第7話 白い影
雲龍堂に行った日の夜のことーーー
障子の向こうで虫の声が遠くに続いている。
私はなかなか寝付けずにいた。
昼間の光景が、目を見て閉じると、浮かんできてしまうからーーー。
あの青い羽織の人、乾いた青い花の香りーーーお茶がこぼれた、あの時。
青い花? あんな香りのする花なんて知らないのに、青いって知っているのはなぜ?
あの香りが、今も鼻の奥に微かに残っているように感じる。目を閉じても、香りは消えてくれなかった。
火鉢の炭がときおり弾ける音。
遠くの通りでは、夜回りの拍子木が「カン、カン」と鳴る。
屋敷は眠っている。けれど、どこかざわめきのような気配があった。
胸の奥の、言葉にならないものが呼吸を乱している。
――かり、かり。
最初は風かと思った。
しかし、二度、三度と音が続いた。
音ははっきりと雨戸の向こう。
まるで誰かが中を確かめるように、控えめに、それでいて確かに。
私は迷いながらも、そっと廊下に出た。
夜気がひやりと肌を撫で、木の床の冷たさが足の裏に伝わる。
誰かを起こすのもはばかられ、息を潜めて雨戸を少しだけ開けた。
そこに――白い影があった。
月の光をまとう白猫。
ふわりと尾が揺れ、金と青の瞳がこちらを見上げている。
その双眸は、まるで昼と夜の光を一度に閉じこめたようだった。
猫はためらいもなく中へ入り、私の足元に身を寄せた。
私が膝をつくと、猫はそのまま頭をぐりぐりと押し付けた。
毛並みはやわらかく、指先を滑るたびに、
まるで月を撫でているような、淡いぬくもりが広がった。
「……ブラン?」
思わず呼ぶと、猫が短く鳴いた。
その鳴き声の奥で――
声が、頭の中にすっと入り込んだ。
――やっと見つけた。ずいぶん遅かったじゃないか。
「……しゃべった?」
自分でも驚くほど小さな声が漏れる。
猫は欠伸をして尾を一度だけ振り、
――しゃべる? ひどいな。前から話してたろうに。
「そんなはず、ないわ」
――忘れてただけさ。いろんなことを。全部。
声はどこか子どもっぽく、いたずらめいている。
けれど、その口調の奥には、どこか懐かしい響きがあった。
胸の奥が、遠い日の風に触れたようにざわめく。
「あなた、どこから来たの?」
――どこって……あっち。月が二つあるほう。おまえ、覚えてない?
ブランは前足で耳を掻きながら、何気なく言う。
けれど、その言葉の響きに、心の中のどこかがふっと光った。
青い空。
白い鳥が泳ぎ、誰かが歌っている。
掌に光が集まり、誰かの笑い声がこだまする。
――夢じゃない。
けれど、いつのことだったのだろう。
「……あれは……夢じゃなかったの?」
――夢みたいなもんさ。でも、痛みはちゃんとあったろ?
そう言って、ブランは私の指を甘く噛んだ。
ちくりとした痛み。思わず息を呑むと、彼は目を細める。
――ほら、夢じゃない。ね?
その一言に、胸が温かくなる。
笑いとも涙ともつかないものが、喉の奥で揺れた。
「ブラン……あなた、どこにいたの?」
――どこでも。あっちでも、こっちでも。
猫の尾がふわりと揺れる。
――ただ、ちょっと……やらかしたから、しばらく謹慎だったけど。
「……謹慎?」
――気にすんな。大人の事情ってやつだよ。
軽い調子で言うけれど、
その声の奥に、少しだけ罪悪感の匂いがした。
問いただそうとした時、廊下の向こうで足音がした。
「……お圭?」
慌ててブランを抱き上げ、布団の中へ滑り込ませる。
猫は抗うこともせず、素直に潜り込んだ。
お圭が襖を開けて顔を出す。
「花嬢様、眠れませんか?」
「……ちょっと、風の音が気になって」
お圭は火鉢を寄せ、炭をひとつ整えて微笑んだ。
「夜風が冷たうございます。お体を冷やされませぬように」
そのまま静かに去っていった。
布団の中で、ブランが小さく喉を鳴らした。
――ふかふかで悪くない。
「あなた、勝手に……」
――いいだろ? 今夜は寒いんだ。
小さな体のぬくもりが胸に広がり、
その熱が心の奥の寂しさをゆっくり溶かしていく。
「ブラン、また……来るの?」
――気が向いたらな。おまえ、呼んでくれたろ? あの香りで。
「香り?」
――金木犀。あれは扉みたいなもんだ。思い出すたび、世界が少し近づく。
ブランの声が、夢と現の境を曖昧にしていく。
「ねぇ、ブラン。私……本当に、あっちにいたの?」
――もちろんさ。でも今は、こっちの花だ。焦るな。
「……こっちの花?」
――なんでもない。ほら、目ぇ閉じて。眠らないと風邪ひくぞ。
ぬくもりが、ふっと軽くなる。
まぶたの裏に、金木犀の香りがふたたび漂った。
どこかで風が鳴り、遠くの水音がした。
それは東都の夜には似つかわしくない、鈴のような響きだった。
――花、また会えてよかった。
声が、夢と現のあわいに溶けていく。
その夜、私は二つの月を見た。
ひとつは遠く、もうひとつは胸の奥に。
黄金の光が静かに満ち、青白い月がかすかに揺れる。
どちらも淡く光りながら、
まるで再び一つになろうとするように――
静かに、静かに重なっていった。
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