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第8話 昼と夜

 朝の光が縁側を洗い、庭石の輪郭がくっきりと浮かぶ。白い影が一つ、座布団を我が物顔に占領していた。昨夜、布団の中で丸くなっていた猫――ブランだ。左右の瞳は片方が金、片方が淡い青。昼の光を受けると、その二色は冷たく澄み、近寄りがたい高貴な姫君のような気配を纏う。


「……また来てる」

 思わず漏らすと、そばで襖を引いていたお圭が苦笑した。

「来てる、ではなく“おいでです”のようでございますよ、花嬢様」

 ブランはちらりとお圭を一瞥し、すぐに顔をそむける。毛づくろいは入念、背すじはすっと伸び、仕草はどれも余裕がある。私が手を伸ばすと、白い鼻先がふっと指先に触れ――次の瞬間、するりと身を引いた。

「つれないのね」

「気まぐれでいらっしゃいますから」

 お圭が肩をすくめると、ブランは小さく「フ」と鳴いた。言葉ではない。けれど、その鳴き方はまるで――*当然でしょう*――と高みから告げる姫君のそれだった。


 居間に連れていくと、母・お咲は眉を寄せた。

「外の猫など、毛が品に入ったらどうするの」

「でも、とてもきれいよ。ほら、目が――」

 私が言いかけたとき、橙子が少し身を乗り出す。

「長くて珍しい毛並みね。それに白一色なんて」

 橙子がそっと撫でようと手を伸ばす。ブランは座布団を軽やかに降り、私の方へ退いた。お咲の目が、その動きに細くなる。まるで、昔のどこかへ心が触れたように。

「……どこかでその目を見たわ」


 独り言めいた一言。その響きは、遠い記憶をそっとなぞるようだった。


 帳場から父・宗右衛門が顔を出した。

「ほう、白猫か。こりゃあ縁起がいい」

 豪快な笑いとともに、居間の空気がほどける。母がなおも渋るのを片手で受け流し、

「白は福を招く。置物を据えるより、本物のほうが効き目があるだろう」

「旦那様……」

「お咲、商いに吉兆は大切だ。お前の心配も最もだが、猫一匹で家運は傾かん」

 母はわずかに吐息を洩らし、女中頭のお澄へ目で合図した。

「掃除を徹底して。帳場の布も一枚増やすわ」

「承知いたしました」

 こうして、白猫は高麗屋に居座ることになった。



 昼のブランは、あまり喋らない。喉を鳴らす時でさえ、どこか誇らしげだ。人の言葉を理解しているのかと問えば、金の瞳がゆっくり瞬く――*問い方がなっていないわ*。そんなふうに見下ろす目つき。帳場を横切る時も歩幅は崩れず、番頭の勘兵衛が紙束を落としかけても、少しも慌てない。お栄が確かめるよう声をかけても、ブランは尻尾をゆるやかに振り、廊下の陽だまりへ去っていく。


 縁側の白萩が風に揺れた日、私は膝の上へ招こうとした。彼女は一度だけこちらを見上げ、ほんのわずかに身を寄せる――けれど長居はしない。棚の上へ跳び上がり、外の光を集めるようにして座った。横顔は気高く、まるでこの家の主のよう。

「姫君、なのね」

 思わずささやくと、青の瞳が細くなる。ブランはきっぱりと短く鳴いた。

「……少しだけなら触れてもいいわ」

 聞こえたのは私の胸の内。けれど、その言い草は確かに“昼の姫君”のものだった。私は苦笑し、指先を袂でそっと拭って、もう一度だけ毛並みに触れる。掌の下に、かすかな温もり。目を閉じると、遠くで青白い光が瞬いた。


 ――二つの月。ひとつは黄金、もうひとつは青白く光る。


 群青の空、鈴のように鳴る花、風は歌を連れていた。


 その景色が、夢の奥から泡のように浮かび、すぐに消える。


「どっちが本当の月なの……?」

 目を開けると、東都の空にはひとつの月しかない。私の独り言に、ブランが視線だけ寄越した。

「正しいなどと、決めることかしら」

 姫君の声は冷ややかで美しい。私は小さくうなずいた。



 夜になると、ブランは変わる。障子の向こうで風が鳴るころ、ブランは自分から布団へ滑り込んでくる。丸くなって顔を上げ、口を開いた。


 ――起きてる?


