第三章 二話
流れるように、光の帯が闇を裂く。翻っては餓鬼を突き、累々たる屍が大地を覆う。アイソリュースたちは勝利し、彼女を救ったゼーマンは村に迎え入れられた。それは、異例のことだ。
「なぜ、助けたの?」
彼女が尋ねると、彼は驚いたように笑った。
「その質問が不思議だな。いや、事情はわかっているつもりだよ。旅を続けて、様々な土地を巡った。人間と君ら種族が互いに争う場面にも、何度か遭遇した。しかし餓鬼を始めとする化け物は、共通の敵と言ってもよいはずだ。ならば味方をする事に、疑問はあるまい」
アイソリュースにとってそれは、新鮮な意見だった。彼女の知る多くの人間なら、ピーモ族を時間稼ぎにして逃げ延びるか防備を固めるだろう。ピーモ族を嫌う彼らが自分たちの村を襲わないのは、そのためだと確信していた。
「俺は小さな漁村で生まれた。近くの森にはピーモ族の、やはり小さな村があって、互いに物を交換し合う程度の付き合いがあった。仲良くする間柄ではなかったが、それぞれが必要な存在だという認識はあったと思う。だからだろう。俺自身はピーモ族にわだかまりはない。両者の違いなど、耳を隠せばわからなくなるほど些細なことだ」
人間であること、そして鍛え上げられた肉体を持つ巨大な体躯であることから、最初は怖がってゼーマンに話しかける者はなかった。しかしゼーマンの真っ直ぐな想いは、次第に村人の心を開かせてゆく。特に子供たちは、ヒーローのように彼を慕った。
「お客さんなんだから、そんなことしなくてもいいのに」
村の中にある小さな畑で働くゼーマンの姿を見つけたアイソリュースは、笑顔で近付きながら言った。彼が村に来てから、半月ほど過ぎていた。
「世話になっているんだ。少しは働かないと、気持ちが落ち着かない」
「あなたらしい……たった半月しか知らないのに、そう思える。でもだからこそ、みんなが心を開いたのね」
「そんな大層なことじゃないだろう」
「人間に家族を殺され、憎しみを抱いている者だっているわ。種族の壁は、あなたが思うほど容易いものじゃない。あなた一個人の評価がどうであれ、今も人間を憎む心は失われてはいないのよ。しかしそれでも、格段の進歩といえるはず」
「悪も善も、それを成すのは常に個人だ。集団の価値観は結局、個に帰結する。悪い人間もいれば良い人間もいる。種族や年齢、性別はただの属性に過ぎない」
「怒りや憎しみを抱くには、対象が必要なのよ。そうしなければ、自分を保つことが出来ない。割り切るのは、簡単じゃないわ。だから、あなたはすごいのよ。子供たちだって、慕っている」
「君も慕われているだろ? 子供だけじゃなく、老若男女問わずね。落ちこぼれだった君が、村を守るために必死に魔法を勉強したって、村長が懐かしそうに話してくれたよ」
はにかむアイソリュースを見て、ゼーマンは微笑んだ。
「ここは良い村だ。素朴だが、皆の心は鋼のように強くたくましい。餓鬼の生き残りが再びやってくるかもと思い、皆の好意に甘えて長居をしたが、そろそろ行かなければならないようだ」
「どこに、行くつもりなの?」
鼓動が早くなるのを感じながら、アイソリュースはわずかにうわずった声で尋ねる。覚悟はしていたが、いざとなると気持ちが乱れた。
「ここから東にある、人間の街だ。俺の夢の、礎となる街……」
「夢?」
「世界中は今、闇によって覆われているが、希望が失われたわけではない。西の地では飛竜を操る一族が立ち上がり、南の大陸ではピーモ族の国が生まれたと聞く。わずかずつだが、この世は変貌しようとしているのだ。以前に比べれば闇の眷属の力も衰え、大きな争いも最近ではほとんどない。東に巣食う化け物の群集を一掃できれば、そこに新たな秩序を築くことが可能なはずだ。俺は、この地の人々を救い、国を創りたいと思っている」
ゼーマンは真剣な眼差しで、薄暗い空を見つめた。
「こんな世の中だからこそ、それを利用しようと思っている。平和な時には叶わぬであろう夢も、今なら信じられる気がするのだ。おかしいだろうか? 田舎の漁師の息子が見る夢ではないだろうか?」
「そんなことはない。あなたには、人を惹きつける魅力がある」
目を細め、彼女はそっとうつむいた。不意に、寂しさがこみ上げてきたのだ。
(彼のことが好きなんだとはっきり意識したのは、この時だったわ)
アイソリュースが無感動に呟いた。いや、わざとそう振舞っているのだということが、イーリーにすらわかるほど稚拙な演技だった。そしてそれに気付いた彼は、何故か胸が痛んだのだ。
(……)
(彼の夢はきっと叶うだろうと、私は感じた。けれどそれは、私自身の夢が失われることに繋がると気付いたの)
(どんな夢だったの?)
(平凡な夢よ。非凡な彼とは通じることのない、儚いもの。だから、力になろうと思ったの。彼の夢の実現を、自分の夢にしようと思ったのよ。王となった彼の横にいる必要はなかった。ただ、時々でいいから逢いに来てくれれば、それだけで私は残りの人生を独りで生きられた)
乾いた笑いが、少し、アイソリュースから漏れた。
(一緒に村を出たのは、それから数日後のこと。私はフードと仮面でピーモ族であることを隠し、彼の従者として旅をした。顔に火傷を負った哀れな男、それが私の素性。誰もが哀れんで、深く立ち入ることがなかったから、正体がばれる心配もない)
(でもそれは、あんまりじゃ……)
(人間の街に行くのだから、仕方がないことなのよ。ピーモ族と一緒に居ることが知れれば、街に入ることも出来ないし、そうなれば彼の夢も叶わない。村を出発する前日に、話し合って決めたことだもの)
普段は従者に対する口調で話しかけるゼーマンだったが、時折、人目を避けて野宿をするとき、優しく彼女をいたわった。アイソリュースはそのひと時を心の温もりにし、お互いが必要と思える関係を築きつつあったのだ。けれど、隔てるものなどないと信じた思いは、少しずつ歪みを広げてゆく。
その日、偶然見つけた綺麗な泉で、彼女は汗を流していた。それまでの旅の疲れからか、少しだけウトウトとしてしまったのである。そのため、人の気配を感じるのが遅れてしまったのだ。気付いたときは、腕を掴まれ、泉から引きずりだされていた。
(数人の人間だった。私がピーモ族だと知ると、警戒しながらも私を組み敷いたまま、ニヤニヤと笑いながら見下ろしていたわ)
乱暴を働こうとした男を、彼女は魔法で攻撃した。武器を持っていたが、あしらうのは容易かった。ここまでの実践経験が役に立ったのである。
(彼らが逃げ、姿が見えなくなってから、ようやく彼が現れた。ずっと傍で見ていたのに、助けてもくれなかった。私は不満を漏らしたけど、彼の考えていることはわかっていたわ)
「俺が助けなくとも、あの程度の連中なら大丈夫だと信じていた。それに、今はまだ、ピーモ族と共に居るところを見られたくはない」
タオルを羽織ながら、アイソリュースはゼーマンの背中を見つめた。やがて、彼女の心を写すように、イーリーの見る夢の光景は暗転した。