101話
関羽が静養する街離れの小屋には4人の人影があった。
一人は家の主である関羽その人で、もう一人はお世話をする侍女である。
そして残りの2人は関羽を訪ねてきた劉備と李鳳であった。
関羽の現場復帰を望み、身体の自由が回復する事を期待して、李鳳を連れて来た劉備であったが、李鳳の診察によって夢砕かれたのである。
しかし、劉備は諦め切れなかった。
関羽の愛馬である黒蓮の話を持ち出して、彼女の奥底に眠る情熱の塊に再び火をくべたかったのだ。
だが、関羽のそれはすっかり冷え切っていた。
呂布との熱い激戦を体験した彼女は満足し切っていたのである。
そして、その様子を見てしまった李鳳の悪い蟲(むし)は、ゾワゾワと蠢(うごめ)き始めたのだった。
「今の貴女はブタにも劣る畜生ですよ。クヒャッヒャッヒャッヒャ……!」
「いくら命の恩人と言えど、今の言葉は聞き捨てなりませんぞ!」
「ククク……捨てて貰っては困りますので、結構ですよ」
睨む関羽に、笑う李鳳。
戸惑う劉備に、泣く寸前の侍女。
「負け犬もここまで来れば……惨めなモノですねェ、滑稽だ。肩の傷より心の傷の方が深刻のようですし……」
「私を侮辱されるおつもりか!?」
「いえいえ、私は事実をありのまま述べているだけです。無様な暴走をした末の哀れな軍神殿のお姿に対して、クックック……!」
「ぶ、無様!? あの決闘を穢(けが)されるのであらば、李鳳殿とて許さんぞ!」
呂布との一騎打ちを誇りにしている関羽にとって、李鳳の発言は正に許し難いものであった。
激しく怒りの感情を表した関羽に、劉備と侍女は驚きで声も出せなかった。
「華雄を彷彿とさせる暴走っぷりは、ある意味、見事と言った方が良いですかネェ」
「か、華雄だと!?」
「あれ? 違いましたっけ? ククククク……」
「一緒にするでない! 私と呂布の一騎打ちは、華雄のそれとは違う!」
もし下半身の自由が利いていれば、関羽は飛び起きて李鳳の胸倉を掴みに掛かったかもしれない。
もしこの部屋に青龍偃月刀が置いてあれば、李鳳の首元に当てていたかもしれない。
しかし、そのどちらも出来ないのが今の関羽の現実であった。
まるで未練を断ち切るかのように、関羽自身が遠ざけているようでもあったのだ。
李鳳は笑う。
今の関羽を嘲り笑うのである。
「クックック……どこがどう違うのでしょうか? 無智な私に教えて頂きたいですねェ。わざわざ防御の利を捨てて攻めに転じてきた華雄と、わざわざ数の利を捨てて一騎打ちに転じた貴女との“違い”を……是非ッ!」
「…………」
「どうしましたァ? 貴女にお聞きしているのですよ……関羽殿」
「……華雄は怒りに任せた只の暴走だ、しかし……私は冷静に戦局を見て選んだ一騎打ちであった」
関羽は一呼吸置いてから語った。
関羽の言葉を聞いた李鳳の口元は更に歪む。
「クハハハハ……なかなか愉快な事を仰るじゃないですか!」
「何が可笑しいのだ!?」
「公孫賛殿の『生きろ』『多で当たれ』という命令を、冷静に無視して返り討ちにあったワケですネ! オモシロ過ぎじゃないですか、クヒヒヒヒ……!」
「ぐッ……」
「華雄も恐らく『守りを固めよ』『攻めを焦るな』と言う命令を無視したんでしょうが、挑発によって怒りで我を忘れていたのでは、ある意味、仕方ないと言う見方も出来ますネ。一方の“軍神”殿は冷静な判断の上での暴挙ですから、余計始末に悪い……救いがありませんものネ、クヒャヒャヒャヒャ!」
李鳳は実に楽しそうであった。
それに対して関羽は顔を赤く染めて怒っており、侍女は顔を青白く染めて黙る。
「もしかして……呂布とは痛み分けだとでも思っていたのですか? お可哀相に……頭も少しヤラレたようですね……クククッ!」
笑う李鳳であったが、別の所からも怒りを感じた。
発生源は劉備である。
