107話
ちょっと長いです。
――呂布、字は奉先。
類稀な腕力をその身に宿し、槍術・弓術・馬術に秀でた豪傑であり、大陸全土にその名を轟かせていた。
『天下無双』や『鬼神』などと称されるに相応しい武勇を誇り、前漢の時代に活躍した名将・李広になぞらえて『飛将』とも呼ばれている。
個の武芸は飛び抜けていて他の追随を許さないが、将として隊を率いる能力は乏しい。
しかし、たった一人で黄巾党三万を討った逸話は有名であり、むしろ噂話の方が過小評価されていると言えよう。
さまざまな情報が錯綜する中、虎牢関と洛陽で披露された呂布の圧倒的なまでの強さは、多くの連合兵を震撼させるのに充分なモノであった。
実際の現場に居合わせた古参の劉備兵にとって、呂布は恐怖の対象でしかない。
『最強』の称号を欲しいままにする生ける伝説が敵陣に居る、そう思うだけで足は震え、冷や汗は止め処なく流れ、体の重心は自然と後方に傾いてしまう。
古参兵の緊張は新参兵へと伝染し、兵達は新旧問わず皆浮き足立っていた。
袁術軍という巨大な兵力ではなく、呂布というたった一人の存在に呑まれてしまったのである。
恐れを抱く事は恥ではなく、むしろ乱世を生き抜く上で必要な感性とも言えるだろう。
口にこそ出さないが、皆が『鬼神』を畏れていた。
どこの世界に好き好んで殺されに行くような愚者がいるだろうか。
その脅威は兵卒をはじめとして、隊を率いる将官にまで蔓延している。
合戦前に開かれた軍議では、本隊の士気の低さも懸念事項の一つであった。
呂布の相手など誰もしたくないのだ。
しかし、劉備陣営の頭痛の種はそれだけではない。
孫策と交わした密約の中に、劉備軍は囮となって袁術軍の注意を引く事が盛り込まれていた。
その上で非常に厄介なのが、袁術軍の敷く防御に適した鶴翼の陣である。
広げた鶴の二枚の翼は多数の羽(兵)で分厚く覆われており、胴体にはあの呂布が待ち構えていた。
侵略して来たにも関わらず、攻勢に打って出ずに守勢に回り、がっぷり四つで横綱相撲を取りたがるのは、流石の袁家クォリティーと言えるだろう。
数に物言わせて押し込んで来ない展開はかなり意外であった。
ジャンケンで言えば袁術軍はパーであり、パーに勝てるのはチョキだけなのだ。
セオリー通りにチョキで崩すのならば、兵数で劣る劉備軍は趙雲・張飛という勇将を主軸にし、局所的な一点突破を図るのが妥当であろう。
しかし、突破出来なければチョキはただのグーへと陣容を変える。
一度でも囲まれてしまえば瞬く間に兵力は削られてしまい、それは呂布を相手にしても同じ事が言えた。
呂布だけはパーにしてグーの強度を有しているのだ。
臆した将官達からは消極的な意見しか出ず、活路を見出すのに難航していた。
孫策を妄信するのであれば囮に徹した策を取るべきだろうが、誰よりも慎重な性格の諸葛亮にそんな他人任せな甘い考えはない。
劉備陣営の軍事・内政の全般を統括する諸葛亮は軍才も並外れているが、どちらかと言うと行政や外交に特に秀でた『政治家』なのだ。
そんな彼女は危険を冒す賭けのような奇策をあまり好まず、セオリーや正攻法を重んじる傾向があった。
打算が働く諸葛亮には局所突破も様子見も得策とは思えず、重なる悪条件に頭を抱える。
この状況下で眠れる才能を開花させた者がいた。
いつもなら背後霊のように諸葛亮の陰に隠れている鳳統である。
共に水鏡先生の塾で学んだ学友であり親友でもある諸葛亮が伏竜と称されているのに対して、鳳統は鳳凰の雛である鳳雛と称された。
彼女の軍事的才能は諸葛亮をも凌駕する。
