102話
関羽が再起を決意する遥か以前、袁術が進軍する前まで時を遡る。
反董卓連合で洛陽一番乗りという手柄を上げた孫策陣営であったが、朝廷からの褒賞は全て袁術に回されてしまい、自分達は何も受け取る事が出来ないでいた。
その不服を訴えるべく、孫策は袁術に謁見を求めたのである。
「どう言う事かの?」
袁術は孫策の訴えが理解しきれずに首を傾けた。
張勲が分かり易く言葉を噛み砕いて伝える。
「頑張った自分達にも何か褒美が欲しいと仰ってるみたいですよ、お嬢様」
「なぬ、妾の家来のくせに生意気じゃの!」
「…………」
孫策は殺気を宿した目で袁術を睨んだ。
「な、な、なんじゃ……そ、そんな目で見ても……こ、怖くないのじゃ!」
震えた声で虚勢を張る袁術だったが、完全に涙目になっていた。
孫策はすっかり怒気を抜かれてしまう。
「ハァ……預けていた我が精兵1万、返して貰えるって約束だったわよね?」
「はて、そんな約束したかや?」
「アンタねェ……!」
「な、七乃~!」
本気で忘れている袁術は張勲に縋った。
「確かに遠征前にそんな約束をしていましたが……全軍返すとは言ってませんでしたよね」
「……反故にする気じゃないでしょうね?」
「無礼な! 妾がそんな事するハズないであろう! じゃが……覚えておらんモノはのぅ……」
有耶無耶にする気が見え見えであった為、孫策は仕方なく切り札を切る。
「ここにイイ物があるだけど……袁術ちゃん、欲しくない?」
「イイ物? なんじゃ、それは!?」
孫策は掌サイズの小さな袋を取り出した。
袁術は興味津々である。
「ふふーん、それは見てのお楽しみよ。コレをあげるから……私の兵、返して頂戴」
「……七乃」
「はいはーい。私が受け取りますね……って、こ……これは!?」
「どうしたのじゃ!? 七乃! 妾にも早う見せてたも!」
袋を開けて覗き込んだ張勲は思わず絶句した。
袁術は中身が気になって仕方ない。
「早う! 早う!」
急かす袁術の声に張勲は漸く再起動を果たす。
「は、はい。ご覧下さい、お嬢様」
「……こ、これはッ! ……何なのじゃ?」
「伝国璽ですよ、お嬢様。歴代の皇帝に代々受け継がれてきた玉璽じゃないですか」
「な……なんと! それが妾の手にあると言う事は……妾が皇帝と言う事かの?」
「そうですよ! やりましたね、お嬢様!」
「やったのじゃ! 妾もとうとう皇帝なのじゃ!」
狂喜乱舞する袁術と張勲を冷め切った目で孫策を見ていた。
「……で、私の兵は返して貰えるわよね」
痺れを切らせて孫策が問う。
「わははーい、皇帝じゃ! 皇帝じゃ! 妾は皇帝じゃッ「ちょっと!」むっ……そうじゃのぅ、七乃」
「はーい、何でしょうか?」
袁術は張勲の耳元でヒソヒソと話し始めた。
それを見た孫策は嫌な予感がし始める。
「うむ、決めたぞよ。孫策の兵は返してやるぞ」
「そう、ありが「ただし、千五百騎だけじゃ」……なんですってッ!?」
「元々全軍って約束じゃなかったんですから、文句はないですよねェ?」
「くッ……分かったわ。その代わり、その千五百……私に選ばせて貰うわよ」
「ふむ……まぁ、そのくらいは良いかの。好きにするが良いぞ」
「じゃあ選抜が終わったら文書で提出するわ」
孫策が答えるが、袁術はすでに聞いてなかった。
「七乃~、早速勅を発令するかのぅ。全国からハチミツ水を妾に貢がせるのじゃ!」
「ふふふ……いきなり職権乱用ですねェ。よっ、流石は愚帝の鑑!」
「にょほほほほ。もっと……もっと褒めてたも!」
孫策は「まだだ……もう少し、あと少しの我慢よ」と自分に言い聞かせる。
必死に溢れ出そうとする殺気を押さえ込むのであった。
そこに、また袁術が良からぬ珍案を思い付く。
「そうじゃ! せっかく皇帝になったのじゃから領地を拡張せねばの!」
「領地ですか?」
「うむ。どこか良い土地はあるかや?」
「そうですねェ……太守に任命されたばかりで浮き足立っているハズの劉備さんが治める徐州なんてどうでしょう?」
「ふむ……名案じゃ! 妾の軍の強さを見せ付けてやるのじゃ!」
意気揚々と騒ぎ立てる袁術に、張勲は更なる助言をする。
「でしたら……現在、曲陽に潜伏中という呂布さんに共闘を申し入れるのは如何でしょうか?」
「りょ、呂布かえッ!?」
袁術の脳裏には以前洛陽攻防において味わった呂布隊の恐怖が甦っていた。
「はい~。お嬢様はもう皇帝なんですから、呂布さんだってアゴで使っちゃいましょう!」