「起きてる。眠れなくて」


 ――だよな。今日は人の声が多すぎ。勘兵衛のそろばん、耳がむずむずする。


 くすっと笑いがこぼれる。昼の彼女なら、こんなふうに愚痴はこぼさない。夜のブランは、少し少年めいた軽さで、私にだけ言葉を置いていく。


 ――なぁ、花。今日は何か、見えた?


「少しだけ。青白い月が」


 ――よし、半歩進んだ。焦るなよ。月は順番に満ちるから。


「順番?」


 ――黄金が先でも、青白が先でも、どっちでもいい。重ねようとしないで、ただ並べて見てろ。


 相談するつもりはなかったのに、話すほど胸のつかえがほどけていく。昼の彼女は世界を“見下ろす目”で眺め、夜の彼は私と同じ高さで笑う。


「ブラン、ここにいていいの?」


 ――ここは、あったかい。魚の匂いも悪くない。あっちへ戻ると……いや、なんでもない。


 しっぽが一瞬だけ固くなる。何を言いかけたのかは訊かない。代わりに、額の上を指先で撫でると、彼は目を細めた。


 ――撫で方、戻ってきたな。


「前から知っていたみたいな言い方」


 ――知ってるさ。お前は昔も上手かった。


 “知ってるさ”。その言葉が胸の底に沈む。私は目を閉じ、ブランと呼吸を合わせる。眠りに落ちていく前、彼が小さな声でつぶやいた。


 ――今日は、叱られないといいな。


「誰に?」


 ――内緒。おやすみ。


 ---


 数日も経つと、奉公人たちも猫がいることを前提に動き始めた。お澄は掃除の手順を改め、帳場の布を一枚増やす。おみつは最初こそ怖がっていたが、今では遠くから「猫様」と小声で呼び、返事を期待している。まさか、と笑いかけたとき、ブランが「ン」と短く鳴いた。おみつは飛び上がる。

「返事なさいました!」

「まあまあ、大きな声を出さないで」

 お澄の声が飛び、廊下に笑いがさざめいた。


 お咲は、いまだに壁のようだった。けれど、その壁の向こうで、何かが小さく動いている。たとえば、私の膝に収まる白い重みを見て、ほんの瞬きほどの間、母の指先が止まるとき。たとえば、ブランが居間の隅をじっと見つめるのを見て、お咲の眉間に影が宿る。


 ――昔、あの子が言っていた。白い、きれいなあの猫を飼いたい、と。


 誰の声でもない記憶のさざ波が、母の目に映っては消える。それがどこへ繋がるのか、私はまだ知らない。ただ、静かな風だけがその隙間を満たしていく。


 夕暮れどき、縁側に座ると、庭の白萩に薄い光が降りた。ブランは窓枠から降り、珍しく私の足に体を預ける。昼の姫君にしては甘い寄り添い方だ。息を止める私を見上げ、彼女は短く言った。

「きょうは、青が先よ」

「……何が?」

「空の話。正しいかどうかを知りたいのなら、まず“並び”を見なさい」

 それだけ言って、また距離を取る。昼の言葉遣い、夜のやさしさ。二つが薄いところで重なった気がして、胸の奥がじんわりと温くなる。


 その夜、私は夢を見た。金木犀の森に、二つの月が浮かぶ。黄金の月はやわらかく、青白い月は冴え冴えと輝く。どちらも遠く、どちらも近い。目覚めると、掌に白い毛が一本。布団の端に、かすかな歯の痕。窓の外では風が白萩を揺らし、香りがひそやかにほどけていた。


 ――ブラン。

 呼ぶと、布団の中で小さく身じろぎがする。顔を上げた猫は、眠たげな金の瞳で私を見て、ふわりと瞬いた。

 ――おはよう、花。

 昼と夜のあわいに、やわらかな声が落ちた。私は指先でその額をそっと撫でる。触れ方は、もう忘れない。

毎日、12時頃、更新中。

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