戦術・軍略の知識に長け、臨機応変な策謀に優れた鳳統は超一流の『戦略家』なのだ。
珍しく前に出たものの、おどおどした態度は変わらない。
しかし、語られた内容は苛烈そのものであり、普段の内気な性格からは想像も出来ない大胆不敵な策であった。
この若き天才は最大級の警戒対象と言っても過言ではない呂布を“敢えて”無視しろと言い出したのである。
本隊には鶴の両翼に対してのみ局所的ではなく、“敢えて”全面に且つ全力でぶつかるように進言する。
その上で同盟を組んだ孫策軍を“一の矢”とし、賭けとなる“二の矢”を仕込む策を提案した。
多くの将官から反対意見が飛び出す。
呂布を放置するなど危険極まりなく、彼我戦力差の意味も分かっておらず、全面でぶつかるなど無謀でしかないと非難したのである。
彼らの懸念は至極当然であろう。
ジャンケンの理論で言うならば、パーやグーではパーに勝てない。
圧倒的な力量差があるならば話は別だが、兵力でも劣っているのだ。
以前の鳳統であれば過ぎた自己主張などせず、皆や諸葛亮の判断を支持するに留まっただろう。
しかし、鳳統は変わろうとしていた。
そのキッカケを与えたのは李遊軍との出会いである。
劉備陣営の中で李鳳の悪影響を最も強く受け毒されたのは、実は関羽ではなく鳳統なのだ。
李鳳の提唱する思想は卑劣極まりなく誰もが非人道的な下策と蔑んだが、意外な事に鳳統の大局を見据える慧眼を鍛えるのに一役を買っていた。
諸葛亮も感じたように鳳統の瞳にも正攻法では勝てない現状が映る。
ただのチョキではハサミが壊され、消極的なパーでは持ち堪えられず、グーでは話にならない。
戦場を目の当たりにした僅かな時間で、鳳統の頭脳は袁術の首を討ち得る策を導き出した。
ある程度の犠牲は覚悟の上なのだ。
中途半端な対策では被害ばかりが拡大して勝てない。
だからこそ“敢えて”敵の思惑に乗り、その裏を狙うべきだと考えた。
鳳統は深呼吸で息を整え、先程の非難に対して論破を始める。
口調こそ穏やかで丁寧なのだが、内容は李鳳を彷彿とさせた。
――分かっていないのはお前達の方だ。
――戦においてビビった奴に勝ち目はない。
――動かぬ呂布など放っておけ。
――攻撃は最大の防御なり。
――翼を封じられた鶴は羽ばたけない。
――飛べない鶴はただの的、あとは射殺すまでだ。
可愛い顔や声とは裏腹に、過激で攻撃的な策が淡々と語られる。
鳳統は趙雲・張飛という二枚刃のハサミを“敢えて”一枚にし、チョキをパーに化けさせた。
積極的なパーで攻めるのは戦線を維持する為のものであり、あくまで勝負を賭けるのはチョキなのだ。
孫策軍が動けばそれで好し、動かない時の“二の矢”である。
鳳統の示した策はハサミの真価がその大きさではなく、切れ味で決まるのだと物語っていた。
反発していた将官達は沈黙し、軍議の場を静寂が支配する。
覚醒した鬼才を垣間見て、諸葛亮の背筋が凍り付く。
これまで妹のように思ってきた鳳統に対して、諸葛亮は初めて畏敬の念を抱くに至った。
この日徐州の片隅で、妙計奇策を無尽蔵に編み出す軍略の怪物が産声を上げたのである。
恐るべくも頼もしい戦略眼に驚嘆していた諸葛亮であったが、次の瞬間ホッとしてしまう。
あまりに長く続いた沈黙に耐え切れなくなった鳳統が「ご、ごめんなしゃい」と謝ってしまったからだ。
諸葛亮の後押しもあり、鳳統の提案は正式に採用された。
同盟条件を遵守した策を劉備も気に入った為、鶴の一声で決定したのだ。
賭けである事は否めないが、勝算も十分にある。
呂布を相手せずに済むと知って大半の兵士は安堵した。
