第三章 一話
眠れぬ夜が明け、机に突っ伏していたイーリー・シュレイガーは充血した目を擦りながら顔を上げた。天井から差す光の帯は視界を霞ませ、まるでこの場すべてが幻想のようにも思えるほど、清々しく、静かだった。澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んだ彼は、深い溜息に心を翳らせる。
夜の闇は恐ろしいが、朝の光は穢れを知らぬ幼子のような眼差しに似て、わだかまりを見抜かれるような不安に駆られる。永遠を望むことが許されるなら、きっと今のイーリーは、夜の中にいつまでも留まっていたいと考えただろう。
それでも訪れた朝に、外の空気を吸おうと書庫を出たイーリーは、出かけて行く老騎士ボルン・ディラックを見送るプリムを見つけた。
「どうかしたの?」
照らす朝日と正反対な暗い表情のプリムに、イーリーはそっと声をかける。少女は少しだけ口元に笑みを浮かべたが、すぐに不安そうな顔になった。
「お母さんの具合が悪いの。それで、お爺ちゃんがお薬をもらいに出掛けたんだ」
「具合が悪いなら、薬だけじゃなくて診察してもらった方がいいんじゃないのかな?」
イーリーが言うと、プリムは哀しそうに首を振った。
「来てくれないよ……」
どうして――そう言い掛けて、イーリーは口をつぐんだ。自分にとっては些細な事だが、多くに人々にとって人間とピーモ族の違いは重要だった。
力なく肩を落として戻って行くプリムを見つめ、イーリーは無力感に襲われる。それは、母親を失った時に感じた想いに似ていた。だが、あの時と違うのは、彼には出来ることがあるということだ。
イーリーはすぐに書庫へ戻ると、【魔法陣】の本を開いた。少しずつだが、訳文をノートに書き写している。これまでのわずかな成果からでも、【魔法陣】の持つ力の一端を知ることは出来た。そのなかで、イーリーは自分の進むべき道に新たな選択肢を加えたのである。
もともと魔導士を目指したのは、薬学を学んで病気で苦しむ人を助けたかったからだ。しかし、個人で出来うることには限界がある。必要としている人のそばに、いつも自分がいるとは限らない。一方で救い、一方では救えないジレンマに悩まされるだろう。
だが、【魔法陣】はその悩みを解消する可能性を秘めている。湯治場のような所を、人工的に作り出せるのだ。たとえばこの公園一帯を巨大な【魔法陣】とし、その中にいるだけで生命の持つ治癒力を高めることが出来れば、苦しむ人たちを救えるかも知れない。完治は無理でも、進行を遅らせたり出来れば、医療との連携で回復も可能だろう。
なぜ【魔法陣】がかつては最高峰と呼ばれ、今は低俗な術になってしまったのか。イーリーは、古代の医療としての延長にあったからこそ【魔法陣】は最高峰だったのではないか、そう考えたのだ。そして今のような魔法の考え方からすれば、自然に任せるという方法を受け入れがたいのだろう。しかし、生命本来の回復能力は、自分たちが思うよりも優秀だと、イーリーは信じている。むろん、過信はしない。だが、治癒魔法も神々の力を借りると考えれば、差異はわずかなはずだ。
昼食後、急に眠気に襲われた。集中して勉強したことで張り詰めていたものが消え、そこに満腹感が訪れたためだろう。イーリーは本を閉じ、ほんの少しだけ休むつもりで顔を伏せた。瞼は重く、意識は急速に深い闇に落ちる。あらゆる境界線が溶け出して、時間も空間も意味を無くした。
どれほどそうしていたのだろうか。不意に、視界が開けた。
そこは、果てしなく広がる荒野だった。空は厚い雲に覆われ、昼なのか夜なのかもわからないほど薄暗い。空気は冷たく、ねっとりと絡みつくような不快な気分にさせる。遠くでは、雷のような音と獣のような唸り声が聞こえた。近くに人の気配はない。
(これは、夢?)