「愛紗ちゃんはよく戦ってくれたよ! 呂布さんの武器とお馬さんだって破壊したんだもん!」
「そうですね……呂布殿は代替の利く馬と武器を失って、こちらは代替の利かない軍神殿本人を失いかけただけですもんネ! して欲しくもない無理をして、迷惑を被ったのは私や公孫軍でしたよね?」
「そ、それは……」
「別に劉備殿を責めるつもりはありませんよ。ただこの家畜……いえ、軍神殿をいつまで飼育されるのかなァと思いまして」
李鳳は悪びれた様子もなく、のうのうと語った。
その発言に劉備は怒鳴る。
「愛紗ちゃんは家畜じゃないよ!」
「クックック……果たしてそうでしょうかね。餌を与えているが何をしてくれるワケでもない……充分、犬畜生にも劣るじゃないですか。そもそも関羽殿は……目的と手段を取り違えてますよ」
「目的と……手段だと?」
関羽は目を細めて問い返した。
侍女は皆の視界から消えようと一歩下がっていた。
李鳳は当然気付いており「ククク」と笑うが、特に触れず話を続ける。
「あの時の目的は虎牢関の攻略であって呂布の討伐では無かったハズです。無理をせず遠巻きに囲んで、足止めさえ出来ていれば良かったのですよ」
「そんな事は言われなくても分かっていたさ……分かっていたが、当時はあれが最善と判断したのだ」
「ほぅ、最善ですか。死んでもイイと考えるのが最善とは……甚だ可笑しいですねェ、私には理解し兼ねますよ」
「……そなたには……分からんさ……だが、私は自分のやった事に充分満足して――」
関羽は俯く。
すると、李鳳が遮るように声を荒げたのである。
「――馬鹿ですか、貴女は!」
「なっ!?」
「えっ!?」
「…………」
一同は一様に驚いた表情を見せた。
侍女は半泣き状態で震えている。
「目的と手段を取り違えるなと言ったばかりでしょう。単なる手段に満足してどうするんです! 劉備殿の目的は『弱き民の平穏』ではなかったのですか!?」
「それは……そうだが……」
「貴女が本当に満足するのは、その目的を果たした時ではないのですか! 現在(いま)の自分に甘んじてどうするんです!? 恥を知れ!!」
「…………」
関羽の胸に李鳳の怒号は鳴り響く。
劉備もその言葉には共感を覚えていた。
「劉備軍というのは大徳・劉備という顔と、軍神・関羽という中核で成り立っているんですよ! なぜ朝議に顔を出さないのです!? なぜ新兵の鍛錬を買って出ないのです!? なぜ劉備殿の頼みを無視出来るのですか!? 新兵の多くは貴女に憧れて仕官してくるんですよ!!」
「…………し、しかし……」
「呂布との一騎打ちには矜持があっても、今の自分には誇りを持てないのですか!? 矛盾しているとお気付きですか?」
「……動けぬ私では……お役には……」
「なぜ決め付けるのです!? なぜ簡単に諦めてしまうのです!? 劉備殿の夢を他人に任せておいて良いのですか!? それでも……本当に満足なのですか!?」
「…………」
関羽は黙り込んだ。
劉備に説得されても揺れなかった心が、今、葛藤を始めているのである。
「……愛紗ちゃん?」
「…………」
劉備は俯いてしまった関羽を見詰める。
李鳳の言葉が関羽の心に刺激を与えているのは、傍から見ても判ったのだ。
「無駄ですよ、劉備殿。畜生殿はこの小屋で過去の栄光に浸っていたいのですよ」
「…………」
「ああ、そうそう。袁術の軍勢が近い内にココ徐州に攻め入って来ますよ……あの呂布と一緒に、ネ!」
「りょ、呂布……!?」
「おっと、別に貴女には関係ないコトですよねェ。だって、もう満足してらっしゃるんですから……クックック!」
「……私は……私は……」
関羽の表情と氣色が徐々に変わり始めた。
どこか達観していた冷めた目に情熱が戻って来たのである。
「愛紗ちゃん、私には今も昔も愛紗ちゃんが必要だよ」
「私が……必要……?」
「うん! すっごく必要だよ!」
