番外編 その男
病床の妻に、いいのかと一度だけ問うた。何も置いてきた娘に伝えなくていいのか。もしかしてお前を探しているかもしれない娘に。会いたいのだろう。後悔しているのか。聞きたい言葉は沢山あったが、毎日こっそりと祈っているのを知っていたから、口にできなかった。
妻は首をふった。いいのよ。というように口元ですっと笑った。そして、その翌日眠るようにこの世を去った。俺を残して。
舞踊団をしていた父の跡をつぐことをずっと夢に見てきた。だから小さいころからがむしゃらに舞踊も楽器の稽古も取り組んだ。迷ったことなんて一度もなかった。けれど隣の幼なじみが踊りに憧れて、舞踊団についてくるなんて思いもしなかった。可愛い子だと思っていたし、大きな商家のお嬢様だったからまさかここまで頑固とは驚いた。
町から町へ国を超えて旅をして、俺たちは必死だった。彼女は踊りにのめり込んでいるようだった。年を重ねるごとに色香が増し、客をひきつけるようになった。男との駆け引きをしている時もあった。俺は憮然と見ていてでも注意出来なかった。
「どうして何も言わないの。」
ある夜、彼女が言った。
「言ってほしいのか。」
俺は答えて、彼女を掴まえようと振り返ったが、彼女はもういなかった。この時のことをそれからずっと後悔することになるが…。
中央の町で、祭りの催しに出てほしいと急に依頼され、皆は祭りに遊びに出ていたので、出られるのは彼女と俺しかいなかった。ビオラを引きながら、その時着ていた服のまま、彼女は舞台に飛び出した。この国の娘のような長いスカート姿は、いつもの体を美しくみせる丈の短い衣装とは違って可憐に見えた。中心の踊り場で舞う彼女。その視線がどこかでとまっているのを見たとき、少し離れた水飲み場で娘を見ている男の姿が見えた。仕立ての良い衣装を着て商人だろうか、娘を驚いたように見つめている。
嫌な予感がした。祭りの喧噪。騒ぐ群衆が広場であったくじを空に放り投げる。吹雪のようにそれが舞い踊る。目の前は一枚の絵のようだった。見つめあう二人。ざわめき。俺は傍観者にすぎなかった。
その夜、彼女は帰ってこなかった。そして翌日、城からの使者が来て、彼女は王に迎えられたと告げた。
それからの何年間かの記憶が俺にはない。ひたすら仕事に打ち込み、国から国を廻り、舞踊団は不動の地位をつけていた。団員も増え、そろそろひとところの町に落ち着きたいとふるさとの国、東に帰ることにした。とは言え、ヨランダと思い出のある街には帰りたくなかった。それでも近くにいたい気持ちがあったのだろうか、国境を接し、住民も多い街に舞踊団を構えることにした。
順風満帆だった。それでもヨランダを失った心は、どんな女を相手にしても埋まらなかった。夜は酒を浴びるように飲んで眠った。ある朝、部下が商売道具や支度金をごっそり盗んで消えていた。踊り子たちも奴についていき、俺は借金と下働きの男の2人だけになっていた。
何もかも失った。そんなとき、笑いしか出てこなかった。おかしくもないのに俺は笑った。そして、手元に持っていた金を半分男に渡し、好きな食べ物を思い切り買ってこいと告げ、俺は眠った。もう恐れるものは何も持っていない。俺は泥のように眠った。ひたすら。
起きると、男が俺を見ていた。帰ってきたのか、と言うと。大きく頷いて、買ってきた食料を指差した。
「腹が減って・・・・・。」
男が声をひねり出すようにつぶやいた。それを見て俺は久々に笑った。ハッハッハと辺りに響く様に大笑いして。男が買ってきた野菜や肉を刻んで米と大鍋にかけた。最後にトマトとオリーブ油とチーズを刻んで、塩とコショウをたっぷり投げ入れた。
どんぶりに山盛りにし、男に渡した。
あつっ、と言って食べる男。俺も頬張る。
どんなに辛くても、腹は減る。眠くなる。これからは正直に生きよう。看板だけは立派に残った建物を見ながら俺は決意した。
そんな時、おれをたずねて彼女が帰ってきた。着のみ着のままという感じで、噂で聞いた王女を産んだ王妃の姿には見えなかった。
彼女が何か言う前に、おれは思い切り抱きしめた。背中を撫で、短くなった髪に触れた。
「お前が要る。傍に居てくれ。」
彼女は頷いた。
あの国であったことを何も知らない。再会して夫婦になってから3人の娘を授かり、小さいながらもこの町で舞踊団を続けてこれた。騒がしい娘たちを見ながら、いつも微笑んでいた君。幸せそうに見えた。でも祈りを捧げるときには、いつも悲しげでそして愛おしげだった。
君を亡くして、これからの人生で幸せなことはないのかもしれない。でも、娘たちが育つのを見届けてからまた会いに行くよ。
俺は君といて幸せだった。だから君も幸せにしたかったのだけど、完璧にはできなかった。だから、一つだけ勝手に伝えさせてもらうよ。
君が誰より娘を愛していたことを。
まだまだの文章でしたが、広いお心で読んでくださる方のおかげで、ここまでこられました。
心から、ありがとうございました。