低下していた士気の回復も戦術の一つである。
袁術軍撃退という戦略目標を達成する為に、鳳統は幾重にも奇策を盛り込んだ。
しかし、物事に絶対は無く、何事にも例外は存在する。
合戦が始まってしばらくの間は互角以上の膠着状態が続いていた。
鳳統は数手先まで敵の動きを読み切っている。
余程の事が無い限り、策を変更する必要はないであろう。
その鳳統達が本陣にて、あんぐりと口を開けて戦況を見ていた。
策に支障をきたすレベルの余程の事が起こってしまったのだ。
それも、あろう事か味方の手によって――。
☆☆☆☆☆
――敵陣中央。
無視すると決まったはずの呂布に襲い掛かる影があった。
小さい方の影は蛇矛で突きを繰り出す。
「食らうのだ! にゃにゃにゃーッ!!」
「…………無駄」
呂布は高速の重心移動で体を捻り、全ての突きを避けた。
突き終わりで無防備となった体に方天画戟の柄が直撃し、体重の軽い小柄な影は吹き飛ばされる。
「にゃ!? …………むぎゃ!」
地面を転がる影を踏み越えて、もう一つの影が飛来する。
「おらァ! 一撃煮湯痕ッ!!」
空中で放たれた円月輪が弧を描いて背後から呂布に噛み付く。
影もそのまま投斧を構えて前方から斬りかかった。
「死ねやッ!!」
投擲と斬撃を組み合わせた単体による二点同時攻撃である。
氣で強化された攻撃はどちらか一方だけでも必殺の威力を秘めていた。
不可避のように思われた攻撃であったが、呂布は扇風機のように戟を振り回し、二機を同時に迎撃して見せたのだ。
大地に激しく体を打ち付けた影は苦痛で顔を歪める。
「グッ…………糞が、まだ……まだ、足りねェってのかよ!」
慟哭のように叫び、呂布を睨み付けた。
しかし、呂布は意に介さず、追撃すらしてこない。
余程の事を引き起こした問題児は二人いた。
一人は『最強』を渇望する武の狂人・丁奉であり、もう一人は腕白で生意気盛りな燕人・張飛である。
今回の策に不満を抱く丁奉もしばらくの間は我慢していた。
しかし、呂布を視界に捉えた瞬間、彼女の自制は脆くも崩れ去る。
好き好んで殺されに行く愚者がここに存在したのだ。
趙雲の制止を振り切り、単身で意気揚々と呂布へと突貫した。
問題行動ではあるが、丁奉単体であれば大騒ぎする問題ではない。
問題が大きくなったのは、なぜか張飛が便乗してしまったからである。
将を失った隊は一時的に混乱した。
趙雲隊と副将の尽力でなんとか瓦解は免れたが、状況は一転して窮地に立たされてしまう。
丁奉が呂布を睨んでいると、いつの間にか張飛が横に来ていた。
その表情は明らかにご立腹であり、顔も体も土埃で汚れている。
「おい、鈴々は踏み台じゃないのだ!」
張飛は開口一番文句を言った。
他人に足蹴にされて喜ぶのはマゾくらいであろう。
しかし、丁奉も苛立っていた。
相手は虎牢関で三人、洛陽では六人がかりで倒せなかった程の化け物なのだ。
丁奉と張飛は二人きりで連携も満足に取れていない。
にも関わらず、未だに二人とも生きている。
手を抜かれていると感じた丁奉は、それでも手も足も出ない不甲斐無い現状に歯噛みした。
「……ンな事より、今は目の前の敵に集中しやがれ! よそ見してるとヤラれっぞ!」
「むぅぅ、分からないけど、分かったのだ。今度美味しい老麺を奢ってくれたら許してやるのだ!」
「姐御みてェな事言ってんじゃねーよ!」
「奢ってくれないと、許してやらないのだ!」
執拗に絡んでくる張飛に丁奉は舌打ちする。
「チッ……わーったよ。そんかし今はオレに合わせろ! いくぞ、今度は同時だ! オレは右、テメェは左だ。分かったなッ!」