「…………こんな……私でも?」
「そうだよ!」
関羽にはまだ迷いがあった。
力を失った今の関羽は矜持を持てないでいたのだ。
「簡単な話です。劉備殿が必要としているのは、貴女の武だけではないのですよ」
「……武ではない? しかし……」
「必要なのは関羽という“存在”自体です」
「……存在?」
「貴女という存在が周囲に勇気を与え、兵達に力を奮い起こさせるのですよ!」
「…………」
「そうだよ、愛紗ちゃん! 武将として戦うだけが役目じゃないよ」
「だが、しかし……」
劉備は関羽の右手を握り激励した。
しかしながら、関羽はまだ揺れていた。
正直な所、関羽にとっては戦う事が全てであったのだ。
自分が劉備の為に出来る事は兵を率いて戦う事であると信じていたのである。
すると、李鳳はニヤニヤしながら声を上げる。
「もしかして……その身体では戦えないとでもお思いですか?」
李鳳の問いに3人は「何を当たり前のコトを」と思ったが、それを言葉に出来なかった。
何か方法を提案してくれるのではと言う希望の光を見たからである。
不安げに関羽が訊ねる。
「た、戦えるのか!?」
「勿論」
「あれ!? さっき李鳳さんが無理だって言ってなかったっけ?」
劉備は先程の会話を思い出し尋ねた。
李鳳はニヤリとする。
「私は“自力”では無理だと言ったのです。自力で無理なら“他力”を借りて戦えばイイ……簡単な話でしょ、クヒヒ……!」
「他力って……どうやって?」
「一つは黒蓮ですね。軍馬に動かない下半身を固定し、移動は黒蓮に任せれば戦場を駆けるコトも可能でしょう。言葉による合図で縦横無尽に操れるように訓練すればイイだけですし」
「……そ、そんな方法が……?」
「他にはマンセーに車椅子を改造して貰うコトですね。そうすれば直接戦わずとも何千何万という軍団を指揮出来ますし、そう言った訓練を行えばイイだけですし」
「…………」
どうって事ないという感じで話す李鳳に唖然とする3人であった。
「本当に……可能なのか?」
「さぁ、貴女次第なのでは……? 何もせずに畜生としてココで一生を送りたいのであれば……止めませんよ、クックック……!」
真面目に問う関羽に対して、不敵に笑い皮肉る李鳳。
「もう一度……呂布と戦えるのか?」
関羽の声は震えていた。
しかし、それは恐れや悪寒ではなく歓喜という感情からであった。
「無論。貴女次第ですが……」
「…………」
関羽の表情と氣が明らかに変わった。
李鳳はここぞとばかり煽る。
「クックック……さぁ、いつまでそうして燻(くすぶ)っているつもりですか!」
「…………」
関羽の劉備に握られた右の拳を強く握り返し、小刻みに震えていた。
「いい加減立ち上がれ! 関雲長!!」
その瞬間、関羽の闘気が爆ぜた。
部屋の中に居たにも関わらず、他の3人は熱風を感じたのである。
「そなたに言われるでもない……我が名は関雲長、劉備玄徳が一の家臣であるぞ!」
そう言うと、関羽は少し離れた位置で立ち竦んでいる侍女に視線を移した。
侍女は「ひぃ」と声を漏らす。
「私の偃月刀と手押し車を持てぃ」
「は、はい!」
「愛紗ちゃん!」
そこには隠居染みた関羽という女性はもうおらず、軍神と化した女傑がいた。
そんな関羽を見て、李鳳は笑い呟く。
「クックック……やっぱり馬鹿だな、絶対返り討ちに遭うぞ……ああ、楽しみだなァ」
ほくそ笑む李鳳に関羽が嬉々として声をかける。
「馬に体を固定した戦闘訓練……是非、李鳳殿に付き合って貰いますぞ!」
「…………はい?」
「あはは、そうだね。李鳳さん、自分で言い出した事には“責任”が生じるんですよ~」
「…………えっ?」
最後まで読んで下さり、ありがとうございます。
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