第6話 起きなかった出来事
朝餉を終えたあと、帳場横の座敷には秋の柔らかな光が斜めに差し込み、畳の目を淡く照らしていた。
高麗屋の奥では、橙子の茶道の稽古が進んでいる。白地に桔梗を散らした単衣に身を包み、茶器の位置や袱紗の扱いを一つひとつ確かめる姿は、穏やかで引き締まっていた。指先は水の流れのように滑らかで、立ち居振る舞いには隙がない。見ているだけで、背筋が自然と伸びる。
私は少し離れた場所に座り、その横顔を見つめていた。陽を受けた姉の黒髪は艶やかに光り、伏せた睫毛が頬に落とす影まで美しい。胸の奥がじんわりと温かくなる――誇らしさと同時に、そこに自分は並べないという思いが、棘のように刺さる。
「橙子お嬢様、所作がいよいよ身について参りましたね」
お栄が静かに言った。声は控えめでも、褒め言葉ははっきりしている。
「ありがとう、お栄。でも、まだまだよ」
橙子は穏やかに答え、茶碗の角度を直す。
「花嬢様、お水をお持ちしました」
お圭が盆を手に私の前に膝をついた。
「ありがとう、お圭」
冷たい水を口に含むと、胸の棘の痛みが一瞬和らいだ。
帳場からはそろばんの音が軽やかに響いている。番頭の勘兵衛が敷居の外から恭しく頭を下げた。
「旦那様より、お嬢様方のご様子、まことに見事とのお言葉です」
「お父様が?」
橙子は首をかしげて柔らかく笑った。私の胸には、誇らしさと一緒に小さな影が差す。私に向けられる言葉は、たいてい、橙子に比べれば淡い。
「花嬢様も、姿勢が美しゅうございますよ」
お圭がそっと添える。
「……そう見えるだけよ」
笑ってみせると、橙子がこちらを振り返った。
「無理に私の通りにすることはないわ」
その言葉は陽だまりのように胸に染みた。けれど、心の奥に小さな影がひっそりと形を取る。
昼過ぎ、父・宗右衛門の提案で、橙子と私は茶道具を新調するため町へ出ることになった。
「橙子の稽古も進んできたし、花も頑張っておる。花のものは橙子が見立ててやると良い」
宗右衛門は鷹揚に笑い、二人を送り出した。
神隠しから戻った直後、父は私に用心棒をつけ、外出を許さなかった。けれど、彼らの鋭い目が怖くて私は泣いてばかりだったという。やがて私は屋敷に籠もるようになり、父もそれを受け入れた。
――かつては門の外に立つことすら許されなかった私が、今は姉と並んで町へ向かっている。胸の奥が、少しだけ高鳴った。
通りには秋風が吹き、担ぎ売りが持ち歩く反物が色とりどりに揺れている。柿色や藍、山吹が陽を受けてきらめき、飴屋の前では琥珀飴を割る軽い音が響いた。油問屋からは胡麻油の香り、遠くからは秋祭りの練習をしているのか、太鼓の音も聞こえてきた。東都の町は、昼の賑わいに満ちていた。
通り沿いの一角に、さまざまな小店が並んでいる。それぞれの店先には袋物や組紐、簪などが並び、秋の光を受けてきらきらと揺れていた。私は思わず足を止める。簪の繊細さに目を奪われた。指先でそっとつまんでみる。ひやりとした感触とともに、ふわりと色が揺れた。
「花、行きましょう」
橙子は立ち止まらず、涼やかに声をかける。その姿は道の空気まで引き締めるようで、品々に手を伸ばす気配はまるでない。
「花嬢様、はぐれませんように」
お圭は行き交う人々の間で私の袖をそっと引き寄せ、ぶつからぬよう体を添わせた。
ふと、人の流れがほどけた。橙子は通りの向こうから一人の青年が歩いてくるのを目にした。濃藍の羽織に藍の袴、腰には刀。背筋はまっすぐに伸び、歩みはゆっくりなのに、周囲のざわめきが彼のまわりだけ薄くなるように感じられた。顔立ちは整っていて、口元には柔らかさがあった。
目が合ったのは、ほんの一瞬。けれど、その一瞬がやけに長かった。橙子の胸の奥に、理由もないのにごく小さな波が立つ。けれど、空気がすっと澄んだように思えたのは気のせいか。
橙子はわずかに眉を上げた――まるで「誰?」と問いかけるような仕草。私はそのことには気づかず、きらきらとした品々に気を取られていた。
青年がそばを通り過ぎていき、私が気づいたのは、ふっと鼻先をくすぐった青い花ような――香り。彼は何気ない通行人を装いながら視線だけを寄越し、次の瞬間には人波に溶けた。
(……何?)