「おう、なのだ!」
武器を構え直し、丁奉と張飛は呂布へと疾走した。
現時点で呂布を相手にしている劉備軍はこの二人だけである。
味方が援軍に駆けつける様子は見られない。
趙雲は前線を維持するだけで精一杯であり、軍師達は策の軌道修正に追われていた。
鳳統の誤算は丁奉という人物の常軌を逸した異常性に気付けなかった事だろう。
しかし、それはある意味仕方の無い事なのだ。
強さに固執する丁奉は力以外のモノに対して関心が薄く、口も悪い。
李遊軍で唯一社交性に欠けた存在で、良好な人間関係を築く才能は皆無であった。
徐州に滞在している間、劉備陣営と関わっている姿を見た者はいない。
そんな状況で内在する異常性に気付く事など不可能であろう。
これを軍師の過失とするのは少々酷かもしれない。
一方の張飛はまだ子供であり、武人としての振る舞いに欠け、将軍としても未熟である。
関羽に並び称される豪傑ではあるが、思慮が浅く、短絡的かつ短気な性格のせいで暴走する事も多い。
関羽や趙雲の副将を務めたいと志願する者は多いが、張飛の場合辞退する者さえ居る。
子供特有の我侭に振り回される為、現在の副将も胃痛や抜け毛といった問題が表面化して来ていた。
そんな二人の相性が良いワケないと思うのは当然だろう。
だからこそ前線を強く希望した丁奉を趙雲の部隊に預けるという判断を下した。
しかし、その判断こそが誤りだったのである。
丁奉は趙雲の武芸こそ認めているが、斜に構えた皮肉屋な性格を毛嫌いしていた。
反対に、張飛の素直とは言えないが裏表のない物怖じしない性格と、いつでも全力で応じる姿勢を好ましく思っている。
反董卓連合が解散してからは、張飛の生活は一変した。
まず関羽が一線を退いた事で、叱ってくれる存在を失う。
関羽の抜けた穴を補う為に趙雲が軍全体を統括するようになって手合わせの回数も激減した。
内政に精を出す劉備達も張飛に構っている暇はない。
関羽を見舞っても床に臥せったまま相手をして貰えず、劉備達とも食事や朝議の場以外で顔を合わせる事は無かった。
勉強嫌いが災いして政や策略に疎い張飛に劉備達を手伝える事は何一つない。
部下達からは手に余る存在として敬遠され、張飛は孤立気味であった。
兵を訓練する以外の時間は、一人で物言わぬ丸太に打ち込みを続けた。
徐州に移ってからの張飛は寂しさを紛らわせる為、警邏中に知り合った町の子供達とよく遊ぶようになっていく。
そんな折に出会ってしまったのが丁奉なのだ。
強者を求める丁奉は一人黙々と丸太に向き合う張飛に狙いを付けた。
気配を消して誰にも気付かれないように尾行し、散歩していた森の一角でいきなり襲い掛かったのである。
出会いは最悪と言って良いだろう。
奇襲当初こそ丁奉が押していたが、結果は返り討ちであった。
しかし、重度の戦闘狂である丁奉に懲りるや諦めると言った選択肢はない。
己の渇きを満たす為、より高みを目指す為、その後も丁奉は人目を避けて張飛を求め続けた。
手合わせはいつも喧嘩腰であり、戦績もほぼ張飛の完勝である。
最初こそ挑んで来ては返り討ちに遭う丁奉を小バカにしていた張飛であったが、何度敗れても諦めずに立ち上がってくる姿を見て侮辱を止め、四六時中自分に構ってくる存在を嬉しく感じるようになっていった。
また、投擲と斬撃を組み合わせた新戦法の確立は、丁奉の数少ない白星の秘話となっている。
手合わせは二人だけの秘密であり、競い合って切磋琢磨を続ける事で徐々に心を通わせていく。
敵と書いて友と読むような関係になりつつあったが、皮肉にも今回のトラブルはそれが発端となってしまった。
