第二章 一話
退屈な毎日だった。有り余るほどの時間は無為に流れ、ドス黒い想いはやがて、塵ほどの価値も見出せぬほどか細いものに変わっていく。愛と憎しみは表裏にあって、どちらかが失せればもう片方も意味を失う。それでもこだわるのは、ただ、意地だけだったのだろうか。
……ちがう。
自分を繋ぎ止める、ただの細い糸だ。正気を失わずにいるための、頼りない支えでしかない。深い闇は寂しく、孤独は切ない。涙も枯れ、想いも失せたとき、残されたのはただの言い訳と未練のみ。
彼女にはわかっていた。それでも、どこかに引っかかっているに過ぎない。喉の小骨の不快さのような、思い通りにならない歯がゆさばかりが身を焦がした。
時々外を眺めるが、代わり映えのない風景が季節の移り変わりと共に漂っているだけだ。誰かが訪れては、恐れるように去っていく。人が住み着くようになったのは、つい最近だ。それでも、楽しい相手ではなかった。
老人に、同種族の母と娘である。毎日は変わらず、退屈だった。だから新しい『おもちゃ』を見つけたとき、少しだけからかってみた。不思議なことに、驚きはしたようだが逃げ出さなかった。それどころか、荷物を抱えて再びやって来たのである。彼女にとってその行動は、とても新鮮だったのだ。
夜、そっと夢の中に侵入してみた。夢は、その人の柔らかい心を刺激する。最初は単純な好奇心だけで、罪悪感はいつも最後に訪れるのだ。だから彼女は夢から覚めたとき、とても後悔した。
目が覚めたとき、涙で滲んだ視界には赤銅色の天井があった。手の甲で涙を拭いながら上半身を起こしたイーリー・シュレイガーは、見覚えのない場所にしばらく思考を巡らせた。幸い、この場所に関する記憶はすぐに見つかる。まだ昨日という新しい記憶は、彼の脳内で再生された。
ボルン・ディラックと名乗った老騎士は、イーリーが養成所の生徒であることを知ると、岩壁の鉄扉を示して言った。
「あそこにはアイソリュースの蔵書が保管されている。一部の写しは図書館にもあるが、その原本やここにしかない珍しい本があるそうだ。俺たちには関わりのないものだが、魔法を使う者には興味深いものばかりだと思う。プリムを助けてくれた礼に、中へ入る許可証を発行してあげよう」
最強の魔導師アイソリュースの蔵書があることは、多くの人が知っていた。そしておそらく封印の地として知られる公園にあることも、公然の秘密のように囁かれていた。だが、それは封じられ、誰も近づけない場所にあるのかとイーリーは思っていたのだ。
ところが入口が意外とわかりやすい場所にあり、人助けをしたからといって簡単に入れてしまう事実に驚いた。イーリーが率直に感想を言うと、ボルンは声を上げて笑った。
「俺がここの番人を任された時、大魔導師チャンドラー様より申し付かったことがある。それは、この場所が無闇に立ち入れる場所ではないが、だからといってすべての者を遠ざける場所でもないということだった。どういう意図でそう申されたのかは俺のような無学な者には理解出来ないが、俺自身の判断に委ねてくれたのだと理解することにした。つまり、俺が許可証を発行した者だけが立ち入れることにしたのだ。それに……」
ボルンは、プリムのきょとんとした顔に視線を向け、
「この部屋の主は今でも、アイソリュースであるということさ」
これまでも何人かが、この中に入ったことがあるらしい。しかし全員、一日もせずに帰って行ったのだという。それは番人も同じで、ボルンが任命されるまでにも数十人もの騎士が辞めていったそうだ。
「ここの本当の番人は、プリムの母親なのだ。今は病で床に伏しているが、彼女たちピーモ族だけが自由に出入りできる。俺の役目は、彼女たちを無慈悲な連中から守ることだ」
ピーモ族とは、小さく尖った耳を外見的特長として持つ、長命の種族だ。およそ人間の二倍以上は生きる。アイソリュースはこのピーモ族で、ピーモ族にとって彼女は英雄だった。しかしそのために、ピーモ族は迫害を受け、人間とは関わらずに生活をしていることが多い。しかしプリムたち母子は、この蔵書を管理するためにチャンドラーによって招かれ、ボルンがその保護を任されたということなのだろう。
「アイソリュースが心を許すのはピーモ族だけだが、人間に危害を加えるということはない。無理にとは言わないが、その気があるなら、中を覗いてみるか?」
イーリーはすぐに頷いた。興味もあるが、何より卒業レポートをどこで書くか迷っていたところだったからだ。アイソリュースに何をされるのかわからなかったが、少なくともレンツ・ファラディの陰湿さを上回ることはない気がした。
さっそく部屋に戻って簡単に荷物をまとめると、イーリーは岩壁をくり抜いて造られた書庫に足を踏み入れたのである。約束により、特別な用事以外の外出は禁止された。食事はお金を渡し、ボルンが用意してくれることになった。無闇に出入りすることで、人の目を集める事になるのを防ぐためだった。これもみな、心無い人からプリムたちを守るためだと教えられた。
書庫には、毎日一冊ずつ読んでも十年以上は掛かると思われるほど、膨大な本が高さ五メートルほどの本棚にびっしりと並べられていた。その本棚が四つ並び、部屋の奥に十メートルほども伸びている。本棚の手前、右手奥には燭台の乗る年季の入った木製の机があった。
夜には闇に呑まれて見えなくなるほど高い天井には、等間隔でいびつな四角い窓が並び、木漏れ日のように明かりが差し込む。
イーリーはまず、どんな本があるのかを確認する作業で、最初の一日を費やし、夜を迎えた。そしてプリムが運んでくれた食事を本を読みながら済ませ、寝袋にもぐって眠ったのだ。
こうして昨日からの記憶の輪が結ばれ、イーリーは寝袋から這い出すと椅子に腰掛けて小さく頭を振る。跡が残っていないかと心配しながら目を拭い、ぼんやり部屋の中を眺めた。
嫌な夢を見た。忘れたかった。けれど忘れてはいけない夢。精神的な疲労が、彼を襲う。今何時だろうか……彼がそう頭の隅で考えた時、プリムが朝食を持ってやってきた。
「お兄ちゃん、おはよう」
小さな声で、あいさつをする。こちらの様子を伺うように、不安げな、しかしそれに勝る好奇心の光を宿した眼差しでイーリーを見た。
「おはよう、プリム。今は何時頃かな?」
少女はわずかに頭を傾げ、数回首を振ると「時計がないの」と答えた。
「困る?」
「ううん、大丈夫。それより、一緒にご飯を食べない? 一人じゃなんだかつまらなくて」
プリムは頷くと、自分の食事を取りに走って出て行った。その後ろ姿を見て、イーリーは笑みをこぼす。ピーモ族は悪魔を崇拝する邪悪の種族で王家を呪っている……などという噂が、今も囁かれたりする。けれどプリムを見る限り、それが本当に根も葉もない噂なのだということを、イーリーは実感した。
そして同時に、そうした噂の持つ恐ろしさを、改めて感じずにはいられなかったのだ。
噂はまるで伝染病のように広がって、姿の見えぬ幻影で人々の心を支配する。先入観を与え、疑心暗鬼に陥らせるのだった。そして時には、人の命をも奪ってしまう。
あの日の、イーリーの父親のように。