一話 兄妹の日常
カーテンの隙間から差し込む朝日が、僕の顔面を容赦なく照らす。
まぶしい。
いや、正直に言えばまぶしいよりも——痛い。
「兄さん、起きて。ほんとに、起きて」
布団の横から聞こえる、やけに澄んだ声。
僕は布団を頭までかぶり、必死に現実から逃げようとする。
「……あと五分」
「昨日もその五分で三十分寝てたでしょ。今日も遅刻する気?」
布団の上からぐいっと引っ張られ、僕の身体は露出した。
冷たい朝の空気が肌を刺す。
「うぉっ……寒い!」
「だから早く起きるの。朝ごはんできてるよ」
見下ろしてくるのは、僕の妹——神崎由芽。
くりっとした瞳、綺麗な黒髪、表情は明るい。
二人暮らしの生活にもすっかり馴染んで、いつも家のことを全部してくれる。僕より二つ下の高1だというのに、性格も頭も落ち着いている。
「兄さん、朝練あるでしょ? 行かないと」
「……朝練はな、別に僕が行かなくても」
「“蓮先輩いないと困ります”ってサッカー部のキャプテン言ってたよ?」
「……聞いてたの?」
「私の耳を甘く見ないで」
くすっと笑う由芽。
その笑顔を見ていると、寝不足なんてどうでもよくなる気がしてくる。
……いや、やっぱ眠いものは眠いけど。
「朝ごはん食べる?」
「食べる……」
「じゃあ起きる」
「今起きた」
由芽に手を引かれ、僕は六畳一間の狭い部屋を起き上がった。
このアパートでの暮らしは決して裕福じゃない。だけど、こうして由芽が明るく迎えてくれると、不思議と苦しい現実も軽くなる。
テーブルの上には味噌汁と卵焼き、焼きおにぎり。
どれも簡単なものだけど、朝の時間にこんなにちゃんと作ってくれるだけですごい。由芽は勉強も家事もできて、ほんとに頼りになる。
「兄さん、昨日のバイト遅かったでしょ。帰ってきたの二時だよね?」
「……うん。ちょっと現場の片付けが長引いて」
「また、それ」
由芽の声が少しだけ強くなる。
「無理してるの、わかってるんだからね。最近寝てないでしょ」
「寝てるって」
「嘘」
即答だった。
僕は笑ってごまかそうとしたが、由芽がじーっと見つめてくるので、口が開けなかった。
「本当に心配してるんだよ、兄さんのこと」
「……うん。ありがとう」
由芽はふっと表情を緩め、僕に味噌汁の入った椀を差し出す。
湯気の香りが鼻をくすぐった。
「熱いから気をつけてね」
「うん」
僕は一口飲んだ。
薄味だけど、あったかい。
貧乏でも、こういう時間があるだけで幸せだと思える。
「よし、行くか。学校」
「うん!」
由芽は嬉しそうに立ち上がり、リュックを背負った。
僕も急いで制服を整え、アパートの鍵を手にする。
「鍵閉めた?」
「兄さんの方が閉め忘れるでしょ」
「最近ちゃんと閉めてるよ」
「昨日は開いてたよ」
「……すみません」
二人で苦笑した。
外に出ると、朝の空気は冷たくて清々しい。
ボロいアパートの前で、僕と由芽はいつものように歩き出した。
「おはよう、神崎くん、由芽ちゃん!」
隣の部屋の佐藤のおばちゃんが、洗濯物を干しながら声をかけてくる。
「おはようございます!」
「おはようございます!」
二人そろって挨拶すると、おばちゃんは笑いながら言った。
「本当に仲いい兄妹ねぇ。羨ましいわ」
その言葉に、由芽が少し照れながらちらっと僕を見る。
「……仲いいよね?」
「まあ、悪くないんじゃない?」
その返答に由芽がむっとする。
「兄さん、そういうところだよ」
「なんだよ」
「素直じゃない」
「素直だよ」
「うそ」
「うるさい」
くだらない言い合いが続く。
でも、これが僕らの日常なのだ。
学校に近づくにつれ、周囲に活気が増えていく。
通学路、制服姿の生徒たち。
騒がしい声。
風に揺れる木々の音。
「兄さん、今日こそ数学の小テストで満点取ってね」
「うっ……」
「昨日教えたところ、絶対間違えないように」
「……努力はする」
「努力じゃなくて実行して」
「厳しいなぁ」
「兄さんは甘いんだよ」
歩きながら話していると、僕の学校へ続く道と由芽の学校へ続く道が分かれる地点に来た。
「じゃあ、いってきます」
「うん、いってらっしゃい」
由芽は手を振って笑った。
その笑顔があまりにも眩しくて、僕は胸の奥がじんわりと温かくなった。
——ああ、今日も頑張ろう。
そう思わせる何かが由芽にはある。
まだ、この時点で僕は知らない。
この普通の朝が、“最後の日常”になりつつあることを。
誰にとっても当たり前に思えた日々が、すべて崩れ去る瞬間が迫っていることを。
この時の僕は——ただ、眠そうな目をこすりながら、教室に向かって歩いていくだけだった。