最後に手合わせをした際、どちらが先に呂布を討つか競う事になったのだ。
張飛にしても最初から策を無視して呂布を討ってやろうという気があったワケではない。
むしろ鳳統の策を成功させてやろうと意気込んでさえいた。
しかし、暴走する丁奉を見た瞬間、丁奉に負けたくないという気持ちが理性を上回ったのだ。
類は友を呼ぶと言うが、良くも悪くも二人は似た所があった。
左右から連続して繰り出される矛も斧も呂布を捉える事は出来ない。
高速の突きと斬撃の軌道が全て見えているかのように、軽々と回避していく。
「にゃ!? 全然当たらないのだ!」
「クソッタレ……手加減されて、これかよ!?」
呂布は戟で受け止めもせず、最小限の足運びと体捌きだけで避けていた。
驚異的な反射神経と神速の重心移動は人類最高峰の反応速度を見せ付ける。
筋力と瞬発力に長けた肉体は持久力に難がある場合が多いが、呂布は別格なのだ。
有象無象の集団とは言え、黄巾党三万を一人で屠った筋持久力は規格外の一言に尽きる。
何気ない一振りの戟圧で二人は大きく吹き飛ばされた。
二人は足腰に力を込めて、ズサーッと地面を削って立ち止まる。
「…………勝てない」
「はぁ!?」
「…………お前達じゃ、恋に勝てない」
「ケッ! まだ分かんねーだろ!」
「そうなのだ! 鈴々はまだ負けてないのだ!」
呂布に悪気はなく、感じた事実を述べただけである。
丁奉と張飛は癇に障って噛み付く。
呂布はフルフルと首を横に振る。
「…………でも勝てない」
挑発や侮蔑といった感情は見られず、淡々と告げた。
「それでも勝つのだ! この蛇矛で絶対にお前を倒してやるのだッ!」
蛇矛を突き出し、張飛は高々と宣言した。
しかし、呂布は再度首を横に振る。
「…………無理」
「うにゃー! どうしてなのだッ!?」
「…………軽いから」
「にゃ!?」
張飛の頭上に疑問符が浮かんだ。
呂布は感情を見せない表情のまま語る。
「…………関羽は、重かった」
「確かに愛紗は鈴々より重いのだ。でも重いから強いとは限らないのだ!」
「…………重いは、強い」
「うにゃ~、鈴々は太っちょにも負けた事はないのだッ!」
「…………違う」
呂布はまた首を振った。
「むぅぅ、お前は何が言いたいのだ!?」
「…………軽いは、弱い」
「だから鈴々は「ちげーよ」――どういう事なのだ?」
一向に進展する気配のない会話に丁奉が割って入った。
「軽いってのは……オレらの攻撃って言いてェんだろうよ」
丁奉は鋭い眼光で呂布を睨む。
しかし、呂布は動じない。
「むっ、鈴々の攻撃は軽くないのだッ!」
心外だとばかりに張飛は叫んだ。
そのまま力任せに蛇矛を地面に叩きつける。
ドォォォォンという轟音と共に土煙が立ち、円状の大きな陥没が出来ていた。
「見るのだ! 鈴々の一撃は大地も砕くのだッ!!」
自分の作ったクレーターを指差し、張飛は自慢げに主張した。
呂布は一瞬だけクレーターに視線を移し、また張飛に戻す。
「…………でも、軽い」
「むにゃー、話にならないのだ! 鈴々の一撃を直接食らって言ってみるのだッ!!」
張飛は呂布に向かって走り出した。
丁奉は呆れて溜息を吐く。
「ハァ、単純バカが……まぁ、気持ちは分かるがな」
丁奉も円月輪と投斧を握り直し、張飛の後を追った。
張飛の背後から呂布の死角となる角度で投擲する。
円月輪は張飛を追い抜き、呂布へと迫るが、半身を捻るだけで回避してしまう。
「もらったのだ! うにゃにゃーッ!」
回避直後を狙った張飛の一撃が振り下ろされる。
