第5話 金木犀の香りと七色の光
高麗屋の奥では、来客を迎えるための支度が始まっていた。
秋の柔らかな日差しが障子を透かし、畳の上に淡い光を落としている。女中たちは足音を忍ばせながら行き交い、衣擦れと茶器の触れ合う音だけが、静かな空気を微かに震わせていた。
床の間には南蛮渡来の花瓶が飾られ、薄桃色の菊が活けられている。掛け軸には墨跡の「和敬清寂」。茶道の心得を示すその一文字が、座敷に張り詰めた空気をさらに引き締めていた。
私は橙子と並んで座し、母の指示を見守っていた。背筋を伸ばして座っていても、空気の張りつめ具合に、胸の奥がそわそわと落ち着かない。
お栄とお圭は奥女中らしくきびきびと動き、女中たちは緊張した面持ちでその背中を追っている。奉公に上がって日の浅いおみつは、まだ動きにぎこちなさが残っており、時折、先輩たちの顔色を窺っては小走りで器を運んでいた。
「おみつ、そちらは丁寧に」
お栄の静かな声が、畳の上に響く。叱責ではないが、その一言に空気がぴんと張り詰めた。
私はその張りつめた空気を胸いっぱいに吸い込み、思わず背筋を伸ばした。
――ここは、少し息苦しい。
橙子姉様の所作は、一筆の筆跡のように流れるようだ。私は、そのなかに自分のぎこちない手が入り込めば、たちまち全体の調和を乱してしまうような予感がして、息を詰めた。
そのとき――
おみつが運んでいた菓子器が、ほんのわずかな拍子に手から滑り落ちた。
それは異国渡りの高価な器――青地に金で花文が描かれ、光を受けると七色に反射する陶磁器。父・宗右衛門が直々に仕入れ、店でも大切に扱われているものの一つだった。
「――あっ!」
一瞬、誰もが声を失った。
菓子器は空を切って落ちていく……はずだった。
ふわり、と。
掌の奥から、何かが息を吹き返すように光が零れた。七色の光が座敷を淡く包み、器はまるで風に支えられるように宙で止まり、そのまま静かに卓の上へ戻っていった。
光とともに、金木犀の香りがふわりと広がる。懐かしい森の気配が胸の奥をかすめ、幼い日の記憶のような感覚が一瞬で全身に満ちた。
「……っ」
座敷の空気が凍りついた。
おみつは顔を真っ青にして震え、橙子は動かぬまま私を凝視している。
母・お咲の瞳が一瞬だけ見開かれ、すぐに商家の女将としての顔に戻った。
「……風が、吹いたのね」
穏やかな声。けれど、その一拍の間に、家全体の空気がわずかに揺らいだ気がした。
私はとっさにおみつの方へ目をやり、彼女が震える手を握りしめたまま俯いているのを見た。大丈夫、と言いたかったが、声は出なかった。誰も何も言わなかった。
橙子の目は、導く姉のそれではなかった。何かを見極めようとする、静かで鋭い光。胸の奥がきゅっと締めつけられる。
――この視線を、私はずっと後になってから思い返すことになる。
障子の外。店から客が迷い込んだ風を装って、屋敷の中を伺っていた。
通いの小間物屋の手代に扮した男が、七宝柄の団扇を手に、今の一部始終を目撃していた。髪は小銀杏に整え、鉄紺の小袖を着た三十がらみの男。目だけが笑っていない。
「……何だ、今のは」
渡り歩く者たちだけが持つ感覚が、何かを告げていた。
これは確かに“力”だ。けれど、香りが違う――沈香でも、薫衣草でもない。甘く、遠い記憶をくすぐるような金木犀。
袂の内に指を忍ばせる。札の温みは、まだ消えていない。
男は団扇で顔を隠し、人波の中に身を溶かした。
私は寝所でひとり、掌を見つめていた。
指先から淡く光が浮かび上がり、七色の紋様が揺らめいている。そこから、金木犀の香りが微かに漂っていた。
――怖い。でも……懐かしい。
胸の奥で、誰かの記憶のような揺らぎが波打つ。
月明かりが差し込む障子に、その光がゆらゆらと映り、静かな座敷に“世界の輪郭がかすかに揺らぐ”ような気配を落としていた。
そのとき、障子の外を白い影が音もなく横切った。瞳がきらりと光った気がしたが、目を凝らしたときには、もう何もいなかった。
私は掌をぎゅっと握りしめた。
誰にも言ってはならない。このことは心の奥にしまっておかなければ――そう思いながらも、胸の鼓動はなかなか鎮まらなかった。
町の片隅では、一人の青年が報せを受けて静かに夜を仰いでいた。
夜風が提灯の灯を揺らす。金木犀の香りが、どこか遠い記憶を呼び覚ます。
橘一大――その男の瞳の奥で、静かな光が湛えられていた。
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