その視線と香りで、私の胸の奥に理由のわからない何かが輪を描く。
少し歩いて、私たちは茶道具商「雲龍堂」へ入った。白壁と格子戸を備えた重厚な大店で、店内には南蛮渡りの香炉や、見慣れぬ意匠の帛紗ばさみが並んでいる。奥には帳場があり、手代たちが品を丁寧に運び、客の前に並べていく。
「こちらの帛紗はいかがでしょう、お嬢様方」
手代が恭しく差し出したのは、上物の深い紅色の塩瀬織の帛紗と、渡来物の金糸が織り込まれた布を用いた出帛紗。橙子は落ち着いた所作で受け取り、手触りと色合いを確かめる。お栄がその脇で、素材や織りの由来を確認していく。
若い小僧が茶を運んできた。小さな盆を掲げ、緊張した面持ちで橙子たちの前に進み出る。
だが、盆を置く寸前、手がわずかに震えた。茶碗が傾き、茶がーーー。
私は思わず手を伸ばした。何かが胸の奥で動いた気がした。けれど、何も起きない。光も風もなく、茶はそのまま盆の中にこぼれてしまった。
「す、すみません!」
小僧が青ざめて頭を下げる。すると、すぐに店主らしき神経質そうな細身の男が駆け寄り、小僧の頭を押さえるようにして深く下げさせた。
「なんということを。本当に申し訳ありません。私は雲龍堂の清安と申します。高麗屋様には日頃よりお世話になっておりますのに、ご挨拶もせぬまま失礼いたしました」
橙子はすぐに微笑み、「丁寧なお言葉をありがとうございます。小僧さんを叱らないであげてください。誰にでもあることですわ」と静かに応じた。
その声に、場の空気が戻る。
お栄はそのやりとりを聞きながら、ふと視線を感じた。
帳場の向こうーー職人風の男が、こちらを見ていた。
黒ずんだ半纏に、日焼けした顔。
その男の目を見た瞬間、お栄の顔から一瞬、血の気がひいた。
――まさか。まだ、生きていたの……?
喉がひとりでに鳴り、指先が冷たくなった。
だが、すぐに笑みを作る。橙子や花に気づかれてはならない。
「清安様といえば、雅号を“清安”と仰るとか。あらまぁ、風流で名高いお方ですねぇ」
声を整え、いつもの調子を取り戻す。
けれど、その耳の奥では、あの夜の声がよみがえっていた。
「簡単さ。あの小さいのをどこか遠くに売りつけてこよう。その金も懐に入れていいっていうのは美味しい仕事さね」
そして、別の夜。奉行所の捕物提灯に囲まれたあの男の顔。
お栄は上の空で会話を続けながら、胸の鼓動がいつまでもおさまらなかった。
夕暮れ近くに店に戻ると、奥座敷には南蛮渡りの皿が並べられ、白磁に描かれた異国の花鳥が夕光を跳ね返していた。
女中頭のお澄は滞りなく進むように片付けに指示を飛ばし、おみつはお澄に従って動き回っていた。
足の濯ぎを終えると、お圭は私の袖の乱れをいつものように整える。
「疲れてはいませんか?」
お圭が心配そうに声をかけてくれた。
「ううん。大丈夫」
そう答えながらも、昼の通りで感じたざわめきが胸にまだ残っている。
あの青年の横顔。乾いた青い花のような香り。
そして、雲龍堂での“起こらなかった出来事”。
言葉にならぬまま、心の底で波紋のように広がっていく。
その夜。
庭を渡る風がまだ早い金木犀の香りを運んだ。障子を少し開けると、白い花をつけた萩の上に淡い光がひとすじ、溶けていくのが見えた気がした。
「にゃぁ〜」
猫の鳴き声が聞こえたような……。でも、猫の姿はどこにもない。
「……気のせい、よね」
夜に吸い込まれた声の代わりに、遠くで虫の音がひとつ響いた。
毎日、お昼前後に更新中。