奇妙なほどリアルだが、反対にそれが作り物めいていた。不思議に感じるイーリーは、目の前に現れたその姿に自分の予想を確信する。
(アイサさん……)
半透明ではないアイソリュースが、微笑みを浮かべて立っていた。
(ここは、私が生きていた頃の時代。私の、記憶の中の世界……イーリーには、見て知って欲しいって思ったの)
(どうして?)
イーリーは戸惑った。
(……本当はね、わかっていたの。気にしてない風を装っていても、心の中に残り続けている。きつく言ったのは、ただの八つ当たりよ。私の時間は止まったまま、自分の気持ちに背を向けて、変わることを恐れ続けている。認めたら、否定することさえ出来なくなったら、惨めさだけが残っちゃうじゃない)
アイソリュースは、イーリーの横に並ぶ。そして、そっと手を握った。
(たとえ理由が好奇心だとしても、あなたは私を知ろうとしてくれた。本当の私を、見ようとしてくれた。だからあなたなら、いいのかなって……)
好奇心なんかじゃない――少しはにかむアイソリュースを見て、イーリーは喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。
(辛いことなんかはさ、誰かに話すことで楽になったりするじゃない? 面倒な役割かも知れないけれど、あなたと一緒に思い出を辿ることで、私の止まった時間が動き出すかも知れない。気持ちを整理する、勇気が持てるかも知れない……)
二人の視線が絡み合う。
(ボクが、力になれるなら)
(……ありがとう)
握る手に、力がこもった。イーリーは視線を外し、何もない荒野をさまよわせる。
(闇の世界、本で読んだのと同じだ)
場を繋ぐように、イーリーは話題を振る。夢を共有していると、心の中まで知られてしまいそうな気がした。
(時々、風の強い日にわずかな光が差すことがあるだけで、ずっとこんな薄暗い毎日だった。世界のあちこちでは闇の眷属たちが暴れ、悲鳴がどこからともなく聞こえる。安心できるところなんてどこにもない。それでも人々は力を合わせ、なんとか生きていたわ)
景色は突然移り変わった。そこは、小さな村。
(その日、私の生まれ故郷が、餓鬼の集団に襲われたの。最初は作物が狙われ、次に子供たちが狙われた。男たちは武器を持ち戦い、私も、魔法で応戦した)
戦場の真ん中に、イーリーはアイソリュースの姿を見つけた。髪を束ね、田舎の少女のような姿で呪文を唱えている。
「森の狩人、光弓の乙女ラウナ・ジャ・ウーラよ、我が声に応え力を貸し賜え」
無数の餓鬼――その姿は子供のように小さく、全身が灰色にくすんで、頭髪は薄く乱れ、やせ細った体躯でお腹だけがポッコリと膨らんでいる――が取り囲む中、アイソリュースの姿に弓を携えた乙女の姿が重なった。アイソリュースが弓を構えるような格好をすると、その乙女も鏡のように同じ動作をする。
話に聞くことはあったが、イーリーが【詠唱魔法】を目にするのはこれが初めてであった。
(詠唱魔法は、自身の体に神々や悪魔の力を憑依させるようなものなの)
隣のアイソリュースが、そっと耳打ちする。
「光閃破魔矢!」
過去の時代の彼女がそう叫ぶと、乙女の弓矢が放たれ、光の筋が餓鬼を貫いた。その攻撃は次々に放たれ、餓鬼を撃ち滅ぼしてゆく。戦況は、アイソリュースたちが優位だった。だが、彼女の背後を守っていた男が倒れると、餓鬼は肉を貪ることすら忘れたように、アイソリュースに襲い掛かったのだ。
「危ない!」
誰かが叫んだ。しかし、魔法に集中していたアイソリュースは、一瞬だけ身をかわすのが遅れたのだ。血に汚れた爪が柔肌に食い込む瞬間を思い、皆が絶望するその時、飛び込んで来た男の幅広剣が一閃した。
ゼーマンとアイソリュースの、出会いだった。