽」
「アーン? なんで関羽が……げッ!? 糞野郎まで居やがるじゃねーか!」
呆然とする関羽の存在に呂布と丁奉も気付いた。
関羽は怒気を込めて呂布を睨み付ける。
「おのれ、呂布! よくも……よくも鈴々を……ッ!!」
「…………」
「そもそもこの戦、お主らに大義はあるのかッ!?」
「…………」
「宣戦布告もせずに攻め入って来るとは何事か!? 道義に反しておるわッ!!」
「…………」
無傷の呂布と血塗れの丁奉は互いに向かい合ったままである。
視線のみを関羽に向けていた。
その視線と関羽の視線が交錯する。
「それほど我らを倒したいか!? 我らが何をしたッ!?」
「…………」
「我が主君・劉備の悪政でも耳にしたと申すのか!? それこそ有り得ぬわッ!!」
「…………」
怒り心頭に発した関羽は吼えに吼えた。
呂布は黙って関羽を見詰めている。
氣を目視出来る李鳳には張飛が生きていると分かっていた。
分かった上で、“敢えて”何も語ろうとはしない。
「鈴々だけでなく、丁奉までヒドイ怪我ではないか……許さぬ、許さぬぞッ!!」
「…………」
「アー……チッ、面倒くせェな」
血塗れの丁奉を視界に捉えて、関羽はさらにヒートアップした。
呂布は黙ったままであり、丁奉も説明を端折ったのである。
それに対して異を唱える者が現れる。
「ちょっと待つのですッ! そいつが血塗れなのは自業自得なのですよッ!」
「むっ、何者だ!?」
「ねねは呂布殿の専属軍師――陳宮様なのですッ!!」
小さな巨人が吼えたのだ。
関羽はその鋭い眼光で陳宮を射抜いた。
「陳宮とな……それで、何がどう自業自得なのだ?」
「うっ……そ、それは……そいつが自分でお腹を斬ったのですよ! 正気の沙汰じゃないのですッ!!」
少し怯んだものの強気で言い返した陳宮。
「自分で!? そんなワケなかろう! 私を謀る気かッ!?」
関羽の怒気がますます高まる。
李鳳は真っ赤に染まった丁奉をジト目で見ていた。
「そ、そんなワケあるのですよッ! そいつは笑いながら、いきなり腹を掻っ捌いたのですぞッ!!」
「嘘を申すでないッ! そんな戯けがこの世におるハズなかろうッ!!」
「いたのですよ! ココにッ!!」
関羽と陳宮の舌戦はヒートアップしていく。
「世迷い事を……気でも触れたか!?」
「ねねは正常なのですよ! 異常なのは“そいつ”の方なのですッ!!」
「そもそも自分で自分を傷付けて、どんな得があると言うのだッ!?」
「考えたくもないのですよッ! それに倒れてる奴も、そいつが蹴り飛ばしたのです。そいつは……完全にイカレてやがるのですよ」
恐怖を孕んだ目で陳宮は丁奉を見た。
息は荒く、瀕死のように見えるが、その表情は未だ狂気を帯びている。
赤い目で睨まれると蛙のように固まってしまう。
呂布をして怖いと言わしめたのは、この狂気であると確信していた。
人間は理解出来ないモノに恐怖する生き物である。
陳宮の真剣な物言いに関羽は悩み始めた。
「……李鳳殿、どう思われる? お主の方が付き合いは長かろう」
「……」
「それと、鈴々の安否を確認して貰いたいのだが?」
「……」
返事のない李鳳を不思議に思い、関羽が振り返る。
「り、李鳳殿……?」
「……Good grief!!(……やれやれ)」
「へっ?」
李鳳は首を振って溜息を吐いた。
「ご心配なく、張飛殿は無事ですよ。バカ(丁奉)よりもずっと、ね」
「そ、そうか……何よりだ」
「まずは邪魔なバカを止めてきますので、少々離れますよ。あと……“約束”、忘れてないですよね?」
「あ、ああ。無論だ」
「結構、では後程」
そう言うや否や、李鳳は瞬動でその場から消えた。
移動先は丁奉の背後である。
気配を感じた丁奉はいかにも忌々しいといった感じに口を開く。
「邪魔すンじゃねーよ、糞野郎! 今イイとこなンだよッ!!」
「…………匿名?」
「丁奉、“貴女の遊びの時間”は終わりです」
「るっせーンだよッ! 糞野郎の指図は受けねェ!!」
血に染まり、紅き目の狂人は聞く耳を持たない。
呂布は李鳳をマジマジと見詰めていた。
「そうですか……まぁ、別に構いませんが」
「ヒャハハハハッ、さァ、続けようぜッ! 最高の死合――――なッ!?」
「…………」
丁奉は驚きの声を上げて、ドサッと座り込んでしまった。
