106話
李鳳が李典の説得を試みていた頃、戦場の情勢は大きく傾きつつあった。
袁術軍の敷いた鶴翼の陣が、その圧倒的兵力差を生かして機能し始めたのだ。
袁術軍の錬度はお世辞にも高いとは言えない。
曹操軍や孫策軍とは比べるまでもなく、古参の劉備兵であれば遅れを取る事はないだろう。
しかし、今現在劉備軍は袁術軍に完全ではないが包囲されている。
彼等とて軍隊、黄巾党のような有象無象の集団ではないのだ。
多少の乱れはあるものの統制はしっかり取られており、無理なく確実に劉備軍を取り囲んでいた。
袁術は自軍の優位を確信している。
その上で、彼女は張勲にしたり顔を向けた。
「七乃~、妾の――皇帝の軍はどのような状況かの?」
「これでもかって位に順調ですよ~、お嬢様。すでに劉備さんの軍は大半を囲んじゃってますから、降伏するのは時間の問題じゃないでしょうか」
「ほっほっほ、流石は妾の軍じゃ!」
袁術はご機嫌だ。
はちみつ水を片手にふんぞり返って戦況を眺めていた。
張勲も主君の袁術が嬉しそうにしているのを見てご満悦である。
「勝手に暴走されちゃうかと心配してた呂布さんも、大人しく命令に従って私達を守ってますよ。勅を発令して正解でしたね~……いよ、この棚ぼた皇帝! 労せず手にした最高権力を乱用しまくりなんて、とても立派な暴君っぷりですよ~!」
「にょほほほほほ、妾の強さを存分に魅せ付けてやるのじゃ!」
「は~い。降伏しない場合は……思いっ切り蹂躙しちゃいましょうか! 小生意気な田舎者さん達を皆殺しにして、お嬢様の悪名を全土に轟かせてやりましょう!!」
「ふぅむ、降伏せぬなら仕置きは必要かの……七乃、そちに任せるのじゃ。よきに計らってたもう」
「うふふふ、流石鬼畜なお嬢様ですぅ。この私にお任せ下さ~い!」
張勲の微笑みに釣られて袁術も笑い出した。
二人はまるで勝ちが確定しているかのようにお気楽な気持ちでいる。
袁術は格上の王者としての威厳を見せ付けるべく、小細工なしの正攻法(力押し)で田舎太守を圧倒するつもりなのだ。
奇しくもこの考え方は袁紹が公孫賛を攻めた時と同じであり、従姉妹同士は思考回路も似通うのかもしれない。
思惑通りに事が運んでおり、袁術の顔は緩みっ放しであった。
☆☆☆☆☆
一方、極めて不利な戦況を眺めていた劉備の表情は硬い。
不安を顔中べったりと貼り付けながらも、劉備はある一つの可能性を信じてひたすら待ち続けていた。
劉備は隠そうとしていたが、まるで想い人からの恋文を待ち焦がれているかのような態度は、誰の目からも明らかであった。
痺れを切らした劉備は、脇に控える諸葛亮に視線を移す。
「ねぇ、朱里ちゃん! 孫策さんから連絡はあった!? あったかな!?」
合戦が始まってから何度も何度も繰り返された質問だった。
諸葛亮も半ばルーチンと化した回答を口にする。
「いえ、まだ何も……また、斥候からの報せも未だ……」
「……そっか」
劉備の表情は再び曇った。
彼女は密約で交わした同盟を孫策が裏切るなどとは微塵も思っていない。
連絡が来ないのも、何か予期せぬトラブルが発生したせいだと孫策の身を案じていた程だ。
人体を構成する元素の九割以上が『お人好し』で出来ている彼女ならではの思考である。
劉備の居る場所は本隊ではなく、輸送部隊の前方に設置された本陣だった。
李鳳達が居るのは輸送部隊の中でも最後尾である。
劉備は当初本隊に加わりたいと不満を漏らしていたが、本陣待機を余儀なくされた。
賊の討伐とは規模が違い、義勇軍や反董卓連合の時とは立場が違うのだ。
そもそも総大将がいきなり最前列に出て戦うなど有り得ない。
何かしらの奇策であれば話は別だが、今回は違っていた。
芳しくない戦況に劉備は不安を隠せない。
諸葛亮は劉備の心情を察し、心苦しく思っているが、軍師として努めて冷静に告げる。
「桃香様、これ以上待つのは得策ではありません」
「…………うん」
「孫策さんを信じたいというお気持ちは分かりますが……星さんと鈴々ちゃんが前線を維持してくれている間に仕掛けなくては、被害は大きくなるばかりです」
「…………うん」
生返事のように聞こえるが、劉備にも状況は痛い程分かっていた。
彼女は無類のお人好しで尚且つ天然ではあるが、決してバカではない。
穴が開きそうな程戦場を凝視していた劉備にも、苦戦の理由が単なる兵数の差だけではないと判っている。
苦戦している要因は劉備軍にもあったのだ。
劉備が徐州に赴任して二ヶ月、その間ずっと内政に注力してきた。
困窮している領民の生活を少しでも早く、少しでも豊かにしたいと思った劉備が、農地開拓や治水工事などの予算確保を優先させたのは当然であろう。
領内における生活水準の建て直しを重視した結果、軍部へと回される予算は雀の涙であった。
金が無ければ軍馬一頭満足に買う事も出来ない。
