第二章 二話
イーリーの故郷は、一番近くの街まで行くにも歩いて半日かかるほど、深い山奥にあった。道も整備されておらず、馬車などの交通手段もない。しかしのどかで、時間がゆっくり流れるような雰囲気が、彼はとても好きだったのだ。
だが、土砂崩れの後に偶然発見された魔石の鉱脈によって、村は大きく変わってしまった。強力な魔法補助具として知られている魔石は、採掘される量が少ないことからとても珍重されている。そのため、ひとたび鉱脈を見つけたなら、莫大な富を築くことができるのだ。
村の男たちは皆、それまでの仕事を辞めて採掘作業に明け暮れ、魔石販売の最大手である『ギムナジム・カンパニー』と独占契約を結び、すべてが順風満帆かに思えた。しかしある日突然、採掘作業中に次々と村の男たちが倒れたのである。
激しい頭痛とめまい、中には吐血するものもいた。何か有毒ガスなどが発生しているのではと心配した村は、すぐにギムナジム社に調査を依頼したが、結果は、過労とストレスによる症状で採掘現場に原因はない、というものだった。だが、それにどうしても納得できなかったイーリーの父親は、独自に調査を開始し、魔石に関するある論文を発見したのである。
それは、魔石は破壊された時に多量の魔力を放出し、それを人体が繰り返し浴びると害をもたらす……というものだった。イーリーの父親はこれを証拠に村人を説得しようと試みたが、誰も耳を貸そうとはしなかった。実際に体調不良になった者たちも、しばらく休めば治ることからさほど深刻には考えていなかったのである。
それどころか、イーリーの父親が村から採掘される魔石は粗悪品だと、街に行って言いふらしているという噂まで流れたのだ。
これに対しギムナジム社は契約の打ち切りを匂わせ、それに慌てた数人の村人がイーリーの父親を私刑にしたのである。どんなに採掘しても、それを加工して販売するには専門の会社との協力が必要不可欠なのだ。もしギムナジム社と契約を打ち切ったら、おそらくどの会社も見向きもしないだろう。一度目の当たりにした巨額の富を、村人たちは失いたくはなかったのだ。
イーリーが見た最後の父親は、その面影すらないほど腫れた顔と、血にまみれた姿だった。
憂鬱そうに息を吐いたイーリーは、暗い気分を振り払うように頭を振る。昨晩、久しぶりに父親の夢を見たせいで、蘇る光景はやけに鮮明だったのだ。
忘れることは出来ないが、向き合うにはもう少し時間が必要な思い出だった。
イーリーは気持ちを切り替え、暗い影が面に出ないよう努める。プリムたちに心配をかけたくなかった。しばらくして少女が朝食を持って戻って来たときは、いつもの彼に戻っていた。
朝食のひと時は、嫌なことを忘れさせてくれるほど穏やかだった。イーリーが一方的に話すだけだが、プリムが関心を持ってくれているのが分かり、彼も思わず饒舌になる。時々、クスクス笑う少女の笑顔に和んだ。
少女も、少しだけ自分のことを話してくれた。
プリムの母リアナは、ここに訪れてから彼女を生んだのだという。来た時はすでに妊娠しており、父親が誰なのかはリアナしか知らない。リアナは今、おそらく風邪だろうと診断され臥せっているが、起き上がれないほどではないらしい。ただ、ボルン以外に対しては未だ人間に不信感を抱いているため、イーリーの前には姿を見せないのだという。
プリムはそのことを気に病んでいる様子だったが、イーリーは少しだけリアナの気持ちが分かる気がした。自分もまだ、故郷の村人と会うことは出来ないだろう。
こうしてそれぞれお互いのことを何となく話していると、わずかながらプリムが打ち解けてきているようにイーリーは感じた。だからだろうか、食事を終えて帰ろうとする少女は、利発さを覗かせる笑顔を浮かべて彼に言った。
「アイサ様はきっと、一人きりで寂しくしていると思うの。会うことがあったら、お話の相手をしてあげて」
「えっ?」
驚いたイーリーが何か質問をする前に、プリムは出て行ってしまった。
「アイサ様? 会うことがあったら?」
不吉なものを感じ、イーリーは少し震えた。
昼食のサンドイッチを頬張りながら、イーリーはレポートに向かっていた。最初は古代から近世への魔法の変遷について書く予定だったが、少し変更して魔法とピーモ族の関わりを中心にした。プリムに会ったことがきっかけだったが、魔法について深く知るためにはピーモ族との関わりを無視することは出来ないと思ったのである。
そもそも魔法は、ピーモ族が最初に使い始めたと言われている。しかし養成所で教える魔法の始まりは、初代国王ゼーマン・ハイデルまでだ。それ以前の歴史には、ほとんど触れることはなかった。なぜなら、二千年以上も昔は闇の眷属に支配された混沌の時代であり、当時を知る文献の類もほとんどなかったためである。
ところが、イーリーはこの書庫に来ていくつか興味深いものを発見した。これまであまり知られることのなかった……少なくとも養成所では教えることのない魔法の起源と歴史について、詳細に書かれた本をいくつか見つけたのである。その一冊が『治癒源法』というものだった。
偶然手にしたその本には、生命が持つ治癒力を高めるための方法として、祈祷から起こる魔法形態が記されており、その一つに、【魔法陣】というものがあった。【魔法陣】が魔法という技術の最高峰であり、それを簡略化したものが現在でも使われる魔法なのだという。
「――外部からの総合的な治癒効果を、より個体の病状にあった形で柔軟な対処を行うために生み出されたのが、魔法であり薬学である。それらを総じて魔術と呼び、薬草と魔力による細胞刺激によって治癒力を高め……そうか、魔法とは本来、魔力を使った医学の一種だったんだ。でも、それがどうして今のような元素界との契約になったんだろう」
イーリーはすぐに別の本を探すため、本棚の間を歩き回った。初日に、何の本があるのか一応まとめたものがあり、その中からよくわからなかったものを中心に調べることにした。
「あの辺かな」
梯子を持って来て、イーリーは棚の上の方にある本を物色する。
「これは……何語だろう?」
二十冊ほど、見たことのない言語で書かれた本が並んでいた。中を見るが、やはりまったく読むことが出来ない。ただ、描かれた図からその本がどうやら【魔法陣】の本だということは察しがつく。
「養成所では、【魔法陣】を魔力を持たない昔の人が用いた原始的な方法で、一種の祈祷・まじないの類だと教えられたけど、さっきの本には魔法の最高峰って書かれてた。これが読めれば、何かわかるかも知れないのに……」
とりあえずイーリーは、この何語かわからない本を下に降ろそうと、何冊か脇に抱えた。と、視界の端で何かが動いたような気がして、そちらの方向を見る。
「ネズミかな?」
常識的にそう思ったイーリーだったが、再び何かが横切り、突然、停止した。その姿はネズミよりも大きい、人の姿をしていたのである。
「こんにちわ」
「うわあ!」
驚いたイーリーは梯子から転げ落ち、後に続いた本に潰された。
「大丈夫~?」
顔を上げたイーリーの前に、半透明の女性が降り立つ。髪の長い、スリットの入ったタイトスカートの、美しい女性だ。
(だ、誰?)
戸惑うイーリーはその時、ふとプリムの言葉を思い出した。
(まさか、アイサ様? えっ?)
その瞬間、彼女こそが『アイサ様』であり、この書庫の主である魔女アイソリュースなのだと、イーリーは直感した。