丁奉の一投は援護攻撃として役目を果たした。
呂布は半身の構えから左腕一本で戟を振り上げた。
大地を破壊した矛の一撃と戟が激突する。
「圧し折ってやるのだ! 愛紗に出来て鈴々に出来ないワケないのだッ!!」
「…………」
火花が飛び散る程激しく衝突し、ギチギチと膠着した。
しかし、膠着は一瞬。
圧倒的膂力によって振り抜かれた戟に張飛は宙を舞う。
「張飛ッ!?」
「…………軽い」
張飛は地面を抉るようにして転がった。
「う……うぅ……」
体中が擦り切れて血が滲んでいる。
それでも手には矛が握られたままである。
丁奉は張飛を庇うように前に出て、斧を構えて呂布を牽制した。
「おい、大丈夫かよ!?」
「うぅ……だ、大丈……夫……なの……だ」
返事はあったが、その声は弱弱しい。
かなりのダメージを食らったのだろう。
矛を支えにしてヨロヨロと立ち上がった。
目はまだ死んでいないが、足はプルプルと震えている。
手を抜いていたこれまでと違い、明らかに強打と分かる一撃であった。
しかし、丁奉には腑に落ちない事がある。
「どういう事だ、テメェ!?」
「…………」
「なんで追撃して来ねーんだよッ!?」
「…………」
「ケッ、だんまりかよ……クソッタレ!」
呂布は丁奉を無視して張飛を見ていた。
丁奉もそれに気付く。
「――――て、鈴々に――――のだ」
張飛は呂布を見ずに、俯いたままブツブツと独り言を呟いている。
「…………お前は軽い」
呂布は再認識させるように告げた。
「――さい」
「…………だから、弱い」
「うるさい、うるさいのだッ!」
激昂した張飛はダメージを負う体に活を入れる。
「お、おい……!」
「弱くない! 鈴々は弱くないのだッ!! 愛紗にだって負けないのだッ!!!」
怒りのままに駆け寄り、再度呂布と相対した。
黄巾党を、董卓軍を、何百何千と倒してきた自慢の矛術を繰り出す張飛。
意地になって攻撃を繰り返すが、簡単に戟で受け止められる。
これまで回避してきた攻撃を全て受けているのだ。
どれだけ力を込めようとも、どれだけ勢いをつけようとも、呂布は片手で弾き返した。
思わず傍観してしまった丁奉が呟く。
「……張飛」
何撃、何十撃繰り出したであろうか。
呂布はその全てを受け切った。
「…………お前には、折れない」
「……鈴々には……折れない? ……愛紗には、折れた……のに……?」
「…………関羽は、強い」
「……鈴々は……?」
「…………お前は、弱いッ!」
言い終わった瞬間、張飛の体を激しい衝撃が襲う。
バラバラにされたかと思うほどの一撃を食らい、回転して地面に叩き付けられた。
「張飛ッ!? チッ……ざけんなよ!」
これ以上ないチャンスにも関わらず、呂布は動かない。
戦いが始まってからずっとこの調子なのだ。
丁奉のイライラは蓄積していく。
「おい、張飛! 寝てる暇なんてねーぞ! サッサと起きやがれッ!」
声をかけるも反応は無い。
「……おいおい、マジかよ!?」
張飛を心配しつつも、丁奉は呂布から視線を外さない。
呂布も張飛に興味を失くしたように丁奉へと目を向けた。
「…………お前も、恋には勝てない」
「ケッ、それがどうしたってんだよ! テメェこそ、なんで殺す気でこねーッ!?」
「…………」
呂布は無言。
丁奉の苛立ちは最高潮に達していた。
洛陽で対峙した時は別人のように今日の呂布からは殺気を感じられない。
丁奉の受けた傷も恐ろしく浅かった。
迎撃はするくせに、追撃はして来ない。
狂人・丁奉の飢餓的な闘争本能は敵の殺気で高揚し、流血を見て興奮し、命の危機でこそ満足するのだ。