しかも、大規模な軍事演習というのは非常に金を食うにも関わらず、生産性は皆無なのだ。
まずは国を富ませるという劉備のとった政策は間違ってはいない。
よって、今回のような大部隊での軍事行動は反董卓連合以来となる。
徐州を統治し始めてからは、たまに散発する賊の鎮圧や、城下町の警邏など小隊もしくは中隊規模での活動が主立っていた。
絶大なカリスマ性を持つ劉備の下には、連日大勢の民が集まってくる。
領地の拡大に伴って拡張された軍部には、劉備の大徳に魅了された多くの若者が奮起し、入隊を志願した。
兵士の数は増え、軍隊としては大きくなったと言えよう。
しかし、大部隊を統率する事の出来る武将の数が足りていないのだ。
これには軍部の支柱であった軍神・関羽の離脱が大きく影響していた。
義勇軍であった頃ならばまだしも、今は正規軍なのである。
新兵の鍛錬、戦術の修練、連隊の訓練、軍備の調達、何をやるにも金と将が不足していた。
こんな状況で軍の錬度が向上するハズもなく、むしろ著しく低下したと言っても過言ではない。
内情をよく理解している劉備は悲痛な表情で戦況を見詰めた。
軍師として状況を好転させる為に一石を投じたい諸葛亮は、意を決して再度劉備に進言する。
「桃香様、あまり待たせては……“あの二人”が黙っていないかと。雛里ちゃんに抑えに行って貰ってますが、大人しく言う事を聞いてくれるかどうか……」
「…………」
「“あの二人”に暴走されると、策自体が破綻し兼ねません。何卒、早めのご決断を!」
「……そう、だね。……うん、分かってるよ。皆の頑張りは無駄に出来ないもんね…………でも、もう少し、もう少しだけ待ってくれないかな? お願い……ッ!」
そう言って劉備は頭を下げた。
諸葛亮に余裕はない。
斥候からの報告で同盟が成立していない事はほぼ確信していた。
不利な戦況は諸葛亮にとって想定内である。
しかし、現実は非情にも最悪の条件が重なっていた。
そもそも宣戦布告もせずにいきなり侵略してくるなど本来ならば考えられない。
李遊軍からの情報が無ければ、敵が進軍を始めるまで気付かなかった可能性すらあったのだ。
ましてや呂布まで協力体制にあるとは、青天の霹靂でしかない。
合戦準備中の軍議において、鳳統と共に起こり得る可能性について散々話し合った。
時には文武両道に長けた趙雲を交えて策を練ったのである。
諸葛亮としては、公孫軍の知恵袋であった李鳳の意見を是非聞いてみたかったのだが、なぜか自分は関わらない方が良いの一点張りで最後まで軍議に参加する事はなかった。
彼我戦力差、陣形、地形、天候、同盟の成否に至るまでを考慮し、何とか絞り出した勝てる可能性のある策であったが、その勝算は決して高くない。
ある意味、分の悪い賭けであった。
諸葛亮達が一番頭を悩ませたのが呂布の対処である。
最前線で突っ込んで来るか、遊軍として自由に動き回る分には牽制のしようもあったのだが、守護神のように袁術の前にドシッと立ちはだかれては、まともに相手をするより他にない。
呂布は存在そのものも危険であるが、最も厄介なのは兵士達に刻まれた記憶なのだ。
虎牢関にて関羽・張飛・趙雲という劉備軍が誇る三人の猛将を同時に相手し、その圧倒的な暴力で退けた鬼神に対して、古参の劉備兵は戦慄を覚え畏怖の念を抱いている。
さらに戦列に復帰したとは言え、関羽が前線にいないという事実も、兵士達の不安増大に拍車をかけていた。
現状の手駒だけで呂布を無力化させる事は、伏竜鳳雛をして解けない難問であり、それだけ呂布とは規格外な存在なのだ。
恐怖の権化でしかない存在が敵陣中央に居る、それだけで劉備軍の士気は低下した。
中央を崩されて崩壊する事の多い鶴翼の陣だが、呂布がしっかりと堅守している為に劉備軍は攻めあぐね、逆に袁術軍に包囲され始めているのだ。
諸葛亮に余裕はない。
次善策である二の矢の準備はしているが、放つ時機を逸してしまうと勝機そのものを逃してしまう。
葛藤の末、諸葛亮は険しい表情のまま頷いた。
「……はい。もう少しだけ待ちます……ですが、限界と判断したら参謀として作戦を実行します」
「うん。ありがとう……ごめんね、朱里ちゃん」
諸葛亮は断固たる決意を示した。
李鳳であれば脅迫まがいの卑劣な説得で丸め込んだであろうが、諸葛亮にはこれが精一杯なのだ。
祈るように戦場を見詰める劉備の横で、諸葛亮も頼れる仲間達に思いを馳せる。
どうかもうしばらく持ち堪えて欲しいと願うのであった。
しかし、現実は無情である。
諸葛亮の切な願いは儚くも散り、関羽に続く二人目の犠牲者が呂布の手によって生み出された。
最後まで読んで下さり、ありがとうございます。
早いもので、この小説を書き始めてから1年が経過しました。
完結まではまだしばらくかかると思いますが、良ければお付き合い下さい。