体の自由が利かず、丁奉はプルプルと震えている。
「テ、テメェ……何しやがったッ!?」
首筋に何かが触れる感触はあった。
しかし、それが李鳳の手だと気付いた時には糸がブチ切られていた。
「クククッ……氣脈を少々、あとは止血か」
「おい、汚ねェ手で触ンじゃねーよッ!」
李鳳はまるで猫のように丁奉の首を摘み、片腕だけで軽々と持ち上げた。
そのまま呂布へと視線を移す。
「コレ、貰ってきますよ?」
「ざっ、ざけンじゃねーぞ! 離しやがれッ!!」
「…………」
暴れようにも体が動かない丁奉。
無言でコクリと頷く呂布。
「どうも」
「離せって言ってンのが聞こえねェのかよッ! この糞野郎ッ!!」
李鳳は呂布に会釈し、丁奉を運ぶ。
丁奉は何度も罵倒するが、李鳳はどこ吹く風である。
「クックックッ……弱い犬ほどよく吠える。あっ、この状態じゃ猫ですかねェ」
「……テメェ、オレをバカにしてェのか!」
「いえいえ、したいのではなく、してるのですよ。貴女は未熟な上にバカです」
「ンだとッ!?」
紅蓮の瞳が李鳳を睨み付けた。
噛み殺さんとばかりの気勢を見せる丁奉。
しかし、李鳳はあざ笑って丁奉を張飛の近くに放り投げた。
「“特殊”な状況下に身を置かなければ満足に実力も発揮出来ない者を、未熟者と言って何が悪いのですか?」
「くッ……!」
「後先も何も考えずに暴走する思考が停止した者を、世間ではバカと言うんですよ。知ってるでしょ?」
「……チッ」
丁奉は歯噛みした。
李鳳の言った事は全て的を射ている。
策を無視して暴走した事で、皆に迷惑をかけたという自覚はあったのだ。
それがどのような結果を生むか、丁奉は考える事を拒否していた。
丁奉の目の充血が徐々に治まっていく。
「言われなくても解っているでしょうが、敢えて言おう。貴女には功夫が足りない!」
「……」
丁奉は何も言えない。
歯を食いしばって悔しがっていたのだ。
「そこで、大人しくしてなさい」
「お、おい、待てよ。せめて動けるようにしやがれ」
「元々そんなに強く氣脈は乱してませんので、もう動けるハズですが……それでも動けないのならば、貴女がそれだけ重傷ということでしょう」
「どういうこ……いつの間にッ!?」
丁奉は驚愕した。
腹部の出血が知らぬ間に止まっていたからである。
「内養功は先程かけておきました。最低限の止血を施しただけなので、動けないのは体が回復に全力を注いでいるからでしょう。まっ、その内動けるようになりますよ」
「……」
「分かったなら大人しく見ていなさい。ここからは“私の遊びの時間”です、クククククッ!」
李鳳は凶悪な笑みを浮かべた。
そして、テクテクと関羽の居る方へと進む。
「お待たせしました。では関羽殿、打ち合わせた通りにお願いします」
「うむ、心得た!」
関羽は力強く頷く。
李鳳は関羽の乗った木蓮・四式をゆっくり押し始めた。
進行方向にはあの呂布が待っている。
「おいおい……何する気だ!? ま、まさか……その関羽と二人だけで、呂布とヤる気じゃッ!?」
「クヒャヒャヒャヒャッ! その“まさか”ですよ!! 貴女が手も足も出なかった呂布ですが、今の私なら……瞬殺ですよ」
「……はァ!? ンな事出来るワケねーだろッ!! 以前の関羽ならまだしも、今の関羽にゃ荷が重いぜ!」
先程まで一人で戦っていた自分を棚に上げ、冷静さを取り戻した丁奉は勝てないと叫ぶ。
関羽の強さはあの呂布も認めている。
しかし、それは以前の関羽であって今の関羽ではない。
丁奉は今の関羽も、今の呂布の実力も身をもって知っていた。
そんな丁奉だからこそ分かるのだ。
関羽の意識は呂布に集中し過ぎており、丁奉の言葉は耳に届いていなかった。
一方、李鳳は不敵な態度を崩さない。
「おやおや、血を流し過ぎて耳まで悪くなりましたかねェ」
「アン!?」
「私は“今の私”なら、と言ったのですよ。“私達”とは一言も言ってません」
「なッ!?」
「関羽殿は名乗りを上げる代弁者で、ヤるのはこの私ですよ。やっぱり名乗りと勝ち鬨は華のある女性にこそ似合いますからねェ。クックック……今日は、死ぬにはイイ日だ」
「む――」
「久々ですねェ……“本気”を出すのは、クヒヒヒヒッ!」
李鳳の宣言を聞いて、丁奉は耳を疑った。