呂布は静かにこちらを窺っている。
丁奉は痛みからではなく、悔しさで顔を歪めた。
「チッ……お得意のだんまりかよ? 舐めてんじゃねーぞ! 本気で来いやッ!!」
「…………」
魂の叫びがこだまするが、呂布は黙したままである。
睨み合いが続く。
沈黙を破ったのは意外な人物であった。
「舐めているのはお前の方なのですよ! お前如き、恋殿が本気を出すまでもないのですッ!!」
呂布の後方で両手を挙げプンスカ怒る碧髪の少女――陳宮である。
呂布の専属軍師を自称する陳宮は、洛陽から逃げ延びて以来ずっと呂布と共に行動してきた。
小さな胸を張って偉そうに騒ぐ陳宮の態度に、丁奉は更なる苛立ちを覚える。
本人に言われるならまだしも、他人に言われると無性に腹が立つのだ。
鬱憤は溜まる一方であった。
「ッるせーんだよ、糞チビッ! しゃしゃり出て来んじゃねーよッ!!」
「むむむ、チビですと!? ねねをバカにするとは許せないのですッ! 成敗してやるのですよッ! 頼みましたぞ、恋殿ッ!!」
「…………」
「ハンッ……テメェで来いよッ!」
他力本願を威勢良く言い放った陳宮。
しかし、待てども待てども呂布からの反応はない。
「れ、恋殿……!?」
「…………お腹減った」
「ハァ?」
グーッと鳴るお腹を押さえる呂布。
それを見聞きした陳宮は慌て出す。
「た、大変ですぞ! で、ですが……ねねの分は、全部食べてしまったのです。ううぅ……お役に立てず、申し訳ないのです」
懐をゴソゴソと探る陳宮であったが、何も無いと分かるやガックリと肩を落としてしまった。
「…………別にいい」
「……空腹? ンな事で……ハハ……ハハハ、ンな事で……かよ!?」
丁奉は乾いた笑い声を上げ、お腹を押さえる呂布を見る。
洛陽で感じた覇気を感じなかった理由が、空腹からの不調だとは思いもしなかった。
丁奉の中で何かがブチッと切れる音がした。
「ケケケッ……気に入らねェ、気に入らねェよ」
丁奉の目がジワジワと充血し始める。
「足りねェ……こんなもんじゃ、全然足りねーよ……ッ!」
「さっきから何をブツブツと言っているの――なっ!?」
怪訝な表情で丁奉を見ていた陳宮の目が見開かれた。
目を疑うような光景が飛び込んで来たからだ。
丁奉は円月輪と投斧の刃を自分の脇腹に当てたかと思うと、そのまま思い切り引き抜いたのである。
鮮血が飛び、下半身を真っ赤に染めていく。
「ヒャハハハハッ! 腐った血は体外に出やがれッ!!」
真っ赤な目で全身を紅く染めた丁奉は狂喜を浮かべた。
陳宮は冷や汗を流す。
「な、何をしているのですか!?」
「ケケケ、何をだと? 決まってんだろ! 溜まって腐っちまった血を抜いてんだよッ!」
「なっ!?」
狂喜に歪む丁奉を見て、陳宮はゾッとした。
愛用する武器から滴る自分の血を美味そうに舐めていたからだ。
「ヒャッハー、こっからだぜ! 本当の死合いはよッ! はたして、死ぬのはオレか……それとも、テメェか」
「お、お前に決まってるのですよ! 放って置いても……その出血なら、いずれお前は死ぬのです!」
「ケケッ……だろうな。オレにはあまり時間はねェ……だがな、それくれェが丁度イイんだよ! 短期血戦……糞面白ェじゃねーか、ヒャハハハハッ!!」
「あ、頭は大丈夫なのですか……?」
正気の沙汰とは思えずに後ずさる。
すると、丁奉を見ていた呂布の視線が一瞬ズレた。
それに気付いた丁奉が視線を向けると、張飛が立ち上がっていた。
ボロボロにされ、矛に寄り掛かって辛うじて立てている。
「おい、張「愛紗は――」……アン?」