「あ……アゴで……そうじゃ! 妾は皇帝なのじゃ! 呂布とて妾の命令には従うハズじゃの!」
「そうですよ~! バシバシ扱き使っちゃいましょう!」
盛り上がる2人に対して、孫策は冷たい視線を送る。
「大義名分もあったもんじゃないわね……」
孫策は深い溜め息を吐く。
「そうと決まれば……孫策! 準備を進めるのじゃ!」
「はいはい」
孫策は呆れた様に手をヒラヒラと振った。
「むきぃ、何じゃその態度は!? 妾は皇帝であるぞ! 敬意を払うのじゃ!!」
「はいはい、分かったわよ。もう帰ってもいいかしら?」
「準備を忘れるでないぞ!」
「はいはい」
孫策は振り返る事なく、手を挙げて去って行く。
残された袁術と張勲はと言うと――。
「七乃~、妾はすぐに玉璽を押してみたいのじゃ! ハッチミツ、ハッチミツ!」
「ふふふ……は~い、今用意させますね~。ポンポン押しちゃいましょう」
袁術は今日も元気であった。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
いつものように帰宅した孫策を周瑜が出迎える。
「おかえりなさい。交渉は上手くいったの?」
「ただいま~。あンの小猿……今に見てなさい!」
「フフフ……お疲れ様。流石の貴女でも袁術は手に負えないみたいね」
「馬鹿に正論は通じないのよね……まぁ、曲論も通じないから真性の馬鹿なんだけど」
天衣無縫で奔放な孫策をここまで疲れさせる事ができる袁術は、ある意味で非常に貴重な逸材と言えるかもしれない。
「それで、どうだったの?」
「うーん……まずまずにして、まだまだってところよ」
孫策は袁術とのやり取りを周瑜に説明した。
「そう、反故にされるよりは余程マシだけど……千五百とはね」
「まっ、精鋭の中でも選りすぐりをかき集めるわよ。太史慈と凌統には外せないわ」
「なるほど……千五百でも有能な人材は充分集められるわね、じゃあ魯粛も候補に入れておいて頂戴。政においては隠を凌ぐ逸材よ」
「分かったわ。あとで祭にも声をかけて候補の選抜を手伝って貰わないと……」
選抜に関してあれやこれや話していた孫策が、思い出したように呟く。
「あっ、忘れてた……近い内に、徐州へ攻め入る事になるわよ」
「はっ? ……何がどうして一体どうなったら、そうなるのかしら?」
「ちょっとした小猿の思いつきよ。皇帝になったから領地を拡大しないとダメらしいわ」
「……ハァ、目を付けられた劉備は災難ね」
「小猿の暴走に付き合わされる私達だって同じよ……でもね、この戦……上手く利用できるかもしれないと思わない?」
「フフフ……なるほどね。徐州に攻め込んだ間に反旗を翻し、独立の実現を完遂させるワケね」
2人は妖しい笑みを浮かべていた。
「面白そうでしょ! まずは隠を呼んで次善策を練らないと」
「では残り千四百騎の選抜は蓮華様と祭殿に一任するとしよう。あの2人ならば問題あるまい」
「あとは明命を徐州に潜ませて内情を探らせないとね。可哀相だけど……この際、劉備達には袁術の目を惹かせるイイ餌になって貰うわ」
決意を秘めた孫策に迷いは無かった。
理不尽な侵略と分かっていても、孫呉独立の為には如何なるモノも糧にして突き進むと覚悟を決めているのである。
その信念は揺るぎないモノであり、妹の孫権にはまだ不十分な覚悟であった。
孫権は根っから優しい娘である為、如何なるモノも犠牲にするという行動には未だ大きい抵抗を感じていた。
それから数日が経過し、食糧供給を条件にして呂布と協定を結んだと張勲から連絡があった。
更にその数日後、内偵を進めていた周泰からもっと驚くべき報せが入る。
あろう事か劉備陣営に捕獲されてしまった周泰は、袁術挟撃の案を持ち帰って来たのである。
孫策らが徐州で何があったのかを問い質すと、周泰は「賢い小猫様が……ほわ~、可愛かったです~」とトリップ気味に答えたという。
呆然としてしまった孫策らは、周泰が帰還するのを待ち、改めて事情を伺った。
劉備陣営からの提案は悪いモノではなく、むしろ袁術から独立したい孫策達にとっては渡りに船のようなモノであった。
周瑜に陸遜それに新たに魯粛と呂蒙を加えた孫家が誇る軍師達は、軍議を重ね、策を練り、最善と思われる作戦を搾り出したのである。
周泰はその案を持って再び徐州へと歩を進める。
「聡明なる小猫様~、不肖この周泰……今参ります~」
いつもの3倍の速度で駆ける周泰であった。