第2話 『学校の日常と、隠された疲労』
校門をくぐった瞬間、僕は思わずあくびをした。
「ふぁぁぁ……」
昨日の睡眠時間はたぶん三時間ちょい。
まともに寝たとは言えないけど、慣れてしまった自分が悲しい。
「おい、神崎!」
背後から元気な声が飛んできた。
振り返ると、同じクラスの友人・高坂涼が手を振って走ってくる。
こいつは性格が明るいというか、うるさいというか……
まあ、いいやつだ。
「お前、また眠そうな顔してんな。昨日もバイトか?」
「まあな」
「倒れるぞ。ってか、なんでそんなに働いてんだよ? 家計? 妹さんのため?」
「妹のためは否定しないけど、別にそんな大げさなもんじゃないって」
「いやいやいや! 俺、妹さん見たことあるけど……超可愛いじゃん? そりゃ守りたくなるよなぁ〜」
「お前、言い方が気持ち悪いな」
「は? 褒めたんだぞ? 感謝しろ」
「感謝しない」
「なんでだよ!」
高坂は大げさに叫んだ。
その声に周囲の視線が向く。
僕はため息をつきながら教室へと歩いていく。
教室の扉を開けた瞬間、女子たちの数人が僕らを見てひそひそ話している。
「ねぇ、また神崎くん、寝不足みたいじゃない?」
「この前も顔に擦り傷あったよね……」
「夜のバイトって何してるんだろ」
聞こえてるんだけどな。
まあ、別に悪口じゃないからいいか。
席につくと、机に腕を乗せてズルズルと滑り落ちるように伏せた。
「……寝るなよ」
「無理」
高坂が苦笑して、僕の頭をペンでつつく。
「今日は体育、サッカーの練習試合だぞ。お前がサボると先生に怒られる」
「……体育は……頑張る」
「頑張れよ」
高坂は呆れながらも笑っている。
こういうところがいいやつだ。
朝のホームルームが始まり、担任が単調な声で連絡事項を読み上げる。
僕は半分寝て、半分起きている謎の状態になっていた。
「——じゃあ、今日の放課後は実行委員会の集まりがあるからな。神崎、また出ろよ」
「……へ?」
名前を呼ばれ、僕は一気に目を覚ました。
「先生、俺は委員じゃないですよ」
「お前は“臨時”だ。前回やっただろ」
「それ、たまたま押し付けられただけでは」
「押し付け? 適任だったから任せたんだ」
「……」
先生がニコニコしているけど、絶対僕を労働力として認識している。
逃げられない未来に僕は深くため息をついた。
午前の授業が終わる頃には、僕の睡魔はピークに達していた。
「……寝かせてくれ」
「授業中に言うことじゃねぇよ」
高坂が僕の横で呆れている。
数学の時間、由芽に教わったところが出題されていた。
『ここ、絶対間違えないでね』って言われた問題。
……なのに、僕の頭はぼんやりしている。
教師が説明する声は、遠くで鳴っているホワイトノイズみたいに聞こえてくる。
僕はペンを持ったまま、意識がぐにゃりと歪んだ。
——その瞬間。
(……え?)
視界の端が、一瞬だけ暗くなった。
まるで照明が一瞬だけ落ちたような、奇妙な感覚。
誰も気づいていない。
僕だけが、世界の色が変わった気がした。
「……神崎、起きろ」
高坂が肩を揺する。
「え、あ……ごめん」
「顔色悪いぞ。無理しすぎだろ」
「いや、大丈夫だって」
実際、大丈夫ではなかった。
胸の奥にざわつくような感覚が残っている。
けれど、それを説明する言葉は浮かばなかった。
そして昼休み。
「兄さん!」
教室の扉が勢いよく開き、由芽が顔を出した。
「うわぁっ!?」
「ははっ、びっくりしてる」
「……お前、なんでここに?」
「購買でパン買おうと思ってたら、兄さんのクラスの近く通ったから」
「近くっていうか、完全に中入ってきてるよな」
クラスメイトたちの視線が一斉に集まる。
……由芽は美人だ。
そのせいで注目されるのは理解できる。
高坂はニヤニヤしながら僕の肩を叩く。
「おい、お前の妹さん天使かよ。俺も挨拶していい?」
「断る」
「なんでだよ!」
由芽は笑いながら僕の机の上に小さな包みを置く。
「はい、これ。お昼に食べてね」
「弁当……?」
「うん。朝のうちに作ってたんだよ。兄さん、また寝不足で倒れそうだから」
クラスがざわつく。
「お弁当……」「仲いい……」「付き合ってるの?」
いや、付き合ってない。兄妹だ。
由芽はそんな周囲の視線なんて気にしない。
「兄さん、栄養取らないとダメだからね?」
「うん……ありがとう」
由芽は満足そうに微笑み、軽く手を振って教室を後にした。
その背中を見送りながら、高坂が小声で言う。
「……羨ましい。マジで羨ましい」
「知らん」
「いやいやいや、あれ反則だろ。手作り弁当とか」
「いい妹なんだよ」
「知ってる、めちゃくちゃいい妹なんだよ!」
「だから声でかいって」
僕は弁当の包みを開けた。
シンプルな卵焼き、唐揚げ、ちょっと多めの白ご飯。
質素だけど、温かい気持ちになる。
(……守らないとな)
ふと、そんな言葉が胸の奥に浮かんだ。
午後の体育はサッカーの練習試合。
僕は眠気をごまかしながらグラウンドへ出た。
「神崎ー! さっさと動けー!」
「はいはい……」
笛の音が鳴る。
ボールが動く。
体が自然に反応する。
スポーツは好きだし得意だ。
身体能力だけは無駄に高いと自覚している。
スライディング、ドリブル、パスカット。
ひとつひとつの動作が心地いい。
周囲が驚くのが視界の端に見える。
僕のプレーは派手じゃないけど、効率的だ。
「神崎、ナイス!」
先生の声が飛ぶ。
プレーしているときだけは、眠気も疲れも吹き飛ぶ。
だけど——
途中でまた、あの奇妙な感覚が襲った。
(……え?)
世界が一瞬だけ遠ざかる。
音が小さくなる。
視界がぼやける。
「神崎、大丈夫か!」
高坂が僕の肩を支える。
「あ……うん。ちょっと目眩が」
「保健室行けよ!」
「いや、大丈夫」
大丈夫じゃないのに、僕は笑ってごまかした。
胸の奥のざわつきが、少しずつ濃くなる。
——このとき、僕は気づいていた。
何かがおかしい。
自分の身体に、世界に、異変が起きている。
けれど、その正体が何なのかは、まだわからない。
放課後。
僕は実行委員会の集まりに顔を出し、面倒な雑務を一通り終えた。
疲労感に押しつぶされそうになりながら、ようやく校門を出る。
「あー……今日は早く帰りたい……」
夕方の空は、橙と紫が混ざり合っている。
僕はひとり、深く息を吐いた。
(由芽、待ってるだろうな……)
その想像だけで、自然と歩く速度が上がる。
家に帰って、由芽の作った晩飯食べて、少しだけ一緒に勉強して——
そんな当たり前の時間を思い浮かべていると、不思議と心が軽くなる。
この日常がずっと続く。
なんの疑いもせず、そう信じていた。
——この時までは。