「愛紗は折ったのに……鈴々には、折れない……? 鈴々は……弱い……? 軽くて……弱い、のか?」
「張飛……?」
張飛はかすれるような声で呟く。
呪文のような呟きは、それでも皆の耳に届いた。
「…………弱い」
「鈴々が……弱……い……」
「…………お前は、弱い」
「弱い……鈴々は……弱い……弱い……軽くて、弱い……のだ」
力の入らなくなった体は自重を支えきれず、張飛は膝を折って座り込んでしまう。
大きなショックを受け、ブツブツとうわ言を繰り返していた。
張飛は自分が弱いなどと思った事はない。
呂布や関羽が強いのは知っているが、それでも自分は負けていないと信じていた。
関羽と同じように呂布の方天画戟を圧し折ろうとした張飛は、逆に己の心を圧し折られたのである。
初めて経験する敗北の味であった。
「ケケケッ……救えねェな」
呂布に噛み付こうとしていた丁奉は踵を返す。
トコトコと歩いて行く先には、座り込んで俯く張飛がいた。
目の前まで接近した丁奉は、張飛を見下ろす。
「おい、糞雑魚! 糞目障りだからよ……オレの視界に入んじゃねーよッ!!」
言い終わるや否や、丁奉は張飛を蹴り飛ばした。
張飛は蛇矛を手放し、地面を転がるようにして吹き飛ばされる。
丁奉が本気で蹴ったのは誰の目からも明らかであった。
張飛は倒れたままピクリとも動かない。
「ケッ……バカのくせに、難しく考えてんじゃねーッ!」
「み、味方を……ッ!? か、完全に……イカレてるのですよ」
「さぁ、二回戦と逝こうじゃねーか! テメェに殺されるのが先か……オレの自滅が先か、ヒヒヒヒヒ……たまんねェな、おいッ!!」
ボタボタッと血を流しながら、一歩また一歩と丁奉は呂布に近寄っていく。
呂布も戟を握り直し、迎撃の構えを見せた。
「…………お前も、恋には勝てない」
「ケケケ……だろうな、で? それが何だよ?」
「…………お前、変。それに…………お前は怖い」
「ヒャハハハハッ! そいつは光栄だなッ! オレの息の根が止まるまで……せいぜい、味わってくれやッ!!」
獰猛な笑みを浮かべ、丁奉は呂布に噛み付く。
圧倒的強者の呂布を、弱者である丁奉が捕食しようとするシュールな光景であった。
襲い掛かっては弾き返され、噛み付いては叩き付けられる。
スイッチがオンしたからと言って、戦闘力の差が劇的に縮まったワケではないのだ。
纏っている氣は確かに増大していたが、スペックに差が有り過ぎた。
呂布は空腹で本来の力を半分も出せていない。
それでも状況は一方的である。
現実は非情だが、丁奉はそれで良いと思っていた。
丁奉は自分がまだまだ弱いと知っている。
弱ければ死ぬだけ、もし生き延びれば自分は強くなったと実感出来ると確信しているのだ。
知っているからこそ心が折れる事はない。
何度倒れても立ち上がり、無謀と承知で食い掛かって行く。
倒される度に出血はひどくなるが、丁奉は嬉々として笑う。
目も体も赤く染めて、丁奉は何度も向かって行った。
丁奉に蹴り飛ばされた張飛は、未だ地面に転がったまま動けない。
その虚ろな瞳には、決して諦めない丁奉の姿がボンヤリと映っていた。
そんな中、遠くの方から歓声が上がる。
その歓声は徐々に近付いて来た。
一際大きく、華麗な声が戦場に響く。
「皆の者、刮目せよ! 我こそは関雲長ッ!! 劉玄徳が義の刃なりッ!!!」
「クックック……聞き飽きましたよ、それ」
爆走する木蓮・四式は戦場を蹂躙し、最短距離で呂布へと到ったのだった。
最後まで読んで下さり、ありがとうございます。
もう少し短くまとめたかったのですが、ワチャーと増えちゃいました。