咄嗟に無理だという言葉が喉の奥まで出掛かったが、それを必死で飲み込んだ。
丁奉は李鳳の本気を未だかつて見た事がない。
李典からは、あの張遼を破った夏候惇と互角にやり合い、孫策とも因縁浅からぬ仲だと聞いていた。
鍛錬でも見せた事のない李鳳の本気には、丁奉も興味を抱いている。
何かを期待してしまっている自分が居る事をハッキリと実感する丁奉。
覚られまいと悪態をつく。
「……本調子じゃねェが、呂布は糞強ェぞ!」
「でしょうね」
「オレの月光も、張飛の矛も、全く通用しなかったンだぞッ!!」
「腐っても、天下無双ですからねェ」
のらりくらりと語る李鳳。
ゆっくり、ゆっくりと呂布に接近する。
突如、丁奉は激しく顔を歪めた。
そして、舌打ちをして言い難そうに切り出す。
「……チッ、糞忌々しくて本当は認めたかねェがな、オレの技はテメェの模倣なんだぞ! それが通用しねーって言ってンだよッ!!」
「クックック……なかなか笑える冗談だ、マンセーの下で腕を上げましたねェ」
「冗談で言ってンじゃねーぞ、この糞野郎ッ!!」
貧血で頭がフラフラながらも、丁奉の勢いは死んでいない。
「かじった程度の氣と形だけ真似た二刀流で私の模倣だと? 本気で仰ってるとしたらスベッてますよ」
「ンだとッ!」
「クククッ……私に比べれば、貴女の技など稚技に等しい!」
「なッ……」
「私の一挙一動をその目に焼き付けなさい。そして学ぶがイイ、氣の真髄と二天一流の極みが何たるかを!」
反論しようとした丁奉が思わずゴクリと生唾を飲み込んだ。
李鳳の放つ氣圧が増し、その変化で風が生じる。
その風が丁奉や呂布の髪をなびかせた。
それは木蓮・四式を目とした小型の台風と言えよう。
李鳳の氣が増すにつれて、台風も猛威を振るい出す。
突然戦場に巻き起こった暴風に陳宮は慌てるが、呂布だけはジッと李鳳達を見据えて戦闘態勢を継続していた。
李鳳は呂布から視線を外さずに、丁奉に話しかける。
「いいですか、丁奉。氣とは生命をつかさどる精力です。我々の体には常に氣が流れており、その通り道を経絡と呼びます。ご存知でしょ。経絡には経脈と絡脈があり、さらに経脈には十二正経と奇経八脈があります。常識ですね。それぞれの経脈は五臓六腑と心臓に繋がっています。小周天によって奇経の中でも主に任脈と督脈を繋ぐ道に練った氣を巡らし、末梢神経、筋肉、内臓をも支配する事で飛躍的に肉体を活性化させているのが、今の私です。分かりましたね?」
「……全っ然、分かンねーよ! 糞野郎ッ!! 舐めてンのかよ!? 説明するなら、もっと分かり易く言いやがれ!!」
丁奉のかいた汗は冷たいモノに変わっていた。
氣を覚えた事で丁奉も相手の氣をある程度は推し測れるようになっている。
しかし、李鳳の放っている氣はその感知可能な許容限界を大きく上回っていた。
失血からかあるいは畏怖からか、丁奉の顔は青白くなる。
「おやおや、血を流し過ぎて頭まで悪くなりましたねェ? いや……それは元々か、クヒヒヒヒッ!」
「……るっせーッ、この化け物がッ!」
丁奉に出来る精一杯の強がりであった。
「クックックッ、私はタダの人間ですよ。少々勤勉家な、ね」
「……ケッ」
「ただし……いつの時代も本当に怖いのは人間なんですよ」
李鳳の呟きは誰にも聞こえなかった。
蒼白な表情のまま丁奉は何も見逃すまいと目を凝らす。
陳宮は怪訝な表情で李鳳を見ていた。
木蓮を押す李鳳はまるで散歩するかの如く、ゆっくりゆっくり戦場を闊歩する。
木蓮に乗る関羽はまるで自分が戦うかのように、臨戦態勢で武器を構えている。
両者は全く別モノで、ある意味そっくりな笑みを浮かべていた。
――苦戦の予感。
呂布の本能が告げている。
この二人をまともに相手にしては危険である、と。
二人からビリビリと感じる覇気と闘志は先の二人を軽く凌駕している。
空腹のせいで本来の力が出せないのは承知していた。
李鳳が敵対している事も自然と受け入れている。
乱世においては昨日の友が今日の敵となる事など日常茶飯事なのだ。
呂布は思う。
もしかしたら今日ここで死ぬかもしれない、と。
呂布の表情に変化はない。
しかし、この日初めて戟を握る手に若干の汗が滲み始めていた。
最後まで読んで下さり、ありがとうございます。