第四章 三話
書庫に戻るなり、濡れた体はそのままでイーリーは一番奥の壁に向かった。壁を調べて見るが、特に変わったところはない。
「アイサさん」
彼が呼ぶと、アイソリュースは待っていたようにすぐに姿を見せた。
「仕掛けを解ける?」
イーリーの問いに黙って頷いたアイソリュースは、何かを確認するように彼を凝視する。イーリーはその視線を正面から受け止め、もう一度言った。
「仕掛けを解いてよ……」
彼女の表情は後悔でわずかに曇ったが、前に進み出て壁に手を当てる。
「イーリー?」
「ん?」
少し驚いて、イーリーはアイソリュースの背中を見つめた。
「私は、何も約束できないよ。自分の気持ちを、きっと抑えきれない。世の中には許せることと許せないことがあると思うけど、私のこの気持ちは……“彼”がした事は、決して許してはいけない事だと思うから」
「誰にだって守るべきものがあると、ボクは思うよ。きっとそれは、他人からすれば些細なことなのかも知れないけど、本人にとって大切なものなら、価値はそこに生まれると思う。だけどボクにだって、守りたいものがあるんだ。だから、諦めない」
アイソリュースは目を伏せ、悲しそうに微笑んだ。そして目を上げたとき、すでに笑みは消え、真剣な眼差しで眼前の壁を見つめる。
「閉ざされし鍵の番人、解錠の馬姫メズヤヒトよ、我が声に応え力を貸し賜え――解封」
呪文と共に、壁に馬の頭をした女性が浮かび上がり、手に持った大きな鍵をかざした。すると、壁の一部分……ちょうど人が通れるほどの長方形に白く光り、初めから何もなかったかのように消えてしまったのだ。
「この中には私は入れない。中にある封印の剣を抜くか折るかしてもらえれば、あとは自力で出られるわ」
「わかった」
道をあけるアイソリュースの横を通り抜け、イーリーは隠し部屋の中に足を踏み入れた。薄暗かった部屋は、彼が入ると燭台に明かりが灯る。そこは岩盤をくり貫いて造られたと思われる部屋で、四方の壁はゴツゴツした岩肌を晒し、天井もイーリーが何とか立てるほどの低さだった。
二メートル四方の狭い空間の、入口から遠い一番奥に、人工的に成形された石に幅広剣が突き立てられていた。どうやってここに突き立てたのか、柄の先端は天井ギリギリにあり、引き抜くことは無理のようだ。
「かなり腐食してるみたいだ」
かつては銀色の光を反射させていたと思われる剣身は、赤茶けた色に変色していた。少し黒っぽくなっているところは、血の穢れだろうか。
イーリーは片足を上げ、力の限り剣身を蹴った。簡単には折れそうもなかったが、出来そうな気配を感じて、何度も続けて蹴ってみる。亀裂が走り、錆が散る。そして数十回目の時、一部が完全に欠け、かろうじて剣の形を保っている状態だった。
「これで最後だ」
様々な思いを込めて、イーリーは一蹴する。すると柄の部分がはじけ、くるりと宙を回りながら落下した。とたん、水蒸気が噴出し、熱気に包まれた部屋をイーリーは慌てて飛び出した。
何が起こるのか、イーリーが息を呑んで見守る中、水蒸気の充満した部屋から正方形の光が無数に現れた。光は螺旋を描くように飛び、やがて結合して足元からアイソリュースの形を生み出してゆく。完全にその姿が再現されると、光は弱まって、今度は半透明ではないはっきりとした彼女の姿が誕生したのだった。
しかしイーリーには、今のアイソリュースの方が儚げに見えた。
「アイサ……さん?」
思わず名前を呼ぶと、彼女は柔らかく微笑む。そして、
「プリムの母親を助けるわ」
彼女は透視をした時と同じ場所に立ち、目を閉じて、両手の親指と小指を合わせて印を結ぶ。
「若草の息吹、回復の癒し手ラ・ファンスタシスよ、我が声に応え力を貸し賜え――快癒風息」
花の冠を付けた女性の姿がアイソリュースと重なり、彼女が手を前にかざすと、女性の手は壁の向こうの母親にかざされる。そして、アイソリュースが「ほおっ」と息を吐いて力を抜くと、女性の姿は消えた。
「これで朝方までには、落ち着くと思う。あくまでも一時的に病状を抑えただけだから、出来るだけ早めに医者に診てもらって治療した方がいいわ。数日中には動けるようになるだろうから、街を出るように、イーリーから伝えてちょうだい」
「わかりました……」
役目を終えたアイソリュースは、両手を挙げて大きく伸びをする。
「やっぱりいいわね、生きているって」
「きっと楽しいことがありますよ。大変なことも同じくらい起こるだろうけど、でもそれを乗り越えて行けば、それだけの価値がある、嬉しいことがきっとあります。だから――」
アイソリュースは、そっと手でイーリーの口をふさいだ。
「私はどうしても、ケジメをつけないといけないの」
どうしてそこまで彼女がこだわるのか、イーリーにはわからなかった。
「確かにゼーマンはあなたを裏切った。ひどいことをしたと思います。でも、彼はもういないじゃないですか? 子孫に復讐なんて、そんなの意味があるとは思えません! そんなに、ゼーマンのことが……」
言いながら、イーリーの胸は痛んだ。憎しみは愛情の裏返しだと、誰かが大人ぶって口にしていたのを思い出す。愛情が深い分、憎しみも深まるのか。だとすれば、それは――。
「そんなにゼーマンのことを、愛して――」
「ちがうよ。ちがうよ、イーリー。私はそんなもののために復讐をするわけじゃない。私は、私にとって一番大切なもののために戦うの」
そう言った彼女は、散り散りになった思いを集めるように、書庫を見渡した。
「さよなら」
優しく微笑み、アイソリュースは出口に向かう。
「待って!」
追いすがろうとするイーリーを、彼女は制した。
「まだ完全に魔力が回復したわけじゃないけど、イーリーには止められないよ」
「それでも、ボクは止める」
「どうやって? 私には敵わないでしょ?」
「ボクには……秘密の魔法があります」
そう言って、イーリーはアイソリュースと対峙した。緊張した空気が流れるなか、イーリーは大きく息を吸って、呪文を叫んだ。
「アイソリュースさん!」
それは、彼女の本名だった。一瞬ぽかんとした彼女だったが、見る見るうちに顔が真っ赤になり、体が熱くなる。まるで金縛りにあったように、動けない。その隙に、イーリーはアイソリュースに抱き付いた。
「こうすれば、攻撃魔法は使えない」
息苦しさにあえぎながら、彼女は不満を漏らした。
「ズ、ズルイわよ、イーリー。こんな手を使うなんて……」
「この名は、特別だから」
(あなたにとっても、ボクにとっても)
イーリーは腕に力を込める。
「この手は離しません」
「バカ……そういうことは、好きな子にでも言うのね」
「ボクは――!」
アイソリュースの手が、イーリーの額に触れた。
「攻撃は出来ないけど、眠らせることはできるのよ」
遠のく意識の中、彼はアイソリュースの顔を見つめた。優しい笑顔……それを失いたくはないと、心から思った。